京都は、何度も訪れた事がありますが、それでも、訪問できて無い場所があります。
京都を全て見て周る事は無理だと思いますが、
そして、昨年(2024年)10月に訪問したばかりですが、
再度、三泊四日で再訪しました。
三日目は、寂光院、三千院、京大百周年時計台、吉田神社、真如堂を訪問します。
京都駅前バスターミナルへ向かう途中に見た
京都タワーです。
京都バス 大原行きの
バス停へ向いながら、
京都駅ビルをふり返ったところ。
バス停から京都駅ビルを見たところ。
京都バス 大原行きのバスへ乗って、
終点の大原バス停へ到着です。
最初に寂光院へ向かいます。
大原バス停から、
案内の矢印に従って進んで行くと
高野川が流れており、
高野川に架かる人道橋を渡ります。
寂光院への案内標識に従って、進みます。
人道橋の先を横切る道を渡った所にあった
お地蔵さんです。
寂光院へ向け、
田舎道を進んで行きます。
道端に「大原女の小径」の立札が
たってます。
大原女の小径と呼ばれているようです。
その大原女の小径を進んで行くと、
「朧の清水」があります。
平清盛の娘、建礼門院が、
この泉に姿を写したと伝わります。
南、少し東よりを見ると
比叡山が見えます。
大原女の小径を進んで行くと、
「落合の滝」があります。
この落合の滝は、建礼門院の御歌、
ころころと小石流るる谷川の、かじかなくなる落合の滝
で知られています。
進んで行くと、道標があります。
「左 寂光院」とあります。
その道標の陰に大原女石像が
あります。
愛宕大神とかかれた灯籠と、小さな祠があります。
大原女の小径の立札と、大原女像です。
更に進むと
高倉天皇皇后徳子 大原西陵があります。
平清盛の息女の平徳子は、高倉天皇の皇后となり、
安徳天皇を授かります。
しかし、高倉天皇を早くに亡くしてしまい、
建礼門院と言う法名で呼ばれます。
そして、平清盛の没後、源平の争乱が起こり、
最後には、壇ノ浦の戦いで、徳子の母の二位尼が、
安徳天皇を抱き海に身を投げ、平家は滅びます。
建礼門院も、後を追いますが、
敵に助け上げられてしまいます。
そして、建礼門院は、出家し尼となり、
寂光院で平家一門と我が子、安徳天皇の
菩提を弔いながら余生を送りました。
階段を上り、
高倉天皇皇后徳子 大原西陵へ向かいます。
長い階段を上って行きます。
高倉天皇皇后徳子 大原西陵です。
建礼門院の陵墓です。
高倉天皇皇后徳子 大原西陵を
正面から見たところ。
三千院近くに
後鳥羽天皇と、順徳天皇の
大原陵が既にあり、
その大原陵に対して、
大原西陵と呼ばれています。
高倉天皇皇后徳子 大原西陵です。
高倉天皇皇后徳子 大原西陵から下りて、
寂光院へ向かいます。
進んで行くと、大原女像がありました。
大原女の小径を進んで行くと、
右手に寂光院への階段があります。
階段を上り、寂光院へ向かいます。
長い階段です。
階段の上に山門が見えてきます。
階段を上って行く途中、山門の手前、右手に
茶室「孤雲」の露地門があります。
屋根が苔むしており、風情があります。
庭への立入は禁止されており、
柵の手前から露地(茶庭)を見たところ。
中央右よりに、茶室「孤雲」が見えます。
茶室「孤雲」の露地の北側に、
書院が見えます。
茶室「孤雲」と露地です。
茶室「孤雲」の露地門を出て、
山門の手前、階段を挟んで
茶室「孤雲」と反対側には、
絵馬掛けがあります。
その絵馬掛けの向いには、
鳳智松殿(宝物殿)があります。
平成12年(2000)の放火によって
焼失した本堂の復興を記念して、
平成18年(2006)に建てられました。
平家物語ゆかりの文化財等が
展示されています。
鳳智松殿の更に奥、大きな木の下に
歌碑があります。
沈黙
沈黙はよい
木々が語ってくれるから
岩むした石が
物語ってくれるから
岩清水のひびきが
耳を澄ましてくれるから
み佛のこえが
きこえてくるから
女性として初めて天台宗最高位の大僧正となった
寂光院の前住職、小松智光さんの歌です。
本堂の焼失に際して、強く衝撃を受けられましたが、
復元に尽力をされました。
元の階段を上がると、
寂光院の山門です。
山門を通して、本堂が見えます。
山門には、
菊紋が入った幕が下がってます。
山門をくぐり、正面に本堂を見たところ。
寂光院は、山号を玉泉寺と言う
天台宗の尼寺です。
推古2年(594)に聖徳太子が、
父、用明天皇の菩提を弔う為に
建立されたと伝わります。
当初の本尊は、
聖徳太子制作の六万体地蔵尊でしたが、
今は現存しません。
鎌倉時代に制作された旧本尊は、平成12年(2000)の火災で焼失し、
現在は摸刻された地藏菩薩像が本堂へ安置されています。
左が本堂で、右が書院です。
本堂は、桃山時代頃の建築の特徴を
残していましたが、
平成12年(2000)の火災で
焼失してしまいます。
しかし、前住職の小松智光さんの
「すべて元の通りに」の言葉を受け、
平成17年(2005)に再建されています。
本堂に向かって右側手前、書院の前の庭には
鉄製の雪見燈籠があります。
この雪見灯籠は、豊臣秀吉が本堂を再建した際に、
伏見城下から移された物と伝わります。
その雪見灯籠です。
宝珠、笠、火袋、脚からなり、
笠は円形で、軒先は花先形に
なってます。
火袋は、側面を柱で5間に分かち、
各面に五三の桐紋を透かし彫りにし、
上方へ欄間を設けた格狭間の煙出とし、
一面が片開きの火口扉になってます。
円形台座下は猫脚三脚となってます。
本堂の東側には、「四方正面の池」があります。
書院の北側、池の南側から見たところ。
本堂の東側や、書院の北側など、
どこから見ても正面となるようになっており、
「四方正面の池」と呼ばれています。
「四方正面の池」には、北側の山腹から水が引かれ、
三段に分かれた小さな滝から水が流れ込んでいます。
本堂の東側入口の廊下から、
「四方正面の池」を見たところ。
本堂へのお参りを済ませ、
本堂の西側を見たところ。
中央は西門です。
本堂を出て、書院と反対側、
西側の庭を見たところ。
中央に、「汀の池」があり、
池の左側から池の上に「汀の桜」が伸び、
その反対側に「姫小松」と呼ばれる松の木が、
今は枯れていますが祀られています。
「平家物語」灌頂巻(かんじょうのまき)、
物語を締めくくる最終巻の中に
後白河法皇が建礼門院を訪ね
対面する場面があります。
建礼門院が大原に移った翌年、文治2年(1186)の春、
後白河法皇は、お忍びで人里離れた奥山の大原を訪ねます。
そして、
池水に 汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛りなりけれ
たとえ桜は散ってしまっても、池の水面にいっぱいに桜が咲いているではないかと
慰められました。
汀の池です。
池畔には、汀の桜が池に向いて
斜めに伸びています。
その汀の桜の向こうには、
「諸行無常の鐘楼」が見えます。
この鐘楼には、
「諸行無常の鐘」と呼ばれ、
宝暦2年(1752)に鋳出された梵鐘が
懸かっています。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」で始まる平家物語の冒頭の句が
頭に浮かんできます。
汀の池の畔には、建礼門院に仕えた
阿波内侍、右京大夫局、大納言佐局、治部卿局、
4人の名前を記し、
「在寺南黛山距此半丁程」とある石柱がたってます。
また、阿波内侍については、
建礼門院に仕え、山仕事をする時の衣装が、
頭に柴を乗せて京の町へ行商に出かけた
大原女の衣装の原形になったと言われています。
本堂の西に位置する宝篋印塔です。
そして、汀の桜です。
汀の桜越しに本堂を見たところ。
寂光院の階段を下りながら、
途中、左手に、赤い椿の花を
見つけました。
階段を下って、次は三千院へ向かいます。
寂光院へ来た大原女の小道を引き返して行きます。
落合の滝の上に架かる橋の上から、
川下を見たところ。
途中、大原女の小径は左へ分かれますが、
ひたすら真っすぐ進みます。
道端に、愛宕大神とかかれた石灯籠と、お地蔵様が
ありました。
進みながら、田舎の風景を見たところ。
進んで行くと、道標があります。
「右 朧の清水」、「左 寂光寺」とあります。
更に進んで行くと、
「乙が森」(おつうが森)があります。
乙が森にまつわる
大原の昔があります。
その大原の昔話は以下です。
むかし昔、大原の里におつうと言う娘が
住んでいました。
ある日、上洛の若狭の殿様に見初められ、
玉の輿となります。
しかし、おつうは病となり、
殿様の寵愛を失い、里に帰されてしまいます。
悲観したおつうは、大原川の女郎が淵に身投げし、
大蛇になります。
そして、都入りする殿様の行列を襲いますが、
家来によって切り捨てられてしまいます。
その夜から、激しい雷雨や悲鳴にみまわれ、
大蛇の頭を乙が森に埋めて霊のを鎮めたと言う事です。
その乙が森です。
田舎道を南東へ進みます。
京都方面を見たところ。
京都方面、南を見たところ。
寂光院の方向をふり返ったところ。
中央は、乙が森です。
南を見たところ。
高野川です。
高野川に架かる役場橋を渡り、
国道367号線へ出ます。
国道367号線は、大原を経由して、
京都と若狭を結んでおり、
若狭路、鯖街道とも呼ばれています。
国道367号線を渡って、
三千院へ向かいます。