京都は、何度も訪れた事がありますが、それでも、訪問できて無い場所があります。
京都を全て見て周る事は無理だと思いますが、そして、昨年(2024年)10月に訪問したばかりですが、
再度、三泊四日で再訪しました。
初日は、桂離宮、松尾大社、六角堂、高瀬川一之舟入、八坂神社へ、
二日目は、伏見稲荷、光明院、東福寺、泉涌寺、二条城へ、
三日目は、寂光院、三千院、京大時計台、吉田神社へ
そして、四日目は、くろ谷金戒光明寺、平安神宮、京都府庁旧本館、護王神社を訪ねました。
桂離宮を訪ねた後、寄り道しながら、
松尾大社へ向かいます。
桂離宮を出て北上し、
国道9号線を越え、水垂上桂線を
西へ進みます。
進んで行くと、右手に御霊神社が見えてきます。
桂離宮の近く、下桂にも、御霊神社がありましたが、
上桂にもありました。
その御霊神社の鳥居です。
鳥居をくぐると、
正面に拝殿が見えます。
拝殿です。
その向こうに、本殿が見えます。
祭神は、太田神と、伊豫親王です。
創祀は不明ですが、
上桂村を開拓した人々が、
太田神を祀り五穀豊穣を祈りました。
平安期には御霊信仰が隆盛し、
伊豫親王を合祀して御霊神社と
称しました。
伊豫親王は、桓武天皇の皇子で、政治的に有力な地位にありましたが、
大同2年(807)に謀反の疑いをかけられ、母の藤原吉子と共に、
川原寺に幽閉され服毒自殺に追い込まれ、祟りが恐れられました。
本殿の裏手、北西には、末社があります。
左から、
三ノ宮神社、三十番神社、
談山神社、厳島神社、
八幡神社、植松神社、春日神社
が並んでます。
本殿の南側奥には、照玉社があります。
御霊神社を出て、水垂上桂線を西へ、
阪急嵐山線を越え、坂を上り、
途中、北へ折れて進んで行くと
美しい竹林が有名で、
竹の寺と呼ばれる地蔵院があります。
衣笠山 地蔵院 全景の図です。
この道を進むと、地蔵院の総門ですが、
1月の拝観は、土、日、祝日のみで
残念ですが、入る事はできませんでした。
地藏院の前を北へ、
山を下ったところにある交差点を
西へ少し入ると
京都バスの苔寺操車場があり、
その前に柚之茶屋があります。
その柚之茶屋で昼食をとる事にします。
店内には、苔乃月の書が掲げられています。
注文した名物の本家とろろそば 苔の月が
やってきました。
本家とろろそば 苔の月です。
すり鉢で丹念にすられた山芋とろろが入り、
さらに青海苔と柚の香が味を引き立てる
手打ちそばです。
青海苔で苔を、卵で月が表現されています。
腹ごしらえの後は、
柚之茶屋の前の道を西へ、
西芳寺へ向かいます。
西芳寺の総門です。
西芳寺の境内の南側を、
西芳寺川が流れており、
総門へは、大歇橋を渡る事になりますが、
立入禁止になってます。
1977年に
参拝希望者の事前申込制になって以来、
総門は閉鎖されていると言う事です。
西芳寺の境内に沿って流れる
西芳寺川です。
西芳寺は、庭園を覆う苔の美しさから、
別名、苔寺と呼ばれています。
西芳寺川の護岸の石垣の上に
土塁が築かれており、
その内側には、苔に覆われ、
静寂に満ちた空間が広がっている
と想像します。
その土塁の向こうに見える屋根は、
湘南亭茶屋です。
湘南亭茶屋は、西芳寺境内で最も古く、
豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休や、
明治維新に幕府から逃れる岩倉具視の
隠れ家になりました。
西芳寺川に沿って、西へ進んで行くと、
参拝入口にあたる衆妙門があります。
中央の屋根は本堂で、
その左横に三重納経塔が見えます。
参拝は事前予約が必要ですが、
知らずに来てしまったので、
別の機会に再訪しようと思います。
地蔵院前から北へ、
山を下ったところにある交差点へ戻り、
その交差点を北へ向かいます。
西芳寺川に架かる華厳寺橋があります。
その華厳寺橋から、
西芳寺のある西芳寺川上流方向を見たところ。
真っすぐ北へ進んで行くと、
鈴虫寺として親しまれる妙徳山華厳寺があります。
その妙徳山華厳寺への階段です。
登り口に、「鈴蟲の寺 華厳禅寺」の石標が建っています。
階段を上と、華厳寺の山門があります。
宝永6年(1709)、鳳潭上人は、
無住であった安照寺に入寺し、
正徳5年(1715)、寺号を華厳寺に改め、
享保8年(1723)に現在の場所へ移り、
今に至ってます。
そして、終戦後、日本が戦後復興の為に
前を向こうとしていた時代に、
台厳和尚が坐禅を組んでいる時、
短い寿命しかない鈴虫が
懸命に鳴いている姿を見て、悟りを開きます。
今では今では、鈴虫の音色で心を穏やかにを願い、一年中鈴虫の音を聞けるようになっています。
華厳寺を出て、
山際に沿って道なりに北へ、
松尾大社へ向かいます。
途中、京都花鳥館があります。
京都花鳥館です。
花と鳥を題材とした作品を中心に、
ドイツのマイセン窯の磁器作品と、
花鳥画の第一人者、上村淳之画伯の
日本画作品が展示されています。
更に北へ進んで行くと、
月読神社があります。
月読神社の鳥居の横に、
月読神社の説明があります。
日本書紀によると、顕宗3年(487)、
阿閉臣事代が朝鮮へ遣わされる際、
壱岐で月読尊の託宣があり、
天皇に奏上し創建されたと
伝えられます。
鳥居をくぐり、
正面から階段の上の神門を
見上げたところ。
神門を抜けると、
拝殿、その奥に、本殿があります。
本殿です。
祭神は、月読尊です。
その本殿の横、北側に
聖徳太子社があります。
この辺りは、渡来系氏族で、
治水、織物、等の技術にたけた
秦氏の勢力圏でしたが、
聖徳太子との結び付きも
あったようです。
その聖徳太子社の隣、北側に
月延石があります。
月延石です。
第14代仲哀天皇の皇后の神功皇后は、
臨月にもかかわらず、
神託に従い朝鮮半島の新羅征伐に向かいました。
その際、お腹に月延石をあてて、さらしを巻き、
冷やす事で出産を遅らせ、新羅征伐を行います。
そして、凱旋した後、応神天皇(八幡大神)を
出産しました。
元々、月延石は、筑紫国にありましたが、
落雷により、三段に割れてしまいます。
そして、飛鳥時代に、舒明天皇は、使者を遣わし、
割れた神石の一段を京都に持ち帰り奉納したと
伝わります。
と言う事で、月延石は、安産石とも呼ばれ、
撫でる事で、子授け、安産守護の神徳を受ける事ができます。
月延石の上の小さな白い石は、祈願石で、祈祷の撤下品です。
月読神社を出て北へ、松尾大社へ向かいます。
阪急嵐山線の松尾大社駅から松尾大社前通りへ入る
入口にあった大鳥居です。
扁額に松尾大神とあります。
松尾大社前通りを進みながら、
大鳥居をふり返って見たところ。
右の石碑は、洛西用水竣工記念碑です。
洛西用水は、桂川の水を、
一ノ井堰から取込み、
桂川の西へ広がる水田に導く疏水です。
この用水は、
この辺り一帯を支配した豪族、秦氏が
桂川に葛野大堰を築き灌漑を営んだ事に
起源を持ちます。
洛西用水竣工記念碑の西を流れる用水、
二ノ井川を越えて
松尾大社前通りを西へ進みます。
前方に赤鳥居が見えます。
その赤鳥居へ向け、進んで行きます。
赤鳥居です。
赤鳥居を通して、向こうに楼門が見えます。
赤鳥居を入ったところにあった松尾大社全景図です。
そして、脇勧請の説明です。
赤鳥居の上部を見上げて、
脇勧請を見たところ。
鳥居の上部に、
榊の小枝を束ねたものが
垂れ下がっています。
これは、脇勧請と言います。
脇勧請は、鳥居の原始形式を示し、
榊の束は十二(閏年は十三)あり、
月々の農作物の出来具合を占った
太古の風俗を伝えています。
赤鳥居をくぐると、左手に、
船が保管されています。
松尾祭の神幸祭で、
神輿を載せて桂川を渡す神船と、
神輿を担ぐ駕輿丁を載せる
駕輿丁船です。
赤鳥居をくぐると、正面に
楼門があります。
楼門の左右には、随神がいます。
楼門に向かって右側の随神です。
弓と矢を携え剣を帯びています。
楼門に向かって左側の随神です。
こちらも、弓と矢を携え剣を帯びています。
楼門を抜けると、すぐに
一ノ井川に架かる橋があり、
その向こう、正面に拝殿が見えます。
一ノ井川と、一ノ井川に架かる橋です。
一ノ井川は、洛西用水の水が
流れています。
一ノ井川を渡ると、右手に
手水舎があります。
手水舎の水は、
亀の口から流れ出ています。
手水舎の隣、西側には「撫で亀さん」がいます。
その昔、松尾大神が、保津川を遡る時、
急流は鯉に乗り、緩やかな流れは亀に乗って進んだと
伝わります。
そのため、鯉と亀は、神様の使いと崇められています。
拝殿です。
拝殿の南側には、神輿庫がありますが、
その軒下には、
全国の酒造家から奉納された菰樽が
積まれています。
特に酒造については、
この辺り一帯を支配した
秦一族の特技であり、
松尾大社が、「日本第一酒造神」と
仰がれる由来とされています。
右端は、拝殿です。
中央は、中門で、
その向こうに本殿が見えます。
左端の社の中は、相生の松です。
その相生の松です。
雌雄根を同じくした二本の松でしたが、
350年の天寿を全うし、
現在は、名木の大株を見る事ができます。
相生の松の南には、
椋の霊樹があります。
この椋は、樹齢800年を数え、
蓬莱の庭の入口に生殖していましたが、
枯朽した為、
大椋の幹を以って造形し、
往時の名残を留めて
樹霊を祀っています。
本殿の南側には、境内末社があります。
右側の背の高い屋根は、本殿で、
その隣から、境内末社の
衣手社、一挙社、金比羅社、祖霊社が
並んでいます。
右から、
衣手社、一挙社、金比羅社、祖霊社です。
中央は、中門で、
その向こうに本殿の屋根が見えます。
中門から左右に回廊が続いています。
本殿は、千木、鰹木を置かず、
桁間三間、梁間四間の両流れ造りで、
松尾造りと称されています。
また、箱棟の両端は、
他に類を見ない唐破風形となっています。
拝殿を南西から見たところ。
中門を拝殿の前から見たところ。
本殿は、中門の奥にあります。
太古の昔、この辺りに住む人々が、
松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座に、
大山昨神(おおやまぐいのかみ)を祀ったのが始まりと
伝えられます。
5世紀になると、朝鮮新羅の豪族、秦氏の大集団が、
朝廷の招きによって来往すると、
松尾山の神を一族の総氏神と仰ぎ、新しい文化で、
保津峡の開削、桂川の堤防の造成、堰を造り、
水路を走らせ農耕地の開拓が行われます。
そして、文武天皇の大宝元年(701)に勅命を奉じて、
社殿を造営しています。
現在の社殿は、応永4年(1397)の建造で、
天文11年(1542)に大修理を施したものです。
祭神は、大山昨神と、市杵島姫命です。
市杵島姫命は、福岡県の宗像大社に祀られる宗像三女神の一神で、
外来民族の秦氏が朝鮮半島と交易する関係から、公開の安全を祈り、勧請されています。
境内の北側には、
使途の庭 亀と鯉があります。
この庭には、
神の使徒とされる亀と鯉の像があります。
本殿の北側、廊下の下をくぐって、西へ、
霊亀の滝、亀の井を見に行きます。
この廊下の下をくぐって、
西へ向かいます。
廊下の下をくぐって、西側へ出ると
正面突き当りに、松尾神社の末社の
三宮社と、四大神社が見えます。
正面に、
左から三宮社、四大神社が
並んでいます。
右端の屋根は、亀の井です。
その亀の井です。
亀の井は、"延命長寿""蘇り"の水と呼ばれる霊泉で、
酒造家は、酒の元水として造り水に混和して用いると
言う事です。
亀の井の前の川は、
霊亀の滝から流れてくる御手洗川です。
三宮社、四大神社の前を通って、
更に奥へ進んで行くと赤い鳥居が見えます。
鳥居の左側を流れる川は、御手洗川です。
赤い鳥居です。
鳥居の奥の小さな祠は、滝御前社で、
滝御前社の奥に、霊亀の滝が流れ落ちているのが
見えます。
古記によると、元正天皇の和銅7年(714)、
この谷より「首に三台(三つの星)をいただき、
背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、
尾に緑毛、金色毛の雑った長さ八寸の亀」が現れ、
左京の人が神主と共に朝廷へ参上したところ、
嘉瑞なりとして霊亀と改元し、亀は元の谷へ放たれたと
言われています。
そして、滝御前社の手前に、
天狗岩の案内があります。
案内の写真を見ると、
確かに天狗の顔に見えます。
と言う事で、霊亀の滝が流れ落ちる岩壁の
天狗岩を探します。
もう少し上の方かな?
岩壁に天狗の顔を見つけました。
天狗岩です。
天狗の顔だと思って見れば、
見えなくもありません。
霊亀の滝、滝御前社から下りながら、
北を見ると、赤い欄干の廊下が見えます。
この廊下の北側には、
現代庭園学の泰斗、
森重三玲氏による築庭の庭園、
上古の庭、曲水の庭があります。
手前に御手洗川の流れが見えます。
松尾大社を出て、
阪急嵐山線の松尾大社駅へ向かいます。
赤鳥居を出ます。
洛西用水竣工記念碑の前を通って、
進みます。
大鳥居です。
松尾大社の石標の横には、
お酒を入れる容器「瓶子」のオブジェがあります。
大鳥居前の交差点を渡ると、
阪急嵐山線の松尾大社駅があり、
阪急電車へ乗って、阪急京都線へ乗り換えし、
烏丸駅へ向かいます。
烏丸駅でおりて、烏丸通りを北上し、
六角堂へ向かいます。
右手の白いビルWEST18の一つ手前の通り、
六角通りを右に入ると六角堂があります。
昨年(2024)も、六角堂を訪れましたが、
六角堂を見下ろせるビルがあるという事で
再訪しました。
そのビルが、WEST18です。
そのWEST18です。
WEST18と言うビルの名前は、
六角堂が西国三十三所 第十八番札所と言う事に
ちなんでいます。
六角通りを東へ入ると、
右手に、六角堂の鐘楼があります。
入口に鍵がかかっており、普段は入れないように
なっているようです。
六角通りを東へ進むと、
左手に山門があり、中へ入ります。
正面から本堂を見たところ。
六角堂は、正式には、紫雲山頂法寺で、
用明天皇2年(587)、
聖徳太子による創建と伝わります。
六角堂の西側にある地藏山です。
南側から見たところ。
地藏山を北側から見たところ。
中央辺りの
白い毛糸の帽子のお地蔵さんは、
わらべ地藏と言う事です。
地藏山の北側の北向地藏です。
このお地蔵様は、御所の方向を向いて、
御所を守っていると言う事です。
六角堂の北側に位置する池です。
池の東側には、太子堂が建ってます。
その池の中に、六角堂の礎石があります。
この礎石は、境内の発掘調査により、
天明8年(1788)に
焼失したと見られる遺構から
出土したもので、
正方形に近い刳型があり
根石組に使われていた状態から、
16世紀前後に建っていた六角堂の礎石と
考えられています。
太子堂のすぐ西側、池の中に
石でできた井筒があります。
これは、聖徳太子沐浴の古跡で、
この辺りにあった池で身を清めたと
伝わります。
その池のほとりにあった僧侶の住坊が
「池坊」と呼ばれるようになり、
執行(当時の住職)として実務を担う
池坊は、華道家元の地位を確立しました。
そして、六角堂の北東に位置し、
池の上に建つ太子堂です。
またの名を開山堂とも言い、
六角堂を創建した聖徳太子を
祀っています。
六角堂を、北東から見たところ。
六角堂の東側には、小山の上に向けて、
十六羅漢像が並んでいます。
羅漢とは、
仏の教えを護り伝える事のできる
優れた僧侶に与えられた名前です。
十六は、方位の四方八方を倍にした数で、
あらゆる場所に羅漢がいる事を
意味しています。
六角堂を東側から見たところ。
境内の東側に、親鸞堂があります。
鎌倉時代の初め、建仁元年(1201)、
親鸞が六角堂へ参籠し、
浄土真宗を開くきっかけを得た事にちなみ、
親鸞の像が安置されています。
その親鸞堂の前には、親鸞聖人像があります。
親鸞聖人が、比叡山から六角堂で参籠し、
再び比叡山へ戻る百日参籠の姿と言う事です。
六角堂の南西に位置する石不動です。
この不動明王は、
大日如来が一切の悪魔を降伏させるために
身を変じた存在で、
怒りの形相をとり、強い法力を持っています。
この石不動は、安永9年(1780)刊行の
「都名所図会」に描かれています。
その石不動の隣の木造の不動明王です。
右手に剣を持ち、左手に羂索を握っており、
ふりかかる災厄を断ち切り、
迷いの世界で煩悩に溺れそうになる心を
引き上げてくれます。
六角堂の西側、地藏山の西に、
WEST18の東側入口があり、
展望エレベーターに乗って、六角堂を見たところ。
動くエレベーターの中から、撮影しようと思うと
かなり難しい。
撮影は難しいですが、
六角形の屋根の形状が、よくわかります。
3時になるので、六角堂を出て、
予約を入れていたホテルへ
チェックインする事にします。
烏丸通りを南下し、
地下鉄の四条駅へ向かいます。
途中、レトロな雰囲気の建物があります。
1916年に竣工した
旧北國銀行京都支店の建物です。
現在は「DEAN&DELUCA京都」と言う
お店が入ってます。
ホテルで一休みした後、出かけます。
地下鉄の市役所前駅で下りて、
高瀬川に沿って、木屋町通りを北上します。
木屋町通りを北上して行くと、
高瀬川の対岸に、
佐久間象山、大村益次郎遭難之碑が
建ってます。
佐久間象山、大村益次郎遭難之碑の説明です。
佐久間象山は、
元治元年(1864)、
幕府の命で上洛し、
徳川慶喜に公武合体論と
開国論を説き、
攘夷派に襲われ
絶命します。
大村益次郎は、
兵学の第一人者として、
長州軍を率い、また、
戊辰戦争の指揮をとり、
そして、近代兵制の創立に
努めましたが、
明治2年(1869)に不平士族に襲われ、その傷がもとで亡くなります。
更に木屋町通りを北へ進むと、
高瀬川に高瀬舟が見えてきます。
南北に走る高瀬川に対して、
西に向け、直角に入江があります。
高瀬川一之舟入です。
舟入とは、荷物の積み下ろしや、
船の方向転換を行う場所で、
二条から四条の間に九箇所の舟入が
ありましたが、
ここを除いて全て埋め立てられています。
高瀬川
一之舟入の
説明です。
高瀬川一之舟入です。
舟入には、赤い鉄の柵があり、
入れないようになってます。
高瀬川一之舟入と、その石碑です。
高瀬川に展示されている
高瀬舟を正面から見たところ。
高瀬川は、
江戸初期の豪商、角倉了以、素庵父子が
開いた運河で、
この辺りを起点に鴨川の水をとり入れ、
鴨川に平行し東九条まで南下し、
鴨川を横断し伏見に通じていました。
そして、水深が浅い為、
底が平らな高瀬舟と言う船が使用され、
川の名前はその船に由来します。
高瀬川一之舟入の北東、
木屋町通りを隔てた反対側に、
角倉了以の別邸跡、がんこ高瀬川二条苑が
あります。
そして、角倉了以によってつくられた
高瀬川源流庭苑の説明です。
高瀬川は、角倉了以の別邸跡、
がんこ高瀬川二条苑を通り、
木屋町通りをくぐって、再び姿を現します。
その場所がここだと思います。
高瀬川一之舟入から西へ、
河原町通りへ出て南へ進みます。
御池通りの手前、左手に
ホテルオークラ京都があり、
その敷地の一角、北西角に
桂小五郎(木戸孝允)像があります。
桂小五郎は、
急進倒幕に傾く長州藩をまとめ、
明治維新を成し遂げた、
維新の三傑に数えられる人物です。
ホテルオークラ京都は、長州藩邸跡地に建てられており、
その長州藩邸跡地に、桂小五郎像が建てられています。
ホテルオークラ京都の西側、
河原町通りを隔てた反対側は、
京都市役所です。
京都市役所を南東から見たところ。
昭和初期に竣工した建物で、
ほぼ左右対称に両翼を伸ばし、
中央と両端を突き出させて強調した
ネオ・バロック様式が特徴です。
京都市役所前の通り、御池通りを
東へ進んで行くと、御池大橋があり、
その西側の袂から、
鴨川の下流方向を見たところ。
鴨川の右岸の際を流れる川は、
禊川(みそそぎがわ)です。
5月から9月にかけて、毎年、
禊川の上に納涼床が組まれ
川の上の自然の風で涼をとりながら、
飲食を楽しむことができます。
御池大橋の上から、
鴨川と禊川の間の河原の道へ下りて、南下します。
禊川の中に、コサギかな?鳥がいます。
南へ進んで行くと、
鴨川のイラストマップがあります。
三条大橋です。
三条大橋の下をくぐり、南へ抜けて、
三条大橋の西側袂へ上がります。
三条大橋の西側袂には、
弥次喜多像があります。
江戸時代後期の滑稽本「東海道中膝栗毛」の
主人公「弥次さん喜多さん」の像で、
江戸から京都へ東海道を旅する中で
起きる出来事が、面白おかしく
描かれています。
三条大橋は、その東海道五十三次の
西の終点にあたります。
そして、もう一つ、三条大橋の西側袂に
三条大橋擬宝珠刀傷跡の説明があります。
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に、
池田屋騒動の時についたと言われる
刀傷があります。
その刀傷と言われる傷が付いている擬宝珠です。
三条大橋を東へ渡りながら、
下流方向、南を見たところ。
三条大橋から、鴨川の右岸、西側を見ると、
先斗町歌舞練場が見えます。
三条大橋を東へ渡り、
鴨川に沿って川端通りを南下します。
途中、白川があります。
川端通りの歩道から、白川を見たところ。
白川が川端通りの下をくぐって、
鴨川に抜ける手前、白川の横、北側に、
弁財天、地蔵尊を祀る祠があります。
右に弁財天、左に地蔵尊が
祀られています。
白川に沿って、白川南通りを進みます。
巽神社です。
白川南通りが、新橋通りに合流する三叉路の角に
辰巳大明神が祀られています。
切通しと呼ばれる狭路から、白川を渡り、
巽神社の前に出る巽橋が架かってます。
その巽橋の上から、白川下流方向を見たところ。
切通しと呼ばれる通りです。
切通しの名前の由来は不明ですが、
四条通りから白川南通りまで、
花街を南北に貫き通っています。
切通しを南へ、富永町通りを西へ入ったところにある
「京都祇園おかる」へカレーうどんを食べに行きました。
お店は、1925年、祇園の甘味処としてスタートしましたが、
その後、麺類、丼物を提供する事になったようです。
店名の「おかる」は、
歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に登場する
「お軽」に由来すると言う事です。
その「京都祇園おかる」の店内です。
京丸うちわや、著名人のサイン入り色紙が
飾られています。
京の花街では、夏の挨拶に芸妓さんや、舞妓さんが
お得意先へ名入りのうちわを配る風習があり、
そのうちわを京丸うちわと言います。
著名人のサイン入り色紙です。
多くの著名人が来店されています。
注文した一番人気のチーズ肉カレーうどんです。
うまい!
ホテルへ帰る前に
八坂神社へ行ってみます。
四条通りを東へ進むと、
ライトアップされた
八坂神社の西楼門が見えてきます。
八坂神社の西楼門です。
応仁の乱で焼失した後、
明応6年(1497)に再建された物です。
大正2年(1497)に
四条通りが拡張された際、
通りの中央に見えるように、
東へ6m、北に3m移動し、
大正14年に翼廊が建てられ、
現在の姿になってます。
西塔門を入り、露店の出ている道を、
道なりに進みます。
左の石鳥居は、摂社の疫神社です。
祭神は、蘇民将来命で、
疫病除けの神として祀られています。
露店の間の道を進んで行くと、左手に、
石鳥居があります。
末社の太田社です。
鳥居の扁額には、太田神社、白鬚神社と
あります。
祭神は、猿田彦神と天鈿女命です。
猿田彦神は、天孫降臨に際し、
日神の使として先導した導きの神です。
天鈿女命は、天照大神の岩戸隠れに際し、
岩戸の前で神楽を舞った神です。
末社の大国主社があります。
祭神は、大国主神、少彦名命、事代主神です。
主祭神は、因幡の白兎で知られ、
大国さんと親しまれる大国主神です。
鳥居の前には、
「大国さまと白うさぎ」の像があります。
大国主社の前から東を見ると、
正面に舞殿があります。
舞殿には、
花街の置屋や附近の料亭から
奉納されたたくさんの提灯に、
毎夜明りが灯されます。
舞殿の北側には、本殿があります。
八坂神社の祭神は、以下です。
中御座:素戔嗚尊
東御座:櫛稲田姫命(素戔嗚尊の妻)
神大市比売命(素戔嗚尊の妻)
佐美良比売命(素戔嗚尊の妻)
西御座:八柱御子神(素戔嗚尊の御子神)
稲田宮主須賀之八耳神
(櫛稲田姫命の父母)
八坂神社の創祀について、社伝として以下の2説があります。
其の一:斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を
当地に奉斎した事に始まります。
其の二:貞観18年(876)、南都の僧、円如が当地にお堂を建て、
天神(祇園神)が東山の麓、祇園林へ降り立った事に始まります。
日本三大祭の一つ、祇園祭は、八坂神社の祭礼で、
貞観11年(869)、疫病が流行した際、神泉苑へ神輿を送り、国家の安寧と厄災消除を願った事に
由来します。
そして、八坂神社は、明治元年(1868)の神仏分離令までは、「祇園社」「祇園感神院」と称しており、
昔から、地域の人からは「祇園さん」と呼ばれています。
八坂神社の本殿は、本殿と拝殿を一つの大屋根で覆い、一つの建物として建築した
他に類を見ない独特の形式の社殿建築で、「祇園造り」と称されています。
舞殿の南側には、南楼門があります。
境内の内側から見たところ。
南楼門は、
表参道から続く正門にあたります。
舞殿を南東から見たところ。
本殿を南東から見たところ。
外国人旅行者の迷惑行為が絶えない為、
本殿の鈴の緒を振り回せないように
鈴の緒が、柱へ固定されています。
南楼門を外へ出て、ふり返って
南楼門を見たところ。
八坂神社を出て、花見小路を少し歩いてみます。
私道での撮影禁止の立札が立ってます。
私道とはどこか調べてみると、
花見小路からの枝道として、
弥生小路とか、初音小路とか撮影NGのようです。
但し、迷惑な撮影禁止と言う主旨と思いますので、
知らずに迷惑をかけている可能性もありますので
気をつけねばと反省です。
花見小路から、四条通りを西へ進みます。
途中、右手に壱銭洋食の文字が目に入ります。
看板には、お古乃美焼 壱銭洋食とあります。
元々、大正から昭和の初めころ、主に子供達のおやつとして、一銭で販売していたお好み焼きの全身で、粉モノの元祖が壱銭洋食と言う事です。
今度、食べに行ってみようと思います。
四条通りを西へ進んで行くと、鴨川の手前に
京都南座があります。
南座です。
四条大橋を西へ渡って行くと、西側袂に
北京料理 東華菜館があります。
大正15年(1926)に、西洋料理「矢尾政」が、
新しいビアレストランをイメージし、
スパニッシュ・バロックの洋館が生まれました。
その後、戦時色が強まり、
洋食レストランの存続が許されなくなり
昭和20年(1945)、
中国人による北京料理店の東華菜館に
変わっています。
四条通りから、木屋町通りに入り、
高瀬川に沿って北上します。
高瀬川の中に鳥がいます。
アオサギです。
人通りの多い街中ですが、
逃げずに留まっています。
木屋町通りを北へ進んで行くと、
蛸薬師橋があります。
その蛸薬師橋の東詰めに
土佐藩邸跡の石碑と、その説明があります。
この付近、高瀬川の西側に、土佐藩邸があり、
当時は、高瀬川に面して門があり、
土佐橋が架かっていました。
また、藩邸の中には、
土佐稲荷、岬神社が鎮守社として祀られており、
参詣に来る町人の為に藩邸内の通り抜けが
許されていました。
蛸薬師橋の上から、高瀬川上流を見たところ。
蛸薬師橋を西へ渡った袂には、
高瀬川沿革の説明があります。
蛸薬師橋の西側袂、
高瀬川沿革の説明と反対側には、
高瀬川七之舟入址の立札が立ってます。
舟入とは、
荷物の積み下ろしや、
船の方向転換を行う場所で、
二条から四条の間に九箇所の舟入があり、
その内の一つが、この辺りにありました。
蛸薬師橋から西へ向け進むと、
岬神社があります。
岬神社です。
社伝によると、
室町時代初期、鴨川の中州の岬(突端)に
祠を建てたのが始まりとされ、
その後、鴨川西岸を数度遷された後、
江戸時代に土佐藩邸内へ遷されました。
祭神は、倉稲魂命(うかみたまのみこと)と、石栄神です。
お稲荷さんとして親しまれる倉稲魂命を祀る事から、
土佐稲荷とも呼ばれています。
岬神社です。
地下鉄で、京都駅へ戻り、
京都タワーを見ようと思い、
地上へ出てみました。
京都駅烏丸口に
羅城門復元模型があります。
羅城門復元模型です。
羅城門は、平安時代、
平安京の朱雀大路の南端に建てられた
平安京の正門です。
その羅城門の約10分の一の大きさで
復元された復元模型が展示されています。
京都駅前から見た
京都タワーのライトアップです。