神泉苑、京都御所 :16Oct2024


京都へは、子供の頃、学生時代と、何度か旅行で訪れた事があります。
直近では、2019年の5月に奈良・京都旅行で訪れました。
京都を全て見て周る事は無理ですが、
たまたま訪問した日が公開休止日で見れなかった場所や、初めての場所を少しでも見て周ろうと、
10月15日~19日の間(三泊四日)で再訪しました。

二日目は、神泉苑、御金神社、京都御所、梨木神社、盧山寺、六角堂を見て周りました。

二日目もハードに歩く予定なので、
朝早く起きて朝ラーで腹ごしらえします。

と言う事で、京都駅近くにある
本家 第一旭本店へ向かいます。

朝早くから行列ができると聞いていたので、
朝6時開店の30分前にお店の前に到着しました。

到着時は、既に二人並んでおり、
開店前は20人近くいました。


注文したチャーシュー麺、
麺硬い目、ネギ多い目です。

ちなみに、
ネギは京の伝統野菜、九条ネギと言う事です。








うまい。
行列を待っても食べる価値ありです。











朝ラーを食べ終わった後、少し散歩です。

本家 第一旭本店の前の道、高倉通りを
南へ行くと、
JRの線路を南北に跨ぐ
高倉跨線橋、通称、たかばしがあります。

そのたかばしからJR京都駅方向を見たところ。
たかばしの下には、JRの線路が見えます。




たかばしの下を電車が通過して行きます。












たかばしから引き返す途中に、
本家 第一旭本店を見たところ。

開店前の行列が、開店したので緩和しています。













たかばしから引き返して行くと、
塩小路通りへ出ます。

その交差点の北東の角のビルの中に
「崇仁の住民の手によって復元された碇組の船鉾」の
展示と説明があります。

崇仁地区の人達の
新日吉(いまひえ)神社の祭礼への参加は、
天保10年(1839)、御迎提灯台五組を作り、
参加を申し出たのが始まりでした。
勇壮で華麗な巡行が行われていましたが、
その後、廃れてしまいます。
その船鉾が、1996年に崇仁地区の人達によって
復元されています。

腹ごしらえの後は、一度、ホテルへ一度帰り、
荷物を持って出発です。

地下鉄烏丸線から東西線に乗り換え、
二条城前駅で下ります。

二条城前駅から、押小路通りを西へ進んで行くと、
左手に神泉苑の北門があります。




その北門の前にあった
神泉苑の説明です。

神泉苑は、延暦13年(794)、
桓武天皇が平安京を
造営する際、
宮中の付属庭園として
造られ、
常に清泉が湧き出す事から
神泉苑と
名付けられました。











北門を入ると、まっすぐ南へ伸びる道があり、
左手に大池の法成就池(ほうじょうじゅいけ)
があります。









法成就池の反対側に、
小池の心境の池があります。

心鏡の池は、
池の面に映える自らの顔をうかがうと
心の奥の喜怒哀楽が映し出されると
伝えられます。





法成就池と、心境の池をつなぐ水路に架かる橋を渡り、
心鏡の池をふり返ったところ。















法成就池に沿って南に進むと、
本堂の利生殿があります。

利生殿は、東寺境内にあった太元帥堂が、
移築されたものです。







法成就池に沿って南へ進み、
南西の角から、法成就池を見たところ。

法成就池は、太古から存在し、
敷地北東部の湧水の神泉から遣水が注ぎ、
大池を満たしています。
法成就池の名は、日本中がひでりの際に、
弘法大師空海が善女龍王を呼び寄せ、
祈雨の修法を行い成就させた事に由来します。

右よりの建物は、
法成就池の真ん中に建つ善女龍王社です。
左側の赤い橋は、本堂と善女龍王社を結ぶ
法成橋です。

神泉苑の南側を、御池通りが東西に走っており、
その御池通りに面して建つ大鳥居です。

その大鳥居をくぐると、
善女龍王社へ向け参道が伸びています。

この大鳥居は、
明治41年(1908)に建てられたものですが、
江戸時代から明治末期まで、
この場所には山門が建っていました。







大鳥居をくぐると、法成就池を渡る石橋があり、
更に参道を進むと、善女龍王社があります。

この善女龍王社を、法成就池が囲んでいます。







善女龍王社の手前の石橋の上から、
赤い法成橋を見たところ。















法成就池の中央に祀られている
善女龍王社です。

弘法大師空海が、雨乞いの為に、
北インドから呼び寄せられ、
法成就池の中に棲まわれる善女龍王が
祀られています。





大鳥居の前に戻り、
法成就池に沿って東へ進みます。

法成就池の畔に、増運弁財天が祀られています。

この弁天堂の頂上部には、
弁天様の眷属のナマズが池の水流を泳ぐ
ナマズ瓦が見えます。




その弁天堂の前を過ぎて、
弁天堂をふり返ったところ。










法成就池の南東の角から、
法成就池の真ん中の善女龍王社を見たところ。










法成就池の東側には、
矢劔大明神を祭神とする
矢劔稲荷社があります。









神泉苑を出て、御池通りを東へ進みます。
途中、二条城へ向かいます。

外堀に囲われた東南隅櫓です。








外堀に沿って、北へ進んで行くと、
東大手門があります。

既に修学旅行の子供達の姿が見えたので、
子供達の勉強の邪魔をしないように、
別の機会に訪問する事にして、
次は、御金神社へ向かう事にします。





押小路通りを東へ、西洞院通りを南へ進むと
右手に御金神社があります。

その御金神社の金色の鳥居です。








鳥居の前にあった御金神社の由来です。
























鳥居をくぐり進んで行くと、
正面に拝殿があります。

祭神は、主祭神の金山毘古命、
そして、天照大神、月読命の三柱です。







境内には、
たくさんのいちょう絵馬が掛けられています。










いちょう絵馬です。

境内には、銀杏の御神木があり、
その葉の形を模した絵馬です。

銀杏は、繁栄、発展や、不老長寿の象徴とされ、
葉の形が末広がりで、
縁起が良いとされています。




御金神社を出て、次は京都御所へ向かいます。

地下鉄烏丸線の烏丸御池駅から
今出川駅へ行きます。

今出川駅を出て、烏丸通りの西側に、
同志社大学の寒梅館があります。





同志社大学の寒梅館を、
東側、正面から見たところ。

館名は、同志社大学を創設した新島襄の
漢詩「真理似寒梅敢侵風雪開」
(真理は寒梅のごとし。あえて風説を侵して開く)
に由来します。





烏丸通りの東側には、同志社大学の良心館があります。

新島襄が同志社大学設立の旨意に、
「一国の良心とも謂うべき人々を養成せん」と記しており、
館名の由来になってます。












烏丸通りを南へ進みながら、
同志社大学の良心館をふり返ったところ。















烏丸通りを南へ進んで行くと、
「中世相国寺の遺構復元」の説明があります。

烏丸通りの歩道横に、
中世相国寺の水路の石垣が復元されています。







更に進んで行くと、
薩摩藩邸跡の石標と、説明があります。

文久2年(1862)、
薩摩藩が相国寺から土地を借り受け、
御所に隣接したこの場所に、
新たな政治的拠点として藩邸が
造営されました。




烏丸通りを南へ進んで行くと、
東西に走る今出川通りへ出て、
その交差点の角に、
地下鉄の出入口があります。








今出川通りを東へ進みます。

今出川通りの南側は、
京都御苑が広がっています。








今出川通りを東へ進んで行くと、
今出川御門があります。















今出川御門を中に入ったところに
京都御苑案内図があります。






























今出川御門を入り、まっすぐ、正面を見たところ。

正面に京都御所の朔平門が見えます。














今出川御門をふり返ったところ。

今出川御門は、高麗門の形式がとられ、
控柱の上に小さな切妻屋根がのってます。








今出川御門を抜け、南へ進みます。

正面は、京都御所の朔平門です。









京都御所の朔平門です。











朔平門から続く築地塀に沿って、東へ進みます。











京都御所の築地塀に沿って、
東の端まで歩いたところ。










京都御所の築地塀の東北の角です。

陰陽道において、東北の角は、鬼門にあたります。
京都御所では、築地塀の東北の角(かど)を取る事で、
鬼の角(つの)を取り、鬼の侵入を防いでいます。







京都御所の北側の築地塀の東の端です。
その軒下には、
災い除けの猿の彫像(雲板)があります。









その猿の彫像です。
御幣を担ぎ、烏帽子をかぶっています。

御幣を担いだ猿の彫像を置く事で、
災いが去ると伝えられています。

また、この猿は、日吉山王神社の使者で、
夜には、この付近をうろつき、いたずらをする為、
金網を張って閉じ込められたと言われています。
そして、猿ヶ辻と呼ばれるようになってます。


ちなみに、東側の築地塀の北の端の軒下は、
猿ではなく、菊の紋章でした。










北側の築地塀に沿って、西へ向け引き返します。

途中、朔平門があります。









朔平門を過ぎて、
北側の築地塀に沿って、西へ進みます。










北側の築地塀に沿って、
西の端まで歩いたところ。










北側の築地塀の北西の角です。

猿ヶ辻のように、角は取られていません。

西側の築地塀には、三つの門がありますが、
一番手前の門は、皇后門です。






西側の築地塀に沿って、南へ進みます。

皇后門の前を過ぎ、その次の門の清所門です。

清所門は、御台所門とも呼ばれ、
宮中に御用の品を納める者や、
京都所司代、御所警護にあたる武士が
利用しました。

その清所門から、御所へ入り、参観します。


清所門を入り、御所内を南へ進みます。

立ち入り禁止のロープの外から、
東側、参内殿方向を見たところ。








立ち入り禁止のロープの外から、
北東に御車舎を見たところ。










順路に従って南へ進んで行くと
左手に、参観を終えた方の出口となる門があり、
内部を見たところ。

御三間、御常御殿が見えます。







順路に従って、進んで行くと、
右手に、宜秋門があります。

宜秋門は、上皇や宮家、及び、廷臣が
正式に参内する際に用いられ、
公家門とも称されます。






宜秋門を過ぎると、
左手に御車寄があります。










御車寄を正面から見たところ。

見事な唐破風を持っており、
宜秋門を入られた後、
ここで下車されたのだと思います。







御車寄の横にあった
京都御所案内図です。































南へ進んで行くと、諸太夫の間があります。











諸太夫の間です。

諸太夫の間は、参内者の控えの間で、
東から、格式の高い順に虎の間、鶴の間、桜の間と
3室が並んでます。







諸太夫の間です。

右側、東から、
虎の間、鶴の間、桜の間です。








更に南へ進むと、新御車寄があります。

新御車寄は、
大正4年(1915)の大正天皇の即位の礼に際し、
馬車による行幸を迎える為に新設された玄関で、
かつ、建物全体の総称にもなってます。






左が新御車寄で、
中央、右よりに紫宸殿の屋根が見え、
右端は月華門です。









右は、紫宸殿の回廊の西側の門、月華門です。

中央左より、紫宸殿の回廊越しに、
紫宸殿の屋根が見えます。








紫宸殿の回廊に沿って進んで行くと、
建礼門が見えてきます。










建礼門です。

建礼門は、
京都御所の中央南端に位置する正門で、
檜皮葺切妻屋根の四脚門です。







建礼門の北に位置する承明門です。

紫宸殿南庭の南の門で、
五間三戸、一重、瓦葺、白壁に
木部は丹塗りの門です。







その承明門を通して、紫宸殿を見たところ。

現在の京都御所は、
安政2年(1855)に造営されたもので、
その形式は、寛政2年(1790)に造営された内裏が
踏襲されています。






承明門の軒下を見上げると、
扁額に承明門とあります。















承明門の前に立ち、
その南に位置する建礼門を見たところ。

建礼門は、天皇の行幸や、
譲位後に上皇となり仙洞御所へ遷御する際や、
外国の元首や大統領等の国賓の訪問の際に
使用されます。





承明門を通して、紫宸殿を見たところ。











承明門の東に位置する長楽門から、
紫宸殿の南庭へ入り、
規制された順路に従って、通り抜けできます。

紫宸殿です。
紫宸殿は、宮廷の重要な儀式が行われた場所で、
御所の南部分に南面しています。
檜皮葺、素木造の建物で、
外の建具に蔀戸や唐戸が用いられ、
正面9間、側面3間の母屋の四方に庇がつく等、
平安時代の建築様式を伝えています。

南庭には、殿上の天皇御座から見て、
右に橘、左に桜の木が配されています。

儀式の際、それぞれの近くに
左右近衛府の武官が警護の陣を敷いた事から、
右近の橘、左近の桜と称されました。

右端が、紫宸殿で、左に月華門が見えます。

紫宸殿の前に、右近の橘が見えます。









紫宸殿です。

左近の桜が見えます。









左腋門から、
回廊に囲われた紫宸殿の南庭を東へ出ます。

東には建春門が見えます。








回廊を出て、回廊に沿って北へ進むと、
春興殿があります。

春興殿は、
大正4年(1915)の大正天皇の即位の礼に際し、
東京皇居の賢所から
神鏡(三種の神器の一つ)を還し、
即位を皇祖皇宗に報告する賢所前の儀など
儀式を行う為に造営された神殿です。



回廊に沿って北へ進むと、
日華門、宜陽殿があり、
その向こうに紫宸殿の屋根が見えます。









紫宸殿の南庭の東に位置する日華門です。

その日華門を通して、
南庭の西に位置する月華門が見えます。








日華門の北に位置する宜陽殿です。











春興殿です。











回廊に沿って、北へ進みます。

左側は、宜陽殿です。









まっすぐ北へ進んで行くと、
左手に小御所があります。










その小御所の東側には、御池庭があります。

中央の高欄のついた橋は、欅橋です。









小御所です。











小御所の東に位置する御池庭です。

御池庭は、
中央に大きな池、
池に向け緩やかに傾斜した州浜、
3つの中島、石橋や木橋、等が配された
池泉回遊式の庭園です。





御池庭です。











小御所の前を北へ進んで行くと、
蹴鞠の庭があります。

左端は小御所で、中央は御学問所です。

その小御所と、御学問所の間の庭が、
蹴鞠の庭です。





蹴鞠の庭の前から、御池庭を見たところ。











蹴鞠の庭の北に位置する御学問所です。











御学問所の前から、御池庭を見たところ。

右よりに欅橋が見えます。

中島には、アオサギがいます。







そのアオサギです。
















御池庭の欅橋です。











御学問所を正面から見たところ。











御常御殿と、その御内庭へ向かいながら、
御学問所をふり返って見たところ。










この入口から、
御常御殿の前、東に位置する御内庭に
入ります。









御常御殿の前、東に位置する御内庭です。











御内庭です。











御常御殿を正面、東から見たところ。
















御内庭です。











御内庭の中を、水が流れています。
















石燈籠もあります。











御内庭です。











御常御殿を過ぎて奥へ、北へ進みます。

左が迎春で、右が御涼所です。









中央が、御涼所です。











御内庭です。











中央、左より、木の陰に迎春、
右側に御涼所があります。

これより奥には行けませんので、
引き返します。







御常御殿の東側から南側へ周って、
西へ進みます。

右は御常御殿の南側面で、
その向こうは御三間です。








御常御殿の南側です。

蔀戸が開いているのが見えます。









御常御殿の南側を西へ進んで行くと、
南側に御学問所があります。










御学問所の北側には、御三間があります。

名が示す通り、3つの部屋を持ち、
御常御殿に近い東側を上座とし、
上段の間、中段の間、下段の間の順に並びます。







3室の、東、南、西の三方には御縁座敷が廻り、
その南側の舞良戸(まいらど)が開いてます。

上段の間の前の開いた舞良戸から、
御縁座敷の中が見えます。







下段の間の前の開いた舞良戸から、
御縁座敷の中が見えます。










御三間と御学問所の間を西に抜け、
御学問所をふり返ったところ。










御三間と御学問所の間を西に抜け、
御三間、御常御殿をふり返ったところ。










西へ進みながら、東側、
御三間、御常御殿、御学問所を
ふり返ったところ。

その手前は、広場になってますが、
御台所跡です。






順路に従って、一通り見て周った後は、参観者休所で休憩します。
その参観者休所にあった京都御所の案内図です。


























清所門から、京都御所を出て、
築地塀に沿って南へ進みます。










京都御所の築地塀の南西の角から、西を見ると、
蛤御門が見えます。










蛤御門へ向け、進みます。

蛤御門を内側から見たところ。

蛤御門は、正式には新在家御門と言い、
常に閉ざされ、開くことが無い門でした。
しかし、
宝永5年(1708)に起きた宝永の大火の際に、
庶民救済の為、初めて開門されました。
この開門が、焼けて口開く蛤になぞられて、
蛤御門と呼ばれるようになりました。

蛤御門を、京都御苑の外に出て、
ふり返って見たところ。

文久3年(1863)、八月十八日の政変で
京都守護職の会津、薩摩藩が、
尊王攘夷派の長州藩を京都から追放します。
そして、元治元年(1864)6月5日、
新選組が、池田屋で密会中の尊攘志士を襲撃する
池田屋騒動が発生します。
その池田屋騒動がきっかけで、
元治元年(1864)7月19日、
長州藩が京都における復権を求め、
会津藩、薩摩藩と武力衝突します。
蛤御門の変です。

この蛤御門には、
その時の激戦の跡が残っています。

門扉の白く丸い窪みは、弾痕です。








外から門に向かって左側の門柱です。

筋鉄が施された門柱に、弾痕が残っています。














外から門に向かって右側の門柱です。

多くの弾痕が残ってます。














蛤御門から、東へ引き返します。

京都御所の築地塀の南西角近くに、
樹齢300年と言われる椋の大木があります。
この辺りは、
清水谷家と言う公家の屋敷があった事から、
清水谷家の椋と呼ばれています。
蛤御門の変の時、
長州藩士で遊撃隊の総督、来島又兵衛が、
この椋の近くで討ち死にしたと言われています。


京都御所の築地塀の南西の角です。

猿ヶ辻のように、角は取られていません。









築地塀に沿って東へ進んで行くと、
建礼門があります。

京都御所の南北中心軸上の南の端に位置し、
正門にあたります。







建礼門の前を過ぎて、東へ進みます。











築地塀の南東の角から、北方向を見たところ。











更に東へ進みます。

右手には、
京都仙洞御所の築地塀が続いています。

京都仙洞御所の門の前に、
参観受付のテントが出ています。





途中、北東へ向けた道があり、
その先に京都迎賓館があります。










京都迎賓館へ寄るのはやめて、東へ進みます。

東へ向け進んで行くと、
左手に土御門第跡の説明があります。

ここは、平安時代中期に
摂政、太政大臣となった藤原道長の邸宅跡です。
道長の長女、彰子が、一条天皇の后となり、
里内裏の当邸で、
後の後一条天皇や、後朱雀天皇になる皇子も
誕生しました。

以下の歌は、藤原道長によって、この邸で詠まれました。

 この世をば わが世とぞ思ふ
   望月の欠けたることもなしと思へば

土御門第跡の説明の写真を撮りながら、
その背後の二股に分かれた巨樹の二股部にできた
大きな白い物体が気になります。

キノコ?
サルノコシカケ?






東へ進んで行くと、清和院御門があります。











その清和院御門を抜け、ふり返って見たところ。











清和院御門を抜け、東へ少し行くと
左手に石鳥居があります。

梨木神社の一の鳥居です。








その石鳥居です。

扁額に、梨木神社とあります。

この石鳥居をくぐっても、
マンションに突き当り、
参道は鍵の字に曲がっています。





マンションをよけて、参道は曲がっており、
この細い路地を入ります。










その路地を入って行くと
梨木神社の二の鳥居があります。

二の鳥居から、参道がまっすぐ伸びています。













境内には、萩の花が咲いていました。

梨木神社は、
京都を代表する萩の名所になっており、
萩の宮とも呼ばれています。

萩の花が咲き乱れる9月後半には、
萩まつりが行われています。




参道を進んで行くと、神門があります。

参道の両側には、萩の花が咲き、
参拝者が詠まれた和歌でしょうか?
短冊が結ばれています。






更に進むと、拝殿があります。











そして、中門です。
この奥に本殿があります。

梨木神社は、
明治18年に三條實萬を祭神とし創建され、
大正4年の大正天皇即位にあたり、
實萬の子、三條實美を第2座祭神とし
合祀されています。




萩の花と、和歌の短冊です。
















参道には、湯川秀樹博士の石碑がありました。

 千年の昔の園も かくやありし
      木の下かげに 乱れさく萩

湯川秀樹博士は、
日本人初のノーベル賞を受賞した理論物理学者で、
梨木神社の萩の会の初代会長でもあったとの事です。




梨木神社を出て、
梨木神社と寺町通りを隔てて、東側にある
廬山寺へ向かいます。

寺町通りを北へ進むと
廬山寺の門があります。






廬山寺の南側の門です。

門の前には、
紫式部邸宅址と、慶光天皇廬山寺陵の
石標がたってます。







廬山寺の北側の門、山門です。

門の表札には、
天台園浄宗大本山 廬山寺とあります。

門の前には、元三大師の石標があります。






その山門を入ると、正面に大師堂があります。

廬山寺は、
比叡山天台18世座主元三大師良源によって
天慶元年(938)に船岡山の南に
創建されたのが始まりです。
そして、天正年間(1573-1593)に
現在地に移転しています。

その廬山寺が移転してくる以前、
この地は、平安時代中期に活躍した
紫式部の邸宅跡地と推定されています。

鴨川近くの堤に屋敷を構え、堤中納言と呼ばれた
曽祖父の藤原兼輔の屋敷が広がっていた場所であり、
紫式部へ受け継がれたと考えられています。

廬山寺の
説明です。

















廬山寺を出て、寺町通りを南へ、
清和院御門の前を過ぎ、更に進んで行くと、
寺町御門があります。









寺町通りを南へ進んで行くと
左手に下御霊神社があります。










下御霊神社の鳥居です。

その向こうに正門があります。









正門を抜け、中に入ると、
正面に拜殿があります。










拜殿の向こうに
下御霊神社の本殿があります。

平安時代は、
国風文化、貴族文化が隆盛した時代ですが、
一方で災害や疫病の流行が繰り返し起こった
不安な時代でもありました。
そして、その原因は、貴人の怨霊と考えられ、
八所御霊として祀られるようになりました。

祭神は、吉備聖霊、崇道天皇、伊豫親王、藤原吉子、
藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、火雷天神です。

境内には藤袴が並んでいます。

藤袴は、秋の七草に数えられ、
秋の季語にもなっている花ですが、
今では絶滅危惧種になっています。












藤袴です。

毎年、藤袴祭りが開催され、
革堂行願寺、下御霊神社、寺町通りに、
藤袴が並ぶと言う事です。












下御霊神社を出て、寺町通りを南へ進むと、
革堂行願寺があります。















山門を入ると、正面に本堂があります。

境内には、藤袴が並んでいます。









本堂です。

革堂行願寺は、寛弘元年(1004)に、
行円上人によって創建されました。
行円上人は、
子を孕んだ母鹿射止めてしまった事を悔い、
常にその皮をまとった事から革聖と呼ばれ、
革聖のお堂を、革堂と呼ぶようになりました。
度々の災火で寺地を転々と移しましたが、
宝永5年(1708)の大火で、現在地へ移っています。


革堂行願寺を出て、寺町通りを南へ進みます。

途中、囲碁「本因坊」発祥の地の標札が立ってます。
標札の横には、ちょっと一休みできるベンチと、
碁盤のテーブルが設置されています。

寂光寺の搭頭「本因坊」に住まいしていた
僧侶の日海(1559-1623)は、
信長、秀吉時代から囲碁の名人として名高く、
江戸幕府では、本因坊算砂と改名し、幕府の碁所を任されます。
本因坊は世襲で受け継がれてきましたが、
秦の実力者が本因坊を名乗るべきとし、
昭和11年(1936)、日本棋院による本因坊戦が誕生しています。




寺町通りを、まっすぐ南へ進みます。
御池通りを横切り、本能寺の前を過ぎ、
アーケードの下を南へ進みます。














東西に走る三条通りへ出たところで、西へ向かいます。
















三条通りを西へ進んで行くと、
右手に京都文化博物館があります。
南東から見たところ。

特に別館は、日本の近代建築の祖、辰野金吾と、
その弟子、長野宇平治が設計し、
明治39年(1906)に竣工した
旧日本銀行京都支店の建物です。




京都文化博物館の別館、旧日本銀行京都支店の建物です。
















更に三条通りを西へ進むと、
東洞院通りがあり、その北東の角に
中京郵便局があります。

明治35年(1902)に京都郵便電信局として
建築されたレンガ造りの建物です。






中京郵便局を南西から見たところ。











東洞院通りを南へ、六角通りを西へ進むと、
六角堂があります。










六角堂の山門です。

門の前に、六角堂の石標があります。

正式には、紫雲山頂法寺と言いますが、
本堂が六角宝形造りである事から
一般に六角堂と呼ばれています。





山門の前に
あった
六角堂の
説明です。














山門を入り正面に本堂を見たところ。
本堂は、明治10年(1877)の再建で、
正面に拝堂が付属しています。

六角堂は、聖徳太子が、四天王寺建立の用材を求め、
この地を訪れた時、霊告によって、
用明天皇2年(587)、御堂を建て
守護仏の如意輪観音像を
安置したのが始まりです。

右側の柳は、平安時代初期、
妃を探していた嵯峨天皇の夢枕に、
如意輪観音が現れ、
六角堂の柳の下を見よとお告げがあり、
柳の下に立つ美しい女性を妃に迎えたと言う事です。

本堂の西側には、地藏山があります。











境内の南西隅にあった石不動です。

石不動は、安永9年(1780)刊行の
「都名所図会」に描かれています。













左は、池坊 家元道場で、右は十六羅漢です。

私は見落としましたが、
六角堂の北側に、
聖徳太子が身を清めた池の跡があります。
この池の畔に、小野妹子を始祖とする住坊があり、
池坊と呼ばれるようになりました。
代々、六角堂の住職を務める池坊は、
仏前に花を供える中で、様々な工夫を加え、
室町時代の「いけばな」の成立に至ります。

家元道場では、毎年の初生け式や、春のいけばな展、等で、
家元をはじめとする作品が公開されています。

十六羅漢像です。

羅漢とは、仏の教えを護り伝える事ができる
僧侶に与えられる名前です。
十六は、方位の四方、八方を倍にした数で、
あらゆる場所に羅漢がいる事を意味しています。











その十六羅漢の南側に、一言願い地藏がいます。

この地藏は、首を傾げていますが、
これは願い事を叶えるかどうか迷っている姿と
言う事です。
欲張らず、一つだけ願い事をすれば、
信心次第で願いを叶えて貰えるようです。

奥に見えるお堂は、親鸞堂です。

鎌倉時代の初め、建仁元年(1201)に
親鸞聖人が六角堂へ参籠し、浄土真宗を得たと
言われています。

南東から、本堂、六角堂を見たところ。
















六角堂を出た後は、遅い昼食をとる事にします。

京都のB級グルメで有名なピネライスを食べに
六角通りにあるキッチン ゴンへ行きました。

ピネライスとは、
チャーハンにポークカツをのせカレーをかけた
三位一体、欲張りメニューです。
メニュー名のピネは、海外で修行した創業者が、
フランス人からカツをもっと小さくフィネと言われ、
そのフィネがピネに聞こえた事が由来のようです。






まず、最初にスープが出てきます。












そして、ピネライスの登場です。












そして、顔を近づけて、パクリ。美味い!












昼食後は、京都駅近くのホテルへ帰って、
一休みします。

写真は、京都駅です。








そして、夕方、少し早いけど、
晩御飯を食べにお出かけです。

せっかく京都に来たので、おばんざいでも食べよう!
と言う事で、木屋町通り沿いにある
おばんざい屋さんへ行く事にします。

地下鉄東西線の京都市役所前駅で下りて、
木屋町通りを南へ歩きます。

高瀬川に架かる姉小路橋の近くで、
武市瑞山先生寓居之跡の石碑を発見しました。

武市瑞山は、尊王攘夷論を唱え、土佐勤王党を結成しますが、
公武合体論の藩主の山内容堂や家老の吉田東洋と対立します。
土佐勤王党は、吉田東洋を暗殺しますが、
山内容堂による土佐勤王党の弾圧で、党員は捕らえられ、
瑞山は切腹を命じられます。

その瑞山の京都滞在時の住まいの跡です。

木屋町通りを南へ進んで行くと、
高瀬川に架かる蛸薬師橋があり、
その東側の袂に、土佐藩邸跡の石碑がたってます。

この蛸薬師橋を渡った高瀬川西側から河原町通りの間に
土佐藩邸があり、
当時は高瀬川に面して門が開かれ、土佐橋が架かっていました。
藩邸内にあった土佐稲荷御崎神社は、
藩邸ができる前の室町時代から
土着の神として信仰を集めており、
藩邸内でありながら、参詣の為の通り抜けが
許されていました。





京のお酒と、おばんざいを楽しんだ後は、新京極商店街、寺町京極商店街、錦市場商店街へ行ってみます。

河原町通りを横切り、
蛸薬師通りを西へ進んで行くと
新京極商店街へ出ます。

突き当りに、
前半分だけになった緑色の飛行機の
オブジェが目を引きます。





その新京極商店街への突き当りを、少し北へ歩くと、
右手に、蛸薬師堂 永福寺ががあります。

しかし、残念ながら門は閉まってました。

昔、蛸薬師堂が、二条室町にあった頃、近くに池があり、
澤薬師(たくやくし)と呼ばれ、
これが訛って蛸薬師になったと言う事です。

また、一説には、
善光と言う僧侶が、戒律に背き、
病気の母の為に蛸を買った所を見咎められ、
買ったものを見せるよう求められた時、
薬師如来に助けを求め念じると、
蛸の脚が八巻の妙法蓮華経に変わり、
母の病気も快復したと言う事です。

蛸薬師堂から西へ、蛸薬師通りが伸びており、
蛸薬師堂の前から少し西へ進むと、
寺町京極商店街が南北に横切っています。









寺町京極商店街を南へ、途中、錦市場商店街に入り、
西へ進みます。

錦市場商店街のお店は、閉まるのが早く
ほとんど閉まっています。












アーケードの屋根から吊り下げられた垂れ幕の絵を、
見ながら歩くだけで楽しい。















昼間から夕方にかけて、
身動きがとれないほど混雑する通りが、
ウソのようです。

これは象の絵です。












蛸の絵です。
















地下鉄烏丸線の京都駅へ帰って来て、
JR京都駅を見たところ。










京都タワーです。
















京都タワーの北へ位置するヨドバシカメラです。







明日は、鞍馬から貴船を歩きます。
早くホテルへ帰って、体を休める事にします。



What's New? | お勧め遺跡 | タイ クメール遺跡 | 古代・その他 | ドヴァラヴァティ遺跡 | スコータイ遺跡 | ランナータイ遺跡
アユタヤ遺跡 | チャクリ朝~現代 | 博物館 | ガンボジア クメールの旅 | 浮彫Gallery | 遺跡年表 | OTHERS
自己紹介 | LINK | 掲示板 | E-Mail | 遺跡BOOKS | 古墳の丘を歩く | 里山へ登ったよ!