前日、北九州であった職場の同僚の結婚式に参加した後、一泊し、
朝早く起きて、門司レトロ地区、そして、関門海峡を望む和布刈公園を
訪ねました。
門司港駅へ到着です。
門司港駅です。
JR鹿児島本線の起点駅で、かつて、関門トンネルが開通するまでは、
九州の鉄道の玄関口として賑わっていたそうです。
門司港駅です。
自動改札機の横には、今は使われてませんが、
古い改札が残っていました。
門司港駅の駅舎を正面から見たところ。
大正3年(1914)に門司駅として開業し、
昭和17年(1942)に門司港駅と改称されました。
大正時代の姿に復元された木造二階建ての駅舎は、
ネオルネサンス様式の左右対称の造りが特徴の重要文化財です。
門司港駅の駅舎の前には、横山白虹文学碑があります。
和布刈る 神の五百段ぬれてくらし
(わかめかる かみのいほだん ぬれてくらし)
その文学碑の銅像は、和布刈神社で行われる
和布刈神事の様子(神官がわかめを刈りとる様子)を
表しています。
駅前にあった
「歴史と潮騒のまち 門司港」
のマップです。
門司港駅を出て海岸へ向かいます。
人影がない休日早朝の門司港です。
気持ちがいい朝の空気です。
さっそく、門司港レトロ地区の洋館を見に行きます。
この先に旧大阪商船があります。
道路の右側、写真中央が旧大阪商船ビルです。
門司港駅前の広場の斜め前に、旧門司三井倶楽部が
あります。
旧門司三井倶楽部を南から見たところ。
旧門司三井倶楽部です。
大正10年(1921)に三井物産の接客・宿泊施設として建設され、
翌年にはアインシュタイン夫妻が宿泊されました。
元々は、山手の別の場所にありましたが、
1994年に、現在の場所に移築されました。
旧門司三井倶楽部です。
旧門司三井倶楽部です。
次は、旧大阪商船です。
旧大阪商船を西から見たところ。
旧大阪商船です。
北から見たところ。
大正6年(1917)の建設で、八角形の塔と、
煉瓦に見えるオレンジ色のタイルの外壁を持っています。
旧大阪商船です。
北東から見たところ。
旧門司三井倶楽部の付属屋(管理人住居)です。
北から見たところ。
その付属屋の背後に、先ほど見た旧門司三井倶楽部が
見えます。
再び、海岸へ出て、南西を見たところ。
中央左よりに見えるモダンな建物は、
関門海峡ミュージアムです。
北を見ると、本州と九州を結ぶ関門橋が見えます。
その関門橋の向こうに見える山は、火の山です。
そして、北東には、高層マンションの門司港レトロハイマートが
見えます。
海岸に沿って、門司港レトロハイマート方向へ進みながら、
関門橋を見たところ。
海岸に沿って進んで行くと、ブルーウィングもじ
と言う青い橋があります。
この橋は、旧門司第一船だまりの出口に架かる橋で、
歩行者専用のはね橋になってます。
そのはね橋の内側、旧門司第一船だまりの説明です。
ブルーウィングもじの前から、南西方向、門司港を見たところ。
ブルーウィングもじです。
平成5年(1993)に架橋されました。
ブルーウィングもじの説明です。
ブルーウィングもじを渡ります。
ブルーウィングもじを渡りながら、北東を見たところ。
中央は、旧門司税関です。
ブルーウィングもじを渡りながら、北を見たところ。
ブルーウィングもじを渡りながら、
南西方向、門司港を見たところ。
ブルーウィングもじを渡り終え、旧門司税関を見たところ。
手前には、旧門司税関の浮桟橋の跡があります。
北から旧門司税関を見たところ。
明治42年8(1909)の門司税関発足を機に、
初代の税関庁舎が明治43年に完成しましたが、
同年に失火により焼失します。
そして、明治45年(1912)に、現在の煉瓦造り瓦葺平屋構造の
旧門司税関庁舎が建てられ、昭和初期まで使用されていました。
日本を代表する建築家、黒川紀章氏の設計による
高層マンション、門司港レトロハイマートです。
そして、31階には、門司港レトロ展望室があり、
一般の観光客も展望を楽しむ事ができます。
その門司港レトロ展望室への入口です。
但し、この日は、新型コロナウィルスの影響で臨時休業中でした。
そして、門司港レトロハイマートのすぐ南側にある
大連友好記念館です。
大連友好記念館です。
北から見たところ。
中国の遼東半島にある大連市は、かつて、門司港と国際航路で
結ばれて交流が盛んでした。
昭和54年(1979)に大連市と北九州市は友好都市を締結し、
その締結15周年を記念して、大連市にある歴史的建造物の
東清鉄道汽船事務所を、複製建設したものです。
大連友好記念館です。
北西から見たところ。
旧門司税関を北東から見たところ。
旧門司税関の前から、大連友好記念館を見たところ。
大連友好記念館と、門司港レトロハイマートです。
大連友好記念館です。
南から見たところ。
旧門司第一船だまりです。
船だまりの北側から南西を見たところ。
中央あたりに、旧門司三井倶楽部が見えます。
旧門司第一船だまりです。
船だまりの北側から南を見たところ。
対岸には、お土産、海山物、雑貨、レストラン等の
商業施設が入った門司レトロ海峡プラザが見えます。
旧門司第一船だまりです。
船だまりの北側から西を見たところ。
右よりのオレンジ色の建物は、プレミアホテル門司港です。
旧門司第一船だまりです。
船だまりの北東角から南西を見たところ。
旧門司第一船だまりの北東角から北西を見たところ。
右端の建物は、旧門司税関です。
中央は、船だまりへの船の出入り口にあたるはね橋の
ブルーウィングもじが見えます。
南東から、門司港レトロハイマートを見たところ。
旧門司税関を東から見たところ。
その旧門司税関です。
門司港レトロハイマートを南東から見たところ。
レトロ中央通り沿いの駐車場に路面電車の展示が
ありました。
説明板によると、西鉄から寄贈を受けた
ワンマン(ボギー車)100型と言う路面電車のようです。
昭和15年に新しく制作された10台のうちの1台で、
流線形が採用され、前照灯が上部に埋め込まれていましたが、
昭和36年に現在のように改造されました。
また、昭和46年に初めてドアが自動化されました。
しかし、昭和60年に、西鉄北九州線の一部廃止に伴い
100型は全て引退しました。
次は、めかり街道を北へ、和布刈展望台、門司城跡へ
向かいます。
めかり街道は、門司港レトロ観光列車が走る
北九州銀行レトロラインに沿っています。
そのめかり街道を進んで行くと、門司第二船だまりが
あります。
門司第二船だまりに、たくさんの漁船が泊ってます。
門司第二船だまりに停泊中の船です。
門司第二船だまりに停泊中の船です。
船だまりの向こう、中央に見えるビルは、
門司メディカルセンターです。
更に、めかり街道を進みながら、関門海峡を見ると、
航行するタンカーが見えます。
その向こうは下関で、
153mの高さの海峡ゆめタワーが見えます。
めかり街道を進んで行くと、門司海上保安部があり、
巡視船が見えます。
右が、35m型巡視艇のPC11 はやなみで、
左が、350t型巡視船のPM26 きくちです。
門司第二船だまりの防波堤と灯台です。
めかり街道を進んで行くと、正面上方に、
高速道からめかりPAへ下りるランプが見えます。
そのめかりPAの背後には、
標高175mの古城山があります。
めかり街道を進んで行くと、古城山の裾野に突き当たり、
トンネルがあります。
門司港レトロ観光列車が走る北九州銀行レトロラインの
トンネルです。
めかり街道は、古城山の裾野、海岸に沿って、
ノーフォーク広場へ続いています。
めかり街道を進みながら南を見たところ。
高層マンションの門司港レトロハイマートが見えます。
その向こうには、三角山、風師山が見えます。
右手には門司海上保安部があり、
先ほど見た35m型巡視艇のPC11 はやなみの上で、
保安官の方々が準備をされているのが見えます。
ノーフォーク広場へ到着です。
北九州市と姉妹都市の米国ヴァージニア州ノーフォーク市に
ちなんで名前がつけられました。
目前に関門海峡が広がり、大小様々の船が行き交います。
そして、広場の中央には
大きな錨のモニュメントが設置されています。
ノーフォーク広場にあった関門海峡周辺の地図です。
ノーフォーク広場から西を見たところ。
関門海峡を隔てた向こうには、海峡ゆめタワーが見えます。
その海峡ゆめタワーです。
その下、右側には、下関遊園地 はい!からっと横丁の
大観覧車が見えます。
更にその右側の白い大きな建物は、
市立しものせき水族館 海響館です。
ノーフォーク広場から南を見ると、
門司側に門司港レトロハイマート、
その向こうに三角山や風師山が見えます。
そして、ノーフォーク広場から北側、関門橋を見上げたところ。
関門橋です。
ノーフォーク広場から県道261号線へ出て、
関門橋を見上げたところ。
県道261号線から、関門橋を見たところ。
県道261号線から、和布刈展望台、世界平和パゴダ、
そして、古城山の頂上にある門司城跡へ向け登って行きます。
登りながら、南側の景色を見たところ。
門司港レトロハイマートや、門司第二船だまりが見えます。
和布刈第二展望台へ向かいながら、関門海峡を見たところ。
下に高速道が見えます。
和布刈第二展望台から、関門橋を見たところ。
和布刈第二展望台から南側、門司港方向を見たところ。
和布刈第二展望台から、関門橋を見たところ。
関門橋です。
右端に関門橋、左寄りに海峡ゆめタワーが小さく見えます。
和布刈第二展望台から、南を見たところ。
展望台にあった案内板です。
南側の景色です。
関門橋です。
関門橋です。
関門橋の北には、火の山が見えます。
対岸の写真左側の辺りは、壇ノ浦古戦場の公園があります。
和布刈第二展望台に、
源平最後の合戦の地、
壇ノ浦の戦いの説明が
あります。
壇ノ浦の戦いは、寿永4年(1185)
3月24日の未明から6時頃、
平氏は彦島を出て、田野浦に
集結しました。
8時から11時頃にかけて、
平氏は東流れの潮を利用し
九州勢を先陣に源氏を
包囲しようとしました。
12時頃、海戦にたけた
平氏は源氏を圧倒しましたが、
源氏は潮流が変わるまで
時をかせがんと死力を尽くして
防戦しました。
15時から16時頃、
潮目が変わり、
西へ流れる急潮に
平氏と源氏の攻守が逆転し、
平氏はついに
壇ノ浦に滅びました。
和布刈第二展望台には、その壇ノ浦の戦いを描いた源平壇ノ浦合戦絵巻の大壁画があります。
1400枚の有田焼の陶板でできてます。
壇ノ浦の戦いの一場面です。
平氏の敗北が決定的となり、平清盛の妻の二位の尼(平時子)に抱えられ安徳天皇が入水します。
続いて平清盛の娘で、安徳天皇の母である平徳子が入水します。
しかし、平徳子は、源氏方の熊手に髪をかきとられ生き残ることになりました。
平教経は、平家の敗北が決定的になっても戦いをやめようとせず、「よき大将と刺し違えん。」と
源義経を探し出します。
しかし、まともにやり合うべきで無いと考えた源義経は、船を飛び移り姿を消します。
源義経の八艘飛びの場面です。
敗走する平氏を陸から待ち受ける源氏の兵です。
源氏の船にとり囲まれる平氏の船です。
和布刈第二展望台から、和布刈第一展望台、世界平和バコダへ
向け登って行きます。
登りながら、対岸の景色を見たところ。
白い煙突は、中国電力下関発電所です。
関門橋です。
火の山です。
北東方向には、北九州港 太刀浦コンテナターミナルが
見えます。
先ほど見た中国電力下関発電所の煙突が見えます。
和布刈第一展望台へ到着し、南西の景色、門司港を
見たところ。
和布刈第一展望台から西方面、下関市街を見たところ。
そして、世界平和パゴダへ向かう途中、八大竜王神の石像があります。
昭和33年(1958)に開かれた門司トンネル博に総ベッ甲細工の竜王神が
出品されました。
その竜王神を記念して作られたもののようです。
世界平和パゴダへ到着しました。
パゴダの下にあった大きな石灯篭です。
パゴダへの階段を上り、正面から見たところ。
世界平和パゴダは、日本とミャンマー(旧ビルマ)の親善と仏教交流、
世界平和の祈念、及び、第二次世界大戦で門司港より出兵した戦没者の
慰霊を目的として、昭和33年(1958)に本格的ミャンマー式寺院として
建立されました。
世界平和パゴダです。
日本に伝わった仏教は、北伝の大乗仏教ですが、
ミャンマーで信仰されている仏教は南伝の上座仏教です。
パゴダの内部です。
パゴダとは、仏塔(ストゥーパ)を意味し、仏舎利(釈迦仏の遺骨等)、
または法舎利(仏舎利の代用としての経文)が祀られています。
中には、黄金色の仏様の姿が見えます。
次は古城山の頂上、門司城跡へ向かいます。
和布刈第一展望台から、北東方向を見たところ。
右側に、田野浦、太刀浦方面が見えます。
左には、中国電力下関発電所の煙突が見えます。
また、沖合に見える二つの小島は、壇ノ浦の戦いで源氏が
この島の周辺に陣を敷いた満珠島と干珠島です。
そこへ、田野浦に集結した平氏が攻め込み合戦が始まりました。
その田野浦、太刀浦方面を見たところ。
手前が田野浦で、向こう半分が太刀浦です。
古城山の頂上、門司城跡へ向かいながら、世界平和パゴダを
ふり返ったところ。
和布刈第一展望台から、古城山の頂上、門司城跡へ向かう途中、
小さな祠があります。
鳥居に、山ノ神とあります。
登って行くと、頂上付近に古城山砲台の遺構があります。
明治時代に、関門海峡を隔てる両岸に
清国の北洋艦隊や、ロシアのバルチック艦隊の来襲を念頭に
下関要塞が築かれました。
古城山砲台跡も、その下関要塞の一つです。
写真は古城山砲台の倉庫跡です。
古城山の頂上へ到着です。
頂上には、史跡 門司城跡の石碑が建ってます。
門司城は、平知盛が源氏との合戦に備えて築いた城ですが、
当時の遺構は残ってないようです。
また、古城山砲台の観測所跡が残ってます。
また、宮柊二が日中戦争出征の折に関門海峡を通った時に詠んだ歌の
歌碑が建ってます。
波の間に降り込む雪の色呑みて玄海の灘今宵荒れたり
まどろめば胸どに熱く迫り来て面影二つ父母よさらば
古城山頂上から、関門橋を見下ろしたところ。
頂上から西を見たところ。
関門橋を見下ろしたところ。
関門橋です。
下関市街です。
海峡ゆめタワーや、下関遊園地 はい!からっと横丁の大観覧車、
市立しものせき水族館 海響館も見えます。
古城山の頂上です。
古城山砲台の観測所跡です。
観測所に向け、うねるように連絡通路が通っています。
観測所への連絡通路です。
<
頂上から関門橋を見たところ。
関門橋の右手に壇ノ浦古戦場跡があります。
西側の景色です。
海峡ゆめタワー、そして、源平合戦の平家最後の拠点となった
彦島が見えます。
東側を見たところ。
中央辺りは、田野浦で、左半分は埋め立て地で、古い海岸線から
右側が元からある田野浦です。
壇ノ浦の戦いでは、平氏は、この田野浦へ集結し、
源氏が陣を敷く満珠島と干珠島へ向け攻め込みました。
次は、頂上から、唐人墓、門司﨑灯台へ向け下って行きます。
登って来るときに見た古城山砲台の倉庫跡です。
古城山砲台の倉庫跡。
その倉庫を囲むように通路が設置されてます。
古城山を下りながら、関門橋の下を抜けます。
関門橋は吊り橋の為、吊り橋のワイヤーを固定するアンカーが橋の両側に
設置されています。
その門司側のアンカーとなるコンクリートブロックが見えます。
左端は、そのアンカーの荷重を受ける橋台です。
関門橋の橋桁の裏側を見上げたところ。
先ほど登った古城山をふり返ったところ。
古城山を下りてくると、高圧線の大きな鉄塔があり、唐人墓への入口が
あります。
ここで言う唐人は、異国人を指します。
元治元年(1864)、米、英、仏、蘭の4国連合艦隊下関砲撃事件で戦死した
フランス水兵の慰霊碑が建てられてます。
その慰霊碑が唐人墓と呼ばれています。
その唐人墓です。
その唐人墓の説明です。
唐人墓の前から、海峡を行く船を見たところ。
セメント専用船の最上丸です。
唐人墓から、海岸に沿った道に出て、北東を見たところ。
先ほど見た最上丸が関門海峡から周防灘へ向け抜けて
行きます。
海岸に沿って、めかり観潮遊歩道があり、
関門橋に向け進みます。
目の前に、火の山が見えます。
めかり観潮遊歩道を進んで行くと、
海岸の岩礁にぶつかる潮が白い波をたてています。
海岸の岩礁と、岩礁にぶつかる潮の流れです。
また、セメント専用船が行きます。
昇山丸です。
セメントで有名な宇部へ向かっているのではと思います。
進んで行くと、関門橋が見えてきます。
めかり観潮遊歩道の壇ノ浦を望む場所に、句塚があります。
その句塚のそばに、句塚の由来の説明が立ってます。
寿永4年(1185)、壇ノ浦の戦いで平家は壊滅します。
御座船に乗る二位尼(平清盛の妻)は、宝剣、神邇を携え、
幼帝 安徳天皇をいだいて、「浪のしたにも都のさぶらふぞ」と
急流の潮間に身を投じました。
この句塚は、門司俳人協会が二位尼をはじめ、多くの女官の供養と、
壇ノ浦の合戦に海の藻屑と散っていった源平数千の人々の哀史を
語り継ぐ証に設けられました。
関門海峡で一番狭くなっている場所の潮見鼻です。
この潮見鼻には、門司﨑灯台があります。
その門司﨑灯台です。
潮見鼻から関門橋を見たところ。
関門橋は、1973年の開通から50年経とうとしており、
改修が行われていました。
橋の下をコンテナ貨物船が抜けて行きます。
秋錦 Qiu Jingと言う船で、上海の船会社の船のようです。
めかり観潮遊歩道を進んで行くと、
遊歩道の傍らに石塔?があります。
歩いて来ためかり観潮遊歩道、門司崎灯台をふり返ったところ。
海峡越しに火の山が見えます。
今度は、周防灘から玄界灘に向け船が通過して行きます。
コンテナ貨物船のCAPE NABILです。
関門橋の門司側付け根のすぐ北側に、下関と門司の間を歩いて行き来できる
関門トンネル人道があります。
その関門トンネル人道へ下りるエレベーター。
関門トンネル人道へ下りるエレベーター前の柱に、
関門海峡散策マップが貼ってあります。
大きなエレベーターの扉です。
エレベーターの中には、利用上の注意が掲示されてます。
通行可能時間は、6:00-22:00で、自転車やバイク(エンジンを切る)
の通行は可能ですが、押して通行する必要があります。
地下55mの場所に、関門トンネル人道があります。
関門トンネル人道の周辺の地図です。
この地図は、門司側を上に描かれてます。
関門トンネル人道の断面図です。
下関側の人道入口まで、780mあります。
結局、下関へは渡らず、地上へ出ます。
目の前に、関門橋と和布刈神社の鳥居があります。
しかし、この鳥居から先に道はなく、神社もありません。
鳥居の前を左へ進みます。
左下に和布刈神社が見えます。
先ほど入った関門トンネル人道の入口をふり返ったところ。
和布刈神社の入口にあたる注連柱です。
入って行くと石灯篭があります。
和布刈神社境内から、関門橋を見上げたところ。
境内にあった注連縄が巻かれた岩。
この岩は、関門トンネル人道を掘削する際に、掘り出された岩
と言う事です。
鳥居の向こうに拝殿が見えます。
その拝殿横に、注連縄が巻かれた大きな磐座があり、
その磐座を鳥居を通して見たところ。
狛犬の向こうは、注連縄が巻かれた磐座です。
拝殿です。
仲哀天皇9年、神功皇后が、神託に従って、三韓(新羅、高句麗、百済)の征伐に向かい
勝利した際に、報賽の思召をもって創建されたと伝えられます。
祭神は、天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」です。
別称「瀬織津姫(せおりつひめ)」と言う月の女神で、穢れを祓う
禊の神様、潮の満ち引きを司る導きの神様です。
または、比賣大神(ひめおおかみ)とも言われています。
その他の祭神は以下です。
・日子穂々出見命(ひこほほでみのみこと)
・鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
・豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)
・安曇磯良神(あずみいそらのかみ)
拝殿です。
神功皇后の三韓征伐の際、航海中に海の神様の安曇磯良神より
潮の満干の宝珠を授けられました。
その宝珠が、和布刈神社の御神宝「満珠」「干珠」です。
この「満珠」「干珠」は、月の満ち欠けの影響を受けて、
潮の満ち引きを操り、全てのものを導く役目を果たしてきた
と言われてます。
拝殿です。
その「満珠」「干珠」は、和布刈神社の北の海上一里の所にある
奥津島辺津島(今の満珠干珠島)に納められており、
和布刈神事の際に宮司の手により御神前に授けられます。
ちなみに、和布刈神事は、毎年旧暦の元旦に、
神職が和布(わかめ)・荒布(あらめ)を刈りとる祭事で、
創建から続いています。
本殿横にあった和布刈神社の説明があります。
その中に和布刈神事の記載もあります。
拝殿の前には、鳥居があり、海の中へ続く階段があります。
旧暦の元旦の夜、3人の神職が、狩衣、烏帽子、白足袋、わら草履姿で、
約3mもある松明に先導され、拝殿前の階段を下りて海中に入り、
瀬戸の岩についた和布(わかめ)を刈りとり神前に奉納します。
この和布刈神事の和布を刈りとる様子は、門司港駅前の広場に、
横山白虹文学碑の銅像になってます。
その海へ続く階段の上から、階段の横、海中に立つ石灯篭、そして、
関門橋を見たところ。
関門橋の下を、船が通過して行きます。
通過中の船は、ばら積み貨物船のSOC GROLYです。
和布刈神社の境内の一番奥、北側に隣接して、和布刈砲台跡があります。
但し、砲台の痕跡は何も残ってなく、石碑のみです。
その奥の社は、恵美須社で、更にその奥の赤い社は、早鞆稲荷です。
恵美須社と、その奥の早鞆稲荷です。
中央、右よりの岩は、地元の俳人、久保晴の句碑が
嵌め込まれてます。
和布刈火や
転た傾く
峡の海
久保晴
和布刈の松明に照らされて、海峡の急流が、
転(うた)た傾いて見える。
左よりの波打った形状の石は、室町時代の連歌師、宗祇の句碑です。
舟みえて 霧も迫門(せと)こす あらしかな
嵐によって、霧も瀬戸を越して行き、やっと船が見えた。
和布刈神社を出て、関門橋の下をくぐり、
めかり観潮遊歩道から関門橋を見上げたところ。
海峡を行く小船です。
めかり観潮遊歩道の脇に、産湯井(うぶゆのい)があります。
この産湯井は、初代神武天皇の父、うがやふきあえず尊の
御産湯の井戸と伝えられる井戸を再現した物です。
また、壇ノ浦の戦いでは、平家の武士たちが戦いの最中に、
この井戸水を汲み、のどを潤したと伝えられ、平家の一杯水とも
言われています。
ノーフォーク広場へ帰って来ました。その広場にあった和布刈公園の案内図です。
来た道を門司港へ向け引き返しながら、古城山を見たところ。
左端に古城山、右端の山の上に世界平和パコダの先端が
見えます。
途中、白い花が咲いてました。ハクモクレンかな?
門司港レトロ地区へ戻る途中、北九州銀行レトロラインの線路を
越えたところに門司関址があります。
門司は都と大宰府を結ぶ交通の要衝で、大化2年(646)に門司関が設けられました。
門司関址の石碑に、永徳元年(1097)に源俊頼が大宰府の任を終え
帰京の途中に詠んだ歌が載ってます。
行き過ぐる 心は門司の 関屋より
とどめぬさゑに 書きみたりけり
門司関址の近く、県道261号線に、和布刈神社の扁額がかかった大鳥居が
あります。
行く時は気が付きませんでしたが、和布刈神社の一の鳥居です。
めかり街道を門司港レトロ地区へ向け引き返しながら、
門司第二船だまり越しに、門司港レトロハイマートを見たところ。
めかり街道を門司港レトロ地区へ向け帰りながら、出光美術館通りへ出ます。
出光美術館です。
出光美術館も、新型コロナウィルスの影響で休館となってました。
出光美術館です。
門司港レトロ地区へ戻ってきました。
旧門司税関を東から見たところ。
旧門司税関です。
門司港レトロハイマートです。
31階に門司港レトロ展望台があります。
旧門司第一船だまり越しに、中央に旧門司三井倶楽部を
見たところ。
左は、門司港レトロ海峡プラザです。
右側の白い建物は、門司港ホテルです。
左に旧門司三井倶楽部、右は旧大阪商船です。
門司港駅、関門海峡ミュージアム方向へ行ってみることにします。
旧門司第一船だまりに沿って進んで行き、旧大阪商船を
東から見たところ。
旧門司三井倶楽部を東から見たところ。
右は、旧門司三井倶楽部の付属屋(管理人住居)です。
旧門司三井倶楽部を南から見たところ。
その旧門司三井倶楽部の庭です。
旧門司三井倶楽部の斜め前、西側に門司港駅前の広場が
あります。
その広場から、門司港駅の駅舎を見たところ。
門司港駅のすぐ北側の通り、旧大阪商船通りに、
女優の上戸彩さんが絶賛された
ご当地名物、焼きカレーのお店、BEAR FRUITSが
あります。
新型コロナウィルスが流行っており、町全体の人出は
少ないけれど、ここだけは行列ができてました。
海岸に出て、関門橋を見たところ。
その海岸には、レムチャバン港・北九州港 姉妹都市締結記念の碑が
たってます。
レムチャバン港は、1991年に開港した国際貿易港で、同じ1991年に
北九州港と姉妹港となったようです。
こちらは門司港出征の碑です。
太平洋戦争では、ここ門司1号岸壁から、
200万人を超す将兵が南方の戦線に赴き、
半数の将兵が生きて故国の地を
踏むことができませんでした。
恒久平和を願う不戦の誓いを込めて建てられてます。
また、その隣には出征軍馬の水飲み場があります。
昭和6年の満州事変から第二次世界大戦にかけ
全国の農村から農耕馬が軍馬として徴発され、百万頭に及ぶ
馬が戦地に渡り故国の地を踏むことはありませんでした。
その出征軍馬の水飲み場の説明です。
海岸に沿って南西へ進んで行きます。
北東を見ると、中央に古城山、右端に門司港レトロハイマートが
見えます。
左に古城山、右に世界平和パコダが見えます。
南西へ進んで行くと、道を挟んで左手に、旧大連航路上屋が
あります。
旧大連航路上屋は、日本と中国を結ぶ大連航路(日満連絡船)の
発着所として、昭和4年(1929)に竣工された建物です。
その向かいに、関門海峡ミュージアムがあります。
北東から見たところ。
関門海峡ミュージアムです。
北から見たところ。
関門海峡ミュージアムの前から、関門橋を見たところ。
関門海峡ミュージアムの前から、対岸、下関の海峡ゆめタワーを
見たところ。
岸壁に泊まっていたケミカルタンカーのSHINKO MARU NO.23です。
空荷で船体が浮き上がっており、通常、喫水の下に隠れている
球状船首が見えます。
この球状船首は、バルバスバウとも呼ばれ、航走中の造波抵抗を
抑制する事ができます。
関門橋、そして、その向こうに、火の山を見たところ。
たくさんの船が泊ってます。
船だまりの船を見たところ。
船だまりの船です。
次は、歩行者専用のはね橋、ブルーウィングもじの開橋を
見に行きます。
ここは、門司港駅から海岸へ出てきた辺りです。
歩行者専用のはね橋、ブルーウィングもじです。
ブルーウィングもじの開橋時間まで少しあるので、橋を渡ったところで
開橋を待つことにします。
ブルーウィングもじを渡りながら、旧門司税関を見たところ。
ブルーウィングもじを渡りながら、門司港レトロハイマートを見たところ。
ブルーウィングもじを渡り終え、北西から旧門司税関を
見たところ。
西から大連友好記念館を見たところ。
旧門司税関を、北東、正面から見たところ。
南西から大連友好記念館を見たところ。
大連友好記念館と、門司港レトロハイマート。
旧門司税関を東から見たところ。
旧門司税関の横で、ブルーウィングもじが、開橋するのを
待ちます。
開橋を知らせる音楽とアナウンスが始まると、
まず、向かって右側の子橋が動き出します。
小橋が徐々に上がって行きます。
小橋がある角度まで上がると、次は、向かって左側の親橋です。
親橋が少しずつ上がり始めました。
親橋が上がってます。
親橋が、子橋の高さを追い越しそうになると、
子橋が動き始めます。
親橋、子橋、二つの橋が開いて行きます。
親橋の長さは24m、子橋の長さは14.4mです。
水面に対して60度の角度まで開きます。
あと、もう少しです。
開橋を完了しました。
ブルーウィングもじです。
ブルーウィングもじの開橋を見ていた場所の近くに、
旧門司税関の浮桟橋跡があります。
写真は、その浮桟橋跡の横の説明です。
その浮桟橋跡です。
旧門司税関の浮桟橋跡です。
大正8年(1919)に門司税関によって設置されました。
この浮桟橋は、沖合に停泊する外国貿易船との間を
小型船を利用して往来する作業員や、積み降ろしされる
船内用品の監視・取締りを行う場所に指定されていました。
開橋したブルーウィングもじを、子橋側から見たところ。
開橋したブルーウィングもじです。
手前が子橋で、橋の裏が見えているのが、親橋です。
次は、親橋側からブルーウィングもじを見るために、
旧門司第一船だまりに沿って移動します。
正面は、門司港レトロ海峡プラザ、その向こうに三角山が
見えます。
左よりにブルーウィングもじ、右寄りに旧門司税関を見たところ。
ブルーウィングもじです。
親橋と子橋の間から、対岸の下関の景色が見えてます。
門司港レトロ海峡プラザ前の通り、ガス灯通りを進みます。
右は旧門司第一船だまりです。
ブルーウィングもじと、旧門司税関です。
ガス灯通りを進んで行くと、バナナマンとバナナマン・ブラックの像
があります。
ガス灯通りを進みながら、旧三井倶楽部を見たところ。
旧門司第一船だまり内には、関門海峡遊覧クルージングの
桟橋があります。
その関門海峡遊覧クルージングの桟橋と、その向こうは
門司港レトロ海峡プラザです。
閉橋を知らせる音楽とアナウンスがあり、
急いで駆け付けましたが、既に親橋は下りてました。
旧門司第一船だまり越しに、南西から、門司港レトロハイマートを
見たところ。
南西から、門司港レトロハイマート、及び、旧門司税関を
見たところ。
親橋が下り、子橋が下りようとしています。
小橋が下りてきて、ブルーウィングもじが閉じようとしています。
門司港レトロハイマートをバックに、ブルーウィングもじが
閉じようとしています。
閉じようとするブルーウィングもじです。
そして、ブルーウィングもじは閉じて行きます。
ブルーウィングもじの前から、南西方向、船だまりを見たところ。
お腹がすいたので、ご当地名物の焼きカレーを食べに
行きました。
女優の上戸彩さんが絶賛された焼きカレーのお店、
BEAR FRUITSは、相変わらず行列ができていたので避けて、
その近くの別のお店、門司港レトロ 王様のたまごです。
頼んだのは、王様の焼きカレーです。
真ん中に、たまごが乗ってます。
食事を終え、門司港駅前の広場へ行き、片隅に
バナナの叩き売り発祥の地の石碑を見つけました。
バナナの産地の台湾と門司港は地理的に近い為、
門司港へ大量荷揚げされ市場が設けられました。
通常は、青いバナナは地下室で蒸されて市場に売り出されますが、
中には輸送中に蒸れた籠熟れバナナや、一部不良品等で
輸送困難なものがあり、できるだけ早く換金する手段として、
露天商の手で売りさばかれたのが、バナナの叩き売りの始まりです。
次は、九州鉄道記念館へ行きます。
新型コロナの影響で、休館中です。
しかし、金網越しですが、展示列車の一部を見ることができます。
九州鉄道記念館の敷地内には、旧0哩標があります。
旧0哩標は、九州鉄道が明治24年に開業した時、
九州鉄道(鹿児島本線)の起点と定めた場所です。
大正3年に駅舎が現在の場所に移った為、撤去されましたが、
2003年の鉄道記念館の開館にあたり、復元されました。
帰途につく為、門司港駅へ向かいます。
門司港駅に着き、改札を入ったところへ、0哩標がありました。
ここは、九州鉄道の起点となったところです。
明治24年(1891)、この門司港駅(当時の門司駅)から玉名駅(当時の高瀬駅)まで
鉄道が開通しました。
この時、0哩標が建植されましたが、
その後、駅舎の移転により、0哩標は撤去されていました。
しかし、昭和47年(1972)の鉄道開業100周年を記念し、
0哩標を再び建立しました。
そして、帰途につきました。