上賀茂、下鴨神社: 16May2019


奈良・京都旅行の6日目は、上賀茂神社、下鴨神社、銀閣寺、南禅寺、知恩院、八坂神社、等を周りました。


■大田神社

地下鉄烏丸線の北山駅で下り、上賀茂神社へ
向かいます。

その上賀茂神社(賀茂別雷神社)の摂社の
大田神社へ寄ります。

その大田神社の入口が見えてきました。






その大田神社の参道の手前、道を隔てた反対側、
南にある上賀茂神社の末社、福徳社です。

福徳神が祀られています。









大田神社への参道です。












その参道入口の横に
あった大田神社の説明です。

古くは恩多社とも呼ばれる
賀茂における最古の社です。

祭神は、岩戸隠れされた
天照大神を天岩戸から
外へ出すために、
天岩戸の前で神楽を舞った
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
です。






大田神社の参道を進んで行くと
赤い鳥居があります。











その鳥居をくぐって、進んで行きます。

















正面に拝殿が見えます。












参道の左手には、百大夫社、鎮守社があります。

百大夫社の祭神は、船玉神で、
鎮守社の祭神は、大国主神、少彦名神です。









参道の右手には、白鬚神社があり、
祭神は、猿田彦命です。

白髭神社の隣の木には、タゴガエルの説明が
掛けてありました。

タゴガエルは、山地や森林内の渓流付近に生息し、
繁殖は4~5月に渓流内の湧水がある岩の隙間や
土の中で行います。
赤茶色か、こげ茶色で、喉一面にある細かい斑点が
特徴です。
卵は白くて大きく、オタマジャクシも白色で、
短期間でカエルになります。

拝殿の中には、奉祝 天皇陛下御即位の垂れ幕と
御神輿がありました。

御即位を祝した御神輿の巡行があったのかもしれません。














拝殿の中です。

中央に御神輿があります。










拝殿の東側から、本殿を見たところ。












拝殿の西側から、本殿を見たところ












本殿前から、参道右手に、
鎮守社、百大夫社を見たところ。











参道を戻り、参道入口の東側の池に群生する
カキツバタを見に寄って見みます。

この一帯は古くから大田ノ沢と呼ばれており、
例年5月になるとカキツバタが紫色の可憐な花を
咲かせます。
そして、平安時代の歌人、藤原俊成が、
大田ノ沢のカキツバタを題材に歌を詠んでいます。

  神山や 大田ノ沢の かきつばた
    ふかきたのみは いろにみゆらむ

神山よ、大田ノ沢のカキツバタに深く祈る恋は、
カキツバタのように、なんと可憐なのでしょう。


■上賀茂神社

大田神社を出て、
次は、上賀茂本通、別名、藤の木通りを西へ、
上賀茂神社へ向かいます。

その途中にあった藤木社です。








その藤木社(ふじのきのやしろ)です。

上賀茂神社の境外末社で、
祭神として、瀬織津姫神(せおりつひめかみ)が
祀られています。

瀬織津姫神は、人の穢れを
早川の瀬で浄めると言われ、
祓い浄めの女神です。

また、上賀茂神社から流れ出て、
藤木社の横を流れる明神川の守護神として
信仰されています。

藤木社の社の横には、樹齢500年と言われる
楠の古木が立っています。

上賀茂伝統的建造物群
保存地区の説明です。





















この辺りは、室町時代から上賀茂神社の
屋敷町として町並みが形成されてきました。

明神川に架かる土橋、川沿いの土塀や門、
独特の妻飾りを持った社家、土塀越しの庭の緑、
これらが一体となって貴重な社家の景観を
今に伝えています。






その明神川に沿った藤の木通りを西へ進んで行きます。

その先に上賀茂神社の赤い鳥居が見えてきます。















一の鳥居です。

昨日の5月15日は、葵祭として知られている
賀茂祭が行われており、その時の青白幕でしょうか
幕が張られています。








一の鳥居をくぐり、参道の先には
二の鳥居が見えます。

参道両脇には、昨日の葵祭の観覧席が残ってます。









その参道を進んで行くと、右手に
馬場殿が見えてきます。











その馬場殿を正面から見たところ。












馬場殿です。












参道を挟んで馬場殿と反対側には、
神馬社があります。











神馬 神山号と標札が掛かってます。

そして、神山号の写真の下に、
神山号の出社日が記載されており、
この日は出社日ではありませんでした。








二の鳥居です。

二の鳥居の向こうに見える建物は、細殿です。










二の鳥居の横にあった賀茂別雷神社
(かもわけいかづちじんじゃ)、
通称、上賀茂神社の境内案内図です。




















そして、世界遺産「古都京都の文化財」の説明です。



















賀茂別雷神社の創建は古く、7世紀後半にはすでに有力な神社となっており、さらに平安建都以降は
国家鎮護の神社として朝廷の崇敬を集めていました。社殿は11世紀初頭までに現在に近い姿に整え
られましたが、その後衰微し、寛政5年(1628)に再興されました。
この時の整備は境内全体におよび、記録や絵図を参考に平安時代の状況が再現されています。
再興後は本殿造替が7回実施されており、現在の本殿と権殿は文久3年(1863)に再建されたものです。


上賀茂神社と謡曲「賀茂」の説明です。

この説明には、秦氏の妻女の玉依日売…
とありますが、
上賀茂神社の公式Webサイトの内容と
微妙に異なります。

公式Webサイトに紹介されている神話は
以下です。

神代の時代に一本の丹塗矢が
降って来ました。山背国に移り住んだ
賀茂一族の姫、賀茂玉依比売命
(かもたまよりひめのみこと)が
石川の瀬見の小川で身を清めている時、
川上より流れて来た丹塗矢を持ち帰ります。
その矢を床に祀り休んだところ懐妊し
御子を産まれます。
その御子が元服を迎えた時、
祖父の一族の長、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が神々と祝宴を催します。
そして、御子に「父と思う神に盃をすすましめよ」と申され、盃を渡したところ、
御子は 「我が父は天津神なり」と言って、盃を天井に向けて投げ、甍を破って雷鳴と共に
天へ昇ってしまわれました。
そして、残された賀茂建角身命、賀茂玉依比売命は御子に会いたいと乞い、神迎の祭を行ったところ、
天より神として、神山へ御降臨されました。
その御子神が、賀茂別雷大神で、そのお祭りを始めた事が、上賀茂神社の起源となってます。

天武天皇の御代、白鳳6年(678)には、山背国により賀茂神宮が造営され、
桓武天皇による平安京遷都以降は、皇城鎮護の神、山城国一之宮として歴代の天皇が行幸、奉幣祈願され、
明治以降、大東亜戦争終戦まで、伊勢の神宮に次いで全国大社の中でも官幣大社の筆頭となりました。

二の鳥居を抜けると、細殿(ほそどの)があります。

細殿の前には一対の円錐形に砂が盛られた
立砂があります。









立砂の説明です。

賀茂別雷神が降臨したと言われる
神山(こうやま)をかたどり、一種の神籬(ひもろぎ)で、
神を招く憑代(よりしろ)の役割りを果たしています。

この立砂は鬼門などに撒く清めの砂の起源とされて
います。







細殿(ほそどの)です。

細殿は古くから天皇、斎王、上皇の参拝の際に
入御され装束等を整える御殿、著倒殿(ちゃくとうでん)で、
重要文化財です。








細殿の横を進んで行くと、御手洗川が流れており、
樟橋が架かってます。

この樟橋を渡ると長生きするという言伝えがあって
長寿橋とも呼ばれてます。

樟橋の向こうに見えるのは、楼門です。











樟橋を渡る手前、右手には手水舎があります。












その手水舎の南東側には、重要文化財の
橋殿(はしどの)が建ってます。

橋殿の手前で、御手洗川と御物忌川が合流し、
ならの小川となり、その上をまたぐように
橋殿は建てられています。

橋殿の真下を流れる川は、人間界と神域の境界であり、
橋殿が人間界と神域をつないでいます。




樟橋を渡る手前、左手には、末社の橋本社
があります。

祭神は、衣通姫神(そとおりひめのかみ)です。

衣通姫神は、美しさは衣を通して耀いたと
言われています。






樟橋を渡りながら、南東を見たところ。

中央を流れる御手洗川に、左から合流している川が
御物忌川で、合流した先が、ならの小川です。

ならの小川の上です。
中央の建物は、橋殿です。

右端に見える屋根の一部は、手水舎です。









樟橋を渡り、楼門へ向け歩いて行きます。

左は、楼門で、
右を流れる川は、御物忌川です。









楼門の前、御物忌川に架かる橋は、玉橋です。












楼門は、朝早いせいか、閉まってました。












楼門です。












楼門から回廊に沿って、奥へ進んで行くと、
末社の川尾社があります。

祭神は、罔象女神(みつはのめのかみ)です。

罔象女神は、水の神で、御物忌川を神格化した守護神です。







回廊を東へ回り込んで、回廊越しに、回廊の内側方向を
見たところ。











その回廊の東側には、伊勢神宮遥拝所があります。












引き返し、玉橋の東に位置する片岡橋を
渡ります。

片岡橋は屋根がついており、渡って
片岡橋の屋根の内側をふり返ったところ。








片岡橋を渡り、片岡橋(中央)と、片岡社(右端)を
西側から見たところ。











片岡社の正式名は、
片山御子神社で、
賀茂別雷神社の摂社です。

その片山御子神社の説明です。


















祭神は、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷神の母神で、
賀茂玉依比売命(たまよりひめのみこと)です。

恋愛成就、子授け、安産の神様として
知られています。












また、源氏物語の作者の
紫式部が片岡社を
参拝祈願された際に
詠まれた歌が以下です。

ほととぎす
 声まつほどは
  片岡の
もりのしづくに
   立ちやぬれまし

まだ見ぬ愛しい人の
声を待つ間は、
この片岡社の梢の下に立って
朝霧の雫に濡れていましょう。





その片岡社です。

















葵の葉っぱをかたどった絵馬が
たくさん奉納されています。

その絵馬には、縁結びと書かれてました。









玉橋越しに、楼門を見たところ。

この玉橋は、神事で神官が渡る際にのみ使用され、
普段は注連縄が張られ、一般の人は使用できません。














中央左よりは、橋殿です。

中央右よりの木の陰の建物は、細殿です。










その橋殿の内部です。












細殿の内部です。












左は細殿、右は橋殿です。












左が橋殿、右は土屋(つちのや)です。

土屋は、神主以下の社司の著到殿として
使用されていた建物で、現在は祓所として
使用されています。








そして、二の鳥居へ向け戻って行くと、
左手に楽屋(がくのや)があります。

楽屋は、神仏習合時代に供僧が用いた建物です。









二の鳥居を挟んで反対側、右手に
献酒された酒樽が積んであります。
















二の鳥居をくぐり、中をふり返ったところ。

右側に楽屋が見えます。










そして、一の鳥居へ向かいながら、
馬場殿を見たところ。

その向こうに見える赤い柱は、三の鳥居の一部です。









一の鳥居へ向け、戻って行きます。












その参道の西側、芝生の広場の端に大木、
見返りの桐があります。

賀茂祭に際しては、この芝生の上が馬場になり
賀茂競馬(かもくらべうま)が行われます。

その賀茂競馬では、この桐の木の前で、
キリと見返り、馬上の姿を整えます。










一の鳥居を出て正面にあったお店です。

京漬物すぐきのお店、すぐきや六郎兵衛や
上賀茂名物のやきもちのお店、葵屋やきもち総本舗が
あります。








一の鳥居を出て、一の鳥居の方向をふり返ったところ。

中央の標石には、賀茂大社とあります。











■賀茂川

上賀茂神社を出て、次は下鴨神社へ向け、
賀茂川沿いを歩きます。

上賀茂神社の門前に位置する御薗橋の袂から
河川敷の遊歩道に下りて、下流へ向け歩きます。











遊歩道を下流へ向け歩きます。












チュウサギがいました。












上流をふり返ったところ。












河畔には大木が並んでいます。












河畔の大木です。












土手の上にマガモ発見です。












マガモです。












カメラの気配を嫌ったのか、飛び立ちました。












でも、すぐに遊歩道の目の前に降り立ちました。












マガモです。

中央が雄で、左側が雌です。










マガモの雄です。












マガモの雄と雌です。












一緒に歩いてます。












京都府立植物園の西側、
北山大橋から北大路橋の間の区間は、
特に、半木の道(なからぎのみち)と
呼ばれています。

その半木の道を下流に向け歩きます。







アオサギがいました。












アオサギです。

















アオサギ。

















アオサギ。

















半木の道は、桜の季節になると、
八重紅枝垂桜でできる桜のトンネルで有名です。

今は季節を外れたので、桜を見る事はできませんが、
桜棚が続きます。








下流へ向け歩きます。












ところどころにベンチがあり、休憩も可能です。












歩いて来た上流をふり返ったところ。












北大路橋を過ぎ、更に下流に向かいます。












出雲路橋の東側橋下にあった出雲路橋と鞍馬口、そして、鞍馬街道の説明です。




















絵は、吉田初三郎 「洛北交通名所図会」(「洛東洛西洛南洛北京名所交通図絵」より)です。
京都府立総合資料館に所蔵されています。

鞍馬口は、出雲路橋の西詰付近を指し、出雲路口とも称されます。
また、京都と諸国とを結ぶ主要な街道の出入り口である「京の七口」の一つとして知られています。

鞍馬街道は、洛中より門前町鞍馬を経て、若狭国、小浜へと続く道です。
古来、魚介や塩などを日本海から運ぶ為の道で、鯖が多く運ばれた為、若狭街道と共に鯖街道とも呼ばれています。


そして、更に下流の葵橋へ向け歩きます。












川の中に亀を発見しました。












葵橋が目の前です。













■河合神社

葵橋から、下鴨本通りへ入り、下鴨神社へ向かいます。

糺の森(ただすのもり)の標石があり、
その奥に、河合神社の赤い鳥居が見えます。














河合神社の赤い鳥居です。

下鴨神社へ行く前に、河合神社へお参りします。










赤い鳥居の手前にあった下鴨神社境内図です。




























赤い鳥居の横にあった河合神社の説明板です。






















河合神社は、下鴨神社の摂社で、祭神は、神武天皇の母、玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。


鳥居をくぐると、反対側にも赤い鳥居があり、
二つの鳥居の間に神門があります。











そして、鳥居を入ったところにあった手水舎です。












神門の正面には、三井社、別名、三塚社が
あります。

祭神は、以下です。
 中社: 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
 西社: 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
 東社: 玉依媛賣命(たまよりひめのみこと)

賀茂建角身命は、古代の京都を開いた人物で
京都の守護神として祀られています。
伊賀古夜日賣命は、その妻で、
玉依媛賣命は、その娘です。

神門です。












神門を抜けると、舞殿があります。












その舞殿の西側です。

中央は、六社(むつのやしろ)です。

右から、諏訪社、衢社(みちしゃ)、稲荷社、竈神、
印社、由木社の六つの社が
長屋形式に一つにまとめられています。

いずれも衣食住の守護神が祀られています。




舞殿の奥には、拝殿があります。












その拝殿です。












拝殿に向かって、右側には、鏡絵馬が
奉納されています。











鏡絵馬の書き方の説明です。

手鏡の形をした絵馬に、描かれた顔を
自分の顔に見立て、化粧品等でお化粧し美しく顔を仕上げ、
裏面に願い事を書いて奉納します。

祭神の玉依姫命は、
玉のように美しく美麗の神として信仰も深く、
美麗祈願の絵馬として鏡絵馬の授与が
行われています。



奉納された鏡絵馬の前から、舞殿を見たところ。












世の無常と人生のはかなさを随筆として著した
方丈記の作者、鴨長明の方丈が再現されています。

鴨長明は、河合神社の禰宜、長継の次男として生まれ
思うに任せない人生を省みた晩年の長明は、
隠遁と放浪の生活を始めました。

3m四方の簡素な組み立て式の住み家を
荷車に乗せ引いて大原辺りを転々と移り住んだと
言われてます。



その鴨長明の説明です。



















新古今和歌集に採録された鴨長明の歌に以下があります。

  石川や 瀬見の小川の 清ければ
     月も流れを たずねてぞすむ

賀茂神社がある石川の瀬見の小川の流れが清らかで
月もこの流れを探し求めて澄んだ影を映しています。

河合神社の東側の鳥居を出ると、
下鴨神社の馬場と表参道があり、
その馬場と表参道の間を、
小さな小川が流れています。

これが瀬見の小川です。












下鴨神社の参道側から、
河合神社へお参りする人の為の
案内です。














瀬見の小川に架かった小さな石橋、紅葉橋の上から見た
瀬見の小川です。

















■下鴨神社

下鴨神社の表参道を北へ向かいます。

周囲は、縄文時代から生き続ける糺の森に
囲まれています。

そして、左側には、参道中央を流れる瀬見の小川があります。












表参道を進んで行くと、雑太社(さわたしゃ)が
あります。

祭神は、神魂命(かんたまのみこと)です。

神魂命は、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命の
先祖です。

また、糺の森の馬場で、日本初のラグビーの試合が
行われた事もあり、
かつ、神魂命の魂は玉に通ずるとして、
ラグビーの聖地となってます。

赤い鳥居の横には、ラグビーボールの形をした
絵馬がたくさん奉納されています。

更に参道を進んで行くと、
賀茂斎院歴代斎王 神霊宮があります。

賀茂斎院の制が設けられたのは、弘仁元年(810)の事で
初代斎王は、嵯峨天皇の第八皇女の有智子内親王が
4歳の時に卜定され、
以後、鎌倉時代の後鳥羽天皇の皇女、禮子内親王が
建暦2年(1212)に退下するまで35代約400年に渡って
代々皇女が斎王として在位しました。




参道を進んで行くと、注連縄を巻かれた御神木が
立っています。
















ここ糺の森は、樹齢200年から600年の樹木が
約600本数えられ、貴重な森となってます。
















木の根元に施された矢来です。












木が倒れて根っこが残った神木です。
注連縄が巻かれています。
















前方に南口鳥居が見えてきました。

その手前の橋の下は、奈良の小川が流れており
瀬見の小川に繋がっています。









現在の奈良の小川の少し南側に
鎌倉時代の下鴨神社の様相を伝える
鴨社古図に描かれた小川の一部が
発掘調査で見つかっており、
復元されています。

小川の上流に奈良殿神を祀る無社殿社地の
ナラノキ林を流れていることから、
奈良の小川と呼ばれています。












また、古くは糺の森の間を分けて、
幾筋の細い参道がありました。

その参道は、烏の縄手と呼ばれてました。

烏とは、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命が、
ヤタカラスと呼ばれている事からきており、
また、縄手とは、細い長い道を指しています。









これは、現在の奈良の小川です。












南口鳥居です。












南口鳥居です。












その南口鳥居の前にあった世界遺産「古都京都の文化財」の説明です。

























南口鳥居を抜けると、楼門が見えてきます。












その楼門です。

下鴨神社は、正式には、
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼びます。

祭神は以下です。
 西本殿: 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
 東本殿: 玉依媛命(たまよりひめのみこと)

西本殿には、農耕を広め民生の安定に努めた
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
国家安泰、五穀豊穣の神として祀られています。

東本殿には、賀茂建角身命の娘、玉依媛命
(たまよりひめのみこと)が、縁結び、安産、育児を
司る神として祀られています。

崇神天皇7年(BC90)に神社の瑞垣の修造が
行われた記録があり、それ以前から祀られていたと
考えられています。
そして、糺の森の発掘調査で縄文時代の土器や、
弥生時代の住居跡が発掘され、
それを裏付けています。
続日本紀の文武天皇二年(698)には、
葵祭に多くの見物人が集まるので警備するようになり、
盛大なお祭りが行われていた事がわかってます。
平安時代には、国と首都京都の守り神として
皇室の氏神様として、特別な信仰を受け、
式年遷宮や斎王の制度が定められた
特別な神社となってました。

楼門の西側には、賀茂御祖神社由緒記がありました。




















そして、下鴨神社境内図です。































楼門の手前右手には、
日供御料酒献備として、
酒造会社などから奉納された
樽酒が並んでいます。









楼門を入ると、正面に舞殿があります。












舞殿の西側に神服殿があります。

夏、冬の神服を奉製する御殿であった事から
神服殿と呼ばれてます。

殿内の開けずの間は、
天皇行幸の際の玉座となりました。






舞殿です。

葵祭では、勅使が祭文を奏上し、
その後、日本最古の東遊(あずまあそび)の舞が
奉奏されます。








舞殿の内部です。












舞殿の北側には、中門があります。












中門です。

入口にかかった門幕には、
菊の紋章が入ってます。

そして、門の左右には、
天皇行幸の際に雅楽が奏される
楽屋が設けられてます。





そして、中門の前、左右に鉾が立っており、
徳川将軍家の三つ葉葵の紋章の入った
幡がかけられてます。















ちなみに下鴨神社の神紋は、双葉葵です。












そして、中門の中には、えと十二支の社が
祀られています。











中門を入って左手に、三言社があります。
祭神は、右から
 ・志固男神…う、とりの守護神
 ・大巳貴神…いぬ、とらの守護神
 ・八千矛神…さる、たつの守護神
です。







右端が、三言社で、さる、たつの守護神の
八千矛神が祀られています。











幣殿です。

右端に、一言社で、うまの守護神、顕国魂神が
祀られています。









幣殿です。

幣殿の奥に、国宝の東本殿、西本殿があります。










中門の横には、献酒が並べられています。












中門を入って右手に、二言社があります。












その二言社の祭神は、左から、
 ・大物主神…い、うしの守護神
 ・大国主神…ねの守護神
です。









二言社の反対、中央側には、一言社があり、
祭神は、大国魂神で、み、ひつじの守護神です。

左が中門、中央が一言社、右が幣殿です。









右が幣殿、左が一言社で、大国魂神が
祀られています。











中門から外に出て、
南東から中門をふり返ったところ。











中門を出て、北東から、舞殿を見たところ。

その舞殿の向こうには、楼門が見えます。










舞殿の東側には、御手洗川があります。












その御手洗川の説明です。


















御手洗川は、葵祭の斎王代の禊の儀をはじめ、祓いの神事が執り行われるところです。

また、御手洗川に因んだ歌として、

   君がため 御手洗川を 若水に
      むすぶや千代の 初めなるらむ
              源俊頼 後撰和歌集

帝の為、御手洗川から、歳の初めに献上する水を、両手で掬う事は、帝の千代のはじめとなるだろう。

舞殿の東側には、御手洗川の上に建てられた
橋殿があります。

橋殿は、正月や、9月の明月管絃祭の神事などで
神事芸能が奉奏されます。








その橋殿の上流に、赤い輪橋(そりはし)があります。

そして、季節が異なるので、咲いてませんが、
輪橋周辺の梅は、尾形光琳が紅白梅図屏風(国宝)に描いており、
光琳の梅と呼ばれています。













橋殿のすぐ横の橋を、御手洗川の東岸に渡ると、
細殿があります。











細殿の説明です。

歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の
御幸の行在所(あんざいしょ)となり、
御所を付けて細殿御所と呼ばれてます。















輪橋(そりはし)の手前の鳥居です。
その向こうに輪橋が見えます。











細殿の北側には、注連縄で囲われた
解徐所があります。











解徐所の説明です。

解徐所は、葵祭にさきがけた
斎王代御禊儀をはじめ
年中行事の樹下神事(御祓い)を
斎行される場所です。













御手洗川、または、御手洗池です。

土用になると池の周辺や川の底から
清水が湧き出る事から賀茂の七不思議にかぞえられ、
湧き上がる水泡の姿を団子にかたどり、
みたらし団子の発祥と伝えられてます。

土用の丑の日に、この池の清水に足をつけると
疫病や脚気にかからないと伝えられ、
無病息災を祈ってお祓いをうける
足つけ神事(御手洗祭)が行われます。


その御手洗池の向こうには、井上社、
別名、御手洗社があります。











その井上社の説明です。

井戸の井筒の上に祀られたことから
井上社と呼ばれてます。

葵祭にさきがけた斎王代御禊儀、
土用の丑の日の足つけ神事、
立秋前夜の矢とり神事が
御手洗池で行われます。







井上社の説明です。






















井上社の前の橋を、対岸へ渡り、
井上社をふり返ったところ。











そして、御手洗川を見下ろしたところ。

斎王代御禊儀では、斎王代が川へ下りて
両手を浸され身を清めます。

中央には、木の陰になってますが、
輪橋の前の赤い鳥居です。
左に、細殿、その隣に橋殿が見えます。





御手洗川です。

木の陰になってますが、
輪橋の前の赤い鳥居が見えます。









中央に輪橋、その向こうに楼門を見たところ。

















左は、舞殿です。

右に、中門の西側にある授与所が見えます。










右が、舞殿です。

その向こうに楼門が見えます。










楼門を出て、右手、西側に、
日供御料初穂献備として奉納された
米俵がありました。










表参道を戻って行くと、相生社があります。

相生社は、縁結びの霊験あらたかな社として
信仰を集めており、
祭神は産霊神(むすひのかみ)です。

この社の左に、連理の賢木(れんりのさかき)が
祀られています。





注連縄が祀られている木が、連理の賢木です。

この連理の賢木は、2本の木が一本に結ばれ、
その根元に子供の木が芽生えており、
相生社の縁結びの霊験が現れてます。

現在の木は、4代目と言う事です。






更に表参道を戻って行くと、さざれ石があります。

さざれ石は、君が代にも歌われており、
小さな石が集まって、年とともに成長し、
岩となる神霊の宿る石と信じられています。

しかし、実際は、火山の噴火により、
石灰岩が分離集積して凝固した岩石の事です。





戻る先に、南口鳥居が見えます。












南口鳥居を出て、表参道を戻って行くと、
左手に手水舎があります。











参道にいたカラスです。

下鴨神社の祭神の賀茂建角身命は、
その昔、八咫烏に化身して、
神武天皇を熊野から大和へ
道案内したと伝えられています。

八咫烏は、神話の世界の烏で三本足ですが、
このカラスは、2本足でした。




表参道を戻って行くと、右手に、
来る時に見た賀茂斎院歴代斎王 神霊宮が
見えてきます。










続いて、雑太社(さわたしゃ)が見えてきます。












糺の森の中、表参道を南へ、戻って行きます。

















表参道を横切る御蔭通りへ出ました。

その御蔭通りを渡り、更に南へ進みます。










表参道を南へ進みます。












前方へ赤い鳥居が見えてきました。

















参道を南へ進みます。












赤い鳥居が大きくなってきました。

右の塀の中は、旧三井家下鴨別邸です。










赤い鳥居をくぐった先、右手に
旧三井家下鴨別邸の門があります。











その旧三井家下鴨別邸の
説明です。












この日は、中には入らず、塀の外から、
木立の陰で見えにくいですが、3階に四方を見渡せる
望楼を持つ邸宅を見たところ。










3階に四方を見渡せる望楼を持つ邸宅です。












旧三井家下鴨別邸の門の前から、少し南へ進み
鳥居をふり返ったところ。

下鴨神社の正式名、賀茂御祖神社の石標が
ありました。









■鴨川デルタ

東から流れてくる高野川と、
西から流れてくる賀茂川が合流する三角地帯は、
鴨川デルタと呼ばれています。
かつては、糺河原と呼ばれていました。

その突端には、高野川を渡る河合橋と、
賀茂川を渡る出町橋が掛かっています。

下鴨神社の参道から、葵公園を抜けたところに
出町橋がありました。



そして、鴨川デルタの突端へ向かいます。

右は賀茂川です。
この先、高野川と合流した先は、鴨川になります。








かもがわマップがありました。


























右が賀茂川で、左が高野川です。
その二つの川が合流した先が、鴨川です。

そして、その鴨川に架かる橋、賀茂大橋が
前方に見えてます。








そして、鴨川デルタの突端には、
高野川、鴨川、それぞれの川を渡れるように
飛び石が並んでいます。

こちらは、高野川を渡る飛び石です。








こっちは、鴨川を渡る飛び石です。












近くにマガモがいました。












飛び石を伝って賀茂川を渡ります。












亀の形をした飛び石がありました。












賀茂川の対岸へ渡って、
鴨川デルタの突端を見たところ。

左端の橋は、出町橋です。









鴨川デルタの突端です。












高野川と賀茂川、二つの川が合流した
鴨川に架かる橋、賀茂大橋から、
先ほど渡って来た飛び石を見下ろしていたら、
千鳥の形をした飛び石もありました。









賀茂大橋から、賀茂川、そして、飛び石を
見下ろしたところ。











これは、亀の形をした飛び石です。












右が高野川、左が賀茂川、二つの川に挟まれて
鴨川デルタがあります。











この後、賀茂大橋を渡り、銀閣寺、哲学の道を通って、大宝神社、熊野若王子神社、南禅寺、青蓮院門跡、
知恩院、八坂神社を周りました。



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