奈良・京都旅行の7日目は、北野天満宮、平野神社、龍安寺、仁和寺、金閣寺、大徳寺、清明神社、京都御所、元離宮 二条城を
周りました。
嵐電(らんでん)に乗って、北野天満宮に向かいます。
朝早くホテルを出て、近くの嵐電 四条大宮駅へ到着です。
嵐電 四条大宮駅から、嵐山行の電車に乗ります。
2010年の嵐電100周年を記念して採用された
新しい嵐電カラーの京紫の車両です。
途中、帷子ノ辻駅で、
北野白梅町行きの電車に乗り換えます。
反対側のホームへ
北野白梅町行きの電車が停まってます。
反対側のホームへ渡り、
手前の緑の車両は、回送の表示が出ています。
その向こうの京紫の車両へ乗って、
北野白梅町駅へ向かいます。
北野白梅町駅へ到着です。
北野白梅町駅から、今出川通りを東へ向け進んで行くと、
北野天満宮の鳥居が見えてきます。
北野天満宮の一の鳥居です。
高さ11.4mで今出川通りに面して建ってます。
木曽の花崗岩の一本柱で、
大正10年10月に建立されました。
北野天満宮は、
菅原道真公を御祭神とする全国12,000社の
天満宮、天神社の総本社です。
一の鳥居をくぐり、参道を北へ進みます。
参道の右手には、
石瑞垣で囲われた影向松(ようごうまつ)があります。
影向松は、初雪が降ると、
ご祭神の菅原道真公が降臨され、
雪見の詩を詠まれると言う伝説が残っています。
参道を進みます。
参道を進んで行くと、二の鳥居が見えてきます。
二の鳥居です。
江戸時代後期に活躍した江戸の町火消であり、
浅草寺の門番でもあった
新門辰五郎が寄進した鳥居です。
二の鳥居をくぐり、その先には
三の鳥居が見えます。
三の鳥居です。
その三の鳥居の向こうには、楼門が見えます。
参道脇の臥牛の像です。
三の鳥居の手前、左手に、
摂社の伴氏社(ともうじしゃ)があります。
祭神は、菅原道真公の母君で、
大伴氏の出身である事から伴氏社と呼ばれています。
伴氏社神前の石鳥居は、鎌倉時代の作です。
鳥居の足元、台座に刻まれた蓮弁が珍しく、有名で
国の重要美術品に指定されています。
三の鳥居をくぐり進むと、左手に筆塚があります。
祭神の菅原道真公は、学問の神様として、
広く信仰を集めており、
各地の天満宮に使い古した筆を供養する
筆塚が建てられました。
この筆塚は、江戸時代後期、1834年に
小野英棟と言う商人によって
建立された物です。
参道を進みます。
正面は、楼門です。
参道の両側に、臥牛の像が奉納されています。
参道左側の臥牛の像です。
参道右側の臥牛の像です。
祭神の菅原道真公には、牛にまつわる伝説や逸話が
数多く残されています。
菅公が誕生された承和12年(845)は、
乙丑(きのとうし)の年でした。
延喜3年(903)に、生涯を閉じられた際は、
「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言により、
遺骸を轜車(牛車)で運ぶ途中、
牛が座り込んで動かなくなった場所に
埋葬されました。
楼門です。
その楼門を下から見上げたところ。
楼門の扁額には、
「玄道太祖 風月本主」の文言が刻まれています。
「玄道太祖」とは、学問、文学の祖、
「風月本主」は、漢詩、和歌に長じた人と言う意味です。
平安時代中期の学者、慶滋保胤、大江匡衡が、
菅原道真公を讃えた言葉です。
楼門の前にあった
北野天満宮の説明です。
そして、境内案内図です。
楼門を入り、楼門をふり返ったところ。
楼門を入った右手には、手水舎があります。
正面に、梅香水の文字が刻まれています。
臥牛が載った石から
竹筒を通して水が流れ出ています。
楼門を入って、参道をまっすぐ北へ進もうとすると、
本殿への筋は、隣の筋へ行くよう矢印が出ています。
多くの神社は、参道の正面に本殿がありますが、
ここは正面に無く、
筋違いの本殿と言われています。
もともと、この地には地主神社があり、
後に菅原道真公を祀る社殿を建てた歴史的な経緯があり、
本殿は地主神社を避けて建てられています。
楼門を入って、西側に、絵馬所があります。
その絵馬所の説明です。
その絵馬所に掲げられた絵馬です。
その絵馬所には、西陣織で織られた織物三十六歌仙奉額も
奉納されています。
絵馬所の中に、たくさんの絵馬が掲げられています。
絵馬所の西側に摂社の宗像社があります。
祭神は、田心媛神(たごりひめのかみ)、
湍津媛神(たぎつひめのかみ)、
市杵島姫命(いちきしまひめのかみ)です。
絵馬所の北西には、御手洗川が流れており、
橋が架かっています。
楼門から北に向かう筋の隣の筋、
絵馬所の前から北に向かうと
三光門、本殿があります。
正面に見える門は、三光門です。
三光門、本殿へ向かう途中、左手に、手前から摂社の
福部社、老松社(おいまつしゃ)があります。
老松社の祭神は、
菅原道真公が大宰府で自らの無実を天に訴える為、
天拝山へ上った時に笏を預けたのが島田忠臣翁です。
菅原道真公が島田忠臣翁に松の種を持たせ、
この地に撒くように託し、
菅原道真公の神霊がこの地に降臨した時、
一夜にしてたくさんの松が生えた伝説が残されています。
福部社の祭神は、菅原道真公の舎人で、
牛車を引く牛の世話役だった十川能福(そごうののうふく)です。
その向かい、参道の右手には、手前から摂社の
白太夫社、火之御子社(ひのみこしゃ)です。
火之御子社の祭神は、火雷神で、雷除けに霊験あらたかです。
白太夫社の祭神は、菅原道真公の父が世継ぎの誕生を託し
安産祈願をお願いした伊勢の神官、
渡会春彦(わたらいはるひこ)です。
渡会春彦は、若い頃より白髪で、白太夫と呼ばれており、
菅原道真公が大宰府へ流された際には、大宰府までお供し、
薨去されると遺品を土佐の長子へ届け、京へ戻る途中に
亡くなったと伝えられています。
三光門へ向け進みます。
その参道の両脇に、臥牛の像が奉納されています。
参道左側の臥牛です。
参道右側の臥牛です。
そして、三光門です。
三光門は、本殿前の中門で、日・月・星の彫刻がある事から
三光門と呼ばれてます。
しかし、実際には星の彫刻は無いとも言われ、
星欠けの三光門とも呼ばれています。
慶長12年(1607)に豊臣秀頼が建立したと伝えられる
重要文化財です。
三光門の説明です。
三光門に掲げられた天満宮の扁額は、
御西天皇(1638-1685)の御宸筆による勅額と言う事です。
その御西天皇の御宸筆による天満宮の勅額です。
その後ろには、唐獅子の蟇股が見えます。
天満宮の勅額の裏には、中央に日の彫刻があります。
その両側、
左に雄の孔雀が羽を広げており、
右には雌の孔雀です。
三光門を入って、北側から見上げると、
手前には二匹の兎と
その間には三日月が彫られています。
そして、その奥には唐獅子の蟇股があります。
三光門を北から見上げた時の二匹の兎と三日月の
彫刻の裏側には、月の彫刻が見えます。
星の彫刻は、星欠けの三光門と言う事で、見つける事は
できませんでした。
かつて、朝廷があった平安京の大極殿から望むと、
この三光門の上に北極星が輝く事から、星は三光門の天空にあり、
門に星は彫られていないようです。
三光門を入って、正面に拝殿が見えます。
拝殿から石の間、本殿、そして拝殿の横に楽の間を連結した
日本最古の八棟造(権現造)です。
現在の建物は、慶長12年(1607)に、豊臣秀吉の遺志を継ぎ
豊臣秀頼によって造営されたと言われてます。
桃山時代の華麗な装飾を持つ貴重な建築で、
国宝に指定されています。
菅原道真公は、右大臣のおり、藤原氏の策謀により、
昌泰4年(901)大宰権帥に左遷され、2年後に没します。
その後、立て続けに、
謀略に関わった関係者の怪死事件が発生し、
朝廷は、道真公の祟りに悩まされ続けます。
道真公没後、約40年の天歴元年(947)、
道真公の祟りを解く為に、道真公を祀る社ができます。
これが北野天満宮で、天満天神として祀られるように
なりました。
拝殿に向かって右側に、左近の松です。
その反対側には、右近の梅です。
三光門を入って、回廊の南西の隅に
渡邊綱の灯籠があります。
渡邊綱は、平安時代中期の武将源頼光の四天王の一人です。
所用で夜半に一条戻り橋にさしかかると、
若く美しい女性から送って欲しいと頼まれます。
そして、送って行く途中、
その女性は恐ろしい鬼の姿となり、
綱を捕らえて舞い上がり愛宕山へ連れ帰ろうと
北野天満宮の上空にさしかかった時、
綱は太刀を抜き、鬼の腕を切り落とし難を逃れます。
後日、北野天満宮の神徳を感謝し、
この石灯籠を寄進したと伝わります。
南東から拝殿を見たところ。
向かって右に左近の松、左に右近の梅が見えます。
中央に右近の梅を見たところ。
この梅の木は、飛梅伝説の伝承の木と言う事です。
菅原道真公の大宰府への左遷の際に、
幼い頃より慣れ親しんだ邸の梅に、
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春なわすれそ」
と詠み別れを告げました。
主とともにありたいと願った梅の木は、
一晩にして、都から大宰府へ飛んで行ったと言われています。
そして、拝殿の破風を見上げたところ。
その拝殿の中央、欄間の
彫刻です。
道真公が逝去された際に、
遺骸を運ぶ牛が座り込んで
動かなくなった場所に
埋葬されたと言う
故事に由来し、
本宮の神牛は臥牛の姿で
あらわされていますが、
この欄間の牛は
唯一立った姿に
刻まれています。
拝殿の欄間の彫刻が美しいです。
左から、獏(ばく)に花、龍馬に水波、龍に瑞雲の彫刻です。
三光門を出て、南東に並ぶ石灯籠を見たところ。
この石灯籠の中で、中央辺りに
大黒天の像が刻まれた石灯籠があります。
この石灯籠は、江戸時代に
大黒屋を中心とする質屋さんの組合によって、
奉献されたもので、
お金の運だめしとして、大黒天の口に
小石を入れて落ちなければ、
それを財布に入れておくとお金に困らないと
言われています。
中央、左よりの建物は、神楽殿です。
その神楽殿です。
慶長12年(1607)、
豊臣秀頼が本殿を再建した同時期に建てられた物で、
狂言や日本舞踊のほか、毎月25日に神楽舞が
奉納されます。
神楽殿の前から北を見たところ。
左は、三光門から続く東廻廊です。
東廻廊の潜門です。
廻廊は、拝殿の横に連結された楽の間に続きます。
そして、その楽の間の向こうに本殿が見えます。
左が楽の間で、その向こうが本殿です。
本殿です。
祭神は、菅原道真公で、相殿として、菅公の御子息の中将殿、
菅公の北の方の吉祥女が祀られています。
本殿は、透塀で囲われています。
そして、東を見ると、東門があります。
慶長12年(1607)、
豊臣秀頼が本殿を再建した同時期に建てられた
建物の一つで、切妻造り、銅葺の四脚門です。
町屋も多く残る西陣の花街の上七軒に通じる門です。
本殿の東側にある車祓所です。
車のお祓いを行い交通安全を祈祷します。
その向こうに見える赤い社は、地主社です。
本殿の北側には、摂社、末社が並んでいます。
この赤い社は、境内摂社の地主社です。
天神地祇の神々をお祀りしており、
北野天満宮の創建以前からある境内で最も古い社です。
本殿を北東から見たところ。
本殿です。
北野天満宮では、本殿の正面だけでなく、
裏からも拝む事ができる造りになってます。
菅原道真公と背中合わせに、
御后三柱(おんこうのみはしら)が
北向きに祀られており、
その三柱を拝む為に裏の社があります。
その三柱は、
道真公の祖先神の天穂日命(あめのほひのみこと)、
道真公の祖父の菅原清公(すがわらきよきみ)卿、
道真公の父の菅原是善卿です。
本殿の北西には、赤い鳥居が並んだ奥に、
牛舎と呼ばれる社があり、そして、絵馬掛所があります。
牛舎には、
本殿の北西、乾の位置に最も古い撫で牛の像があり、
江戸時代より、一願成就所、乾さんと呼ばれて信仰を
集めています。
右の社は、崇道天皇社です。
そして、牛舎の北側には、注連縄で囲まれた場所に
亀石があります。
牛舎の撫で牛が陽石を、亀石は陰石を象徴し、
陰陽石として信仰されています。
牛舎、亀石の周りには、
学業成就、合格祈願などの願いが込められた絵馬が
掛けられており、毎年10万枚にも及びます。
北西から、本殿を見たところ。
本殿の西側を南へ歩きながら、拝殿の横に連結している
楽の間の前から、本殿をふり返ったところ。
そして、楽の間に続く廻廊の潜門を見たところ。
西廻廊の西側にある神明社と文子社です。
左の赤い社が、神明社で、
祭神は天照大御神と豊受大御神です。
右の社は、文子社(あやこしゃ)で、
祭神は、菅原道真公の乳母だった多治比文子です。
境内の西には、もみじ苑があり、もみじが公開されたり、豊臣秀吉が築いた史跡
御土居を見る事ができます。
その御土居の説明板です。
私が行った時は、開苑時間前で、もみじ苑へ入ることはできませんでした。
地主社まで戻り、地主社の横を北へ進むと、
文子天満宮があります。
文子天満宮の祭神は、菅原道真公です。
菅原道真公没後、乳母だった多治比文子は、自宅の庭に
小さな祠を設け、道真公を祀っていました。
そんなおり、天慶5年(942)、道真公は多治比文子に
北野の右近の馬場に祀るよう託宣され、天歴元年(947)に
北野天満宮が鎮座されました。
多治比文子によって、道真公が最初に祀られた社が、
文子天満宮で、天神信仰の発祥の神社と
位置付けられています。
文子天満宮を過ぎ、北へ向かうと、北門があります。
その北門を出て、北側から北門を見たところ。
北野天満宮を出ると、前の道の脇に石瑞垣が建ってます。
その石瑞垣に沿って西へ、平野神社へ向け歩きます
進んで行くと、北野天満宮の境内の西を流れる紙屋川を横切ります。
この紙屋川には、御土居が残っています。
まっすぐ進んで行くと、正面に平野神社の赤い鳥居があります。
平野神社の赤い鳥居です。
平野神社の赤い鳥居を、正面から見たところ。
平野皇大神の扁額が掛かってます。
鳥居をくぐると、その先には神門があります。
その神門の手前、左手にある手水舎です。
神門を抜けると、正面に拝殿があったようですが、
平成30年(2018)の台風21号の影響で、拝殿は倒壊した為、
復旧工事が行われていました。
拝殿の手前、左手に神木の楠があります。
この御神木の楠は、樹齢400年を超えると言う事です。
そして、神木の下には、霊石の「すえひろがね」があります。
この「すえひろがね」は、
重さ約200kgある日本最大級の餅鉄(べいてつ、磁鉄鉱)で
東北地方からもたらされたものと言う事です。
この「すえひろがね」に宿る力を頂くには、
磁石入りの「授かる守」と言うお守りを
くっつけて祈ると霊石の力が移ると言われてます。
御神木の楠です。
神門の正面に復興中の拝殿があり、
その向こうには本殿があります。
復興中の拝殿の横を周り、本殿へ向かいます。
透塀に囲われた本殿。
透塀越しに本殿の屋根、千木が見えます。
祭神は、
今木皇大神(いまきすめおおかみ)、久度大神(くどおおかみ)、
古開大神(ふるあきのおおかみ)、比賣大神(ひめのおおかみ)の
四柱です。
奈良時代、平城京宮中に祀られていましたが、
延暦13年(794)の平安遷都と同時に、
平野の地にご遷座されました。
現在の建物は、寛永2年(1625)に南殿、寛永9年(1632)に北殿が
建立された物です。
平野造りと呼ばれる二殿一体となった本殿が、2棟南北に建ち、
北より祭伸四座が、今木皇大神より順に祀られています。
本殿前の右近の橘です。
その後ろに見える提灯は、平成30年(2018)の台風21号の
被害に対して、復旧祈願の提灯が奉納されたものです。
左近の桜です。
衣笠と言う品種で、
平野神社からひろまったとされる桜です。
その左近の桜の辺りから、
本殿、右近の橘を見たところ。
平野神社を出て、西へ向かうと、
立命館大学 衣笠キャンパスへ出ます。
立命館大学の東門です。
東門を入ると、右手に教室棟の志学館があります。
左手には、主に産業社会学部の以学館があります。
志学館の西側から北を見ると、
存心館の時計台が見えます。
立命館大学の衣笠キャンパスを通って、等持院へ行きます。
等持院の山門です。
丁度、改修工事中で、参拝は庭園のみと表示が出ていました。
但し、私が行った時間は、早すぎて、参拝時間前だった為、
中に入る事はできませんでした。
中に入る事はできませんでしたが、等持院の庭の説明です。
等持院の山門を南から見たところ。
等持院境内の禁煙の看板です。
等持院と立命館大学の連名になってます。
次は、等持院から、龍安寺へ向かいます。
龍安寺へ向かう参道です。
龍安寺への参道を北へ進んで行くと、最初の門があり、
その前に大雲山 龍安寺と彫られた石標がたってます。
その門をくぐり、進んで行くと、きぬかけの路があり、
きぬかけの路を横切って北へ進んで行きます。
龍安寺の山門が見えてきました。
龍安寺の山門です。
宝暦5年(1755)に洪水により破損したため、
江戸中期に再建されたものです。
山門を抜けると、右手にあった世界遺産「古都京都の文化財」の説明がありました。
龍安寺は、1994年に「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されています。
大雲山 龍安寺の全景です。
山門を入って左手に見える鏡容池(きょうようち)の池畔の堤から見た景観という事です。
山門を入って左手の鏡容池の堤から、鏡容池を見たところ。
鏡容池は、境内の南半分を占める巨大な池で、
平安時代は貴族が舟を浮かべて遊んでいたと言われています。
龍安寺と言えば、枯山水の石庭が有名ですが、かつては、
鏡容池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名でした。
鏡容池です。
中央に浮かぶ島は、弁天島です。
ここは、寺内にもかかわらず、弁財天を祀る社が建ってます。
鏡容池の水面には、たくさんの睡蓮の花が咲いてます。
その睡蓮です。
鏡容池に沿って北へ、鏡容池の睡蓮を見ながら進みます。
対岸に、鏡容池の南西隅にある水門が見えます。
睡蓮です。
睡蓮は、蓮と異なり、
水面に浮かんでいるように花が咲くのが特徴です。
一方、蓮は、茎があり、
花は水面より高い位置で咲くようです。
睡蓮です。
日差しが強くなると、眠るように花を閉じる事から、
蓮に睡の文字を付けて、睡蓮と名付けられてます。
中央が弁天島で、右よりに弁天島へ渡る石橋が見えます。
睡蓮です。
中央辺りに、小さく岩が二つ並んでいるのが見えます。
水分石です。
鏡容池に沿って進んで行くと、正面に手水舎があります。
手水舎の手水鉢です。
鏡容池から北へ、庫裏へ向かいます。
進んで行くと、左手に石仏があります。
更に進むと、史蹟及名勝龍安寺方丈庭園と刻まれた石標と、
龍安寺の説明がありました。
龍安寺の説明板です。
龍安寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。
宝徳二年(1450)、足利将軍の管領職にあった細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受け、
妙心寺の義天玄承を開山に迎えました。
そして、応仁の乱で焼失してしまいますが、明応八年(1499)に勝元の実子、政元によって再興されました。
方丈庭園は、室町時代末期に築造されたと伝えられています。
階段を上り、庫裏、方丈へ向かいます。
階段の脇には、竜安寺垣があります。
龍安寺垣は、透かしの部分に割竹を菱形に張っており、
柱やカーブにも対応しやすく長い距離に適した
竹垣になっています。
階段を上ると、庫裏があります。
庫裏は、寛政九年(1797)の火災で焼失後に
再建されたものです。
本来、庫裏は、寺の台所ですが、
禅宗寺院では玄関としているところが多く、
木組みと白壁からなる構成は、
簡潔かつ重厚です。
庫裏の中に入ると、
明治の漢学者、寺西乾山(雅号 紫芝山人)筆による
屏風があります。
屏風の漢詩は、
東晋から宋にかけての六朝文化を代表する詩人、
陶淵明の「飲酒」です。
庫裏の屋根裏を見上げたところ。
団体用の出入口です。
その通路の衝立も、寺西乾山(雅号 紫芝山人)の筆に
よるものです。
衝立の文字は「通気」で、気を通ずと読みます。
「通ず」は、「とおる」とか「かよう」のほかに
「つらぬく」「ゆきわたる」の意味があります。
「気」は、「きもち」など「こころのはたらき」の意味から
「ちから」とか、「いきおい」、
更には「萬物が育つための根源力(生命力)」、
或は「宇宙の萬物を生成する霊的な質」と言った
意味があります。
ちなみに、この衝立の反対側には、これも、寺西乾山の筆による
「雲関」の文字が書かれています。
龍安寺の山号の大雲山の玄関を意味しています。
そして、庫裏から続く方丈へ向かいます。
方丈の前、南側に、枯山水の石庭で有名な
方丈庭園があります。
方丈庭園は、幅25m、奥行10m、約75坪の広さを持ち、
庭一面に敷き詰められた白砂の庭に、15個の石が、
東から五・二・三・二・三と配置されています。
東側の五・二と配置された石です。
そして、西側に三・二・三と配置された石です。
石庭の東側を見たところ。
東側の五石について、中央の石は石庭の中で最も大きく、
苔島で三尊石に組まれています。
また、苔島から少し離れたところに平石を二石据えており、
五尊とも言えます。
そして、次に油土塀に沿って、二石で組まれた石組は、
遠山を表現しています。
左が、遠山を表現した二石の石組です。
そして、右側に立石、横石、
横石より高さがなく地面に伏せたような伏石の
三石で組まれた石組。
その伏石は青石です。
更に、その隣、右側に二石の石組があります。
その右側、一番西の端の石組は、
この角度から二石にしか見えませんが、
石の陰にもう一石あり、三石の石組があります。
この石組は、三尊石です。
白砂の上に、全部で15石を配した庭は、
あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見え、
虎の子渡しの庭とも呼ばれています。
石庭の西の端を見たところ。
この庭は、15石を配していますが、
どこから見ても、
一度に全ての石を見る事ができないよう作庭されており、
不完全な状態を表しているとの事です。
そして、この不完全な状態は、見る人の捉え方に委ねられています。
方丈の広縁に拝観者が座り、石庭を眺めています。
ちなみに、この石庭を有名にしたのは、
1975年にイギリスのエリザベス女王が訪日され、
龍安寺の石庭を拝観された事です。
その時、感想を求められた女王は「私にはわからない」と
コメントされたと言う事です。
その方丈に掲げられている扁額には、方丈と書かれています。
この方丈は、慶長11年(1606)に塔頭の西源院の方丈として、
織田信長の弟、信包(のぶかね)によって建立されました。
寛政九年(1797)の火災で龍安寺の方丈が焼失した為、
移築されました。
方丈の内部に展示されていた襖絵の芭蕉図です。
この襖絵は、慶長11年(1606)に織田信包によって、
方丈が建立された時から、方丈の上間一の間にあった襖で、
芝垣を背景に雄大な芭蕉を描いた作品です。
そして、この襖絵は、明治の廃仏毀釈で手放され、
2018年12月に123年ぶりに買い戻されたものです。
但し、絵は元の状態ではなく、後から大幅に手が加えられ、
西洋画のような陰影がつけられてしまってます。
群仙図の一部です。
神仙境に遊ぶ仙人たちを主題とした襖絵です。
左側が群仙図の一部で、右側が琴棋書画図の一部です。
琴棋書画図は、
君子がたしなむ四芸(琴、碁、書、画)を
主題としています。
どちらの襖絵も、明治の廃仏毀釈で手放され、
2010年に買い戻されたものです。
方丈の内部です。
方丈の広縁から石庭を見たところ。
石庭です。
方丈南側の広縁から、西側に回ったところ。
前方に、仏殿に通じる渡り廊下が見えます。
この渡り廊下の先には、通常、非公開の仏殿があります。
方丈の北側へ回ります。
方丈の北側の縁を進んで行くと、蹲踞があります。
その蹲踞の説明です。
方丈の北東にある茶室、蔵六庵の
蹲踞の実物大の模型で、
水戸光圀公の寄進とされています。
蹲踞の中央の水穴を口の字に見立て、
周りの四文字と共用し、
「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と
読みます。
これは、釈迦が説いた
「知足のものは、貧しといえども富めり、
不知足のものは、富めりといえども貧し」
と言う「知足」の心を図案化した仏教の神髄であり、
茶道の精神にも通じるものがあります。
そして、方丈の南側、広縁へ戻ります。
方丈の内部を見たところ。
庫裏から外へ出たところへ順路を示す
地図があります。
順路に従って西へ向かうと、団体専用入口があります。
更に西へ行くと、方丈庭園へ直接入る勅使門があります。
右端へ勅使門の一部が見えます。
方丈庭園の南側、油土塀を外から見たところ。
方丈の南側の道を西へ向かいながら、
方丈庭園の南の油土塀が木立の向こうに見えます。
龍安寺と同じく妙心寺の塔頭、西源院の山門です。
西源院の山門。
ここ西源院は、日本庭園を眺めながら精進料理や、七草湯豆腐を
いただくことができます。
方丈の西側の仏殿へ向かう階段です。
この門の奥に、通常非公開の仏殿があります。
仏殿に向かう階段の前を過ぎて、更に西へ進み、
正面の階段は、納骨堂、パゴダへ続きます。
階段を上がった正面に、納骨堂があります。
納骨堂の手前、右手にパゴダがあります。
パゴダには、「先の第二次世界大戦にてビルマ派遣野戦自動車廠に参戦した
龍安寺第五十八代松倉紹英住職等の発願によって尊い生命を捧げた
亡き戦友達の慰霊の為に無事復員した戦友一同の募金により
このパゴダが昭和四十五年八月に建立された」と由来が刻まれています。
パゴダを出て、鏡容池へ向かい、西畔から南へ周ります。
鏡容池です。
西畔から東を見たところ。
左端に弁天島、中央は伏虎島です。
伏虎島は、虎が伏せている姿に見える事から
そう呼ばれるようになったようです。
鏡容池の弁天島と伏虎島です。
中央左に、弁天島です。
弁天島に見える屋根は、七福神の弁財天を祀る社で、
豊臣秀吉も参拝したと伝えられています。
その弁天島の西側、中央に見える屋根は霊光院の霊光堂で、
その左の大きな屋根は大珠院の方丈です。
右側の霊光院は、龍安寺と同じく妙心寺の塔頭で、
天正10年(1582)に細川昭元の室、宗倩尼が創設しました。
ちなみに、宗倩尼は、お犬の方と呼ばれる織田信長の妹です。
今では、無住の小堂、霊光堂のみが残されています。
そして、大珠院の方丈です。
大珠院も、龍安寺と同じく妙心寺の塔頭で、
1493年に開創されたのが始まりです。
天文年間に龍安寺に移り、1600年に石川貞清によって
再興されました。
その貞清の室は、真田幸村の七女で、
鏡容池の島に幸村夫妻の供養塔を建てています。
大珠院の方丈です。
中央は弁天島です。
弁財天を祀る社の赤い鳥居が見えます。
鏡容池の南畔に沿って東へ、対岸の大珠院や弁天島を
見ながら歩きます。
鏡容池の北東隅に、
木船をしまっている船庫が見えます。
鏡容池の南畔近くに、
二つ並んだ岩、水分石(みくまりいし)が見えます。
その水分石です。
水分石の上では、亀が甲羅干しをしています。
そして、この水分石は、
池の水かさを測るのに使用されているようです。
水分石越しに、弁天島、
そして、その向こうに大珠院を見たところ。
木船をしまった船庫です。
平安時代、龍安寺一帯が徳大寺家の別荘であった頃、
この鏡容池に龍頭の船を浮かべて
歌舞音曲を楽しんでいたと文献に残っています。
昔は石庭よりも鏡容池の方が有名で、
江戸時代中期1780年に刊行された
現代の旅行ガイドブックにあたる都名所図会には、
おしどりの名所として紹介されています。
鏡容池です。
鏡容池の東よりに浮かぶ小島、伏虎島です。
境地を一周して、龍安寺の山門へ出ます。
山門を出て、参道からきぬかけの路へ出ます。
きぬかけの路へ出たところに
世界遺産登録と約束の看板がありました。
世界遺産登録は、日本に居る私達みんなの責任に於いて
恒久に保存する事を世界に約束した事を
宣言した事になります。
龍安寺から、次は仁和寺へ向け、きぬかけの路を進みます。
進んで行くと、左手に石鳥居があります。
鳥居を入ったすぐのところに、
小松尾神社の小さな社があり、
更に奥に進むと住吉大伴神社があります。
住吉大伴神社の前を、きぬかけの路に沿って、
仁和寺へ向かいます。