福山城(Renewal前): 03Oct2015


福山城は、2022年8月28日に、
初代藩主、水野勝成が江戸幕府へ福山城の完成を報告した日から400年を迎えました。
そして、その築城400年に合わせ、
令和の大普請が行われ、福山城天守外観復元、福山城博物館のリニューアルが行われています。

そのリニューアルする前の福山城を紹介します。
リニューアルする前の福山城は、1945年8月8日の福山空襲で焼失した後、
1966年に再建されたお城です。

ちなみに、福山城は、リニューアルする前後で、外観のイメージが大きく異なります。
令和の大普請によるリニューアルは、焼失前の福山城の外観が再現されていますが
リニューアルする前は、焼失前の外観ではなく、白に赤い高欄が映える美しい外観で
再建されていました。



では、さっそく、福山城へ向かいます。

福山城と言えば、福山駅のホームから
お城が見える事で有名です。

福山駅と三次市の塩町駅を結ぶ福塩線のホームから、
福山駅の北側に位置する福山城を見たところ。

中央右よりに天守が、中央左よりに月見櫓が見えます。






福山駅の福塩線のホームから、
福山城の石垣を見たところ。

中央左よりに伏見櫓が見えます。











その伏見櫓を、福塩線のホームから、見たところ。














福塩線のホームから見た福山城です。














福塩線のホームから見た天守です。
最上階には、白漆喰の壁に赤い高欄が映えます。

左には、鏡櫓が見えます。











中央左よりは、本丸南東に建つ月見櫓です。














左が月見櫓で、右に天守が見えます。














福塩線ホームから見る月見櫓です。

伏見城から移築されたと伝わりますが、
福山空襲で焼失し、
天守と同様に赤い高欄を持つ外観で
再建されています。









福山駅北口を出て、福山城を見たところ。














福山駅北口を出たところには、
広島県出身の環境彫刻家、杭谷一東が手がけた
石柱モニュメントが建っています。

そのモニュメントの向こうに見える石垣の上には、
月見櫓が見えます。









その月見櫓です。














月見櫓の下、道路を渡った向こうに、
福山駅北口広場があります。

その広場の中に
噴水のある石のモニュメントが見えます。










その噴水のある石のモニュメントです。

これも、環境彫刻家の杭谷一東の「水の城」と言う
作品でした。











福山駅北口広場の中を北へ進んで行くと、
西へ、本丸へ上って行く坂道があります。

東坂です。
















その坂道を上って行くと、
北側に東坂三階櫓があった石垣が見えます。













その先、坂は、まっすぐ道なりに本丸へ向け進む道と、
右に折れ北へ、二之丸へ上がる道の二手に分かれます。

本丸へ向け進む道は、江戸期を復元した地図には記載が無く、
明治以降にできた道と思われます。

二之丸へ上がる道を進んで行くと、
左へ直角に折れ曲がってます。
東上り楯御門跡です。






その左へ直角に折れ曲がり、階段を上ると二之丸です。

この階段の左の石垣の上には、二重櫓が建っていました。

















階段を上がり、北側の二之丸の曲輪の真ん中に、
福山城を築城した水野勝成公の像がたってます。

水野勝成公は、徳川家康のいとこに当たります。
毛利をはじめ西国大名に睨みをきかし、
西国鎮衛の役目を持って
元和5年(1619)に備後10万石の初代藩主に
封じられました。
そして、町を開き福山と命名しました。






二之丸、東側から天守を見上げたところ。

ちなみに、福山城は、一二三(ひふみ)段と呼ばれ三段の石垣で構成され、
本丸の東西南北の周囲を囲むように、本丸の下に二の丸が配されて
いました。















東から見た五重の天守です。

天守の下には附櫓もあります。












二之丸、南東から天守を見たところ。



















二之丸、北東から天守を見たところ。














二之丸、北東から天守を見たところ。



















水野勝成像のあった二之丸の曲輪から南へ
先ほど二之丸へ上がって来た階段の上がり口の横に
二重櫓跡があります。












その二重櫓跡です。














先ほど二之丸へ上がって来た階段を下りて、
東上り楯御門跡を過ぎて、本丸へ続く坂道へ戻ります。

その本丸へ続く坂道を見上げたところ。
















本丸へ向け、坂道を上りながら、鏡櫓を見たところ。



















この冠木門をくぐると本丸です。

この冠木門は、江戸期を復元した地図には記載が無く、
明治以降にできた門と思われます。











その冠木門の南側に建つ鏡櫓です。

鏡櫓は、明治維新の廃城令で取り壊され、
1973年に再建されましたが、
外観は江戸期の姿とは異なっています。










鏡櫓から本丸の石垣に沿って南を見ると、
月見櫓が見えます。

月見櫓も、明治維新の廃城令で取り壊され、
1966年に再建されましたが、
外観は江戸期の姿とは異なっています。










月見櫓の前から、天守を見たところ。



















南正面から見た天守です。

福山城は、五重天守をはじめ多くの櫓や城門を配し、
10万石では考えられない規模であり、かつ、
一国一城令が発布されていた時代において、
異例の築城がされています。

その後、福山空襲で焼失し、焼失後に再建されますが、
焼失前後で、外観が大きく相違してしまいました。

主な相違点は以下です。
①焼失前は、窓や窓枠に銅板が巻かれ黒っぽく見えますが、
 再建後は窓、窓枠含めて壁面は真っ白です。
②焼失前の天守の北面には、最上階を除き鉄板が張られ、かつ、
 黒チャンと言う防錆塗料が塗られ真っ黒でした。
 再建後の天守には、鉄板は復元されていません。
③焼失前は、装飾的な華頭窓が、西面を除き中央に1つずつ
 (東面は中央に柱があるので、その右側)設けられていました。
 しかし、再建された天守の華頭窓は、中央へ廻縁への出入口があり、
 その左右に2つずつ設けられました。
④最上階の高欄の色が、焼失前は黒色でしたが、再建後は赤色です。


本丸の南端、月見櫓の西側に御湯殿があります。

藩主が使用する風呂場で、蒸し風呂だっという事です。
そして、今はありませんが、本丸御殿と廊下で
つながっていたようです。

元々、伏見城から移築された建物でしたが、
福山空襲で焼失し、再建されています。







本丸の南側の石垣に沿って西へ進むと、
筋鉄御門(すじがねごもん)があります。

筋鉄御門も伏見城から移築されたと伝わり、
福山空襲による焼失を免れました。

筋鉄御門の名前の由来になったように、
数十本の筋鉄が、柱の角と扉に鉄の鋲で
打ち付けられています。






南西から、天守をふり返ったところ。














南西から、天守を見たところ。

手前の柵に囲まれた松は、どの方向から見ても形が美しく、
八方よしの松と呼ばれています。
















筋鉄御門の西側の石垣の上に建つ伏見櫓です。
北側から伏見櫓を見たところ。

伏見櫓は、2階の梁から、
伏見城の松の丸から移設された事を示す
「松ノ丸ノ東やくら」の刻印が見つかっています。

筋鉄御門と同様に、福山空襲による焼失を免れており、
築城当時の姿を残しています。







伏見櫓の横から東側に、筋鉄御門を見たところ。














伏見櫓の前から北側を見ると、鐘櫓が見えます。














伏見櫓から鐘櫓へ向かいながら、筋鉄御門を見たところ。














鐘櫓です。














本丸西側の石垣の上です。

前方に、人質櫓跡が見えます。












本丸西側の石垣に沿って、更に北へ歩いて行きます。

階段のある辺りが荒布櫓跡でしょうか?












天守を南西から見たところ。














荒布櫓跡のすぐ東側辺りに、井戸があります。

この井戸は、築城時に井戸の中に黄金を埋めて
水気を清めた事から、黄金水と呼ばれるようになった
と伝わります。









天守の北西には塩櫓跡があり、その塩櫓跡の辺りから、
石垣の下、北東方向を眺めたところ。

眼下には、1966年の天守再建時、
移設された天守台の礎石を見る事ができます。










塩櫓跡から、天守の北側の石垣を見たところ。

















さて、いよいよ、天守の中に入ってみます。
天守の内部は、福山城博物館になっており、福山阿部家展が開催されていました。
関ケ原合戦図や亜米利加使節饗応図等の展示を見る事ができました。






























福山城博物館の展示を見ながら
最上階へ上ります。

最上階の廻縁へ出て、南、少し西よりの景色を見たところ。

眼下に本丸跡の広場が見え、
その向こう、中央左よりに筋鉄御門が木の陰に見えます。

その向こうに福山駅が見え、
更に向こうに福山ニューキャッスルホテルが見えます。





南の景色です。

本丸跡の広場の右端に筋鉄御門が見え、
その左方向に御湯殿が見えます。

本丸跡の広場の向こうに福山駅が見えます。
その向こうの高層ビルは、
地上28Fのフローレンス福山ローズタワーです。







南、少し東よりの景色です。

中央に鏡櫓が見えます。












東の景色です。














東、少し北よりの景色です。

丸之内公園水泳場が見えます。
(但し、福山市民に愛された市民プールは、
2020年に閉場しました。)

その向こうには、蔵王山(226m)が見えます。








北東の景色です。

丸之内公園水泳場が見えます。(2020年に閉場)
その向こうに見える山は、蔵王山です。











北の景色です。

中央右よりに福寿会館、
数寄屋造りの本館、三角屋根の洋館が見えます。
左にはテニスコート2面が見えます。

この福寿会館、テニスコート一帯は、
幕府から預かった米を収める御用米蔵、別名、
五千石蔵が立ち並んでいました。

更に北側の山の上には、
福山藩第7代藩主、阿部正弘公によって創設された
藩校、誠之館を起源とする福山誠之館高校が見えます。


山の上に建つ福山誠之館高校です。














北西を見たところ。

左側に福山城公園庭球場が見えます。
右端の大きな屋根は武道館(2020年に閉館)です。











西の景色です。

中央に見える2つの尖塔を持つ茶色の建物は、
Holy Zion's Park St. Valentineと言う結婚式場です。

その手前の大きな建物は、ふくやま美術館です。









南西の景色です。

右端に、ふくやま美術館が見えます。
中央は、広島県立歴史博物館で、
ふくやま草戸千軒ミュージアムとも
呼ばれています。









天守を下りて、
本丸南西に位置する筋鉄御門へ向かいながら、
天守をふり返ったところ。












筋鉄御門です。

本丸側から筋鉄御門を見たところ。












筋鉄御門を抜け、
筋鉄御門の西に位置する伏見櫓を見たところ。













そして、筋鉄御門をふり返ったところ。

筋鉄御門は、元和8年(1622)に伏見櫓と共に
伏見城から移設されました。











筋鉄御門を正面から見たところ。

門扉は内開き二枚建になってます。












筋鉄御門に向かって、左側の門扉です。



















片側の門扉には、12条の筋鉄が鋲打ちされています。



















門扉の更に左側に脇戸があり、
その脇戸にも筋鉄が鋲打ちされています。

柱にも、根巻き金具や、四隅に筋金具が鋲打ちされ、
鏡柱の見付けと、見込みに、乳金具がついてます。















筋鉄御門に向かって、右側の門扉です。



















筋鉄御門を外から見たところ。














筋鉄御門を出て、二之丸の南側へ下りて行きます。














筋鉄御門の西に位置する伏見櫓を、
二之丸、南側から見上げたところ。

伏見櫓は、2階の梁から、
伏見城の松の丸から移設された事を示す
「松ノ丸ノ東やくら」の刻印が見つかっています。

筋鉄御門と同様に、福山空襲による焼失を免れており、
築城当時の姿を残しています。






伏見櫓を、南西から見上げたところ。



















伏見櫓を南から、少し離れて見たところ。

東、南、西の外壁は、江戸期以降に頻繁に見られる
総塗籠(そうぬりごめ)ではなく、柱痕が露出してます。
そして、北面においては
木製の柱がそのまま露出しています。









更に離れて、南から見たところ。














伏見櫓の前の二之丸から東を見たところ。

本丸の南側の石垣が続き、中央辺りに御湯殿が見えます。

御湯殿は、藩主が使用していた蒸し風呂です。
伏見城から移築されたと伝わりますが、
福山空襲で焼失し、再建されました。

特徴として、湯上りに涼をとる際に城下を見渡せるよう、
高欄がめぐらされ、かつ、石垣からせり出す懸造りに
なっていました。




本丸の石垣に沿って、二之丸を東の端まで歩き、
本丸の南東角にある月見櫓を見上げたところ。

月見櫓も、伏見城からの移築と伝えられますが、
明治の廃城令で取り壊されており、
現在は再建されています。

二階には、高欄付の廻り縁が備えられ、
城下を一望する事ができました。






二之丸から、本丸の石垣に沿って北を見ると
鏡櫓が見えます。

鏡櫓も、伏見城からの移築と伝えられますが、
明治の廃城令で取り壊され、その後、再建されています。

現在は、文書館として
福山藩に関する古文書の収集、展示が行われています。







筋鉄御門へ戻り、再び本丸跡を通って、
本丸の北西に位置する棗木門へ向かいます。













棗木門を抜け、棗木門跡をふり返って見たところ。














棗木門跡を抜け、坂道を下って行くと右手、
天守の石垣の下に、移設された天守台の礎石があります。













その移設された天守台の礎石の北側にテニスコートがあり、
その横から天守をふり返って見たところ。


















そのテニスコートの奥、北側に三蔵稲荷神社への西側の入口があり、入ると本殿の前にでます。
一旦、東側の参道の入口へ行って、表からお参りし直す事にします。

その東側の参道の入口です。

石鳥居があり、
三蔵稲荷神社と書かれた扁額がかかってます。
階段が山に伸び、階段の両脇に、
きつね像があります。









階段に向かって左側のきつね像です。

手前のきつね像は、所願成就の宝珠をくわえています。












階段に向かって右側のきつね像です。

手前のきつね像は、仏教の経典の巻物をくわえています。












赤い手摺の階段を上って行きます。



















途中、参道の横に、境内社があります。



















階段を上って行くと、正面に本殿が見えてきます。



















本殿です。

この三蔵稲荷神社は、
水野勝成公が、福山城を築城する際に、
城内北側(鬼門)に備後の国の守護神として祀った
神社です。

祭神は、
宇賀魂大神(うがのみたまのおかみ)、
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)、
大宮女大神(おおみやめのかみ)
です。

江戸後期の三蔵稲荷神社にまつわる伝説は以下。
阿部家のお納戸役の武士がご用金を持って江戸に向かう途中、強盗に襲われますが、
一人の武士に助けられます。それが、何度か続きますが、名前を聞いても、教えて貰えません。
やっと、袖をつかんでお願いすると、「福山の城北にやっかいになる三蔵と申す者でございます。」と
言い残し姿を消します。そしてお納戸役は、城北の稲荷神社のお使いギツネ様だと気が付きます。
それから、福山城内と、阿部家の江戸屋敷に、三蔵稲荷の社をつくって祀っています。


本殿の横には、能舞台があります。
老松が描かれ、橋掛りがついたりっぱな能舞台です。













境内にいた赤トンボです。














三蔵稲荷神社の西側の参道をおり、ふり返って鳥居を見たところ。



















三蔵稲荷神社の西側の参道を下り、道を挟んで反対側に、
備後護国神社があります。

神門の扁額には、「備後護国神社」とあります。
















神門をくぐり、階段を上って行きます。














途中に、神馬殿があります。



















階段を上って行くと、社殿が見えてきます。














階段を上って行くと、社殿の横、南側にでます。

右側の千木と鰹木が載った建物が、本殿で、
左側の建物が拝殿です。











本殿は、神域を示す玉垣で囲われて、
俗界と区切られています。

中央の像は、かわいい男女の赤ちゃんの像で、
安産祈願の像と言う事です。










拝殿を、正面の階段の途中から見上げたところ。

備後護国神社は、備後神社と阿部神社を合併し、
昭和32年(1957)に備後護国神社となりました。
祭神は、国家公共につくし殉じられた備後のご英霊と、
大彦命を主神とした阿部神社のご英霊を併せて
奉斎されています。








正面の階段の下から、拝殿を見上げたところ。



















正面の神門を出て、神門をふり返って見たところ。














備後護国神社から、
再び、福山城本丸の棗木門跡へ向けた道を
上って行きます。

正面は、棗木門跡を北から見たところ。
手前の冠木門は、後世の物と思います。









棗木門跡を入らずに、二之丸の西側へ回り、
本丸の西側の石垣に沿って、南へ進んで行きます。

その石垣をよく見ると、方形の穴があいており、
その穴の下には、自然石の囲いがあります。

方形の穴は、石垣の排水口です。
自然石の囲いは、排水された雨水と一緒に
多量の砂が流れ出た為、後から並べられた砂留のようです。






更に進んで行くと、
石垣が折れ曲がっている箇所があります。

右端の石垣上部が、人質櫓跡です。

ここにも、石垣に穴があいている箇所があります。









その石垣の穴です。

これも、元からあった排水口です。

















本丸の西側の石垣に沿って進むと、
石垣が窪んでいる箇所があります。













その石垣が窪んでいる箇所です。

かつて、ここには御台所門がありました。

石垣の上には、鐘櫓が見えます。










その御台所門跡の西側には、
福山藩、阿部家7代藩主の阿部正弘公の像がたってます。

阿部正弘公は、幕末、文政2年(1819)に江戸藩邸で生まれ、
25歳で老中に、翌年には老中首座に抜擢されています。
そして、嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国海軍司令長官の
ペリーの来航から、安政元年(1854)の日米和親条約締結
に至る開国への指揮をとり、
アジア諸国が欧米列強と戦争、植民地となる中で、
平和的な開国を進めました。
また、衆論を採って幕政、外交に当たり、
勝海舟等、身分にとらわれない人材の登用や、
江戸と福山へ藩校誠之館を設立し人材の養成を
推し進めました。


本丸の西側の石垣に沿って、更に進んで行くと、
本丸の南西の角に伏見櫓がたってます。


















その伏見櫓です。














二之丸南西の角から、伏見櫓を見上げたところ。














二之丸の西側を、北へ戻りながら、
途中、ふくやま美術館へ向け下りて行きます。

この辺り、ふくやま美術館や、広島県立美術館が建つエリアは、
かつての三之丸西側に当たります。

三之丸西側は、水野勝成公の隠居屋敷や、
阿部時代は城代家老屋敷であったと伝わります。

ふくやま美術館前から南、内堀があった辺りを見たところ。

右側の黒い2本の石柱と周囲の小さな石の塊のモニュメントは、
杭谷一東の《RISPETTO(敬意)》と言う作品です。

また中央の一際目を引く赤いモニュメントは、
髙橋秀の《愛のアーチ》と言う作品で、
ふくやま美術館のシンボルとしてロゴマークになってます。




ふくやま美術館の前から、東に天守をふり仰いだところ。



















ふくやま美術館です。














ふくやま美術館から、まっすぐ南へ進むと、
広島県立歴史博物館があります。













広島県立歴史博物館です。














広島県立博物館から東へ進みながら、
筋鉄御門へ向かう階段をふり返って見たところ。


















その時、ちょうど、
福塩線の黄色い電車が福山駅へ帰ってきました。













線路と平行に走る二之丸南側の石垣に沿って東へ、
福山駅の北口へ向け進みながら、 石垣に沿って西をふり返ったところ。

中央左よりの階段は、筋鉄御門へ向かう階段です。
















線路と平行に走る二之丸南側の石垣です。














二之丸南側の石垣には、
文字や記号の刻印が刻まれた石を見る事ができます。

例えば、中央辺りの石には、
マルに大の文字が刻まれています。

その左下の石には長方形の線が入ってます。








この石垣の中にも、いくつか刻印が刻まれた石が混じってます。



















この石垣の中にも、マルや大の刻印が見えます。













福山城を一回りし、「水の城」の噴水のモニュメントの横まで帰ってきました。
そこにあったふくやま文化ゾーンマップです。




































福山駅の北口を入り、電車で帰宅の途につきました。




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