福山城は、2022年8月28日に、
初代藩主、水野勝成が江戸幕府へ福山城の完成を報告した日から400年を迎えました。
そして、その築城400年に合わせ、
令和の大普請が行われ、福山城天守外観復元、福山城博物館のリニューアルが行われています。
そのリニューアルしたばかりの福山城へ行ってきました。
福山駅直結のショッピングセンター
「さんすて福山(サンステーションテラス福山)」の
北側の駐車場辺りから、福山城を見たところ。
福山駅福山城口のバラ花壇の横から、福山城を見たところ。
リニューアル前の福山城は、白に赤い高欄が映える外観でしたが、
リニューアル後は、白に黒の大人の雰囲気に変身しています。
左端に月見櫓、中央に鏡櫓、右側に天守が並んでいます。
福山駅福山城口前から、福山城二之丸の南側の石垣を見たところ。
バラ花壇越しに見た福山城です。
福山駅福山城口と道を挟んだ反対側に、
福山駅北口広場があり、その一角に
噴水のある石のモニュメントがあります。
但し、この日は噴水は出ていませんでした。
このモニュメントは、
環境彫刻家の杭谷一東の「水の城」と言う作品です。
福山駅北口広場を北へ進みながら、天守を見たところ。
福山駅北口広場を北へ進んで行くと、東から本丸跡へ上がって行く坂道があります。
その坂道の入口にふくやま文化ゾーンマップがあります。
本丸跡へ上がって行く坂道の横の広場から、
天守を見上げたところ。
坂道を上りながら、天守を南東から見たところ。
中央の石垣の上は、二之丸北東に当たり、
東坂三階櫓が建っていました。
東から西へ、本丸跡への坂道を上りながら、
南を見たところ。
右の建物は鏡櫓で、左の建物は月見櫓です。
本丸跡への坂道を上りながら、天守を見たところ。
天守を見たところ。
本丸の石垣の下に見える段は、二之丸です。
本丸跡へ上り、左に鏡櫓、右に月見櫓を見たところ。
南から天守を見たところ。
福山城の天守は、1945年8月8日の福山空襲で焼失し、
1966年に再建されていました。
しかし、その外観は焼失前の天守と大きく異なっていました。
そして、築城400年に合わせ令和の大普請が行われ、
天守の外観復元が行われています。
天守を南西から見たところ。
令和の大普請で大きく外観復元された内容は、以下です。
①大普請前の窓、窓枠は白でしたが、
大普請で、窓や、窓枠に銅板を巻き、黒い色彩が復元されています。
②天守の北面は、大普請で、最上階を除く階に、
黒い鉄板張りが復元されています。
③天守最上階の華頭窓は、大普請前は、中央へ廻縁への出入口があり、
その左右に華頭窓が2つずつありました。
大普請で、南面と北面の中央に1つずつ、
東面は中央に柱があるので、その右側に1つで復元されています。
④最上階の高欄の色は、大普請前は赤色でしたが、
大普請で、黒色に復元されています。
本丸跡にあった八方よしの松です。
どの方向から見ても形が美しい事から呼ばれています。
その八方よしの松越しに天守を見たところ。
天守を南西から見上げたところ。
天守の西側に井戸があります。
築城時に、井戸の中に黄金を埋めて、水気を清めた事から、
黄金水と呼ばれるようになったと伝わります。
天守を西側から見たところ。
天守の下、南正面にあった福山城天守の説明です。
天守曲輪の石垣の上から、南を見たところ。
右から、鐘櫓、伏見櫓、木の陰に筋鉄御門、
左に御湯殿が見えます。
天守の北西に位置する塩櫓跡です。
階段のある石垣の上に塩櫓が建っていました。
塩櫓は、神辺城から移築されたと伝わり、
内部には塩が納められていたようです。
塩櫓跡から、天守を見たところ。
令和の大普請で、天守の最大の特徴として、
天守最上階を除く北面に鉄板張りが復元されています。
その天守北面の鉄板張りの説明です。
塩櫓跡、北西から、天守の西面と北面を見たところ。
天守最上階を除く北面に鉄板張りが復元されています。
塩櫓跡から天守の北側を見下ろしたところ。
下端は、1966年の天守再建時、
移設された天守台の礎石です。
天守台の礎石の北側の広場一帯には、
かつて、幕府から預かった米を収める御用米蔵、
別名、五千石蔵がありました。
天守の北東角の玉櫓跡です。
玉櫓も、神辺城から移築されたと伝わり、
内部には弾丸(玉)が納められていたようです。
その玉櫓跡、北東から天守を見たところ。
最上階を除く北面には、鉄板張りが復元されています。
北東から見上げた天守です。
棗木門跡、西側から、天守を見たところ。
左の石垣の上には、二階櫓がありました。
棗木門を出て、北へ向け坂道を下りながら、天守を見たところ。
北へ向け坂道を下りながら、天守を見たところ。
そして、天守の下を北へ回り込みながら、天守を北から見たところ。
最上階を除く北面には、鉄板張りが復元されており、
天守が黒く見えます。
その天守を北から見たところ。
天守の北側、石垣の下には、
天守台の礎石が移設されています。
天守台の礎石の
説明です。
天守の北側、石垣の下へ移設された、天守台の礎石です。
天守台の礎石の北側は、広場になっており、
この辺りは、幕府から預かった米を収める御用米蔵、別名、五千石蔵が立ち並んでいました。
そして、天守大の礎石の北側の広場の東側も、五千石蔵の跡地でしたが、
海産物商で財を成した安部和助が、昭和初期に買い取り、別荘として建てた福寿会館が残ってます。
その福寿会館と、五千石蔵跡の説明です。
本館、西茶室、西蔵、東蔵、
洋館、そして、南茶室が
建ってます。
天守台の礎石の北側の広場の東に位置する
福寿会館の庭へ入ります。
福寿会館の庭は、回遊林池式庭園です。
その庭の中から、本館を見たところ。
福寿会館の庭の西側から東に、洋館を見たところ。
本館の前から、庭越しに、南を見たところ。
借景に、福山城天守をのぞむことができます。
庭越しに見た福山城天守です。
庭には、玉石を敷き詰めた枯流れがあり、
その枯流れの中に石灯籠が設置されています。
枯流れの横には、門があり、
その向こうには東屋も見えます。
右端は洋館です。
門をくぐって、東屋側、東から門を見たところ。
その東屋です。
その東屋の下、枯流れには、切石橋が架かってます。
そして、その向こう、南に天守を見る事ができます。
庭園の南端には、小さな竹林もあります。
福寿会館を西へ出て、北から天守を見たところ。
福山城棗木門跡から続く坂道を、北へ下りて行くと、
備後護国神社があります。
備後護国神社への階段です。
南側の参道になります。
その階段の横にあった備後護国神社の説明です。
備後護国神社への階段を上ります。
階段を上って行くと石鳥居があります。
その石鳥居の手前、左手に手水舎があります。
その反対側、右手に神馬殿があります。
石鳥居をくぐり、階段を上って行きます。
宮本武蔵 腰掛石があります。
宮本武蔵は、元和元年(1615)、大阪夏の陣において、
当時、三河刈谷三万石城主、水野日向守勝成の陣に
属した縁で、福山城を訪ねます。
水野家二番家老、中山将監が武蔵を自邸に招いた時、
武蔵が腰掛けた庭石が寄進されています。
階段を上ると、本殿横に出ます。
右の玉垣に囲まれた建物が本殿で、左が拝殿です。
中央の像は、かわいい男女の赤ちゃんの像で、
安産祈願の像と言う事です。
備後護国神社は、備後神社と阿部神社を合併し、
昭和32年(1957)に備後護国神社となりました。
祭神は、国家公共につくし殉じられた備後のご英霊と、
大彦命を主神とした阿部神社のご英霊を併せて
奉斎されています。
元阿部神社は、福山藩阿部家の遠祖の大彦命をはじめ、
阿部家代々の祖霊を奉斎していました。
そして、拝殿の北側には、
七代目福山藩主の阿部正弘公の像があります。
拝殿の前、西側には、正面から上ってくる
まっすぐな階段があります。
その階段を少し下りて、拝殿をふり返ったところ。
階段を下りながら、拝殿をふり返って見上げたところ。
階段を下って、ふり返って見上げたところ。
階段を下りた所に、下拝殿があります。
西側正面から、その下拝殿をふり返ったところ。
その下拝殿の北側に、いくつかの石碑が建ってます。
右から
・ノモンハン戦没者慰霊碑
・メレヨン島戦没者慰霊碑
・第六十五旅団戦歿者慰霊碑
・萬寶山之碑
です。
この慰霊碑の間を北へ入って行くと、
鳥居があり、旧阿部神社の赤門があります。
その赤門を北側、正面から見たところ。
赤門です。
赤門を北から入ると手水鉢があります。
その手水鉢には、
阿部家の家紋、右重ね違い鷹の羽が彫られています。
慰霊碑を西から見たところ。
慰霊碑の前から福山城天守を見たところ。
左は、備後護国神社の下拝殿です。
備後護国神社の下拝殿の西側の広場を
南へ向かいながら、
福山城天守を北西から見たところ。
天守北面に復元された鉄板張りが目を引きます。
福山城公園庭球場の西側を回り、南へ進むと、
ふくやま美術館があります。
そのふくやま美術館の西側には、
清水九兵衛による朱色の巨大彫刻《双立》があります。
《双立》は、元々、東京、目黒のオフィスビル前に
設置されていました。
しかし、再開発計画で廃棄の可能性が出てきたところ、
福山への移設の話が持ち上がり、実現しました。
ふくやま美術館前、西側から福山城天守を見たところ。
ふくやま美術館から南へ進んで行くと左手に、
福山出身の彫刻家、髙橋秀氏による《愛のアーチ》が
あります。
この作品は、
ふくやま美術館のシンボルとしてロゴマークに
なってます。
の
更に南へ進むと右手に広島県立博物館があり、
その前に圓鍔勝三の《姉妹》があります。
広島県立博物館から線路沿いに東へ、
福山駅へ向け歩きながら、
本丸の南西角に建つ伏見櫓を見上げたところ。
線路に沿って東へ、福山駅へ向け歩きながら、
伏見櫓を見上げたところ。
福山駅へ向け歩きながら、
伏見櫓をふり返り見上げたところ。
福山駅福山城口の前から、福山城を見たところ。
一度、ホテルに帰り、日没後、暗くなって、
福山城のライトアップを見に出かけました。
福山駅福山城口の前から、
ライトアップされた福山城を見たところ。
福山駅福山城口から道を挟んだ反対側に、
環境彫刻家、杭谷一東の「水の城」と言う
噴水のある石のモニュメントもライトアップされています。
そのモニュメントの上方には、月見櫓が見えます。
その杭谷一東の「水の城」です。
福山駅北口広場を北へ進むと、
本丸跡へ向け東から上って行く坂道があります。
その坂道を上りながら、天守を見たところ。
その坂道を上って行くと、二之丸の上に鏡櫓が見えます。
本丸跡へ上がり、正面、南から天守を見たところ。
南、少し西よりから天守を見たところ。
南西から天守を見たところ。
西から天守を見たところ。
棗木門跡を出て、西、少し北よりから天守を見上げたところ。
棗木門跡から続く坂を下りながら、北西から天守を見上げたところ。
五千石蔵跡、北から天守を見たところ。
杭谷一東の噴水のある石のモニュメント「水の城」の前へ
戻ります。
福山駅福山城口の前は、
福山駅北口スクエアと呼ばれる公園になってます。
その公園から、福山城を見たところ。
テーブルとベンチもあります。
福山駅福山城口から、
福山城の石垣に沿って西へ歩いて行くと、
伏見櫓があります。
ライトアップされた伏見櫓です。
その伏見櫓の東に位置する筋鉄御門です。
右端は御湯殿です。
翌日の早朝に、再び、福山城へ行ってみます。
福山駅北口スクエアの横から、福山城を見たところ。
バラ花壇越しに、福山城を見たところ。
福山城の南側は福山駅です。
二階のホームに停まっている黄色い車両は、
福塩線の電車です。
福山駅福山城口と道を挟んで反対側、
福山駅北口広場にある
杭谷一東の噴水のある石のモニュメント「水の城」です。
朝の早い時間の為か、まだ噴水の水は出ていません。
そのモニュメント「水の城」の近くの石垣をよく見てみると、
黒い猫が石垣を上っています。
そして、石垣にあいた穴の中に入って行きました。
福山駅北口広場を北へ向け歩きます。
北へ向け歩きながら、天守を南東から見たところ。
福山駅北口広場を北へ向け進んで行くと、
東から本丸跡へ向けて続く坂道があります。
その坂道を上りながら、天守を見たところ。
坂道を上りながら見た天守です。
坂道を上りながら、
天守の南東に位置する鏡櫓を見たところ。
本丸跡へ続く坂道の途中から、
二之丸の北東の曲輪跡へ上る道が
北に向け分かれています。
左側の石垣の上には鹿角菜櫓(二重櫓)跡が、
この先には東上り楯御門跡があります。
そして、右側の石垣の上、東端には、
東坂三階櫓があります。
二之丸の北東の曲輪の石垣の上から、
本丸跡へ続く坂道を見下ろしたところ。
右端、その坂道の向こう側には、鏡櫓が見えます。
二之丸の北東の曲輪跡にあった東坂三階櫓跡と多門櫓跡の説明です。
今はありませんが、東坂三階櫓の写真と、二之丸の北東の曲輪の地図です。
二之丸の北東の曲輪跡です。
その曲輪跡には、水野勝成公の像があります。
水野勝成公は、徳川家康のいとこに当たります。
毛利をはじめ西国大名に睨みをきかし、
西国鎮衛の役目を持って
元和5年(1619)に備後10万石の初代藩主に
封じられました。
そして、町を開き福山と命名しました。
二之丸の北東の曲輪跡、東側から、
天守を見たところ。
北東から天守を見たところ。
二之丸を北へ回って行くと、
天守台から移設された天守の礎石があります。
天守を北西から見たところ。
本丸への入口だった棗木門跡へ続く坂を上りながら、
天守を見たところ。
先に見える冠木門は、後世に造られたもので、
更にその先に棗木門跡があります。
棗木門跡です。
正面に天守が見えます。
棗木門跡を抜けながら、西から天守を見たところ。
本丸跡へ入り、南西から天守を見たところ。
本丸跡の広場を南へ向かいながら、
ふり返って天守を見たところ。
本丸跡の広場に、八方よしの松があります。
どの方向から見ても形が美しく、
八方よしの松と呼ばれるようになったようです。
本丸跡の広場を南へ歩いて行くと、
右から鐘櫓、その向こうに伏見櫓、
その左に筋鉄御門が見えます。
本丸の西側の石垣の上にある人質櫓跡へ上がり、
南を見たところ。
中央、木の陰に鐘櫓があり、
その向こうに伏見櫓が見えます。
人質櫓跡から、本丸西側の石垣の下、二之丸跡に
福山藩、阿部家7代藩主の阿部正弘公の像が見えます。
その阿部正弘公の像です。
阿部正弘公は、幕末、文政2年(1819)に江戸藩邸で生まれ、
25歳で老中に、翌年には老中首座に抜擢されています。
そして、嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国海軍司令長官の
ペリーの来航から、安政元年(1854)の日米和親条約締結
に至る開国への指揮をとり、
アジア諸国が欧米列強と戦争、植民地となる中で、
平和的な開国を進めました。
また、衆論を採って幕政、外交に当たり、
勝海舟等、身分にとらわれない人材の登用や、
江戸と福山へ藩校誠之館を設立し人材の養成を
推し進めました。
人質櫓跡から見た西側の景色です。
中央、右よりに見える2つの尖塔を持つ茶色の建物は、
Holy Zion's Park St. Valentineと言う結婚式場です。
人質櫓跡、南西から天守を見たところ。
人質櫓から、本丸の西側の石垣に沿って南へ進むと
石垣が引っ込んでいる箇所があります。
ここには御台所門がありましたが、
現在は、その門跡に石垣が築かれ塞がれています。
中央は鐘櫓で、その北側は、本丸の西側の石垣が
引っ込んでいます。
ここに御台所門がありました。
中央、左よりに鐘櫓があり、
その向こう、右側に伏見櫓が見えます。
鐘櫓の手前は、御台所門跡です。
ここには御台所門がありましたが、
今は石垣で塞がれ入る事ができません。
鐘櫓の南側に回り、南から鐘櫓を見たところ。
鐘櫓の前、北から伏見櫓を見たところ。
その伏見櫓の説明です。
伏見櫓は、2階の梁から、伏見城の松の丸から移設された事を示す
「松ノ丸ノ東やくら」の刻印が
見つかっています。
そして、福山空襲による焼失を免れており、築城当時の姿を残しています。
伏見櫓の東に位置する筋鉄御門を、西から見たところ。
伏見櫓と同様に、福山空襲による焼失を免れており、
築城当時の姿を残しています。
伏見櫓前、南西から天守を見たところ。
左端は、鐘櫓です。
南西から見た天守です。
伏見櫓の東に位置する筋鉄御門を、西から見たところ。
筋鉄御門の西側から東へ回ると、
筋鉄御門を抜けて本丸へ上がって来た位置に
当たります。
今は、本丸跡は、広場になてますが、
かつては、ここに本丸御殿が広がっていました。
伏見御殿跡の標石がたってますが、
伏見城から移築された伏見御殿は、
ここにあった本丸御殿全てではなく、
檜皮葺の一棟のみで、鏡櫓の西にありました。
本丸御殿の説明です。
筋鉄御門から、本丸南側の石垣に沿って東へ進んで行くと、
御湯殿があります。
御湯殿の説明です。
その御湯殿を東から見たところ。
御湯殿向こうに、筋鉄御門が見え、
更にその向こうに伏見櫓の屋根が見えます。
本丸南側の石垣に沿って、東へ進んで行くと、
本丸南東角に月見櫓があります。
その月見櫓の説明です。
月見櫓の前から、西を見たところ。
左から御湯殿、筋鉄御門が見えます。
筋鉄御門の屋根の上に、伏見櫓の屋根がのぞいてます。
月見櫓から、本丸東側の石垣に沿って、北へ進むと、
鏡櫓があります。
その鏡櫓の説明です。
本丸跡の広場、天守の南、正面から、天守を見たところ。
天守を南、少し西よりから、見たところ。
天守です。
天守の内部は、福山城博物館になっています。
本丸跡から東へ向け下る坂道を、下りて行きます。
東へ向け坂を下りながら、天守を見上げたところ。
天守をふり返りながら、坂を下ります。
福山城天守を東から見たところ。
福山駅北口スクエアへ戻って来ました。
福山駅北口スクエアのバラ花壇のバラです。
福山駅福山城口から西に、伏見櫓を見たところ。
ホテルへ帰って朝食をとって、
福山城博物館への入館予約時間に合わせて出直すことにします。
ホテルで朝食をとって、
再び、福山駅福山城口の福山駅北口スクエアへ
やってきました。
そして、道路を隔てた反対側、福山駅北口広場に渡ると、
噴水のある石のモニュメント、
環境彫刻家の杭谷一東の「水の城」があります。
早朝は水は出てませんでしたが、今は水が出ています。
福山駅北口広場から、月見櫓を見たところ。
福山駅北口広場を北へ向け進みます。
福山駅北口広場から本丸跡へ上って行く
坂道があります。
その坂道を上りながら、左手に鏡櫓を見たところ。
右手に天守を見たところ。
坂道を上って行くと階段の先に、
本丸跡へ入る冠木門が見えます。
この門は、後世にできた門です。
左側には、鏡櫓が見えます。
本丸跡の広場には、陣幕やテントがはられ、
イベントの準備がされています。
8月27日、28日に
福山城400年博オープニングイベント開幕祭が
開催され、その後、福山城おもてなしWEEKが
続いているようです。
福山城を正面、南側から見たところ。
天守の北西へ回り、棗木門のあった辺りを見たところ。
右に見える冠木門は、後世にできた門です。
天守を北西から見上げたところ。
令和の大普請で、天守北面の鉄板張りが外観復元されており、
その鉄板張りを見る事ができます。
外観復元された天守北面の鉄板張りです。
天守北面の鉄板張りの説明です。
この鉄板張りの目的は、福山城は、外堀が東、南、西に有りましたが、
北側は山がせまり、外堀が途切れており、天守の北面に鉄板を貼って防御の弱点を補っていました。
福山大空襲で焼失する前の天守の北面の写真です。
北面に鉄板が張られていた写真が残っています。
福山城北物館へ入館する前に、天守の正面にあった福山城天守の説明です。
天守の一部の破風の陰になった見えにくい位置には、
珍しい六角形の銃眼(狭間)があります。
福山城博物館に入館します。
館内は、最上階を除き写真撮影禁止ですが、
ところどころに撮影OKポイントがあります。
4階にあった鯱で、
左が初代、右が2代目と説明があります。
築城当時の鯱は、福山空襲で天守が焼失した際に
破壊されました。
よって、ここで言う初代とは、
1966年に再建された際に製作された鯱です。
そして、2代目は、1993年秋の地震で落下した後に、
据えられた鯱です。
ちなみに、令和の大普請で据えられた鯱は、三代目になります。
最上階の5階、天空の間です。
甲冑の横に座って写真撮影できるようになってます。
ちなみに、
この甲冑は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際に、
水野勝成公が着用した甲冑の複製と言う事です。
最上階の廻縁に出て、南を見たところ。
本丸跡の広場の向こうに福山駅が見えます。
その向こうの高層ビルは、
地上28Fのフローレンス福山ローズタワーです。
本丸の南西角には、伏見櫓が見えます。
その伏見櫓の手前右に緑色の屋根の鐘櫓、
左側に筋鉄御門が見えます。
本丸の南東角には、月見櫓が、
その手前に鏡櫓が見えます。
南東を見たところ。
右端に月見櫓、その手前に鏡櫓が見えます。
その奥に福山駅が見えます。
東を見たところ。
眼下に、二之丸の北東の曲輪跡が見え、
水野勝則公の像がたってます。
北東を見たところ。
眼下に福寿会館が見えます。
その福寿会館です。
中央、左よりに、平屋で数寄屋造りの本館が、
右よりに急勾配の三角屋根の洋館が見えます。
北を見たところ。
右に福寿会館、左に広場が見えます。
この辺りは、幕府から預かった米を収める
御用米蔵、別名、五千石蔵が立ち並んでいました。
その中央奥、山の上に福山誠之館高校が見えます。
その福山誠之館高校です。
福山藩第7代藩主、阿部正弘公によって創設された
藩校、誠之館を起源としています。
北西を見たところ。
右端の木立の中に備後護国神社が見えます。
中央は福山城公園庭球場で、
その左は、ふくやま美術館です。
西を見たところ。
中央に見える2つの尖塔を持つ茶色の建物は、
Holy Zion's Park St. Valentineと言う結婚式場です。
その手前は、ふくやま美術館で、
その左は広島県立歴史博物館です。
南西を見たところ。
中央、右よりに広島県立歴史博物館が見えます。
南、西よりを見たところ。
眼下には、本丸跡の広場へ、
福山城おもてなしWEEKの為の陣幕やテントが
はられています。
広場の向こうには、東西に走る新幹線が走っています。
福山城400年博オープニングイベント開幕祭で来場者が残された
メッセージシールでできた福山城の写真がありました。
エレベーターで地階へ下りて、福山城博物館を出ます。
入城した証の入城チケットと、
スタンプラリーのはがきです。
このスタンプラリーの台紙を入口で貰い
各階のスタンプ台でスタンプを押しながら上って行くと
多色刷りの版画の仕組みで福山城の絵が完成します。
天守を出て、天守の西に位置する棗木門跡を出て、
西から天守を見たところ。
棗木門跡から北へ向け坂道を下ると、東西に走る道へ出ます。
その道の東側に石鳥居があります。
三蔵稲荷神社の鳥居です。
赤い玉垣がある階段が山の上に続いています。
この階段が西参道になります。
三蔵稲荷神社へ続く階段です。
階段を上り、三蔵稲荷神社の中へ入って行きます。
右端が本殿で、その本殿に向かって左側の末社です。
本殿と、その末社の間を奥に入ると、
更に末社がありました。
そして、本殿です。
この三蔵稲荷神社は、
水野勝成公が、福山城を築城する際に、
城内北側(鬼門)に備後の国の守護神として祀った
神社です。
祭神は、
宇賀魂大神(うがのみたまのおかみ)、
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、
大宮女大神(おおみやめのかみ)
です。
江戸後期の三蔵稲荷神社にまつわる伝説は以下。
阿部家のお納戸役の武士がご用金を持って江戸に向かう途中、強盗に襲われますが、
一人の武士に助けられます。それが、何度か続きますが、名前を聞いても、教えて貰えません。
やっと、袖をつかんでお願いすると、「福山の城北にやっかいになる三蔵と申す者でございます。」と
言い残し姿を消します。そしてお納戸役は、城北の稲荷神社のお使いギツネ様だと気が付きます。
それから、福山城内と、阿部家の江戸屋敷に、三蔵稲荷の社をつくって祀っています。
本殿の横には、能舞台があります。
老松が描かれ、橋掛りがついてます。
お参りを済まして、東参道にあたる階段を下ります。
階段を下りながら、境内をふり返って見たところ。
東参道を下りながら、ふり返ったところ。
赤い玉垣?手摺がついた階段を下りながら、
途中、下りて来た参道をふり返ったところ。
東参道を下りてきました。
三蔵稲荷神社の東参道入口にあたる石鳥居です。
福山駅へ向け、道なりに南へ歩いて行くと、
右手に福山城の石垣が見えてきます。
南へ歩いて行くと、
右手に福寿会館へ上がる坂道があり、
その坂を上がりながら福山城天守を見たところ。
福山駅へ行く前に、福寿会館への坂道を上って見ます。
正面は、福寿会館の本館の玄関です。
その横には、洋館があります。
福寿会館を出て、福山駅へ向かいます。