京都は、何度も訪れた事がありますが、それでも、訪問できて無い場所があります。
京都を全て見て周る事は無理だと思いますが、そして、昨年(2024年)10月に訪問したばかりですが、
再度、三泊四日で再訪しました。
初日は、桂離宮、松尾大社、六角堂、高瀬川一之舟入、八坂神社へ、
二日目は、伏見稲荷、光明院、東福寺、泉涌寺、二条城へ、
三日目は、寂光院、三千院、京大時計台、吉田神社へ
そして、四日目は、くろ谷金戒光明寺、平安神宮、京都府庁旧本館、護王神社を訪ねました。
広島始発の新幹線で新大阪へ、
JR京都線で高槻駅へ向かい、
歩いて10分程の所にある阪急京都線の高槻市駅へ
向かいます。
写真は、JR京都線の高槻駅です。
阪急京都線の高槻市駅から、桂駅へ向かいます。
写真は、阪急京都線の高槻市駅です。
阪急京都線の桂駅です。
その桂駅を見たところ。
桂駅を出て、桂離宮へ向かいます。
桂駅から東へ進んで行くと、
京都府道142号線に出て、
府道を道なりに、北東へ進んで行くと
桂川に架かる桂橋に出ます。
桂離宮の東側を流れる桂川を、
桂橋の上から見たところ。
桂川の上流に見える橋は、
阪急京都線の桂川橋梁です。
桂橋の上から、南側、下流方向を見たところ。
桂川右岸の土手を北へ進んで行くと
桂ポンプ場があります。
その敷地内に、徳大寺樋門の遺構があります。
桂川の氾濫を防ぐ為の堤防の整備に伴い、
徳大寺樋門によって、
桂川から桂離宮の池泉回遊庭園へ
引き水が行われていました。
明治になり、徳大寺樋門の改築が行われましたが、
その引き水は、井戸水に代わるようになります。
そして、平成になると、桂樋門が新設され、
徳大寺樋門は廃止されています。
桂離宮へ到着し、受付への道を進みます。
左手に表門があります。
この表門は、特別の場合以外、
普段は開けられる事はありません。
表門から穂垣に沿って、
南へ回り込んで進んで行くと
当日参観受付の白いテントがあります。
事前に申し込んだ参観受付時間より、早く着いた為、
受付の係に、近くの見所を聞いて出かけてみます。
見所として聞いてやって来た御霊神社です。
正面は、東鳥居です。
その御霊神社の
説明です。
下桂御霊神社
とも呼ばれ、
貞観18年(876)に、
平安朝の元勲で、
嵯峨天皇、空海と
共に三筆と称せられた
橘逸勢が、祭神として
祀られています。
橘逸勢は、
最澄や空海と一緒に
唐に渡った遣唐使の
一員だった事も
ありますが、
その晩年、突如、謀反の疑いで捕らえられ、伊豆への流罪の途中に病で亡くなります。
橘逸勢は、
生前に非業の死を遂げ、天皇家に対して怨みを持つ怨霊(御霊)となって
天災を引き起こすとされる八所怨霊の一柱です。
東鳥居をくぐると正面に、
舞楽殿(拝殿)があります。
右の建物は、能舞台です。
その能舞台です。
背後の鏡板には、老松が描かれています。
一度、境内を出て、南へ回ると、
南鳥居があります。
南鳥居を入って行くと、
舞楽殿(拝殿)があります。
そして、舞楽殿の奥、西側に本殿があります。
御霊神社を出て、北に進んで行くと、
極楽寺があります。
門は開いてましたが、中に入っていいものか?
雰囲気に気圧されながら、
門の前から庭を見たところ。
門の前から、庭と本堂を覗いたところ。
極楽寺は、天文18年(1549)、
下桂の地侍の中路壱岐が称念上人を請来し、
一寺を建立したのに始まります。
そして、極楽寺は、桂離宮に近接しており、
桂離宮の造営に関わった
智仁、智忠両親王をはじめ、
八条宮家代々の位牌所になっています。
桂離宮の参観受付時間に合わせて、桂離宮へ戻ります。
そして、参観者出入口で受付を済ませて、黒御門を入り、参観者休所で、出発を待ちます。
その参観者休所にあった桂離宮俯瞰図です。
また、参観者休所にあった別の桂離宮俯瞰図です。
桂離宮は、古くは」平安時代に貴族が別荘を営んだ桂の地に、
八条宮家の別業(別荘)として、初代智仁親王により創始されました。
桂別業の造営時期は不明ですが、元和元年(1615)以降、寛文二年(1662)頃までの約50年の間に、
ほぼ現状の姿に整えられたと考えられています。
智仁親王が古書院を造営し、
二代智忠親王が中書院の増築、後水尾上皇の御幸に際し新御殿の増築等、大規模な造営を行ってます。
参観開始時間になり、御庭口門から苑内に入ります。
参観は、自由参観は不可で、
職員の方の案内に従って参観します。
苑内に入ると、すぐに左に折れ、土橋を渡って進む
御幸道があります。
土橋を渡り、御幸道から池の方を見たところ。
中央の松は、住吉の松です。
そして、土橋をふり返ったところ。
土橋は、栗材を使用した木橋の上に、
土を盛って造られています。
御幸道を北東へ進んで行くと、
左手に御幸門があります。
御幸門は、茅葺切妻造りの簡素な門です。
御幸門を外に出て、
御幸門をふり返って見たところ。
御幸門は、
八条宮二代智忠親王が御水尾上皇をお迎えする為に
造られた門で、竹門、竹御門と呼ばれ、
門番所も付属した門でした。
その後、門は無くなっていましたが、
八代家仁親王が再建し、現在の形になっています。
御幸門の前から、北西、外へ向け道が伸びており、
その先に、表門が見えます。
この表門から御幸門へ続く道は、
皇族、来賓の方々が利用される道となっています。
そして、その道幅は、
表門側が2.4m、御幸門側が4.8mと、
道幅が変化しています。
これは、表門を入り、御幸門へ向かう時、
御幸門が近くに感じられるように、
また、御幸門を出て帰る時は、
まだ帰りたくないと気持ちから、
表門が遠く感じるように
配慮されているという事です。
御幸門を苑内に戻り、御幸道、南西方向を見たところ。
御幸道の先には、土橋が見えます。
御幸道は、
道幅の中央に膨らみを持たせた柔らかな印象の
小石を敷いた苑路になってます。
この御幸道の小石敷きは、
あられをまき散らしたかのような風情に
小石を敷き並べることから、
「あられこぼし」と呼ばれています。
ちなみに、この小石は、桂川水系から採取され、
石の上面が平滑で、縦長形状の石が選別され、
約1㎡あたり450~500個使用されているという事です。
その御幸道を南西へ少し戻ると、
左へ折れて進みます。
右手に池が見えます。
池泉回遊式庭園を、職員の人の後について、
順路に従って、時計回りに回って行きます。
進んで行くと、外腰掛に出ます。
外腰掛は、松琴亭における茶席のお待合として
造られた茅葺寄棟造りの建物です。
扉の中は、砂雪隠と言い、トイレにあたりますが、
着物の着崩れを直す程度で、
ほとんど使用されることは無く、
飾雪隠と呼ばれています。
外腰掛の前庭の築山には、
智仁親王と親交があった薩摩藩島津家の献上と
伝えられる蘇鉄が28本植えられています。
南国の植物の為、冬にはコモが巻かれています。
外腰掛に腰を下ろして、右手には
桝を二つ重ねたような二重枡形手水鉢と
石灯籠があります。
二重枡形手水鉢の枡形は、
収穫を量る晩秋を象徴していると
解釈されています。
外腰掛の延段です。
漢字の書体に、真書(楷書)、行書、草書の三種類があり、
茶道、華道、絵画など各分野で「真行草」の語で
表現の違いを表すようになりました。
桂離宮では、苑路の延段に「真行草」が使われる事があります。
外腰掛の前にある延段は、「行の延段」と呼ばれ、
細長い切石で緊張を残しながら、切石の内側を自然石のまま残し、
調和を図って、少しくだけた雰囲気を醸し出しています。
その「行の延段」は、客人を外腰掛の前から、
天橋立を模した池の庭に導いています。
半島のように伸びた陸地から、
二つの島を、橋でつないで
天橋立を模したと言われています。
ちなみに、池の水は、工事の為、抜かれています。
左側に、白く扁平な石が敷き詰められ
池に突き出したエリアは洲浜です。
その洲浜の先端に灯籠が据えられており、
岬の灯台に見立てて海を演出しています。
その天橋立です。
右から伸びた半島から平橋と反橋で二つの島を
つないでいます。
天橋立です。
天橋立を見ながら、池の回りを進みます。
中央に古書院、その右側に
修繕工事中で覆屋に覆われた月波楼が見えます。
右に見える灯籠は、
洲浜の突端に据えられた岬灯籠です。
この岬灯籠は、比較的小型の灯籠で、竿が無い為、
地面に近い位置に火が灯されるのが特徴です。
池畔に沿って進むと、
一本の切石を渡した橋の先に、
松琴亭があります。
松琴亭は、
桂離宮で最も格の高い茅葺入母屋造りの
茶亭です。
その屋根の妻に、「松琴」の扁額が見えます。
後陽成天皇の宸筆で、
銘は拾遺集巻八雑上の
「琴の音に峯の松風通ふらし…」の句から
採られています。
その松琴亭に向け池畔を進みながら、
古書院の方、西を見たところ。
その反対側、東を見ると、木立の中に、
卍字亭が見えます。
卍字亭は、茅葺宝形造りの四阿(あずまや)で、
四隅に幅、深さが異なる腰掛を互い違いに設け、
その形が卍字に似ている事から、
卍字亭と呼ばれています。
または、四つ腰掛とも呼ばれ、
松琴亭での茶会の際の中立(なかだち)の
腰掛として用いられています。
この一本の長い切石を渡した橋を渡ると、
松琴亭です。
この石橋は、長さ6m、幅70cmで、
京都白川産の花崗岩が使用されており、
白川橋と呼ばれています。
また、橋を渡った袂には、
水辺に下りる石段があり、
流れをそのまま手洗いに見立て、
流れ手水と呼ばれています。
手水を使った後は、正面に茶室のにじり口があります。
橋を渡り、ふり返って見たところ。
にじり口を入ると、茶室です。
その茶室は、丸畳三畳の客座と、台目畳一畳の点前座からなる
三畳台目(さんじょうだいめ)の本格的な物です。
また、明り障子窓が八つ設けられており、
「八つ窓の囲い」または「八窓席」と呼ばれています。
左端の白い戸は、給仕口です。
茶室の北側は、二の間です。
二の間の襖には、藍色の奉書紙が
用いられています。
二の間の右、西側、開いた襖から見える部屋は、
一の間です。
一の間の前、北側には、竈構え(くどがまえ)があります。
竈構え(くどがまえ)です。
松琴亭の前から、西を見たところ。
古書院、その右側に
修繕工事中で覆屋に覆われた月波楼が
見えます。
この月波楼は、今は工事中ですが、
元々、観月の茶室として建てられた物で、
秋の月波亭と言われています。
一の間です。
一の間の襖や、床の間の
藍と白の市松模様(石畳模様)が目を引きます。
一の間です。
一の間は、鉤の手に折れた形状をしており、
正面の床の間に対し、折れ曲がった西面には、
暖をとる為に、一畳大の石炉が設けられています。
その上には袋戸棚があります。
秋の月波楼に対して、
低い位置にある松琴亭は、冬の松琴亭と呼ばれ、
暖をとる石炉も備えています。
中央の覆屋に覆われた工事中の建物は、
月波楼です。
松琴亭の西面です。
松琴亭の西側から、
一の間の内側を見たところ。
松琴亭の横、西側から、
池に沿って南東を見たところ。
右側の大きな中島へ渡る土橋が見えます。
池畔に沿って進みながら、北西を見たところ。
右端の木陰に松琴亭が見えます。
土橋を渡ると、正面に小山があり、
その小山を回り込んで上って行きます。
小山を上って行く途中に、松琴亭を見たところ。
小山を上りながら、北を見たところ。
中央左よりに、月波楼を覆う覆屋が見えます。
賞花亭の前に出て、北西を見たところ。
中央右よりに古書院が、
左側に新御殿が見えます。
古書院の屋根の妻を拡大して見たところ。
その屋根の向こうには、愛宕山が遠望できます。
賞花亭です。
室内には、「賞花亭」の扁額が掲げられています。
そして、賞花亭は、
苑内で最も高い位置にある建物で、
峠の茶屋とも呼ばれています。
茅葺切妻屋根、皮付きの柱が用いられており、
屋根裏は、屋根裏を意匠として、
梁などの木材をそのまま見せる
化粧屋根裏天井になってます。
また、北側は、壁を無くして開放されており、
南側は、大きく竹の連子窓が設けられ、
質素なつくりの消夏の為の小亭になっています。
その賞花亭の内部です。
中央の土間を囲み、
正面の北側を開放にして、
コの字形に4枚の畳が敷かれています。
土間には竈があります。
北側を開放にして、コの字形に敷かれた畳と、
土間の竈です。
前庭から、北西方向を見下ろすと、
鉄鉢形手水鉢があります。
鉄鉢形の呼称は、
禅僧の托鉢用の鉄鉢に形が似ている事から
そう呼ばれています。
桂離宮には、四季を楽しむ4つの茶屋、
秋の月波楼、冬の松琴亭、春の賞花亭、夏の笑意軒が
散在しており、
春の賞花亭の庭においては、「春の花を賞す茶屋」にふさわしく、
花が咲くのかもしれません。
賞花亭の前から北を見たところ。
賞花亭から下り、園林堂へ向かいます。
途中、賞花亭を見上げたところ。
園林堂です。
園林堂の扁額には、御水尾上皇の宸筆です。
園林堂は、
現在は安置されているものはありませんが、
かつては、持仏堂として仏像や、八条宮家の位牌、
宮家と関りが深い細川幽斎を画いた掛軸や、
幽斎が詠んだ和歌の短冊、等が置かれていました。
建物の側面にある上部に曲線を持つ窓は、
火頭窓(花頭窓)と言い、禅宗様式の窓です。
また、正面扉の両横にある窓は、連子窓です。
園林堂の前から、南西を見ると、
池越しに笑意軒があります。
笑意軒は、
切り石を直線的に畳んだ人工的な汀線に面した
田舎屋風の茶室です。
茅葺寄棟造りの屋根に柿葺の廂を付けた
間口の長い建物です。
園林堂の前の土橋を渡り、
園林堂をふり返って見たところ。
園林堂は、桂離宮で唯一の本瓦葺宝形造りの持仏堂として
建てられた建物です。
柿葺の御殿と同様に、屋根をわずかに膨らみを持たせて、
柔らかな雰囲気を表現しています。
建物の正面には、
優雅な曲線を描く唐破風の向拝が付いています。
園林堂の南西に位置する笑意軒へ向かいながら、
園林堂を見たところ。
笑意軒前から、池越しに見た園林堂です。
笑意軒前から、北に、
古書院、中書院、新御殿を見たところ。
笑意軒です。
縁側のある口の間の前、上部に
後陽成天皇の弟にあたる曼殊院良恕法親王の筆による
笑意軒の扁額があります。
笑意軒の名前は、中国の古句「一枝漏春微笑意」からきており
「一枝が春を伝え、微笑みが自然とこぼれる」と言う
意味のようです。
縁側の前から、口の間、その向こうの中の間を通して、
その外、南側の田畑の景色を眺める事ができます。
中の間の奥の窓には、中敷居が入り、低い腰壁が設けられており、
細長い平行四辺形の金地が中央に設えられ、
左右に黒とえんじの市松模様のゴブラン織りビロードが
貼られています。
このビロードは、「唐渡り天鷲絨」と言われる舶来品です。
笑意軒の間取り図です。
(T.I.が作ったので、実際と相違があれば、
すみません。)
西から、
膳組所、7畳半の次の間、6畳の中の間、
3畳の一の間と一列に並んで、
中の間の北に4畳の口の間があります。
笑意軒の扁額の下には、
横並びに六つの丸い下地窓が設けられおり、
下地の組合せがそれぞれに違えてあります。
ちなみに、下地窓は、
土壁の一部を塗り上げずに、下地を見せて、
飾り窓とする窓の事を言います。
手前が口の間で、その奥が中の間、
そして、右側が次の間です。
部屋は襖で仕切られていますが、
天井は一つのつながりを持っており、
室内を広く見せる配慮がされています。
口の間から、奥の中の間を見たところ。
中の間の左側は、一の間です。
襖の引き手をよく見ると、櫂の形をしています。
笑意軒の扁額と、
六つの下地窓を見上げたところ。
中の間、その北側の口の間の西側にある
次の間を見たところ。
障子を開け放すと、
その向こうに広がる田畑、農作業等、
季節によって移り変わる風景を借景とし、
楽しむことができます。
次の間です。
次の間の西側、膳組所には、
袋棚があり、袋棚の小襖には、
たらし紋様の斬新な意匠が施されています。
次の間と、中の間、口の間とを仕切る襖の
次の間側には、襖絵が描かれています。
その水墨画は、狩野尚信の筆と言う事です。
笑意軒を出て、書院群へ向かいます。
木の陰になってますが、
左から、新御殿、楽器の間、中書院、古書院が
見えます。
書院群へ向け、池畔に沿って進みます。
笑意軒をふり返りながら、
笑意軒の前、船着場の北東角にある
三光灯籠を見たところ。
四角い火袋と傘で構成されており、
火袋には、三日月、丸、四角の窓が
施されています。
それぞれの形は、
月と日と星の三光を表しています。
東には、園林堂があり、
園林堂への土橋の手前、梅の馬場の脇にある
雪見灯籠です。
雪見灯籠の呼び名は、
琵琶湖に伸びる橋の先に建つ浮御堂に見立てて、
池のほとりに建てた灯籠を呼んだ「浮御堂」が
「雪見」に変化したと言われています。
そして、雪見灯籠は、棹や中台が無く、
傘は大きく、3脚、または、4脚の背の低い灯籠を言います。
梅の馬場の脇の灯籠は、
傘や、火袋が、上から見て六角形で、四脚になってます。
梅の馬場から北へ、書院群へ向け進みます。
左から、
新御殿、楽器の間、中書院、古書院が見えます。
左が中書院、右が古書院です。
桂離宮は、大きく3期に分かれて、
造営が行われています。
第一期:八条宮家初代智仁親王による
古書院の造営。
第二期:二代智忠親王による中書院の増築。
第三期:後水尾上皇の御幸に際し、
楽器の間や、新御殿の増築等、
大規模な造営
新しい書院は、古い書院に対して、南に接しながらも、西へずらして配置されており、
書院群を上から見ると階段状(雁行型)に斜めに並んでいます。
書院の建物は、桂川が増水した時の為に高床式となっており、床下部へは水を抜くための格子があります。
古書院です。
古書院の前、東側には、
月見台がつき出しています。
古書院の前、東側には、池があります。
池です。
古書院の北側にある月波亭です。
工事の為、覆屋に覆われていました。
順路に従い進み、古書院の御輿寄の前に出ます。
左端が古書院の御輿寄で、右が臣下控所です。
ちなみに、御輿寄は、
古書院に上がる為のアプローチです。
臣下控所の建物が折れ曲がった隅に、
縦長の切石の背の高い手水鉢があります。
古書院の御輿寄の前庭の灯籠です。
生け込み型灯籠の一種で、
江戸時代の大名で茶人の吉田織部が好んだ織部型灯籠です。
この灯籠は、頂上に宝珠があり、傘、火袋、四角形の中台を持ち、
竿の上部が横に膨らみ、根元に石像が彫られていいます。
茅葺切妻造りの中門です。
中門を出て進み、ふり返って中門を見たところ。
右手には、くろもじ垣と呼ばれる
くろもじ柴を縦に張り並べ、
半割の竹で押さえた垣があります。
参観をスタートした御庭口門の前へ
戻ってきました。
御庭口門を苑内に入った時、
正面に見える住吉の松です。
この住吉の松は、御庭口門を入った時、
正面の視界を遮るように生えており、
衝立の松とも呼ばれています。
見えそうで見えない、
庭の景観への期待感を持たせる演出と
言う事です。
土橋です。
皇族、来賓の方々が、表門から御幸門を入られ、
御幸道を古書院へ向かわれる時に渡られる橋です。
参観を開始した時に入った御庭口門を出ます。
そして、黒御門を出て、
地蔵院、華厳寺、月読神社を経由して、
松尾大社へ向かいます。