京都へは、子供の頃、学生時代と、何度か旅行で訪れた事があります。
直近では、2019年の5月に奈良・京都旅行で訪れました。
京都を全て見て周る事は無理ですが、
たまたま訪問した日が公開休止日で見れなかった場所や、初めての場所を少しでも見て周ろうと、
10月15日~19日の間(三泊四日)で再訪しました。
三日目は、鞍馬寺、貴船神社、蹴上インクラインを見て周りました。
京阪電車で出町柳駅へ行き、
叡山電車で鞍馬へ行きます。
その叡山電車へ乗り換える前に、
賀茂川と高野川が合流し鴨川になる
鴨川デルタへ行ってみます。
京阪電車の出町柳駅を出て、河合橋の上から、
高野川の上流方向を見たところ。
河合橋を西へ渡ると、
北側に、下鴨神社の糺の森、葵公園があります。
その反対側、南には、
高野川と賀茂川が合流し鴨川となる三角地帯、
鴨川デルタがあります。
鴨川デルタの突端へ向かいます。
左が高野川で、右が賀茂川で、
二本の川が合流し鴨川になります。
鴨川デルタの突端には、
川を渡る飛び石が並んでいます。
その向こうに見える橋は、賀茂大橋です。
飛び石をつたわって、
賀茂川を西へ渡ります。
水面を見ると、
小さな魚が泳いでます。
その魚です。
賀茂川を西へ渡り、北へ行くと、
出町橋の西側袂があり、
地下駐車場になってますが、
少し開けています。
その向こうに、枡形と言う文字が見えます。
この辺りは、
京都から大原を経て、福井の小浜へ通じる
若狭街道の出発または終着点で、
若狭で獲れた鯖が運ばれてきた事から、
若狭街道は、鯖街道とも呼ばれていました。
よって、運ばれてきた魚介類を売りさばく
地下駐車場のある開けた場所に、
枡形の市があったのかもしれません。
今は、地下駐車場のある開けた場所から、
西に向け、出町枡形商店街が伸びています。
写真は、その出町枡形商店街の入口です。
出町枡形商店街の前から南へ、
今出川通りへ出て、東へ、賀茂大橋を渡ります。
賀茂大橋の上から、鴨川デルタを見たところ。
鴨川デルタを挟んで、
左が賀茂川で、右が高野川です。
中央の橋は、出町橋です。
かつて、この橋から、
若狭へと鯖街道が伸びていました。
叡山電車の出町柳駅へ到着し、
電車へ乗って鞍馬へ向かいます。
出町柳駅へ停車していた電車です。
鞍馬へ到着しました。
乗って来た電車です。
外向きの座席があり、
ルーフのコーナー部まで窓が広がってました。
鞍馬駅へ展示されていた
鞍馬の火祭で使用される松明です。
この松明は少年用の中松明と言う事で
長さ約3.5m、重さ約60kgと言う事です。
ちなみに大人用の大松明は、
約120kgと言う事です。
火祭では、約200本の松明が、
鞍馬寺山門前に勢ぞろいします。
鞍馬駅の駅舎の横に、
デナ21と言う電車が展示されています。
デナ21は、
叡山電車開業直後の昭和3年(1928)から
平成5年(1993)までの約65年間走り続けた
と言う事です。
鞍馬駅をふり返って見たところ。
鞍馬駅前には、
大天狗のモニュメントが展示されています。
鞍馬駅を出て、鞍馬寺へ向かいます。
前方に鞍馬寺の仁王門と、仁王門へ続く階段が見えます。
鞍馬寺の仁王門と、仁王門へ続く階段です。
階段横に、鞍馬寺の標石があります。
階段を上りながら、来た道をふり返ったところ。
階段を上りながら、仁王門を見上げたところ。
仁王門の前、向かって右側の阿形の狛虎です。
鞍馬寺の本尊は、
護法魔王尊、毘沙門天、千手観音菩薩ですが、
なかでも、毘沙門天は、
寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に出現したとされ、
毘沙門天の使いの虎が大切にされています。
仁王門の前、向かって左側の吽形の狛虎です。
仁王門です。
仁王門は、明治44年(1911)の再建ですが、
左側の扉は、寿永(1182-4)の頃のものです。
向かって右側の阿形の仁王像です。
仁王像は、運慶の嫡男の湛慶の作と言われています。
向かって右側の阿形の仁王像です。
向かって左側の吽形の仁王像です。
仁王門を抜け、参道を上って行きます。
ここから先、本殿金堂に向け、九十九折参道が続きます。
平安時代、清少納言が、枕草子で
遠きて近きもの くらまのつづらをりといふ道
と綴っています。
右手に吉鞍稲荷社があります。
その吉鞍稲荷社です。
吉鞍稲荷大明神と茶枳尼天尊(だきにてんそん)が
祀られています。
参道を進むと、右手に
鬼一法眼社や、魔王の滝があります。
鬼一法眼社は、牛若丸、後の源義経に
六韜三略(りくとうさんりゃく)の
兵法を授けたと伝わる陰陽師、
鬼一法眼(きいちほうげん)が祀られています。
鬼一法眼は剣術の達人で
鞍馬八流の祖とされていますが、
牛若丸が兵法を習った鞍馬の天狗を、
鬼一法眼とする説もあります。
但し、訪問時は、2018年の台風21号の影響で、
損壊が激しかったお堂は無く、石鳥居が残るのみでした。
そして、魔王の滝です。
崖の上、石樋の先から水が流れ落ちています。
その背後の祠には、
護法魔王尊が祀られています。
参道を上って行くと、由岐神社が見えてきます。
由岐神社の石鳥居と、
その向こうに拝殿があります。
由岐神社は、
天慶3年(940)に平将門の乱(天慶の乱)が起き、
朱雀天皇の勅によって、
御所に祀られていた由岐大明神を
北方鎮護の為に、
鞍馬寺へ遷宮しました。
鞍馬の火祭は、遷宮の際に、
里人がかがり火を持って神霊を迎えた事に
由来します。
拝殿は、慶長12年(1607)、豊臣秀頼によって再建されたもので、
左右二つに分かれ、中央に通路がある割拝殿と言う
桃山時代の代表的な建築です。
その通路を抜けると、大杉が目に入ってきます。
杉の巨木です。
由岐神社の本殿に向け、階段を上ります。
右手に、末社の岩上社があります。
その岩上社の向かいに、
末社の冠者社があります。
岩上社です。
事代主命(ことしぬしのみこと)と
大山祇命(おおやまつみのみこと)を祀り、
古くから鞍馬の岩上の森に鎮座し、
山岳登山の安全を守っています。
冠者社です。
素戔嗚尊を祀り、もともと鞍馬町冠者町に鎮座し、
商売繫盛、家運隆昌の御利益があります。
更に階段を上ると、右手に末社の大杉社があります。
神木の大杉を、祭神として祀り、
古くから「大杉さん」として親しまれています。
この神木の大杉は、樹齢約800年、樹高約53mと言う事です。
左手には、末社の白長弁財天社があります。
弁財天のお使いの白蛇が祀られています。
白蛇は、福と金運を呼び込み、
家系繁栄、商売繫昌に御利益があります。
階段を上がると、
正面に由岐神社の本殿があります。
祭神は、
大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこな)の2柱を総称する
由岐大明神と、
相殿の八所大明神(はっしょだいみょうじん)です。
本殿の横に鎮座する末社の三宝荒神社です。
三宝荒神を祀り、
古くからこの地において
火の神や竈の神として信仰を受けています。
本殿前にあった鹿子木(かごのき)です。
クスノキ科に属し、樹高約17mあります。
樹皮のはげたあとが白く鹿の子模様になるのが特徴です。
由岐神社を出てすぐのところ、谷側に
川上地蔵堂があります。
川上地蔵堂は、
牛若丸の守り本尊の地蔵尊が祀られています。
そして、その反対側、山側に義経公供養塔があります。
義経公供養塔は、昭和15年に、
牛若丸が住まいした東光坊跡に建てられました。
その義経公供養塔です。
更に進んで行くと、箏曲稚児桜之碑があります。
筝曲 稚児桜は、明治44年に作曲され、
牛若丸と弁慶の出会いと主従の契りの場面を
歌う曲です。
この碑は、昭和12年の建立です。
その隣には、
愛と光と力の像「いのち」があります。
鞍馬山の本尊の尊天(宇宙の真理)を具象化したもので、
像の下部に広がる大海原は、一切を平等に潤す慈愛の心であり、
光かがやく金属の環は曇りなき真智の光明、
そして、中央に屹立する山は、全てを摂取する大地の力強い活力を
象徴しています。
そして、双福苑です。
この辺り一帯を双福苑と呼び、
天に聳える杉を玉杉大黒天、
または、玉杉恵比寿尊と尊崇し、
傍らには福徳の神の
玉杉大黒天、玉杉大黒天があります。
赤い橋に向かって左の祠が玉杉大黒天で
右の祠が玉杉恵比寿尊です。
九十九折参道を上って行くと、
中門が見えてきます。
中門です。
元来、山麓の仁王門の横にあって
勅使門または四脚門と呼ばれ、
朝廷の使いの勅使が通る門でしたが、
ここに移築されています。
中門です。
九十九折参道を上って行きます。
九十九折参道です。
九十九折参道を上って行きながら、
参道をふり返ったところ。
貞明皇后行啓 御休憩所跡があります。
大正13年、
大正天皇の皇后、貞明皇后が行幸の際、
休憩された場所です。
参道の途中に
小さな祠があります。
福寿星神の祠です。
七福神の福禄寿、寿老人が祀られています。
参道を上りながら、来た道をふり返ったところ。
参道を上って行きます。
参道を上って行くと、展望所があります。
その展望所からの景色です。
中央右より、遠方に比叡山が見えます。
その展望所の横に、
巽の弁財天社があります。
学芸、財宝を司る福神の弁財天が
祀られています。
その横に本殿金堂へ続く階段があります。
階段右手の建物は、転法輪堂、洗心亭です。
二階が転法輪堂で、
一階が無料休憩所、兼、ギャラリーの洗心亭です。
転法輪堂です。
転法輪堂には、伝重怡上人礼拝之仏、
木造阿弥陀如来座像が安置されています。
平安時代に13年間堂内に籠り、
毎日12万遍の弥陀宝号を唱え続けた重怡上人が、
6万字の弥陀宝号を書いて法輪に納めたのが、
転法輪堂の名前の由来です。
階段を挟んで、転法輪堂の反対側に
寝殿があります。
大正天皇の皇后、貞明皇后が行幸の際、
休憩所として建造されました。
寝殿造りの建物で、非公開です。
階段を上りながら、転法輪堂を見たところ。
階段を上ると、本殿金堂があります。
訪問時は、外装塗装工事中で、
養生シートで覆われていました。
本殿金堂を正面から見たところ。
鞍馬蓋寺縁起によると、
唐招提寺の鑑真和尚の高弟、鑑禎上人は、
宝亀元年(770)、正月4日寅の夜の夢告と
白馬の導きで鞍馬山へ登山し、
鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられます。
そして、毘沙門天を祀る草庵を結びます。
延歴15年(796)、造東寺長官、藤原伊勢人が、
観世音を奉安する一宇の建立を念願し、
夢告と、鞍を付けた白馬の案内で登った鞍馬山に
鑑禎上人の毘沙門天を祀る草庵を見つけます。
そして、毘沙門天も観世音も根本は一体と、再び夢告を受け、
伽藍を整え、毘沙門天を奉安し、後に千手観音を造像し、併せ祀りました。
鞍馬寺の本尊は尊天で、
千手観音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊の三身を一体として尊天と称します。
月輪の精霊:千手観音菩薩
太陽の精霊:毘沙門天王
大地の霊王:護法魔王尊
本殿金堂の前には、金剛床があります。
金剛床は、
宇宙のエネルギーである尊天の波動が
果てしなく広がる星曼荼羅を模しています。
本殿金堂、金剛床の前、
そして、景色を遠望できる崖の手前に
翔雲台があります。
翔雲台は、本尊の尊天が降臨した場所と
言う事です。
この翔雲台の中央の板石は、
本殿後方より出土したもので、
平安時代より鞍馬寺に伝えられた
如法写経会の経巻を埋納した経塚の蓋石です。
本殿金堂の西側に、光明心殿があります。
尊天の一人、護法魔王尊が祀られています。
光明心殿の上には、鐘楼が見えます。
光明心殿の手前の
四隅を木の杭で囲まれたエリアは、
初寅大祭等の護摩供養が行われる場所です。
光明心殿の更に西側に、
金剛寿命院と称する本坊があります。
本坊には、寺務所や鞍馬院教宗務本庁が
置かれています。
本坊の前庭の瑞風庭は、
奥の院に護法魔王尊が降臨する様子が
表現されています。
本坊の東へ続く建物です。
この建物と本殿金堂や、光明心殿の間を通って、
奥の院参道へ向かいます。
奥の院参道の入口です。
入口の横には、奥の院遥拝所があります。
足腰に自信の無い人は、
ここから遥拝できるようになってます。
参道を上り始めたところに、
奥の院道の標石がたってます。
少し先に鐘楼への分かれ道があり、
その道に入って行くと、
光明心殿の上に見えていた鐘楼があります。
梵鐘は、寛文10年(1670)の銘文があり、
扶桑鐘銘集に紹介されているようです。
奥の院参道を進んで行くと、
與謝野晶子・寛 歌碑があります。
天台宗から独立し、鞍馬引教を開いた
信楽香雲(1895-1972)が、
與謝野門下であった縁で
歌碑が建てられました。
右が與謝野晶子の歌碑で、
左が與謝野寛の歌碑です。
何となく君にまたるるここちして
いでし花野の夕月夜かな 與謝野晶子
遮那王が背比べ 石を山に見て
わがこころ なお明日を待つかな 與謝野寛
與謝野晶子・寛 歌碑の先に
鞍馬山全体を自然ミュージアムと捉えた
霊宝殿があります。
霊宝殿は、
豊かな自然の保護、育成、調査に関する展示や、
寺の文化財の展示、與謝野夫妻関係資料の展示、
国宝の毘沙門天三尊像をはじめとする諸仏像の
奉安が行われています。
霊法殿の斜め向かいに
與謝野晶子の書斎、冬柏亭があります。
東京市外荻窪の與謝野家の屋敷の中に、
日本屋と洋館があり、その2つの建物の間に、
晶子の五十の賀のお祝いに冬柏亭と言う書斎が
贈られました。
晶子没後に現在地へ移築されています。
冬柏亭の内部です。
冬柏亭の前から、先へ進むと、
息つぎの水があります。
牛若丸は、天狗に兵法を習う為、
深夜に独りで奥の院道を僧正ガ谷へ急ぎ、
途中、息つぎの為、湧き水を飲んだとされています。
その息つぎの水から、少し上がったところに
屏風坂の地蔵堂があります。
お堂の前の坂道が、
以前は一枚岩で、
屏風を立てたような急な坂だった事が、
名前の由来です。
屏風坂の地蔵堂へ上って行きます。
地蔵堂を正面から見たところ。
垂れ幕の紋は、鞍馬寺の寺紋で、
太陽を表す太い円と、月を表す細い円の中に
羽を広げた孔雀のような模様になってます。
孔雀と言うより、天狗の羽団扇に見えます。
奥の院道を進みながら、
道の下の斜面をのぞいたところ。
かなり急な斜面です。
奥の院道を進んで行くと、
「左 僧正谷 京道」と案内のある道標があります。
急な斜面をのぞき込むと、
倒木が転がっています。
2018年の台風21号の影響でしょうか?
石段を上って行きます。
その石段を上ると、
小さな祠があります。
その祠の隣に、背比べ石があります。
平家が父の仇と知った牛若丸は、
奥州平泉の藤原秀衡を頼って、
鞍馬寺を出奔します。
その際、名残を惜しんで、
この岩と背比べをしたと伝わります。
そして、背比べ石から先は、
木の根道が続きます。
木の根道は、この辺り一帯の砂岩は、
灼熱のマグマによって硬化した為、
根が地中に伸びず、
地表に広がったと言う事です。
牛若丸も、この木の根道で修行をしたと
伝わります。
木の根道の横にあった石塔です。
右の石塔には、
「奉納一字一石大乗妙典…」とあります。
大乗妙典の経文を一字づつ小石に書き、
その小石を埋め供養塔が建てられています。
木の根道です。
木の根道を進むと、
大杉権現社の標柱がたってます。
しかし、社殿は見当たりません。
手水があります。
大杉権現社は、
神木の樹齢1000年の護法魔王尊影向の杉が、
昭和25年(1950)の台風で倒れ、
そして、今度は、
2018年の台風21号で、残った杉の木が倒れ、
社殿は倒壊しており、
社殿の復旧に手が付けられて無いようです。
大杉権現社の辺りから、奥の院道は下りになり、
奥の院道を下って行きます。
途中、台風の影響でしょうか、
大木が横たわってます。
その大木を根っこの方から見たところ。
硬い地面の為、地中の奥まで根が伸びて無く、
強風に負けたのかもしれません。
奥の院道を下って行くと、
不動堂が見えてきます。
その不動堂です。
不動堂は、
伝教大師、最澄が、天台宗立教の悲願に燃え、
一刀三礼を尽くし刻んだ不動明王が
奉安されています。
そして、不動堂と道を挟んで反対側に
眷属社があります。
眷属社です。
眷属社の横に手水舎があります。
更にその横に、義経堂へ向かう階段があります。
階段を上り、義経堂を正面から見たところ。
奥州で非業の死を遂げた義経の魂は、
懐かしい鞍馬山に戻り、
安らかに鎮まっているとされます。
そして、この辺りは、僧正ガ谷と呼ばれ、
牛若丸が天狗に兵法を習った場所であり、
その僧正ガ谷へ義経堂を建て、
遮那王尊として祀られています。
ちなみに、
義経の幼名が牛若丸で、稚児名が遮那王であり、
遮那王尊は、その稚児名に由来します。
不動堂や義経堂がある僧正ガ谷から
先に進もうとした時の出口の辺りに、
謡曲「鞍馬天狗」と僧正ガ谷の説明が
あります。
鞍馬山東谷の僧が稚児達を連れ、
西谷へ花見に出かけると、
不作法な山伏が現れたので、
牛若丸以外は、帰ってしまいます。
山伏は残った牛若丸の素性を知り、
平家討伐の望みを叶える為、
兵法を授けます。
最後に、山伏は、
鞍馬山の大天狗である事を明かし、
姿を消します。
不動堂や義経堂がある僧正ガ谷を出て、
奥の院道を進みます。
道の脇に倒れた巨木が転がっています。
この辺りも木の根道が続いてます。
木の根が浮き上がっている道を進みます。
奥の院道を進んで行くと、道端に
極相林の説明があります。
植生遷移が行われた結果、
最終的には安定的な高木の陰樹林、
すなわち、極相林となります。
鞍馬山では、この辺り一帯は、
極相に達した森になっており、
このような森ができあがるまでには
少なくとも200年から300年は必要と
考えられています。
その極相林の中を進んで行きます。
更に奥の院道を進んで行くと、
奥の院 魔王殿があります。
正面は魔王殿の拝殿で、奥に本殿があります。
魔王殿は、
太古、護法魔王尊が降臨した
磐座(いわくら)、磐境(いわさか)として
崇拝されてきました。
魔王殿の手水舎です。
手水舎は3本脚でたってます。
魔王殿の拝殿の横から、
本殿をのぞき込んで見たところ。
拝殿の手前には、奥の院 魔王殿の標柱と、
その横には道標がたってます。
奥の院 魔王殿を出て、
奥の院道を下り、
次は貴船神社へ向かいます。
急な坂道を下ります。
斜面には、倒木が転がっています。
進んで行くと、根元近くがくねっている杉がありました。
くねった木の下を、くぐって進みます。
奥の院道を下り、鞍馬寺西門を出て、
貴船川を渡ると
南北に走る府道361号線があり、
少し北へ進むと、赤い鳥居が見えてきます。
貴船神社は、
貴船山の麓の本宮、結社、奥宮の三つの社からなり、
三社詣と言って、三社にお参りします。
ちなみに、三社詣は、近い順ではなく、
本宮、奥宮、結社の順にお参りするのが、
習わしと言う事です。
貴船神社 本宮の鳥居です。
貴船神社の創建について、
年代は不詳ですが、
天武天皇白鷗6年には、
既に社殿造替が行われた社伝が存在し、
創建は極めて古いと考えられています。
本宮へ向け、階段を上ります。
貴船神社の起源は、
初代神武天皇の皇母、玉依姫命が、大阪湾から黄色の船に乗り、
淀川、鴨川、貴船川を遡り、現在の奥宮に至り、
清水の湧き出る霊境吹井を見つけ、祠を建てたのが、
起源と伝えられています。
また、「きふね」は古くから気の生ずる根源として
「気生根」と記され、
御神気に触れる事で気が満ちるとされてきました。
諸願成就、えんむすび、運気隆昌に
御利益があると言う事です。
階段の先に神門が見えます。
南側の神門です。
上って来た階段をふり返ったところ。
南側の神門をくぐり、境内へ入ります。
一段高い場所に、本宮の拝殿があり、
その右側に本殿が見えます。
そして、拝殿の下、左に手水舎があります。
その手水舎です。
手水舎の横の階段を上がると、
本宮の拝殿があります。
本宮は、創建の地の奥宮が洪水で流損し、
天喜3年(1055)、現在地に本宮が移されます。
以来、文久3年まで36回の御造替が行われ、
大正の大修理を経て、
現在の本宮は、平成の御造替で
基礎から全てを一新し建て替えられています。
階段横にあった
貴船神社の由緒です。
本宮の祭神は、
高龗神(たかおかみのかみ)です。
高龗神は、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の
御子神で、水の供給を司ります。
拝殿の前の石垣から
神水が湧き出ています。
ここでは、この霊泉に浮かべると文字が浮かび上がる
「水占みくじ」が行われています。
神水です。
南側の神門の横の神木の桂の木です。
この桂の木は、樹齢400年、樹高30mで、
根元から、いくつもの枝が天に向かって伸び
上の方で八方に広がってます。
その姿が、神気が勢いよく立ち昇る姿に見え、
神木として敬われています。
その神木の桂の木の横に、
石庭 天津岩境(あまついわさか)があります。
昭和の作庭の第一人者、重森三玲が、
古代の人々が神祭りをした祭場、天津岩境をイメージし、
貴船石で作った石庭です。
神門を入ったところにあった貴船神社境内案内図です。
拝殿の下に、黒馬と白馬の像があります。
古来より歴代天皇は、日照りには黒馬を、
長雨には白馬または赤馬を
貴船神社へ奉納しました。
しかし、時には生馬に換えて
馬形の板に着色した「板立馬」を奉納した事から、
「板立馬」が現在の絵馬の原形であり、
貴船神社は、絵馬発祥の社と言われています。
拝殿の奥、北側に本殿があります。
その本殿の下に小さな祠、祖霊社があります。
祖先の霊を祀る末社です。
右端には、本宮の北に位置する神門が見えます。
本宮の北側の神門を出ると、石段と赤い鳥居があります。
石段の途中から、北側の神門をふり返ったところ。
石段を下り、鳥居を抜けて、
その先の赤い欄干の橋をを渡って、
ふり返ったところ。
赤い欄干の橋は、鈴鹿川に架かる鈴鹿橋です。
貴船川に沿って走る
府道361号線を北へ進みます。
貴船川に架かった小橋です。
関係者以外立入禁止になってます。
貴船川を見ながら、府道を北へ進みます。
貴船川の中に、小卓があり、その横に和傘がたってます。
少し進むと、対岸へ
色とりどりの和傘が飾ってあります。
貴船川は、5月から9月にかけ、川床が出ますが、
既に10月に入っており、今はありません。
貴船川を見ながら、進みます。
この年は、暑い秋が続いており、
涼しげな雰囲気が伝わります。
車1台がやっとすり違える細い府道を、北へ進んで行きます。
結社(ゆいのやしろ)へ向かう階段が
左手に見えてきます。
結社は、本宮と奥宮の中間にある事から
中宮とも呼ばれています。
しかし、三社詣は、本宮、奥宮、結社の順で
お参りするのが習わしと言う事です。
知らない私は、本宮の次に
結社へお参りしてしまいました。
結社への階段を上って行きます。
階段を上って行くと、赤い鳥居があり、
その向こうに結社が見えます。
結社です。
結社の祭神は、磐長姫命で、木花開耶姫命の姉です。
神武天皇の曽祖父、瓊瓊杵尊が
木花開耶姫命を娶る時、
父の大山祇命が姉の磐長姫命も共に勧めたが、
瓊瓊杵尊は、木花開耶姫命のみを望まれたので、
それを恥じた磐長姫命は、人に良縁を授ける為に、
貴船に鎮まられたと伝わります。
平安時代の女流歌人、和泉式部も歌に託して
祈願したと言う事です。
その結社の奥に、和泉式部 歌碑があります。
和泉式部 歌碑の説明です。
和泉式部は、
夫との不仲となった時、
結社へお参りし、
貴船川の蛍を見て歌を詠み
祈願をしました。
すると社殿の中から
返歌が聞こえ、
夫婦仲がもとの円満に
戻ったと言う事です。
結社を出て、貴船川を見ながら、
府道を北へ進みます。
川の中をよく見ると、
杭のようにパイプが打ち込まれているのが確認できます。
川床を設置する為の杭が設置されているようです。
府道を進んで行くと、左手に
注連縄が巻かれた大木が見えてきます。
神木の相生の杉です。
相生の杉です。
相生の杉は、同じ根から二本の杉が生えた
樹齢1000年の杉です。
相生は、相老に通じ、夫婦共に長生きする夫婦円満を
意味します。
相生の杉を過ぎると、
府道から奥宮への参道が別れ、
府道と参道が平行に走ります。
参道には赤い鳥居があり、
その先に赤い橋が見えます。
赤い橋は、思ひ川に架かる思ひ川橋です。
赤い鳥居をくぐり、思ひ川橋を渡って進むと、
つつみヶ岩があります。
つつみヶ岩は、海底火山が噴火し、
流れ出た溶岩が枕状の形となって固まったもので、
昔は貴船が海底火山だったなごりです。
奥宮への参道を進んで行きます。
奥宮への参道を進んで行くと、
赤い神門があります。
神門を入ると、正面に拝殿があり、
その奥に本殿があります。
神門を入って、神門をふり返ったところ。
右よりに見える巨木と祠は、
神木の連理の杉が祀られています。
連理の杉です。
連理とは、別々の木が重なって一つになると言う意味で、
夫婦、男女の仲睦まじい姿を例えます。
この神木は、杉と楓、異なる種類の木が和合しています。
その連理の杉です。
拝殿です。
拝殿に向かって左側の大木は、カツラです。
拝殿を正面から見たところ。
その拝殿の西側に、
末社の吸葛社(すいかずらしゃ)があり、
その向こうに舟形石があります。
拝殿の奥、北側に本殿があります。
5世紀初頭、反正天皇の時代に、
初代神武天皇の皇母、玉依姫命が、
大阪湾から黄船に乗り、淀川、鴨川、貴船川を遡り、
ここ奥宮に至ります。
そして、清水の湧き出る霊境吹井を見つけ、
祠を建て水神を祀ったのが起源です。
よって、奥宮は、貴船神社が最初に創建された場所であり、
祭神は、本宮と同様に水や雨を司る神、
高龗神(たかおかみのかみ)です。
また、闇龗神(くらおかみのかみ)、玉依姫命も一緒に
祀られています。
本殿です。
本殿下には、巨大な龍穴があり、
文久年間(1861-63)の本殿修理の際、
大工が誤ってノミを龍穴へ落とすと、
一天にわかに曇り、ノミを空中へ吹き上げたと
伝わります。
その奥宮の説明です。
本殿横、東側に、注連縄で囲われた場所があり、
権地と書かれた立札がたってます。
ここは、本殿の修理期間中、本殿から神霊が出て、
一時的な仮本殿になる場所です。
拝殿の西側に位置する舟形石です。
玉依姫命が、大阪湾から黄船に乗り、
淀川、鴨川、貴船川を遡り、奥宮に至り、
祠を建て水神を祀ります。
その時、乗って来た黄船を
人目に触れぬよう隠す為に石を積み上げたのが
この舟形石と伝わります。
また、貴船神社の名前も、
その黄船に由来する説もあります。
拝殿の西側横、舟形石の向かいに鈴市社があります。
祭神は、神武天皇の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命です。
奥宮の境内東側に、
貴船と「鉄輪」伝説の説明があります。
奥宮は、水の神の高龗神を祭神として祀り、
心願成就信仰としての「丑の刻詣」で
知られています。
そして、昔、宇治の橋姫が
丑の刻(午前2時)詣りをして、
男に呪いをかけた伝説があります。
それを基に作られた謡曲が「鉄輪」で、
橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた
鉄輪掛石が叡電の貴船口駅の傍らにあると
説明にあります。
(帰りに探しましたが、見つかりませんでした。)
奥宮を出て、参道を引き返します。
前方に見える赤い橋は、
思ひ川に架かる思ひ川橋です。
その思ひ川の畔に、思ひ川の説明があります。
貴布禰詣において、この谷川は、身を清めて参拝する為の
禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川でした。
和泉式部も、夫の愛を取り戻す為、貴布禰詣を思い立ち、
この谷川で身を清めて参拝しました。
そして、ものいみの川が、和泉式部の恋の話と重なり、
思ひ川と呼ばれるようになりました。
貴船神社を出て、バスで、
叡山電車の貴船口駅へ向かいます。
貴船口駅から、叡山電車で出町柳駅へ向かいます。
出町柳駅へ到着後、電車の写真を撮ります。
この電車は、700系(デオ720形)です。
この電車は、800系(デオ810形)です。
叡山電車の出町柳駅の改札を出ます。
そして、京阪電車で出町柳駅から三条駅で下りて、
三条通りを東へ向かいます。
東大路通りにある中華料理屋さんで、
遅い昼食をとる事にします。
三条通りを東へ向かう途中に
高山彦九郎 皇居望拝之像があります。
三条大橋は、東海道五十三次の起終点であり、
都の出入口でした。
そして、高山彦九郎は、
勤王思想家として明治維新を成し遂げる
幕末の志士達に影響を与えました。
京都へ出入りする折は、京都御所に向かって、必ず拝礼したと言われており、
この像は、その拝礼をしている場面です。
東大路三条下るにある
中華料理屋 マルシン飯店へ到着です。
午後2時前ですが、長い行列になってます。
ショーケースのメニューです。
しかし、見なくても
注文するメニューは決めてます。
注文したのは、人気メニューの
天津飯と餃子です。
昼食後は、
琵琶湖疎水、蹴上インクライン等を見に
蹴上へ行きます。
地下鉄東西線の東山駅から蹴上へ移動し、
三条通りを南へ坂を上って行きます。
左手に日向大神宮の石鳥居があり、
参道を上って行きます。
参道を上って行くと、琵琶湖疎水があり、
大神宮橋が架かってます。
大神宮橋の下を、物資を積載した船が通れるように
橋桁が高くなっており、
階段を上って、橋を渡るようになってます。
大神宮橋の上から北側、琵琶湖疎水を見たところ。
ここは、
蹴上インクライン(傾斜鉄道)の上流地点、蹴上船溜で、
下流地点の南禅寺船溜と、
台車で船を運ぶ傾斜鉄道で結んでいます。
前方に船を積んだ台車が見えます。
琵琶湖疎水は、水量豊かな琵琶湖から京都へ水を運び、
水力で新しい工場を興し、船で物資を運ぼうと、
明治14年(1881)に計画され、明治18年(1885)に工事開始し、
明治23年(1890)に第一疎水が完成しました。
大神宮橋の上から、南側を見たところ。
琵琶湖疎水の蹴上船溜です。
疎水の水路の先は、山がありますが、
第3トンネルで山を貫き、第一疎水が流れ出てきています。
その第3トンネルの出口のすぐ右側の建物は、
旧御所水道ポンプ室です。
京都御所紫宸殿の高さへ
消火栓の水を届かせる為、
蹴上船溜より高い所に大日山貯水池があり、
そこへ水を上げる為のポンプ室を
据え付けていました。
琵琶湖疎水の蹴上船溜は、
第一疎水と第2疎水の合流点でもあり、
第3トンネルからのまっすぐな流れの第一疎水に、
横から第2疎水が流れ込み、水流の乱れが見てとれます。
大神宮橋を下りて、
蹴上船溜に沿って、北へ移動します。
蹴上船溜の北端で、
蹴上インクライン(傾斜鉄道)の上流地点に
船を載せた台車があります。
船を載せた台車です。
当時は、インクライン(傾斜鉄道)を使って、
船に人を乗せたまま、物資を載せたまま、
高低差のある蹴上船溜と南禅寺船溜の間を
台車ごと移動していたようです。
船を載せた台車です。
インクライン(傾斜鉄道)の先、北側を見ると
蹴上船溜と南禅寺船溜の間を結ぶ線路が残ってます。
インクラインの横を北へ進むと
蹴上疎水公園があります。
その公園の中に、田邉朔郎博士像があります。
田邉朔郎博士は、琵琶湖疎水建設工事の主任技師として、
21歳の若さで登用され、工事の指揮をとった人物です。
その先に、
蹴上発電所で使用する水を取込む取水口のゲートがあります。
立入禁止の鉄柵越しの撮影の為、うまく撮影できませんでした。
ちなみに、蹴上発電所は、
明治24年(1891)に稼働を開始した日本初の水力発電所です。
取水口ゲートの前には、
一般の人も通れる管理用通路が設置されており、
その通路から、
発電所へ水を送り込む2条の水圧鉄管を
望むことができます。
疎水に沿って、管理用通路を進みます。
先ほどの取水口ゲートへ向かう水路かな?
T字に水路が分岐しています。
その水路の分岐です。
山側のこの水路の奥から水が出てきています。
第2疎水?
そして、この水路は、南禅寺の境内を通る水路閣を経て、
熊野若王子神社から銀閣寺に至る
哲学の道に沿った疎水分線に続きます。
疎水分線に沿って、北へ進みます。
疎水分線は、北へ、水路閣へ向け流れて行きます。
ちなみに、京都市を流れる川は、北から南へ流れていますが、
疏水分線は、唯一、南から北へ流れる川と言われています。
水路閣の手前まで来ると、管理用通路は途切れ、
柵があって先へは行けません。
しかし、疏水分流は、水路閣の上を流れ、
その先へ続いてます。
管理用通路は途切れますが、
疏水分流の上を山側に渡る事ができます。
その山側にあった、南禅寺の鐘楼です。
管理用通路は、
水路閣の上を進む事はできませんが、
山側に渡った後、水路閣の下へ
下りれるようになってます。
水路閣の下へ下りながら、水路閣を見たところ。
水路閣です。
水路閣の下から、水路閣を見上げたところ。
水路閣は、南禅寺の境内を通る為、景観に配慮し、
田邉朔郎の設計で明治21年(1882)に完成しました。
水路閣を見上げたところ。
レンガ、花崗岩造りのアーチ型の橋脚が
映えています。
水路閣まで通って来た管理用通路を引き返します。
蹴上船溜まで、帰ってきました。
中央は、疏水に架かる大神宮橋です。
大神宮橋の下を、物資を積載した船が通れるように
橋桁が高くなってます。
蹴上インクライン
の説明です。
三条通りに出て、三条通りを北へ下ります。
下って行くと右手に、「ねじりまんぽ」があります。
「まんぽ」とは、トンネルを意味する古い言葉で
ねじりのあるトンネルと言う意味です。
三条通りから南禅寺との間を行き交えるよう、
インクラインを横切る為のトンネルが
建設されました。
トンネルの東西には、
当時の府知事の北垣国道揮毫の扁額が掲げられています。
西口の扁額には、「雄観奇想」とあります。
トンネルの西口横にあった
「ねじりまんぽ」の説明です。
「ねじりまんぽ」のトンネル内に入ると
内壁のレンガを螺旋状に積む工法が
採用されています。
これが、「ねじれまんぽ」のねじれの由来です。
インクラインと斜めに交わる道路のトンネルの為、
トンネルも斜めに掘られており、
強度を確保する為に、内壁のレンガは斜めに
積まれています。
「ねじりまんぽ」のトンネルを抜け、
東側からふり返ったところ。
東口の扁額には、「陽気発処」とあります。
「ねじりまんぽ」から、
インクラインの石垣に沿って、
下って行きます。
インクラインの石垣には、桜の木が並んでいます。
インクラインの石垣に沿って、進んで行くと、
船を載せた台車があります。
インクラインの線路内へ入り、
船を載せた台車の前側に回って見たところ。
船を載せた台車を斜め前から見たところ。
この船は、伏見の酒樽を積んでます。
インクラインの横にあったインクライン(傾斜鉄道)の説明です。
インクラインの線路内から
下流の南禅寺船溜方向を見たところ。
インクラインに沿って、道を下って行くと、南禅寺橋があり、
その南禅寺橋の上から、
インクラインの下流地点の南禅寺船溜を見たところ。
南禅寺橋から、白河通りを少し北へ行くと、
琵琶湖疎水記念館があります。
訪問時は、琵琶湖疎水記念館は魅力向上の為、
1階テラスの改修工事中でした。
写真撮影可の展示物として、
大正4年(1915)頃の岡崎周辺の様子を再現した
ジオラマが展示されています。
左に南禅寺の伽藍があり、山際に水路閣も見えます。
右端から斜めにインクラインが再現されています。
ジオラマ展示です。
右下に南禅寺船溜があり、
南禅寺船溜から斜め上方に
インクラインが伸びています。
山際を疎水分線が通り、左端の水路閣へ
続いています。
琵琶湖疎水記念館の西側の屋外テラスへ出て、
西側の景色を見たところ。
目の前は、南禅寺船溜です。
その船溜の真ん中に噴水がありますが、
噴水の水は、蹴上船溜から、
管を通って流れてくる疏水の水で、
電気の力を使用せず、逆サイフォンの原理で
高低差のみの自然の力で吹き上がっています。
その船溜を起点に鴨東運河が
写真の向こう側、西へ伸び、鴨川へ続きます。
琵琶湖疎水記念館を出て、南禅寺橋へ戻り、仁王門通りを南禅寺船溜方向へ進むと
日本遺産・琵琶湖疎水の説明があります。
その説明の近くに、南禅寺船溜へ下りる階段があり、
その階段の横に「巨大な輝き」(宮瀬富之 作)の
モニュメントがあります。
モニュメント台座の説明は以下。
水門を開ける男と開かれた水門からキラキラあふれ出る命の水、
幾数千万の力の結集が疎水隧道を造らせた。
それは巨大なエネルギーこのパワーを人物に託し
琵琶湖からの永遠の恵みを感謝する気持ちを形とす。
モニュメントの横から、
琵琶湖疎水記念館を見たところ。
南禅寺船溜です。
停船場として、
荷物の積み下ろしや、船頭たちの休憩場所として、
利用されていました。
噴水の陰になってますが、
インクラインの線路の延長線上の突き当りには
インクライン ドラム工場がありました。
ドラム工場は、
インクラインの船を載せる台車に接続した
ワイヤーロープを巻き上げるウィンチの
操作室があった施設です。
南禅寺船溜から西へ伸びる鴨東運河に沿って
進んで行くと、赤い大きな鳥居があります。
平安神宮の大鳥居です。
高さ24.2m、幅18.2m、鉄筋コンクリート造りの
明神鳥居です。
地下鉄の東山駅から、宿泊しているホテルへ帰りました。