大久野島: 11Mar2017


大久野島と言えば、かつて戦時中は、毒ガスを製造していた島ですが、
今では、多くのうさぎと出会えるうさぎの楽園となっており、うさぎの島として有名です。

その大久野島へ出かけて来ました。

広島と三原の間、瀬戸内沿岸を走るJR呉線の忠海駅で下車し、
うさぎの島の島への忠海港へ向かいます。

JR呉線の踏切を渡ったところに常夜灯があります。











その常夜灯です。

江戸時代中期から明治にかけて、
北海道と大阪を日本海回りで商品を売り買いし結ぶ商船がいました。
その商船群は、北前船と呼ばれていました。

忠海港は、かつては北前船の寄港地の一つで、
この常夜灯は入港の目印として文化13年(1816)に建てられました。












忠海港ターミナルには、
フェリーのチケットを買う為に
大久野島へ行くと思われる観光客が並んでいました。












フェリーの到着を待つ間に見た忠海港です。














海と反対側、北側を見ると、標高266mの黒滝山がそびえ、
大きな岩場の下に観音堂が見えます。

この観音堂は、行基による天平年間の創建と
伝えられています。










大久野島へ行くフェリーが、忠海港へ帰ってきました。














忠海港ターミナルから、フェリーへ向かいます。














フェリーに乗って、これから向かう大久野島を見たところ。














フェリーに乗って大久野島へ向かいながら、
大久野島を見たところ。

大久野島には、昭和36年に建造された
日本一高い高さ226mの送電鉄塔が見えます。

この送電鉄塔はは、本土と四国を結ぶ
中国四国連絡送電線を支える鉄塔の一つです。







海上に浮かぶ船です。

釣り船でしょうか?
船尾にはスパンカーと呼ばれる台形の帆がついてます。
このスパンカーは船首を風上に向ける役割があるようです。










南東には、
大三島と生口島を結ぶ斜張橋の多々羅大橋が見えます。













大久野島です。














フェリーが出航した忠海の町をふり返って見たところ。

中央には黒滝山が見えます。
その黒滝山の麓には、忠海中学校が見えます。











東に目を向けると、今治造船広島工場が見えます。

建造中の船と、赤白の巨大なクレーンが見えます。












南東を見たところ。

右に生口島、左に大三島があり、
その間を多々羅大橋が結んでいます。











フェリーが出航した忠海の町をふり返ったところ。














大久野島です。

大久野島には、送電鉄塔が3本建ってますが、
右側、島の北部に建つ鉄塔が、日本一高い送電鉄塔です。

左側、島の南部に建つ鉄塔と、
北と南の中央を中継する低い鉄塔も見えます。







北西には、J-POWER 電源開発(株)竹原火力発電所が
見えます。

この発電所は、石炭火力を使用し、世界最高水準の熱効率を
実現しています。










大久野島の東部に、
フェリーが到着する第二桟橋が見えてきました。

島の上には送電鉄塔が見えますが、
この鉄塔は島の南部に建つ鉄塔です。










北を見たところ。

正面に見える本土側の鉄塔は、
大久野島の日本一高い送電鉄塔と、
送電線で結ばれています。

左よりには、
J-POWER 電源開発(株)竹原火力発電所が見えます。







フェリーが着く第二桟橋へ向かう途中、
海へ向け伸びる古い桟橋が見えます。

日露戦争当時、ロシア海軍の侵攻に備え、
芸予要塞が大久野島へ建設されました。

この古い桟橋は、その芸予要塞時代に造られた桟橋です。








大久野島の第二桟橋へ到着です。

フェリーを下りると、うさぎが出迎えてくれます。












でも、なぜうさぎの島になったのでしょう?

戦後に地元の小学校で飼われていたうさぎが
大久野島に放され繁殖したと言われています。

一時、1000匹近く増えたうさぎでしたが、
コロナの影響で観光客が減り、餌をやる人が減ったため、
今では600匹前後になっていると言う事です。







第二桟橋から、海岸に沿って北上すると、
古い桟橋が海へ向け伸びています。

日露戦争(1904-5)当時に築かれた芸予要塞時代の桟橋です。











その旧桟橋のすぐ近くに古い小さなトンネルがあります。














そのトンネルを入って行くと、奥に建物が見えます。














発電場跡です。

大久野島は、日露戦争(1904-5)時には、
芸予要塞の砲台群が置かれていましたが、
昭和4年(1929)からは化学兵器の毒ガスが
密かに開発された場所です。

その毒ガス工場の稼働に合わせて、
この発電場が建設されました。






この発電場は、毒ガスを製造する際に
電力を供給していました。













その発電場の前にあった説明です。

建物の中には、
重油を燃料とするディーゼル発電機が8基
設置されていました。










発電場の敷地内にあった建物です。














発電場です。














発電場の前には、発電場を隠すように、
先ほどトンネルがあった土塁が構築されています。

その土塁にあったうさぎの巣穴です。











うさぎの巣穴のそばにいたうさぎです。














大久野島のうさぎは、アナウサギと言う種類と言う事です。














発電場の土塁の前から、先ほど見た芸予要塞時代の桟橋です。














芸予要塞時代の桟橋です。

石で造られています。












海岸に沿って、南へ、第二桟橋を過ぎて、更に進みながら、
海岸沿いの道をふり返ったところ。


















海岸に沿って南へ進んで行きます。

先に見える島は、大三島です。












進んで行くと大久野島キャンプ場があります。














キャンプ場の前を海岸に沿って進みます。














大久野島から細く半島状に伸びた島の南端には
白い大久野島灯台が見えます。













キャンプ場を過ぎて進むと、
大久野島を周回する道の山側に、島の南部に建つ送電鉄塔が見えます。


















右側は、大久野島の南端です.
白い大久野島灯台が見えます。

左側は、大三島です。











大久野島の南側にも、海に伸びる桟橋があります。

第一桟橋です。












第一桟橋の前の道を挟んで反対側にあった大久野島総合案内板です。































第一桟橋から海岸に沿って進むと、
うさぎ耳の集音器があります。













そのうさぎ耳の集音器です。

うさぎ耳の集音器の間へ頭を入れて、
うさぎになった気分で波や風の音、
鳥の囀りなどを聞くことができます。










大久野島を周回する道に戻ると、道路際に
かまぼこ型の土塁のような盛り土があります。













幹部用防空壕跡と説明がありました。


















その防空壕の入口です。

防空壕の中は、高さ約2m、幅約2m、長さ約5mの広さで
半地下式のかまぼこ型で、左右2つの入口がありました。

これは、毒ガス工場の幹部用防空壕ですが、
一方、一般従業員用は、1mくらいの竪穴で、
上に草木で覆っただけの通称「たこつぼ」と呼ばれる退避壕でした。












その幹部用防空壕跡の道を挟んで反対側に
大久野島ビジターセンターがあります。

ビジターセンターでは、
大久野島を中心とした瀬戸内海国立公園の自然環境や
歴史について紹介されています。









大久野島ビジターセンターの前の道を西へ進んで行くと、
大久野島毒ガス資料館があります。













その毒ガス資料館です。

かつて、大久野島では、毒ガス兵器が製造され、
多くの犠牲者が出たと言われています。
しかし、陸軍は、その実態を隠す為、
陸軍発行の地図には、大久野島一帯は空白地域として扱い、
地図から消された島と呼ばれるようになりました。

毒ガス兵器製造の悲惨さを訴え、恒久平和を願う目的で、
1988年に、この資料館が建設されました。





毒ガス資料館の横にあった毒ガス製造器具の展示です。

毒ガスは、化学薬品を反応させて、複雑な化学操作を経て
製造されていました。
従って、製造設備の主要部分は、薬品に反応せず、
熱に強い陶磁器が用いられていました。
戦後、それらの設備は、ほとんど廃棄されましたが、
展示品は処分されずに残った器具の一部です。







毒ガス資料館の近くで、寝転がっていた
うさぎです。













奥ガス資料館の前から、ビジターセンターの西側を通って、
海岸へ向かいます。

その途中にあった自動交換機室跡です。

ここには、非常の場合に備え、
電話の自動交換機が置かれていました。








その自動交換機室跡です。














自動交換機室跡から南へ、海岸へ向かいながら、
ビジターセンターをふり返って見たところ。













海岸へ出たところに、
大久野島毒ガス死没者慰霊碑があります。

当時は、毒ガス製造工場での事故も多く、
事故や後遺症で苦しみ亡くなられた方々の為に、
1985年に慰霊碑が建立されました。









海岸に沿って、島の南端に向け、歩きます。



















海岸に沿って進んで行くと、林の中に鳥居が見えます。

大久野神社です。












現在の休暇村大久野島の近くにあった神社を、
昭和四年(1929)、毒ガス工場の開所の際に、
大久野神社とし、現在の場所へ移設しました。












大久野神社の社殿です。

境内では、紀元節や天長節、入学式や卒業式など
様々な行事が行われました。











大久野神社前の海岸から、東の海を見たところ。

左に高根島、右に生口島が見えます。












大久野神社前から更に南へ進むと、地面に消火栓が残ってます。

医務室跡です。

当初は、診療所程度でしたが、
1937年頃には入院病棟も建てられ、本格的な病院だったようです。














海岸から木立の中の道を上って行くと、大久野島灯台があります。

明治20年代、潮流が速く、水先案内人も難所として恐れた
来島海峡航路に代わる航路として、尾道沖の百貫島から
三原沖を経て大下島へ至る三原瀬戸航路が開かれ、
航路を守るために9基の灯台が建設されました。
その9基の灯台の内の一つが大久野島灯台です。













大久野島灯台です。

その後ろには、大三島が見えます。










大久野島灯台の説明です。






























大久野島灯台の手前から西を見たところ。

灯台の下の海の色は、エメラルドグリーンです。

沖合に見える島は、松島です。















大久野島灯台の前から、夕日の丘へ向かいます。

途中、灯台のエリアを囲う柵?の跡のように見えます。

















夕日の丘の近くで見たうさぎです。














そして、夕日の丘から見た景色です。

南には、大三島が見えます。












夕日の丘から南東に、大久野島灯台が見えます。














夕日の丘から南西を見たところ。

中央右よりに見える小島は、松島です。
その向こう、左よりに見える島は、大崎上島、
右よりに見える島は、生野島です。










次は南部照明所跡へ向かいます。

その南部照明所跡です。












丸く成形された照光座には、
夜間の敵艦探知を目的とした探照灯(サーチライト)が
設置されていました。










その南部照明所跡の説明です。






















南部照明所跡から、大久野島灯台を見たところ。



















南部照明所跡の北西にあった展望所からの景色です。

展望所から南西を見たところ。

右よりの手前の島が松島です。
その向こうに大崎上島が見えます。

左端に大三島の一部が見えます。







展望所から西に、小久野島が見えます。



















展望所の近くにいたうさぎです。



















エサをねだっているようです。



















エサを持って無くて、ごめん。



















展望所から北を見ると、休暇村大久野島が見えます。














展望所からの景色です。

右に小久野島、左端に松島です。












展望所から南西を見たところ。

中央に大崎上島の神峰山が見えます。












展望所から、休暇村大久野島の前にあるグランドに下りて、
正面に休暇村大久野島を見たところ。













休暇村大久野島の前で、
観光客の方々が、うさぎ達とふれ合ってます。













休暇村大久野島の横の海岸から、小久野島を見たところ。














休暇村大久野島の横、海岸べりに、
三軒屋毒ガス貯蔵庫跡があります。













その毒ガス貯蔵庫跡です。














中には、猛毒で、びらん性毒ガスのイベリットが格納された
10tonタンクが設置されていました。













そのタンクが設置された台です。

タンクは、液体毒ガスによる腐食を防ぐ為、
内部に鉛が張り付けられていました。











工場で製造された毒ガスは、
管を使って、直接タンクに毒液が送り込まれていたと言う事です。


















三軒屋毒ガス貯蔵庫跡です。














休暇村大久野島の前に戻りながら、途中に見たうさぎです。














休暇村大久野島の前にあった
大久野島全体案内図です。
































休暇村大久野島の前を通って東へ進んで行くと、
大久野島研究所跡があります。











その大久野島研究所跡の説明です。

























この建物は、検査工室です。














この建物は研究室と薬品庫です。

毒ガスの管理、機密書類の保管、毒ガスの検査などが
行われていました。











大久野島研究所跡の近くにいたうさぎです。



















エサをねだって見つめてきます。















大久野島研究所跡から更に東へ進み、
大久野島南端の送電鉄塔の前から山を上り、
南部砲台跡へ向かいます。

半地下になっている掩蔽壕(えんぺいごう)が見えてきました。















進んで行くと南部砲台跡があります。





























日清戦争(1894-5)後、
軍事上重要な広島と呉を守る為、
芸予要塞が築かれました。

その芸予要塞の一つが南部砲台です。










土に埋まった掩蔽壕です。



















南部砲台は、明治31年(1898)に着工、
明治33年(1900)に竣工し、
24cm加農砲(カノン砲)4門と9cm加農砲(カノン砲)4門を
備えていました。

敵弾を防ぐ為に、
砲台の周囲に胸牆(きょうしょう)が築かれています。








その胸牆の上に上がり、南を見たところ。

正面に見える島は、大三島です。

眼下には、大久野島キャンプ場が見えます。










胸牆の上から、丸い形の大砲が置かれていた砲座の跡を見たところ。



















南部砲台跡で見たミモザです。

正式名は、アカシアです。

















胸牆の上から、南西を見たところ。

半島状に伸びた突端に白い大久野島灯台が見えます。



























南部砲台跡を後にし、
次は大久野島山頂展望台、通称、ひょっこり展望台へ向かいます。


















南部砲台跡から、大久野島山頂展望台へ向け、
木立の中の道を進みます。

途中、木々の間から、旧発電場の建物が見えます。











木立の間の道の脇にうさぎがいました。














芸予要塞時代の物でしょうか?柵の跡?のような物がありました。



















更に進んで行くと、別の角度から、旧発電場の屋根が見えます。



















大久野島山頂展望台へ向かう途中に見た、東側の景色です。

左に、広島県三原市にある今治造船 広島工場が見えます。

右に高根島、その向こうに佐木島が見えます。










大久野島山頂展望台へ向かう道の脇に、鳥がいました。

シロハラかな?












横を向いて、














嘴は下を向いてますが、目はこっちを見ています。














警戒しています。














横を向きましたが、目が合いました。

シロハラの♂と思います。












大久野島山頂展望台へ向かいながら、北を見たところ。

正面は、忠海の町です。












大久野島山頂展望台へ到着です。

展望台の北側から、展望台を見上げたところ。

右端に見える送電鉄塔は、
大久野島の南部に建つ鉄塔と、
北部に建つ日本一高い送電鉄塔の送電線を中継する鉄塔です。








大久野島山頂展望台から、北を見たところ。

北に建つ鉄塔は、日本一高い送電鉄塔で、高さは226mあります。

















大久野島山頂展望台から、北東を見たところ。

中央右よりに、
広島県三原市にある今治造船 広島工場が見えます。











大久野島山頂展望台です。
ひょっこり展望台とも呼ばれています。

正面左よりに、
展望台から見える星の名前が分かる「回転星座盤」があります。

その手前は、
自分の影が現在の時刻を指す「影で分かる時計」です。

右端は、覗くと島の名前がわかる「のぞき穴」です。





展望台は、ウッドデッキになっており、
展望台から見える周辺海域の地図も埋め込まれています。













北を見たところ。

中央左よりに、黒滝山、その麓に忠海中学が見えます。












東、北よりを見たところ。

左に今治造船 広島工場が見え、左に高根島が見えます。












東を見たところ。

中央、左が高根島、右が生口島です。












南東を見たところ。

左端に高根島、中央に生口島、右半分に大三島が見えます。












南を見たところ。

正面に大三島が見えます。












南西を見たところ。

中央の小島は、松島です。
その向こうに、大崎上島が見えます。











少しずつ西へ目を移していきます。














西を見たところ。

正面に小久野島が見えます。

左の小島が、松島で、その向こうに大崎上島が見えます。










正面が、小久野島で、
その向こう、左に生野島、更に左が大崎上島です。

左端の小島が、松島です。











大久野島山頂展望台を南側へ下りて、展望台を見上げたところ。

展望台の向こうには、日本一高い送電鉄塔が見えます。

















展望台の南側から、西を回って、北側に出て、北を見たところ。

ここは、中部砲台があった場所で、
中部砲台跡への入口に説明がたってます。

中部砲台は、
日露戦争前の1900年頃、旧陸軍によって築かれました。








中部砲台跡へ入って行きます。



















7連の掩蔽壕(えんぺいごう)が並んでいます。














掩蔽壕に使用されている赤レンガは、
ロシアから輸入された物と言われています。




























奥へ進んで行きます。

奥には、日本一高い送電鉄塔が見えます。

















胸牆に囲われたスペースの地面に
丸い形の砲座の跡が残ってます。













更に奥にも胸牆に囲われたスペースがあり、
横の階段で胸牆へ上がって見ます。













階段を上がり、北側、奥の胸牆に囲われたスペースを
見たところ。

丸い砲座の跡が見えます。


























中部砲台には、高性能の28cm榴弾砲6門が
備えられていました。

但し、日露戦争が勃発すると、ここの榴弾砲は
バルティック艦隊迎撃の為に鎮海湾や対馬へ、
旅順攻略の為に旅順へ送られました。









北側の胸牆の上から、南を見たところ。



















北側の胸牆の上から、南を見たところ。














胸牆の上を西へ回って、胸牆の上から南西を見たところ。

中央の小島は、神殿島です。
その神殿島を挟んで、左側が大三島、右側が大崎上島です。











胸牆の上から西を見たところ。

中央が小久野島、左側の小島が松島です。
小久野島の向こうに生野島、その左側に大崎上島が見えます。











胸牆の上から西、少し北よりを見たところ。

左端が小久野島、中央に阿波島が見えます。
無人島の阿波島の南端の白鼻岩の周辺は、
スナメリクジラの回遊海面になってます。










胸牆の上から、北西を見たところ。

中央に見える煙突は、
J-POWER 電源開発(株)竹原火力発電所です。











中部砲台跡のすぐ北側には、日本一高い送電鉄塔がたってます。



















その送電鉄塔の横から、大久野島の北側に下って行くと、
大久野島から半島状に突き出た北端が見えます。


















大久野島の北側に下って行きながら、
小久野島を見たところ。













大久野島の北端を見たところ。














大久野島の北側に下って行きながら、
日本一高い送電鉄塔をふり返って、見上げたところ。


















大久野島の北側に下りながら、北端を見たところ。

対岸に、J-POWER 電源開発(株)竹原火力発電所が見えます。












下りながら、木立の間から西を見たところ。

上部の左側は、小久野島の一部です。

















日本一高い送電鉄塔の横から、
大久野島の北側へ下って行くと、
北部砲台跡へ出ます。

目の前の広場が、発電機関舎跡です。
そして、正面奥には、斯加24cm加農砲跡が見えます。









その斯加24cm加農砲跡です。














斯加24cm加農砲跡の前から、東にトンネルが見えます。
左手には、半地下の砲側庫跡があります。

















東へ、トンネルへ向け進んで行くと、トンネルの手前、右手に北部砲台全体案内図があります。
























トンネルです。














トンネルの中にも砲側庫跡があります。



















トンネルを東へ抜けて、すぐ左手、北側には
斯加24cm加農砲跡があります。

その砲台跡には、毒ガスタンクの台座が残っています。
大久野島で毒ガスの生産が始まると、
砲台跡へ毒ガスのタンクが置かれたようです。








斯加24cm加農砲跡の前には、その説明があります。
日露戦争前の1902年に、芸予要塞の大久野島保塁北部砲台が設置されています。
そして、大久野島の北部、中部、南部の3箇所の砲台に合計22門の大砲が設置されていました。

























斯加24cm加農砲跡の前から東を見たところ。

斯加24cm加農砲跡のすぐ東側には、砲側庫跡があります。

















更に、その砲側庫跡のすぐ東には、
斯加24cm加農砲跡があります。













そして、更に斯加24cm加農砲跡の東にあった砲側庫跡です。



















その砲側庫跡の前から、西側をふり返って見たところ。














西には、さっき通って来たトンネルが見えます。














そのトンネルをくぐって、
再び発電機関舎跡のあったエリアへ入り、西を見ます。













そのエリアの西の端に、地下兵舎跡が見えます。














西の端の地下兵舎跡です。














その地下兵舎跡を見ながら、その北部砲台跡を離れます、














次は大久野島の西側にある長浦毒物貯蔵庫跡へ向かいます。

その長浦毒物貯蔵庫跡の裏手の山の上には、日本一高い送電鉄塔が見えます。

















長浦毒物貯蔵庫跡です。














ここは、大久野島最大の毒ガス貯蔵庫でした。














第二次世界大戦が終わると進駐してきた連合軍の指示のもと、
毒ガス工場や製品を約1年かけて、薬品で消毒したり、
太平洋の沖に沈めたり、火炎放射器で焼いたりして、
処分しました。











建物の内側が黒く焦げているのは、
その処分の際、火炎放射器で焼却した跡です。













長浦毒物貯蔵庫跡の説明です。


























長浦毒物貯蔵庫跡を出て、
大久野島の西側の海岸から、北を見たところ。

大久野島の北端の小山の中には、北部照明所跡がありますが、
柵が設置されており、入る事はできませんでした。










海岸から北西を見たところ。

左半分に見える島は、阿波島です。












海岸から日本一高い送電鉄塔を見上げたところ。














大久野島の北側の海岸に沿った坂道を東へ登って行くと、
展望がひらけた場所があります。
そこから、大久野島の北端を見たところ。

かつて、大久野島の北端まで山は続いていましたが、
太平洋戦争時代に軍備運搬の為、山は削り取られました。

よって、
島の北端に、元から小山が独立してあったように見えます。






大久野島の北側の海岸に沿った道を進んで行くと、
先程見た北部砲台跡と異なる北部砲台跡が見えてきます。













北部砲台跡です。

すぐ左手に砲側庫跡があり、
その隣に斯加12cm速射加農砲跡、砲側庫跡と
交互に並んでいます。










すぐ左手の砲側庫跡の入口です。














その砲側庫跡の向こう隣の斯加12cm速射加農砲跡です。

2門の斯加12cm速射加農砲がありました。












そして、その斯加12cm速射加農砲跡の更に向こう、東側の
砲側庫跡の内部です。

砲側庫には、砲台の横にあって、弾丸、火薬が格納されていました。















その砲側庫の前にあった北部砲台跡の説明です。
























砲側庫跡を見たところ。



















その砲側庫の更に向こう、東側の
斯加12cm速射加農砲跡です。

ここにも2門の斯加12cm速射加農砲がありました。











そして、更にその東側の砲側庫の前から、
北部砲台跡をふり返って見たところ。













北部砲台跡を出て、
大久野島の東側の海岸に沿って南下します。

途中、海岸から内に入ったところに火薬庫跡があります。

レンガ造りの火薬庫は、
芸予要塞時代に砲台の弾薬を保管し、
毒ガス工場ができてからは毒ガスの貯蔵庫として
使用されました。






火薬庫跡です。

レンガの壁にMAG1の文字が書かれてますが、
MAGAZINE1の略で、
朝鮮戦争当時に、アメリカ軍が弾薬庫として
使用した時のなごりです。








火薬庫跡の説明です。




































火薬庫の周りの壁は、レンガ造りですが、
屋根は、もしも火薬が爆発した時、爆発が抜けるように
簡単に作られていたようです。

現在は、屋根は残っていません。










大久野島の東側の海岸沿いの道へ戻り、南へ向かいながら、
来た道をふり返ったところ。

黒いうさぎが道の上に出てきてます。











大久野島の東側の道を南へ進んで行くと、
木立の間から、発電場跡の建物が見えます。


















大久野島の東側の海岸です。

前方に、芸予要塞時代の桟橋が見えます。












大久野島に到着した時に最初に見た発電場跡の建物です。














発電場跡から海岸へ出て、芸予要塞時代の桟橋を見たところ。



















芸予要塞時代の桟橋です。

大久野島の東側の海岸線、
その向こうには本土側、忠海の町が見えます。











忠海行きのフェリーに乗って、大久野島を離れました。














大久野島を離れ、忠海へ戻る途中に、
南の景色をふり返ったところ。

右端に大久野島、正面に大三島が見えます。











フェリーの上から見た大久野島です。

日本一高い送電鉄塔がたってます。












南東を見たところ。

右端が大三島で、左側が生口島です。

中央に大三島と生口島を結ぶ多々羅大橋が見えます。










大三島と生口島を結ぶ多々羅大橋です。














多々羅大橋です。

美しい斜張橋です。












大久野島を後にし、忠海港へ帰って行きます。














大久野島が徐々に小さくなります。














忠海港へ向け、帰って行きます。















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