嵐山: 19May2019


奈良・京都旅行の9日目の最終日は、渡月橋、嵐山公園、小倉山、御髪神社、竹林の道、野宮神社、
天龍寺、落柿舎、二尊院、清凉寺を周りました。

朝早くホテルを出て、阪急京都線で桂駅へ行き、
桂駅で阪急嵐山線へ乗り換え、終点の嵐山駅まで向かいます。











阪急嵐山駅にあった付近観光案内図です。






























阪急嵐山駅から北へ向かうと、
桂川の中洲をなす中ノ島へ渡る中ノ島橋があります。











中ノ島橋を渡りながら、桂川の下流方向を見たところ。

















中ノ島橋から上流方向を見たところ。

前方に嵐山が見えます。










中ノ島の東の突端近くに、
日中不再戦と刻まれた石碑が建ってます。

日中不再戦の石碑は、
日中戦争の発端となった盧溝橋事件の30周年に、
日中不再戦の悲願を込めて、
日本中国友好協会京都府連合会によって建てられたものです。






中ノ島の南岸、東側から、渡って来た中ノ島橋を見たところ。












中ノ島の南岸、西側から、中ノ島橋を見たところ。












中ノ島の北岸から、西を見ると、渡月橋が見えます。












中ノ島の北岸に沿って西へ進みながら、
渡月橋を見たところ。











渡月橋を見たところ。












中ノ島です。












中ノ島の北岸に沿って西へ進みながら、渡月橋を見たところ。

渡月橋の下を流れる川は、公式には桂川ですが、
一般的には、亀岡市から保津川渓谷を経て嵐山付近までを
保津川と呼び、渡月橋より上流を大堰川、
下流を桂川と呼ばれています。







渡月橋です。

渡月橋は、僧道昌によって、
承和年間(834-848)に架橋されたのが最初で、
後年、角倉了以が現在の位置に架けたとされます。

現在の橋は、昭和9年(1934)に架橋されたものです。

平安時代初期に、亀山上皇が、橋の上を移動する月を見て、
  くまなき月の渡るに似る
と述べた事から、渡月橋と呼ばれるようになったとの事。


中ノ島の内部は、公園になってます。

正面に嵐山が見えます。










中ノ島の北岸に沿って西へ進みながら、
渡月橋を見たところ。










渡月橋の南の袂近くにあったマップです。






























渡月橋の南の袂から、北西方向、対岸を見たところ。

左端の、お饅頭のような山は小倉山です。

平安期は、小倉山の山麓は、貴人の隠棲地で、
小倉百人一首は、藤原定家がこの地で撰集した事に由来します。







渡月橋の南の袂です。

渡月橋とあります。

渡月橋は、橋長155m、幅11.2mの鉄筋コンクリート製の橋です。








渡月橋の南の袂から、大堰川上流方向を見たところ。












渡月橋の欄干越しに、大堰川上流方向を見たところ。












大堰川下流方向を見たところ。












渡月橋を渡りながら、大堰川上流方向を見たところ。












大堰川の少し上流に葛野大堰(かどのおおい)があり、
その堰の向こうに龍頭船が停まっているのが見えます。











大堰川の下流、東を見たところ。












渡月橋を、北へ渡りながら、上流の景色を見たところ。












上流の景色。












下流の景色。












渡月橋から北西を見たところ。

中央辺りの雲がかかった山は、京都市内最高峰の愛宕山です。










上流の景色。












渡月橋を北に渡り、渡月橋の袂から、
上流方向を見たところ。











そして、渡って来た渡月橋です。

渡月橋の上流側に、
流木止めのコンクリート製の杭がたっています。









大堰川の北岸の土手を上流方向、西へ向かいながら、
渡月橋をふり返ったところ。











大堰川の北岸の土手を西に向かいます。












大堰川前方に、葛野大堰(かどのおおい)が見えます。












大堰川の北岸の土手を西へ向かいながら、
渡月橋をふり返ったところ。











西へ向かいながら、葛野大堰(かどのおおい)を過ぎて、
渡月橋、そして、手前の葛野大堰をふり返ったところ。

葛野大堰で堰き止められた水で、
葛野大堰より上流は水位が上がっています。








その水位が上がった大堰川の対岸、左側に
青い手漕ぎボートが見えます。

右端には、屋形船が見えます。









屋形船です。












大堰川に浮かぶ屋形船を見ながら、土手を西へ向かいます。












西へ向かいながら、渡月橋、葛野大堰をふり返ったところ。












土手を西へ進んで行くと、散策マップがありました。























川岸に並ぶ屋形船を見ながら、更に西へ進みます。












川岸に並ぶ屋形船。












保津川渓谷を下って来たのでしょうか?
カヌーがやって来ました。
















カヌーが通り過ぎて行きます。












通り過ぎていくカヌーです。












西へ進んで行くと嵐山公園亀山地区への入口があります。
その入口にあった案内図です。


























大堰川に沿って、川岸の道を西へ進んで行きます。












公園内を回って、公園の東側へ戻って行くと、
周恩来総理記念詩碑があります。

周恩来は、1917年から1919年にかけ日本に留学し、
帰国を前に嵐山を訪れ、詩碑にある雨中嵐山の詩を詠みました。








1972年に田中角栄首相と周恩来首相は北京で、
恒久的な平和友好関係を確立する共同声明に署名し
日中国交の正常化が行われました。
その後、1976年に周恩来は死去します。
そして、1978年に日中平和友好条約が調印され、それを記念して、
周恩来総理記念詩碑が1979年に建立されました。







周恩来総理記念詩碑から少し上ったところに、
角倉了以翁の銅像が建ってます。

徳川幕府の重要諮問会議の一員として招かれ、
御朱印船にて安南(今の搭南アジア)方面へ7回渡航し、
巨額の富を得て、治水事業に充当します。
最初に1606年保津川、大堰川開削、
1614年に京都市内で高瀬川の開削、等を行いました。





角倉了以翁の銅像の北側、近くに、
後嵯峨天皇、亀山天皇、後伏見天皇の火葬塚があります。











後嵯峨天皇、亀山天皇、後伏見天皇の火葬塚は、
宮内庁の管理となっており、立ち入り禁止です。











嵐山公園亀山地区には、
保津川渓谷を望む三つの展望台があります。

その最初の展望台です。









展望台からの眺めです。












展望台からの眺めです。

大堰川の右岸に見える建物は、高級ホテルの星のや京都です。

渡月橋の袂から、専用の船で送迎してもらえるようです。

また、星のや京都の上方、左の山の中腹に見える建物は、
大悲閣千光寺の大悲閣です。

大悲閣千光寺は、角倉了以が保津川、大堰川の開削工事で亡くなった人々を弔う為、
嵯峨の中院にあった千光寺を移設し建立したものです。







展望台からの眺め。












展望台からの眺め。

右側のお饅頭のような山は、小倉山です。










二つ目の展望台です。












その展望台からの眺めです。

















大堰川や、星のや京都を真上から見る事ができます。
また、星のや京都への送迎用専用船の桟橋も見えます。
















展望台からの景色です。












そして、三つ目の展望台です。












その展望台です。












そして、展望台からの眺めです。

















展望台からの眺めです。

















展望台からの眺め。












展望台から道なりに進んで行くと、
嵐山公園は、ここまでの標札と、
小倉山への標札が立っています。

小倉山へ向け登ってみます。








小倉山へ向け登りながら、
東、少し北よりの景色を見たところ。











小倉山へ登る途中には、大きな岩が転がっています。












東の景色です。

丸太町通りが見えます。
そして、左よりの山裾に広沢の池が見えます。









南東を見たところ。

眼下に、大堰川の葛野大堰や、中ノ島の西端を南に流れ込む
大堰川の流れが見えます。














小倉山へ登りながら、南東を見たところ。

右に桂川に架かる渡月橋が見え、
下流に向け桂川がカーブしています。









南東の景色です。

中央辺りに渡月橋が見えます。















東、少し北よりの景色です。

中央右よりの白い反射は、広沢の池です。

そして、中央左よりには、大沢の池があり、
その手前に大覚寺が見えます。

また、中央下よりに清凉寺が見えます。





北東の景色です。

右よりに大沢の池、大覚寺が見えます。










東、少し北よりの景色です。

中央辺りに、広沢の池が見えます。

広沢の池は、東西、南北共に300mの灌漑用の溜池です。
永祚1年(989)に寛朝僧正が朝原山に寺を建立した時に
開削された池とも、秦氏が造成した池とも言われています。
平安期には観月の名所だったと言う事です。

広沢の池の上あたり、遠方に薄っすらと、ひときわ高い山が、
比叡山です。



小倉山へ上る途中の展望所を過ぎて、登って行きます。












そして、林道がありました。

小倉山頂上まで、あともう少しだったかもしれませんが、
小倉山へ登られていた地元の方の話では眺望はよくない
と言う話だったので、ここで引き返す事にしました。








小倉山へ登って来た道を戻りながら、
東、少し北よりを見たところ。

中央下辺りの白い反射は、広沢の池の水面です。

左端遠方には、雲の下に比叡山が見えます。







北東を見たところ。












登って来た道を戻りながら、大沢の池を見たところ。

大沢の池の手前には、大覚寺が見えます。










中央に広沢の池です。

左より、遠方には、比叡山が見えます。










中央、手前から奥に続く線路は、
東西に走るJR嵯峨野線です。

中央辺りに、太秦の東映京都撮影所が見えます。
そして、その奥、東側に東映太秦映画村があります。








登って来た道を戻りながら、南東の景色を見たところ。

中央辺りに渡月橋が見え、そして、桂川の蛇行が見えます。










下って行きながら、南東を見たところ。

渡月橋と、桂川の蛇行が見えます。










下りながら、南東を見たところ。

渡月橋が見えます。










中央に広沢の池が見えます。

中央右よりに比叡山が見えます。










広沢の池です。












広沢の池、そして、遠方に比叡山を見たところ。












中央辺りに、JR嵯峨野線の嵯峨嵐山駅や、
嵯峨野トロッコ列車のトロッコ嵯峨駅が見えます。











東を見たところ。

中央に丸太町通りが通っているのが見えます。










小倉山を下り、
嵐山公園の北へ位置する小倉池の畔へ下ります。











その小倉池の西側に、御髪神社があります。

その御髪神社です。

亀山天皇の御代(1259-1274)に、
藤原基晴が宮中の宝物守護として仕えていましたが、
宝刀、九王丸を紛失し、探索にあたりました。
そして、藤原基晴の三男、藤原政之は、その間の生活の糧を得る為、
庄屋の婦女の髪を結って生計をたて、髪結の始祖となりました。

御髪神社は、その藤原政之が祭神として祀られています。


その御髪神社の由緒です。





















次は、竹林の道を通って、野宮神社へ向かいます。

小倉池から南へ、竹林の横の小道を進んで行きます。















大河内山荘庭園の入口の前から東へ、野宮神社まで、
竹林の道が続きます。
















野宮神社へ向かう竹林の道です。

















背が高い丈が、道の両側から生い茂り、昼間でも薄暗く、
雰囲気のある小径です。
















これらの竹は、野宮神社の近くに生える真竹で、
野宮竹と呼ばれています。











野宮神社に向かいながら、来た道をふり返ったところ。

















竹林の道を野宮神社へ向かいます。












野宮神社に向かいながら、来た道をふり返ったところ。

















天龍寺の北門を過ぎて、進んで行きます。

















野宮神社が見えてきました。












日本一黒木鳥居 野宮神社の看板が立ってます。

黒木鳥居は、クヌギの木の皮を剥かないまま使用する
日本最古の鳥居の様式です。









野宮神社の入口です。

黒木鳥居が見えます。










野宮神社の前の道を挟んだ反対側に社務所があり、その社務所の掲示板に貼られた斎宮行列の写真です。















野宮は、新たに天皇が即位する度に、天照大神の御杖代として、
伊勢神宮に遣わされた斎宮(未婚の内親王もしくは女王)が、身を清められた場所です。
斎宮が任命を受け、都から伊勢の斎宮へと向かう旅を斎王群行と呼ばれています。


野宮神社を南東から見たところ。

斎宮の歴史は、飛鳥時代の天武天皇の頃には、
既に確立されており、
南北朝時代の後醍醐天皇の頃まで、およそ660年間、
64人の姫君が遣わされたと伝えられてます。







野宮神社を、東、正面から見たところ。

野宮の場所は、天皇の即位毎に定められ、
現在の場所が野宮として使用されたのは、
平安時代の初め、嵯峨天皇皇女仁子内親王が
最初とされています。







野宮神社を、北東から見たところ。

野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地で、
源氏物語の賢木の巻に描写されています。

娘の斎宮と共に伊勢へ下る事を決意した六条御息所を
野宮に訪ねた光源氏が、榊の枝を御簾の下から挿し入れ、

  変わらぬ色をしるべにてこそ
   斎垣も越えはべりにけれ さも心憂く

と語り掛けると 六条御息所が歌で答えます。

  神垣はしるしの杉もなきものを
      いかにまがえて折れる榊ぞ

光源氏が、榊の葉のように全く変わらぬ心のまま、神聖な神垣を越えたと語りかけると、
六条御息所は、この野宮の神垣には、おいでを待つ目じるしの杉もありませんのに、
どう思い違いなさって榊を折られたのでしょう、と返します。

黒木鳥居の下から、境内を見たところ。

野宮は、源氏物語の賢木の巻を基にした
能の演目にもなってます。

一人の旅僧が嵯峨野を訪れ、野宮の旧跡に足を踏み入れます。
すると榊を持った上品な里女が現れ、僧に向かって、
毎年長月7日に野宮で神事をするので立ち去るよう話します。
僧がどういう事かと尋ねると、光源氏が野宮の六条御息所を
訪ねて来たのがこの日だと告げ、御息所の物語を語ります。
そして、自分こそが御息所だと明し、姿を消します。
改めて、里人から光源氏と六条御息所の話を聞いた僧は、
御息所の供養を始めます。
御息所は賀茂の祭りで、光源氏の正妻、葵上より、車争いの屈辱を受けたことを語り、
妄執に囚われている自分を救う為、回向を僧に頼みます。


黒木鳥居をくぐって最初にあるのが、奉納所です。












その奉納所です。

奉納所の中央には、
恋愛成就と書かれたハート形の恋の絵馬が
掲げられています。

そして、その恋の絵馬の下には、
恋愛成就や縁結びの願い事が
書かれた奉納木が納められています。




奉納所の横、南側に位置する井戸と手水鉢です。

井戸には、龍神が棲み健康長寿を司るとされています。










黒木鳥居を入って、まっすぐ進んだ正面の本殿には、
野宮大神(天照大神)が祀られています。

そして、本殿に向かって右側に鎮火勝運の神の愛宕大神、
左側に芸能上達の髪の白峰弁財天が祀られています。








手水鉢と井戸の西側に、小さな社があり、
縁結びの神様の野宮大黒天が祀られています。











その野宮大黒天が祀られた社の横に、
神石の亀石があります。

祈りを込めて撫でると願い事がかなうと
言われてます。














愛宕大神の社の斜め前には、
令和天皇が皇太子時代に参拝された時の
記念樹が植えられています。










その記念樹の横に、源氏物語ゆかりの地、野宮(野宮神社)の説明板が設置されています。


























その北側に、白福稲荷大明神の扁額が掲げられた
赤い鳥居があります。











その鳥居をくぐり、まっすぐ進んだところにあった
竹の神輿です。

竹は寿命とも言える60年から120年を境に、
交配により、花が咲き、竹全体が枯れると、
新しい個体となってゼロから竹林を形成する
仕組みになってます。
野宮神社周辺の竹も、半世紀ほど前に、開花し、枯死し、
再生をした事があり、それを記念して作られた神輿と
言う事です。



その反対側にある苔庭です。

じゅうたんのように見える様子から、
野宮のじゅうたん苔と呼ばれています。









道なりに北へ進みます。

子宝、安産の絵馬掛所があり、
その向こうに赤い鳥居が見えます。









白福稲荷大明神です。












白福稲荷大明神は、子宝安産、商売繫盛に
ご利益があるようです。











その隣、北側には、交通安全の神、大山弁財天が
祀られています。











黒木鳥居を出て右手に、
洛西随一 野宮のじゅうたん苔の看板が立ってます。











次は、天龍寺の東門へ向かいます。













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