奈良・京都旅行の5日目は、奈良のホテルをチェックアウトし、京都のホテルへ移動します。
奈良から京都へ移動の途中、宇治の平等院をはじめ、宇治から伏見、伏見稲荷を歩きました。
JR奈良駅から奈良線に乗り、JR宇治駅で下ります。
JR宇治駅前にあった
観光案内図です。
この日は、宇治を見て歩いた後、京阪宇治線で伏見へ行く予定で、
まず最初に京阪宇治駅のコインロッカーに荷物を預けに、京阪宇治駅へ向かいます。
その京阪宇治駅です。
コインロッカーに荷物を預け身軽になって、
京阪宇治駅から、再び、JR宇治駅へ戻り、
宇治の散策をスタートします。
京阪宇治駅を出ると、宇治川があります。
宇治川は、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川が、
中流の京都府に入って宇治川となり、
下流の大阪では、淀川になります。
その宇治川に架かる宇治橋を渡りながら、
上流を見たところ。
宇治川は、宇治川の戦いにおいて、
源頼朝の名馬、麿墨(するすみ)に乗った梶原景季と、
これも源頼朝の名馬、生唼(いけずき)に乗った佐々木高綱の
先陣争いが有名です。
宇治川上流を見たところ。
宇治橋を西に渡り、南を見ると、
大きな鳥居があります。
この鳥居は、縣神社へ向かう参道の鳥居です。
宇治橋の西側袂には、
源氏物語の作者、紫式部の像があります。
紫式部の像です。
紫式部の説明です。
JR宇治駅へ戻りました。
JR宇治駅から、最初に平等院へ、
そして、宇治川を渡って、
宇治上神社、宇治市源氏物語ミュージアム、
三室戸寺を周ります。
JR宇治駅から、奈良街道を横切り、
宇治橋通りへ向かいます。
奈良街道を渡ったところに、
宇治茶 伊藤久右衛門
のお店がありました。
また、宇治橋通りへ入るとすぐに、
十を○で囲んだマルトの印と、
中村本店と書かれた看板の建物が見えます。
安政元年(1854)創業の茶商 中村藤吉本店です。
宇治橋通りを、北東、宇治橋方向に歩きながら、
来た方向をふり返ったところ。
宇治橋通りを、北東、宇治橋方向に歩いて行きます。
右手に見える古い建物は、京都宇治茶坊
山本甚次郎の店舗です。
宇治橋通りを北東へ進み、突き当たると、
平等院表参道へ入ります。
その平等院表参道です。
平等院表参道を南へ、平等院へ向かいます。
平等院表参道を進んで行くと、
ここにも宇治茶 伊藤久右衛門のお店が
ありました。
平等院表参道を進んで行くと、
平等院の石標が見えてきます。
平等院は、1994年に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されました。
その説明です。
平等院配置図です。
早く着いた為、正門(表門)は、閉まっています。
門が開くまで、
宇治川河畔を少し散歩する事にします。
平等院横の道を、宇治川へ向かいます。
宇治川へ向かう道から、平等院の塀越しに
平等院観音堂の屋根が見えます。
宇治川の土手に上がると、
目の前に宇治川の中州の橘島があり、
その橘島へ渡る橘橋が見えます。
宇治川の左岸です。
この辺り、宇治川の左岸の道は、
あじろぎの道と呼ばれています。
琵琶湖で生まれた鮎の稚魚を氷魚と言い、
その氷魚を獲る漁法を網代(あじろ)と言います。
その漁法は、漁網の代わりに、
川瀬に杭をV字型に立て、竹を編んだものを設置し、
V字の先端に流れて来た魚を簀をあてて獲る方法です。
その杭などを網代木(あじろぎ)と呼び、
この辺りの川瀬にありました。
右端が宇治川の左岸で、左端が橘島です。
その橘島の上手(南側)に、
これも宇治川の中州の塔の島があります。
橘橋を渡りながら、宇治川の下流方向を見たところ。
右側に橘島が見えます。
前方に見える橋は、宇治橋です。
橘島へ渡り、下流方向を見たところ。
橘島へ渡り、上流方向を見ると、
橘島から宇治川の右岸へ渡る朝霧橋が
見えます。
その朝霧橋です。
朝霧橋の手前には、宇治川先陣之碑が建ってます。
宇治川先陣之碑です。
古代より交通の要衝であった宇治は、
幾多の合戦の舞台となり、なかでも、
寿永3年(1184)の木曽義仲と、
朝廷から義仲追討の任を受けた源義経の戦いは
有名です。
天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、
義経軍の源頼朝の名馬麿墨(するすみ)に乗った梶原景季と、
これも源頼朝の名馬生唼(いけずき)に乗った佐々木高綱の
先陣争いで幕を切りました。
先陣は佐々木高綱がとり、義経軍が一斉に渡河し
義仲軍を打ち破りました。
宇治川の左岸です。
前方の橋は、先ほど渡って来た橘橋です。
朝霧橋を、宇治川の右岸へ渡った
すぐ上手の景色です。
宇治川の中州の橘島と、塔の島は、
宇治公園になっています。
正面に見える山は、朝日山です。
赤い欄干の橋は、観流橋です。
その観流橋です。
観流橋の下の流れは、激しく宇治川の本流に
流れ込んで来ています。
この観流橋のすぐ上流には、関西電力宇治発電所
があります。
琵琶湖から流れ出た水が、大津市南郷から取り込まれ、
トンネルでこの発電所まで運ばれ、
水力発電に利用された後、ここに流れ出ています。
橘島から、その上流の中州の塔の島へ渡る橋、
中島橋の上から、観流橋を見たところ。
橘島から塔の島へ渡ったところに、
宇治川の鵜飼の為に、飼育されている鵜の
鵜舎があります。
その鵜舎で飼育されているのは、
ウミウと言う種類の鵜です。
2014年にウミウに初めてのヒナが
誕生しました。
ウミウは警戒心が強く、飼育されているウミウの
産卵、ふ化は日本で初めてのことです。
塔の島から対岸の観流橋を見たところ。
塔の島には、浮島十三重石塔が建ってます。
高さは15m、日本最大最古の石塔で、重要文化財です。
鎌倉時代、弘安7年(1284)、
奈良西大寺の高僧、叡尊は、宇治橋の架け替えに際し、
橋の流出は魚霊の祟りと考え、
宇治川の殺生禁断令の発布を要請し、
網代などの漁法は禁止されました。
弘安9年(1286)、塔の下に漁具などを埋めて、
法要が営まれました。
しかし、塔は洪水で倒壊、修復を繰り返し、
宝暦6年(1756)の大洪水による流出後、
約150年間、川中に埋没していました。
明治40年(1907)より、発掘に着手し、
埋没していた石を使用して修復に着手しました。
但し、九番目の笠石と頂の九輪石は発見されず、
新しく補って、明治41年(1908)に完成しました。
浮島十三重石塔の浮島は、洪水で水中に埋もれないよう
「都名所図絵」で浮舟ノ島と称されており、それに由来します。
浮島十三重石塔の西側には、
塔の島から宇治川の左岸へ渡る喜撰橋があります。
喜撰橋から、宇治川の左岸を見たところ。
喜撰橋の上から、宇治川下流方向を見たところ。
鵜飼の観覧船でしょうか、
たくさんの船が係留されています。
喜撰橋の上から、宇治川上流方向を見たところ。
鵜飼観覧船の乗り場です。
宇治川の左岸から、中洲の橘島と
塔の島をつなぐ中島橋を見たところ。
宇治川の左岸、あじろぎの道を、
平等院の開門時間に合わせ、
平等院へ向かいます。
平等院の正門(表門)です。
正門(表門)を入り、
鳳凰堂へ向け進んで行きます。
鳳凰堂へ向け、進んで行きます。
左手に重要文化財の観音堂があります。
鳳凰堂へ向かいながら、観音堂をふり返ったところ。
観音堂は、鎌倉時代前期に創建当時の
本堂跡に再建されています。
全体的に簡素な建物ながら、垂木を地円飛角の二軒とし、
天平以来の格式高い様式になっています。
垂木とは、屋根板を支える為、棟から軒に渡した木です。
垂木が、上下二段となって、下部の垂木を地垂木、
上部の垂木を飛櫓垂木と呼び、地垂木の断面が丸型(円型)、
飛櫓垂木の断面が角型となっている様式を
地円飛角と言います。
鳳凰堂です。
鳳凰堂を北から見たところ。
永承7年(1052)、時の関白、藤原頼道が、
父、道長より譲り受けた別荘、宇治殿を
仏寺に改め、平等院を開創しました。
天喜元年(1053)には、阿弥陀堂、現在の鳳凰堂が
落慶しました。
鳳凰堂は、周囲を阿字池に囲まれており、
鳳凰堂を右手に見ながら、
その阿字池に沿って、進んで行きます。
鳳凰堂と反対方向を見ると、藤棚があります。
藤の花の季節は、4月下旬から5月上旬で、
今年は既に終わってました。
鳳凰堂です。
鳳凰堂を北東から見たところ。
阿字池の畔の松の木の陰に、
アオサギがいました。
アオサギです。
アオサギです。
鳳凰堂です。
鳳凰堂は、華やかな藤原摂関時代をしのぶ
ほとんど唯一の遺構で、貴重な建築で国宝に
指定されています。
鳳凰堂を正面、東から見たところ。
建立当時は阿弥陀堂と呼ばれていましたが、
正面から見ると、鳥が翼を広げているように
見える事に加え、
屋根の上に一対の鳳凰が立っている事から、
江戸時代初期頃、鳳凰堂と呼ばれるように
なりました。
大きな特徴として、池の中の島に建てられており
あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように
美しい姿を水面に映しています。
鳳凰堂は、中央の中堂、その両側に南翼楼、北翼楼、
中堂の後ろには尾楼と、計4棟で構成されています。
そして、中堂には、平安時代の仏師、定朝による
寄木造の阿弥陀如来坐像が安置されています。
この日は、鳳凰堂内部の改修工事が行われており
内部の拝観は停止中でした。
しかし、中堂の正面、亜字池越しに、
阿弥陀仏を拝むことができました。
その阿弥陀如来坐像です。
中堂内部、阿弥陀仏の周囲の壁、扉には、
九品来迎図、阿弥陀仏の後ろの壁には、
極楽浄土図が描かれています。
長押の上の小壁には、
52躯の雲中供養菩薩像が
懸けられています。
天井や梁は、宝相華を主とする文様で
埋め尽くされ、
柱は天衣を翻して舞う天人などが描かれ、
彩色されていました。
天蓋中央部に大型の八花鏡、
天井には計66個もの銅製鏡が
吊られています。
鳳凰堂です。
鳳凰堂です。
鳳凰堂中堂の大棟の南北両端には、
一対の鳳凰が据えられています。
その鳳凰です。
初代の鳳凰像は、大気汚染による錆害を考慮し
取り外されており、
現在は、ミュージアム鳳翔館で
拝観できます。
平等院南翼楼、北翼楼の屋根の上には
宝珠が載っています。
鳳凰堂中堂の軒は、観音堂と同じく、
垂木は、地円飛角の二軒となってます。
垂木が、上下二段となって、下部の垂木を地垂木、
上部の垂木を飛櫓垂木と呼び、
地垂木の断面が丸型(円型)、飛櫓垂木の断面が角型と
なっている様式を地円飛角と言います。
ちなみに裳階の垂木は地角飛角の様式です。
鳳凰堂の南側は、小高い地形になっており、
その上に、鐘楼が見えます。
阿字池の水蓮です。
平等院北翼楼方向を見たところ。
阿字池の南東端から、鳳凰堂を見たところ。
阿字池の南東端を回り、ミュージアム鳳翔館へ
向かいます。
途中、六角堂があります。
六角堂は、
明治35年(1902)から明治40年に行われた
鳳凰堂の翼楼の解体・修理の際に
廃材を利用して建てられました。
六角堂の柱には臍穴が残ってます。
六角堂の床には、六角形に並べられた
石がありました。
鳳凰堂です。
鳳凰堂です。
阿字池を南から見たところ。
鳳凰堂の南翼楼です。
南から見たところ。
南翼楼の南端に、阿字池を跨いで渡れるように
小さな反橋が架かっています。
南翼楼の裏側を見たところ。
写真中央には、中堂から西に伸びる
尾楼が見えます。
南翼楼の一部です。
垂木は、二軒で地角飛角の様式です。
南翼楼の南側から阿字池を見たところ。
南翼楼です。
南翼楼から反橋を渡った対岸から始まる小道の法花堂之路の説明です。
ここから、ミュージアム鳳翔館へ入ります。
ミュージアム鳳翔館では、
国宝の雲中供養菩薩26躯、鳳凰一対、梵鐘一口が
展示されています。
ミュージアム鳳翔館の出口は、
鳳凰堂の南、高台の上にあります。
その出口を出ると、正面に鐘楼があります。
その鐘楼です。
梵鐘です。
梵鐘は、鳳凰堂建立と同じ頃鋳造された国宝で、
現在はミュージアム鳳翔館へ展示されています。
鐘楼に吊られている梵鐘は、その国宝の梵鐘を
忠実に再現しています。
全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮彫が
施された他に例を見ない物です。
そして、その梵鐘は、「姿(形)の平等院」、
「銘の神護寺」、「声の園城寺」、「勢の東大寺」
と称され、神護寺、園城寺(三井寺)と共に
日本三銘鐘の一つに数えられています。
ミュージアム鳳翔館の出口を
出たところにあった平等院マップです。
ミュージアム鳳翔館の出口です。
ミュージアム鳳翔館を出て、
旧南門へ向かいます。
旧南門です。
南から見たところ。
旧南門の説明です。
伏見桃山城からの移築とされています。
旧南門を北から見たところ。
旧南門を抜け、北へ向け進んで行くと
重要文化財の養林庵書院があります。
その養林庵書院の説明です。
養林庵書院です。
伏見桃山城から移築されたと伝えられています。
養林庵書院の床の間には「雪景楼閣山水図」、
襖には「雛(まがき)に梅図」、
天袋には「花卉(かき)図」が描かれており、
作者はその作風から狩野山雪とみられてます。
但し、非公開の為、中には入れません。
更に進んで行くと、浄土院があります。
その浄土院です。
浄土院の説明です。
説明によると
養林庵書院も
浄土院の子院との事です。
浄土院です。
浄土院は平等院の塔頭で、
浄土宗の栄久(えいく)上人が、
明応年間(15世紀後半)に
平等院修復の為に開創した寺と
伝えられています。
浄土院です。
浄土院の東に羅漢堂があります。
その羅漢堂の説明です。
茶師 星野道斎と、
その息子達により、
寛永17年(1640)に
建立されました。
主要部材が建立当時
そのままに保存され、
鏡天井に描かれた龍は
彩色良く保存されて
います。
左端の墓は、通圓家 初代太敬庵通園の墓です。
通圓家の初代は、古川右内といい
源頼政の家臣でした。
頼政から政の字を賜って太敬庵通園政久と名乗り、
平治の乱の後、宇治橋の東詰に庵を結びました。
治承4年(1180)、頼政が以仁王を奉じて
平家打倒の兵を挙げると、頼政のもとへ馳せ参じ、
宇治橋の合戦で平家の軍と戦い、討ち死にを遂げました。
この主従関係を物語った狂言として、通圓があります。
石造層塔です。
鎌倉時代 13世紀に建造された物です。
花崗岩の一柱に統一した瀟洒な均整美を誇り
民間伝来の石塔として随一の造形美を有し、
近代日本の鉱山王の異名を取り政治家として
活躍した久原房之助(1869-1965)が惜愛した
石塔です。
浄土院の前から、鳳凰堂方向を見たところ。
右に見える建物は、鳳凰堂の中堂です。
左に見える建物は、鳳凰堂の尾楼です。
鳳凰堂を西から見たところ。
中央左よりに見える建物は、北翼楼です。
鳳凰堂の中堂と尾楼です。
尾楼の下を、阿字池が通っています。
尾楼の下を通っている阿字池です。
鳳凰堂の北翼楼と中堂です。
西から見たところ。
鳳凰堂の北翼楼と中堂です。
北西から見たところ。
鳳凰堂の北西に、最勝院があります。
写真は、不動明王を本尊とする
最勝院の本堂の不動堂です。
最勝院の敷地内には
源三位頼政公の墓 宝篋印塔があります。
源頼政は、保元・平治の乱で武勲を挙げ
平清盛の奏請により、源氏として初めて
従三位に叙せられました。
歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を
多く残しています。
治承4年(1180)に、後白河天皇の皇子、以仁王から
平家打倒の令旨を受け、挙兵しましたが、
平知盛の2万の平家軍に敗れ、
以仁王や、頼政の長男の仲綱らが討ち死にし、
頼政は平等院で自害しました。
その辞世の歌です。
埋もれ木の 花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ 悲しかりける
最勝院の塀です。
塀の途中に見える門から入ると、
先ほどの不動堂です。
そして、この塀の手前に、
もう一つ、最勝院へ入る門があります。
その最勝院へ入る門です。
その門を入ると、最勝院があります。
最勝院は、平等院の塔頭で、
天台宗系の単立寺院です。
承応3年(1654)、京都東洞院六角勝仙院の
僧が平等院へ移り、その住庵を最勝院と
呼んだことに始まります。
中世以来、平等院と疎遠になっていた
天台宗が復帰しました。
春日型 石灯籠です。
鎌倉時代 13世紀に造られた物です。
春日型は、竿が円形で、火舎が六角の灯籠です。
藤原氏の氏神として繁栄した春日大社の参道に
寄贈された一連の灯籠の形式を持っています。
本作は、随所に平安王朝の美意識の残影をとどめ、
姿は優美秀麗、全体のバランスに破錠が無く、
擬宝珠には4枚の華を配します。
灯籠の各部に欠失が無く、当初材が完存する
鎌倉時代初期唯一の遺品です。
北西から鳳凰堂を見たところ。
左より手前に北翼楼、中央に中堂、
中堂から右に尾楼が伸びています。
鳳凰堂の北翼楼へ渡る橋です。
阿字池に小さな島があり、橋が二つ連なっています。
北から鳳凰堂を見たところ。
平等院を一周したが、鳳凰堂が美しく
もう一度、鳳凰堂の前を通って、
南出口から出る事にします。
阿字池に沿って、鳳凰堂を右手に
見ながら進んでいきます。
阿字池の水蓮越しに、鳳凰堂を見たところ。
鐘楼へ向けての階段を登り、南出口を出ます。
南出口を出て、宇治川に向かう途中に、
よりみち公園があり、寄って見ました。
その公園内に、平等院多宝塔跡があります。
かつて、平等院には鳳凰堂以外に多くの堂塔が
建てられていましたが、大半は廃れ、
場所すら不明となってます。
この多宝塔跡は平成6年の発掘で発見され
同じ場所に鳳凰堂の基壇を参考に
復元されています。
平等院に塔が建てられたのは、鳳凰堂建立の
8年後(1061)で、建立者は藤原頼道の娘、寛子(かんし)です。
文献には多宝塔と記されていますが、
発掘成果から珍しい単層の塔(宝塔)の可能性が考えられています。
よりみち公園から宇治川左岸のあじろぎの道へ
出ました。
上流に見える赤い橋が、喜撰橋です。
橘橋を渡り、橘島から朝霧橋を見たところ。
手前に宇治川先陣之碑があります。
朝霧橋の階段を登り、宇治川上流を見たところ。
朝霧橋を、宇治川対岸に向け進みます。
朝霧橋の上から下流を見たところ。
宇治橋が見えます。
朝霧橋の上から、平等院方向をふり返ったところ。
鳳凰堂の中堂の屋根が見えます。
朝霧橋の上から、橘島を見たところ。
橘橋も見えます。
朝霧橋を渡ると、朝桐橋の袂には、
源氏物語 第51帖<浮舟>にて、
匂宮が浮舟を小舟に乗せ
宇治川の対岸へと連れ出す場面を
モチーフとしたモニュメントが
あります。
そのモニュメントのすぐ下流側に
宇治神社の船着場があります。
宇治川の右岸から、先ほど渡って来た
朝霧橋を見たところ。
先ほどの朝霧橋を渡ったところには、
宇治神社の参道が東に向け伸びてます。
参道入口には、赤い鳥居が建っていましたが
2018年9月の台風21号で倒壊したと
言う事です。
その参道を進み、階段を登ったところに、
宇治神社拝殿の桐原殿があります。
その桐原殿の前、参道の階段の上から、
参道をふり返ったところ。
参道の向こうには、宇治川に架かる朝霧橋が
見えます。
桐原殿の横に回り、桐原殿を見たところ。
桐原殿の奥に赤い鳥居が見えてます。
桐原殿の横から、宇治神社の鳥居、本殿方向を
見たところ。
その鳥居の前から、本殿方向を見たところ。
鳥居の向こうの赤い門は、中門で
その向こうに本殿があります。
宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮、
桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)跡で、
皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の
宮居跡と伝えられており、
菟道稚郎子命の死後に、その神霊が祀られました。
宇治神社の次は、さわらびの道に出て
宇治上神社へ向かいます。
さわらびの道の名前は、
源氏物語48帖<早蕨(さわらび)>に
由来します。
さわらびの道を進んで行くと、
宇治上神社の石標と赤い鳥居が見えてきます。
鳥居を抜け進んで行きます。
宇治上神社の正門が見えてきます。
正門の手前には、世界遺産「古都京都の文化財」の説明です。
宇治上神社の説明です。
宇治上神社は、明治維新までは隣接する
宇治神社と二社一体で、
それぞれ、離宮上社、離宮下社と
呼ばれていました。
正門の手前の橋を渡り、門を入っていきます。
その橋の上から、橋の下を見たところ。
正門を入ると、正面に拝殿があります。
拝殿は、鎌倉時代の初めに建てられた物で
現存する最古の拝殿で、国宝に指定されて
います。
切妻造の母屋の左右に庇をつけた形で
屋根はその部分が縋破風となっており、
住宅風となっています。
その拝殿の前には、清めの砂として、
左右に二つの円錐形の砂の山が盛られています。
拝殿の前には、清めの砂が盛られています。
清めの砂です。
拝殿の横には、
注連縄が巻かれたケヤキの木があります。
横の立札の説明によると、
宇治市名木100選の一つで
樹齢300年、高さ27mと言う事です。
そのケヤキの木です。
拝殿横の桐原水です。
お茶の町、宇治には、いたる所に
名水が湧き出していました。
その中でも特に有名だったのが宇治七名水
と呼ばれた井戸でした。
但し、他の六名水は、今は失われており、
桐原水が、唯一、今も清水が湧き出している
湧水となってます。
桐原水です。
この石段を下りて、水を汲むようになってます。
桐原水です。
但し、生で水を飲まないように注意書きが
ありました。
そして、拝殿の横を抜け、奥へ進むと、
本殿があります。
右端は、摂社の春日社です。
その本殿です。
平安時代後期に建立された国内に現存する
最古の神社建築で、国宝に指定されています。
この本殿は、左殿、中殿、右殿の内殿三棟を
覆屋で囲む形式をとってます。
祭神として、
左殿の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)
中殿の応神天皇
右殿の仁徳天皇
の3柱が祀られています。
主催神は、菟道稚郎子命で、応神天皇の皇子であり、
仁徳天皇の弟です。
菟道稚郎子命は、応神天皇により、
皇太子に立てられましたが、
兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲る為に、
自害したと伝わります。
本殿の扁額には、正一位離宮太神とあります。
正一位は、神位の最上位を指します。
宇治上神社は、明治維新までは隣接する
宇治神社と二社一体で、それぞれ、
離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。
本殿です。
神輿蔵です。
副門です。
宇治上神社を出て、さわらびの道を、
宇治市源氏物語ミュージアムへ向け進みます。
宇治市源氏物語ミュージアムへの入口です。
宇治市源氏物語ミュージアムです。
展示ゾーンは、以下の六つに分かれています。
①平安の間: 平安京と光源氏がテーマ
②架け橋
③宇治の間: 宇治十帖がテーマ
④映像展示室
⑤物語の間
⑥企画展示室
平安の間です。
源氏物語の一場面です。
空蝉(うつせみ)と軒端荻(のきはのおぎ)が碁を
さしています。
そして光源氏が垣間見(かいまみ)をしています。
復元された牛車です。
月次公事屏風です。
平安の間の展示です。
宇治市源氏物語ミュージアムを見学後、
次は、三室戸寺へ向かいます。
二又の分かれ道には、三室戸寺への標石が
立ってます。
ここから三室戸寺へ向け入って行きます。
三室戸寺へ向かう途中、
新羅大明神が祀られてました。
長い道を、三室戸寺へ向け進んで行きます。
前方に山門が見えてきました。
その山門です。
山門です。
山門の辺りから、谷を隔てた向かいの山肌に
咲いていたツツジです。
もう少し早ければ、
山肌一面のツツジが見れたのかも知れません。
山門を抜け、本堂へ向け進む途中に見た
お地蔵さんの祠です。
前方の階段の上に、本堂の屋根が見えます。
この階段を登ります。
シャクナゲの花が咲いてました。
階段の上から、ツツジが咲いている谷の方を
見下ろしたところ。
階段を登った左側に、手水舎があります。
霊泉 不動水とありました。
階段を登った右側に、宇賀神像があります。
頭は翁で、体は蛇(巳)で、蓮に乗っています。
耳をさわれば福が来る、髭を撫でると健康長寿、
しっぽをさすれば金運がつくようです。
階段を登って、まっすぐ進むと本堂があります。
また、本堂へ向け、蓮の鉢植えが並んでいます。
本堂を正面から見たところ。
三室戸寺は、奈良時代末期、宝亀元年(770)に
光仁天皇の勅願により創建されました。
戦国時代には、足利義昭に加勢した為、
織田信長軍の焼討で皇子の堂宇を
失っています。
本堂は、文化11年(1814)の再建で、
本尊であり秘仏の千手観音立像が
安置されています。
本堂の前には、狛兎、兎の像があります。
像の前には、福徳兎と表示が有りました。
宇治上神社や、宇治神社に祀られている
菟道稚郎子命が宇治に来た時に、
兎が道案内をしたとの伝承もあり、
また、古来より、三室戸寺のある地域は、
菟道(うじ)と称され、
兎と関係の深い地域でした。
その福徳兎と反対側には、
勝運の牛、宝勝牛がいます。
口の中の石を触ると勝運がつくと
伝えられています。
そして、本堂へお参りします。
本堂の隣には、阿弥陀堂があります。
更に、その阿弥陀堂の隣に見えるのは、
鐘楼です。
左が本堂で、右が阿弥陀堂です。
鐘楼です。
鐘楼の向こうには、三重塔が見えます。
中央の石碑には、浮舟之古蹟とあります。
その浮舟之古蹟の説明です。
謡曲「浮舟」は、源氏物語 宇治十帖によります。
その源氏物語 宇治十帖の
浮舟が死を決意する件(くだり)
の説明です。
鐘楼から、三重塔を見たところ。
その三重塔です。
この三重塔は、江戸中期の物で、
明治43年(1910)に兵庫県佐用郡三日月町の高蔵寺から
移築されたと伝えられています。
本堂の裏手に、十八神社があります。
手前の小さな祠は、十八神社の摂社です。
十八神社です。
室町時代の創建で、
重要文化財に指定されています。
十八神社の境内から、本堂を見たところ。
三室戸寺の階段の上から見た景色です。
三室戸寺の階段の更に下に広がる
庭園へ下りてみました。
庭園は平成元年に竣工された物です。
石庭がありました。
石庭です。
池泉回遊式庭園もあります。
池泉回遊式庭園です。
その向こうには、ツツジが咲いています。
池泉回遊式庭園です。
池泉回遊式庭園です。
池泉回遊式庭園です。
山肌には、ツツジが咲いています。
ツツジです。
三室戸寺のツツジです。
三室戸寺を出て、
次は、JR奈良線、京阪宇治線を西に越え、
菟道稚郎子の墓へ向かいます。
その墓と思われる小山を、
入口がわからないまま、回って行くと、
柵に囲まれた遥拝所がありました。
菟道稚郎子の墓の入口です。
菟道稚郎子の墓の入口を入り、
遥拝所へ向かいます。
宮内庁の標札には、
應神天皇皇太子菟道稚郎子尊 宇治墓とあります。
菟道稚郎子は、応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の弟です。
菟道稚郎子は、応神天皇により、皇太子に立てられましたが、
兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲る為に、
自害したと伝わります。
しかし、大鷦鷯尊が菟道稚郎子を暗殺したが、
天皇が暗殺により皇位を奪った事にはできないので、
皇位を譲る為に自害した事にしたと言う説もあります。
鳥居の背後は、小高い山になってます。
菟道稚郎子の墓を出ると、
次は京阪電車に乗って、京都伏見へ、
その後、伏見稲荷大社へ行きました。