国宝 松本城: 10Mar2026


2日9日から4泊5日で、名古屋城、松本城、犬山城、岐阜城、彦根城と5つのお城を周って来ました。

まず、初日は、 名古屋城 熱田神宮 を訪問しました。

そして、二日目は朝早く名古屋を出て、松本城へ向かい、松本城や旧開智学校を見て周りました。


■名古屋駅~松本駅

早朝、名古屋発のJR特急しなの1号で
松本へ向かいます。

名古屋駅で、特急しなの1号が
ホームへ入って来るのを待ちながら見た
駅の風景です。







名古屋駅へ
特急しなの1号がホームへ入って来ました。

この特急しなの1号へ乗って
中央本線を松本へ向かいます。








特急しなの1号の
多治見駅、中津川駅間の車窓の景色です。











特急しなの1号の
多治見駅、中津川駅間の車窓の景色です。











松本へ着きました。

松本駅を東側、お城口広場へ出て、
松本駅をふり返って見たところ。









お城口広場に、
播隆上人像が建ってます。

播隆上人(1782-1840)は、
槍ヶ岳の天を突き刺すような鋭峰の頂に、
極楽浄土への道を発見し、
文政11年(1828)に槍ヶ岳への
初登頂を果たしました。

日本アルプスの命名者
イギリス人ウィリアム・ガウランドの
登頂に先だつこと50年、
近代アルピニズムの黎明を開いた事を称える像です。


■四柱神社

宿泊予約をしているホテルに荷物を預けて、
再び、松本駅前へやって来ます。











松本駅前から、公園通りを東へ進んで行くと
花時計公園があります。

その花時計公園を、南側から見たところ。









公園内には、花時計があります。












公園通りを東へ進んで行くと、
善光寺街道へ出て、
その善光寺街道を北へ進みます。

進んで行くと、牛つなぎ石があります。

この牛つなぎ石は、
本町と伊勢町が交わる市辻から移された
道祖神でした。
また、市辻から市神(えびす様)も移され、
その辻で塩市が始まりました。

かつて、甲斐の武田信玄は、敵対する駿河の今川氏、相模の北条氏によって、
塩が送られず、人々が苦しんでいました。
しかし、越後の上杉謙信は敵にもかかわらず、糸魚川から人々を救う塩を送ったという事です。
これが塩市の始まりとなり、塩が入った俵の形の飴を神様に備えた飴市となったと伝わります。

善光寺街道は北へ向かい、途中、東へ折れます。
この東へ折れて進む道は、中町通りとも呼ばれています。
















再度、北へ折れて進むと、
女鳥羽川に架かる幸橋があり、
その向こうに四柱神社の鳥居が見えます。










女鳥羽川に架かる幸橋を
南東から見たところ。

その向こうに四柱神社の鳥居が見えます。









四柱神社の鳥居を、
女鳥羽川越しに南から見たところ。











四柱神社です。
鳥居をくぐった所に御幸橋があります。











その御幸橋です。

明治天皇が四柱神社を訪れた際に、
渡られたと言われています。









御幸橋の左手にある手水舎です。












御幸橋を渡ったすぐ右手にある
松本市招魂殿です。

西南の役をはじめ、日清、日露戦役に至るまで
旧松本市出身の戦没者が祀られています。








御幸橋を渡り、正面に拝殿があり、
その奥に本殿があります。











拝殿です。

祭神として、以下の四柱が祀られています。
・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
・神皇産霊神(かみむすびのかみ)
・天照大神

明治12年(1879)、明治天皇の親政のもと、
現在地へ鎮斎されています。


その拝殿の横にあった四柱神社の説明です。

















拝殿の右側には、
境内社の恵比寿神社があります。

祭神は、大国主命と事代主神です。









境内にあった幟立です。
側面に、御即位大典記念とあります。
















拝殿の左には、参集殿があります。












そして、境内にあった伊勢神宮遥拝所です。













■ナワテ通り、大名通り

四柱神社を西へ出て、
女鳥羽川に沿った土手道、なわて通りに出ます。

女鳥羽川の土手が、縄のように長い土手と言う事から、
繩手と呼ばれるようになったと言う事です。


そのナワテ通りの脇にあったカエル像です。

その台座には、 「カエルの街 ナワテ通り」とあります。








そのカエル像の西側には、
「ガマ侍」の像があります。

この「ガマ侍」は、
「カエルの街 ナワテ通り」に
東京藝術大学より、
平成17年に寄贈されています。






「ガマ侍」の更に西へ進むと、
千歳橋があります。

千歳橋の北の袂には、
時計塔が建ってます。








かつて、三の丸の中央を南北に大名小路が走っていましたが、
現在は、千歳橋から松本城外堀に向け大名町通りが
走っています。

その大名町通りを北に進んで行きます。













大名町通りを北へ進んで行くと、
外堀端に出て、その向こう、木立の向こうに
松本城の天守が見えます。










かつて、松本城の南側、二の丸の外側は、外堀が続き、
外堀を渡る事はできませんでしたが、
現在は、中央から西側の外堀は埋め立てられ、
二の丸へ渡る道路ができています。

訪問時は、二の丸の南、西側の外堀の
復元工事が行われていました。

かつては外堀だった場所を二の丸跡へ渡り、
松本城の天守を見たところ。







外堀を渡ったところにあった松本城案内図です。























■松本市役所 展望室からの景色

松本市役所の屋上の展望室から、
松本城を眺める為に、
最初に松本市役所へ行ってみる事にします。

松本城の外堀だった場所の外へ戻り、
外堀に沿って、東へ進みます。

進みながら、松本城の天守を見たところ。

二之丸の南、東側の外堀も
工事が行われていました。


松本城の天守です。












外堀の南東の角から、
二の丸の東側に位置する太鼓門を見たところ。

太鼓門に向け土橋が架かっています。









二之丸の東側の外堀に沿って、
北へ進みます。











北へ進みながら、太鼓門を見たところ。












外堀に架かる土橋を渡った先に
太鼓門があります。











太鼓門の東側に、松本市役所があり、
その屋上の展望室へ上がってみます。

展望室から西側の景色です。

中央、少し左よりに太鼓門が見え、
その向こう、中央に松本城の天守が見えます。






展望室から見た太鼓門です。

太鼓門は、奥の大きな一の門、
その手前、左よりの小さな二の門、
そして、一の門と二の門の間の枡形から
構成されており、
上方から見下ろすとよくわかります。






その太鼓門と、天守、全体を見たところ。












天守をズームUPして見たところ。













■松本城

松本市役所を出て、松本城へ向かいます。

外堀越しに太鼓門を見たところ。

左が太鼓門の二の門です。
その奥、中央に一の門の大きな屋根が見えます。

かつて、太鼓門北側の門台上に
藩士召集の合図や、時を知らせる為の
鐘と太鼓を備えた太鼓楼があった事から
太鼓門と呼ばれています。


外堀を渡る土橋の先に、
太鼓門の二の門があります。










土橋の手前横にあった太鼓門枡形の説明です。
























太鼓門の二の門を入ると、
中は枡形になっており、
その向こうに太鼓門の一の門が見えます。










太鼓門の一の門です。

太鼓門の一之門に向かって、
門の左脇に見える大きな石は、
「玄蕃石」と呼ばれています。

伊深と言う地に大きな石があり、
太鼓門の脇にすえる為、
石川玄蕃頭康長みずから石に乗り
お城へ運ぶことになりました。
しかし、
石を運ぶ人々の中に不満を言う者がおり、
石川玄蕃頭康長は、大勢の前で首をはね、槍の先に首を刺して高く掲げ、
石を引かせたと言う伝説があります。

太鼓門の一の門と二の門の間は、
枡形になっており、
枡形の中から、外堀の向こう、対岸の敵に
火縄銃で攻撃ができるよう控塀に
狭間が切られています。







太鼓門枡形の中にあった枡形の由来の説明です。




















太鼓門の一の門を入りながら、
一の門をふり返って見たところ。

太鼓門は、文禄4年(1595)頃、
石川康長によって築造されました。
しかし、明治になって破却されていましたが、
平成11年に復元されています。






太鼓門を入ると二の丸です。

太鼓門を入って右手、北側には、
二の丸御殿跡への入口があります。









太鼓門を入った正面、西側には、
本丸を囲う内堀があります。

その内堀に沿って歩きながら、
本丸の東側の内堀を南から見たところ。








内堀に沿って、進んで行くと、
本丸の南東角から南へ突き出た
枡形門の黒門があります。

右端が、渡櫓門である黒門の一の門の屋根です。

中央、左よりに天守が見えます。






左端、南から内堀に架かる土橋が
黒門の二の門に向け伸びてます。

右側に黒門の一の門の屋根が見えます。

その向こう、中央、左よりに天守が見えます。






本丸の南側、内堀に沿って、 黒門の二の門へ向け伸びる土橋へ向け進んで行くと
「史跡 松本城の概要」の説明があります。

























黒門の二の門へ向け伸びる土橋の横から
天守を見たところ。











二の丸から、土橋が、
黒門の二の門へ向け伸びています。











黒門の二の門を南正面から見たところ。

この二の門は、
平成元年に復元されたものです。









黒門の二の門を入ると、枡形があり、
枡形の中から、二の門をふり返ったところ。

二の門は、本柱の後方に控え柱を立て、
本柱が支える切妻屋根とは別に、
控え柱の上にも、左右二つの切妻屋根をかけた
高麗門です。






黒門の二の門を入ったところにある
枡形の先には、一の門があります。

枡形と黒門の一の門を見たところ。

そして、黒門は、本丸御殿に通じる
格調高い正式な門である事から、
当時の最高の色調である黒の名を冠して、
黒門と呼ばれています。




黒門の枡形の中にあった「松本城と城下町」の説明です。


































松本城の前身は、中世における小笠原氏の一支城だった深志城でした。
本格的な近世城づくりを行ったのは、1580年代に、豊臣大名の石川数正によってです。
そして、天守は、1593-94年に、石川数正、康長父子によって建てられたと推定されています。
3重の水堀と土塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭、
上級家臣の屋敷地とした三の丸を外郭としています。
そして、厳重な城門を構える虎口(枡形と馬出し)だけが、城内への通路になってます。
城外は、南北に走る善光寺街道が城下町を割り、東側に寺社を配置し、
士(さむらい)と町人の混住は無く、身分や職業によって住み分けしています。

黒門の一の門です。












一門の飾り金具には、
中心に7つ、左右に5つの花を立てた
五七桐紋が入ってます。

五七桐紋は、
天皇家の家紋として知られていますが、
豊臣氏など政権を担当する家に
下賜され用いられています。





黒門の一の門に展示されていた甲冑です。

















黒門の一の門を抜け本丸へ入ったところに、
宇宙ツツジが植えられています。

この宇宙ツツジは、1994年に日本人女性初の
宇宙飛行士となった向井千秋さんが、
NASAのスペースシャトル「コロンビア号」へ、
故郷の群馬県館林市の樹齢500年の
ツツジの種を持ち込み、
2週間の宇宙滞在を経て、帰還しています。

その種から育ったツツジの一本が、
館林市から松本市に寄贈されています。

黒門の一の門を抜け、ふり返って見たところ。












本丸へ入り、
松本城天守を東、正面から見たところ。

天守は、戦国時代の末期、1593-94年に
豊臣秀吉の家臣、石川数正、康長父子によって
江戸の徳川家康を監視する城として
建てられたと言われています。






松本城天守を東、正面から見たところ。

天守の右側に乾小天守が建っており、
渡櫓で繋がっています。

天守の左側には、辰巳附櫓が建っており、
その手前には、
赤い高欄の月見櫓が建ってます。

天守の手前の芝生の中に、
瓦で仕切りされた線がありますが、
本丸御殿跡です。

天守を東、少し北よりから見たところ。

芝生の中に瓦で仕切りされた線は、
本丸御殿跡です。









本丸御殿は、
天守築造と同時に建てられたと
推定されており、
藩の正政庁であり、城主の居館でした。

しかし、
戸田三慈が城主の時の享保12年(1727)に、
本丸御殿は失火で焼失し、
以後、本丸御殿は再建されていません。




天守へ向かって進みます。

天守は、
屋根が5つあり、外観は五層ですが、
実際の内部は六階建てになっている
五重六階の天守になっています。







右が天守で、その左側に辰巳附櫓があり、
その左が赤い高欄の月見櫓です。











天守を仰ぎ見たところ。












左が天守で、右が乾小天守、
その間を繋いでいるのは渡櫓です。

天守、乾小天守、渡櫓には、
戦いを想定した備えとして、
鉄砲狭間、矢狭間、石落が設けられています。

一方、辰巳附櫓や、月見櫓は
戦う備えをほとんど持たず、
江戸時代初期の平和になった時代に
増築されたと考えられています。


乾小天守の石落です。

石垣を登る敵兵に石を落としたり、
熱湯をかけたり、
火縄銃で撃ったりできるようになってます。

天守や小天守の壁の下部は、黒漆喰の下見板で、
上部は白漆喰仕上げです。
下見板は、屋根で防げない雨水をはじき
壁を守る役割を持っています。



渡櫓に、天守への入口である大手口があり、
その大手口を入ると
乾小天守の内部を見る事ができます。

天守の柱は、全て角材が使用されていますが、
乾小天守には、角材だけでなく
丸太柱も使用されています。






天守の一階です。

2階へ上がる階段が見えます。










天守の一階は、
母屋の周囲を武者走りが走ってます。

母屋は、武者走りより
一段(約45cm)高くなってます。








武者走りを進んで行きます。

武者走りには、
昭和の修理の際に取り替えられた資料が
展示されています。

鯱真木です。

鯱真木は、天守に据えられた鯱を支える為の芯木です。
190cmの鯱真木を棟木に取り付け、
先端約80cmが鯱の中に入っていました。
天保十四年(1843)四月取替と墨書が残っており、
江戸時代にも取り換えられていたのがわかります。





創建当時の天守の壁です。

昭和の修理の際に、保存の為、
一部切り取った二階部分の壁が展示されています。

壁の厚さは1、2階で28.8-29.4cmあり、
上の階ほど薄くなっていますが、
火縄銃の弾は通さないようです。










天守大棟に使用されていた雄の鯱瓦です。

鯱は、頭は竜または虎に似ていて、
背には鋭い棘を持つ海魚の形をした想像上の動物です。
大海の水を飲みほし、
非常の場合は、これを吐き出して身を守ると言われています。
火災除けのまじないとして、
天守の大棟にあげられ棟飾りに使用されています。

口が開いているのが雄で、閉じているのが雌です。
松本城の鯱は、南が雄で、北側が雌で、
雌の方が若干小さく作られています。






雌の鯱瓦です。

















昭和の修理で取り替えられた
燕懸魚(かぶらげきょ)です。

懸魚は、破風につけられる火災除けで、
中国では魚の形をしてますが、
日本では燕の形が用いられてきました。







二階へ上がります。

3連、5連の縦方向に細い角材を並べた
竪格子窓が見られます。

別名、武者窓とも呼ばれています。

東側の武者窓からの景色を見たところ。





二階には、火縄銃を主とした
展示があります。

松本市出身の故赤羽通重・か代子夫妻が
松本市へ寄贈した141挺の火縄銃と
兵装品の内の一部が、
「松本城鉄砲蔵」として展示されています。






一階と二階を結ぶ階段です。

















当世具足の展示です。

当世具足とは、甲冑の分類名称の一つで、
鉄砲伝来に伴った戦術の変化に伴い
甲冑も、従来の甲冑から進化し、
鉄砲線に対応した戦国時代に出てきた
新しい甲冑を指します。

展示されている具足は、刀を差した甲冑に、
玉込め用のカルカを背中につけ、腰に玉入れ、
肩から瓢箪のような口薬(点火薬)入れを
下げています。

大阪城天守閣所蔵の
「長篠合戦図屏風」の複製展示です。


長篠の合戦は、天正3年(1575)に
武田勝頼1万5000の大軍が
徳川家康の長篠城に攻め込み始まりました。
徳川家康が武田の包囲をしのいでいる間に、
織田信長が3万の軍勢を率いて参戦します。
そして、設楽原にお互い陣を張り、
信長は3000挺の火縄銃で、
武田の騎馬隊を打ち破りました。

「長篠合戦図屏風」の一部を
拡大したところ。

「長篠合戦図屏風」には、
織田信長、羽柴秀吉、
徳川家康の三人が
描かれています。

織田信長は、白馬にまたがり、
左端、最後尾を進軍しています。

羽柴秀吉は、信長の右斜め上で、
黒い馬にまたがっています。
秀吉のすぐ前には、
金の瓢箪の馬印が立ってます。

徳川家康は、信長の右斜め下、
五の文字の入った白い旗の後で、
黒い馬に乗っています。
五の文字は、
国を守護する5人の仏、
五大力菩薩を意味しています。


指火式銃大砲で、船載砲(ランタカ砲)です。

指火式は、点火用に銃身に開けた穴の火門から、
火種を挿しこんで銃身に詰めた火薬に
点火する仕組みです。








二階の西側の武者窓からの景色です。

眼下に内堀があり、
内堀に沿って松本城公園が見えます。

中央、左のピンク色の屋根は丸の内消防署で、
その右側は松本税務署が見えます。






二階から三階へ上がり、三階は、
外から存在しないように見える隠し階の為、
すぐに四階へ上がります。

そして、順路に従って、
一気に五階まで上がります。







五階、東側の千鳥破風の間です。
千鳥破風の間には、格子窓があります。











五階、南側の向唐破風の間です。

向唐破風の間には、竪格子窓があります。










五階、西側の千鳥破風の間です。

千鳥破風の間には、格子窓があります。










五階、西側の千鳥破風の北側には、
横格子窓があります。

その窓から、北西を見たところ。
内堀に架かる赤い埋橋が見えます。








最上階の六階へ上がります。












最上階、六階からの東側の景色です。

眼下に本丸御殿跡が見えます。

遠く、中央に袴越山、
その右側、雲に霞んだ王ヶ鼻が見えます。

王ヶ鼻の周辺は、美ヶ原高原です。





最上階、六階からの南側の景色です。

左よりに、
NTT東日本松本営業支店の電波塔が
見えます。

中央、右よりに
左右に長い屋根の
松本市立博物館が見えます。




最上階、六階からの西側の景色です。

眼下に内堀があり、
内堀に沿って松本城公園が見えます。

中央に丸の内消防署、
その右側に松本税務署が見えます。

遠方には、
北アルプスの山々が見えるはずですが、
曇っていて見えません。


最上階、六階から北側、眼下には、
乾小天守、乾小天守と天守を繋ぐ渡櫓が
見えます。










乾小天守の向こう側には、外堀が見え、
その向こう、中央には、松本神社が見えます。

松本神社の左上には、旧開智学校も見えます。

松本神社の右側のビルは、
長野地方裁判所松本支部です。






最上階、六階の屋根裏、梁の上に
二十六夜神が祀られています。

元和4年(1618)の正月、持筒頭の川井八郎三郎が
夜中の城の守をしていると、
月が出た頃、緋の袴を着けた姫様が現れ、
「二十六夜様を祀り、
米3石3斗3升3合3勺をたいて祝えば城は栄える」と
錦の袋を与え、天井の上方へ消えました。
川井八郎三郎は、この事を城主の戸田康長に伝え、
二十六夜様を祀りました。

享保12年(1727)、本丸御殿が火事にあった時、
天守が残ったのは、二十六夜様のおかげと伝えられています。

最上階、六階です。

六階から五階へ急な階段を下ります。










五階です。
右端は、六階から下りてくる階段です。

東西に千鳥破風、南北に唐破風があり、
室内には破風の間があり、
武者窓から全方向の様子を確認できます。
そして、三間三間の空間は、戦いの際には、
重臣たちの作戦会議を行う場になると
考えられています。




四階へ下ります。

四階の御座所です。

戦闘の最終局面に入った際に、
城主が、天守に入った時に座を構えた場所と
考えられています。

御座所の広さは、3間 x 3間で、
小壁を下ろし、内法長押(うちのりなげし)を
廻しています。


窓が無い隠し階の三階を過ぎて、
二階へ下ります。

順路に従って進むと
天守の東側に建つ辰巳附櫓の二階への入口です。













天守の二階から、
辰巳附櫓の二階へ入ります。

辰巳附櫓の二階の南面には、
華頭窓があります。

華頭窓は、
中国から鎌倉時代に伝えられた仏教建築の様式で、
天守建築では格式の高い窓とされています。




辰巳附櫓を一階へ下りて、
月見櫓へ入ります。

徳川家光は、寛永11年(1634)に上洛し、
その帰りに善光寺参詣を願い、
松本城を宿城とする事になります。
松本城主の松平直政は、急遽、寛永10年(1633)から
月見櫓の普請にかかり完成しましたが、
中山道に落石があり、
家光の来松は中止になりました。

月見櫓は、東西四間、南北三間で、
北、東、南の三方が、柱と、
舞良戸と言う横に桟を打った薄い板戸だけの建物です。

その月見櫓から、南、少し東よりを見たところ。

目の前は、内堀です。
内堀の向こうには、
NTT東日本松本営業支店の電波塔が
見えます。







月見櫓から、北東を見たところ。

目の前は、本丸御殿跡です。










月見櫓から下りて、外に出て、
月見櫓出口をふり返ったところ。











月見櫓の東側に小笠原牡丹があります。

天文19年(1550)に甲斐の武田信玄に攻められた
小笠原長時は、林城館にあった純白の牡丹が
敵兵に踏み荒らされる事を憂えて、
里山辺の兎川寺に託して去ります。
その後、檀家の久根下家は、この牡丹を守り、
昭和32年と平成18年にその株を松本城へ
移しました。

これが、小笠原牡丹です。


小笠原牡丹の庭の横から、
月見櫓をふり返ったところ。
















小笠原牡丹の庭の横を東へ向け進みながら、
天守をふり返ったところ。











東から天守を見たところ。












黒門を出て、内堀に沿って進みます。

内堀越しに、南東から天守を見たところ。










南東から見た天守です。












本丸の南側の内堀越しに
南から天守を見たところ。











内堀に沿って進みながら、
天守を見たところ。











南西から天守を見たところ。












南西から天守を見たところ。












内堀に沿って、北を見たところ。

二の丸から本丸に向け、内堀を渡る
赤い埋橋が架かってます。









本丸の西側の内堀越しに
西から天守を見たところ。











赤い高欄が映える埋橋です。

但し、この埋橋は、
昭和の大修理(昭和25年-30年)に際して
観光用として新たに造られた橋です。








西、北よりから天守を見たところ。












北西から、埋橋越しに
天守を見たところ。











埋橋越しに、天守を見たところ。












埋橋越しに、天守を見たところ。












本丸の北側を、東西に伸びる外堀です。

本丸の西側の内堀が、右側から
外堀に突き当たっているのがわかります。









手前が外堀で、
赤い埋橋が架かっているのが内堀で、
その向こうに天守が見えます。










右から内堀がのびてきて、
手前の外堀に突き当たってます。

その向こうに天守が見えます。









埋橋が架かる内堀が伸びてきて、
手前の外堀に突き当たっています。











本丸の北側を東西にはしる外堀に沿って、
東へ進みます。











外堀越しに、天守を見たところ。













■松本神社

外堀に沿って東へ進んで行くと、道の真ん中に
松本神社御神木の大欅が見えてきます。

その向こうに、松本神社が見えます。














左が、松本神社御神木の大欅です。

右よりに松本神社の神門が見えます。










松本神社の手前、西横にあった
松本神社前井戸です。











松本神社の神門です。












神門を入ると、右手に手水舎があり、
正面に鳥居があります。

その先に拝殿が建ってます。









右に手水舎、左に鳥居です。












松本神社の拝殿です。

祭神は、
・片宮八幡宮(一色兵部少輔義達)
・今宮八幡宮(戸田弾正左衛門尉宗光)
・共武大神社(松平丹波守康長)
・淑慎大神社(松平丹波守康長室、徳川松姫)
・暘谷大神社(松平孫六郎永兼)
・若宮八幡宮

昭和28年(1953)に五社と若宮八幡を合祀して、
名称を松本神社と改称しました。

五社は、城主戸田家の祖廟を神斎し、氏神としたものです。
若宮八幡宮は、松本城の開祖、島立右近貞永を祀り城の鎮護としています。

その松本神社の案内です。



















松本神社の境内にあった若宮八幡宮です。

若宮八幡宮は、
松本城の開祖、島立右近貞永を祀り、
祠を城の戌亥の隅に営み、
城の鎮護としています。








■旧開智学校校舎

松本神社の西側横の道を北へ進んで行くと、
現在の開智小学校があり、
その北側に旧開智学校校舎があります。

南側の門の前から
旧開智学校校舎を見たところ。







旧開智学校校舎の
西側の入口から敷地内へ入り、
観覧チケットを購入します。

その観覧チケット売場の前、北西から
旧開智学校校舎を見たところ。







旧開智学校校舎を南西から見たところ。

旧開智学校校舎は、
明治9年(1876)に工事を開始し、
明治10年(1877)に完成し、約90年間使用された後、
女鳥羽川沿いから、現在地に移築され、
博物館になってます。






旧開智学校校舎の北西の角を周り、
南へ向かいます。

校舎が建てられたのは、文明開化の真っただ中で、
西洋文明を取込む流れは、建築にもおよびました。
一方、大工は、洋風建築を見た事もなく、
都会へ行って情報を集め、
これまで培った技術と日本にある材料を駆使して、
西洋風を表現しようとし、
和風と洋風が混ざり合った
擬洋風建築となってます。


南正面へ向かいながら、
旧開智学校校舎を見たところ。











旧開智学校校舎を南正面から見たところ。

校舎の中央、正面には、西洋の要素として、
八角搭がたち、バルコニーや縦長の窓、
そして、天子の彫刻が見られます。

和風の要素として、龍や瑞雲の彫刻が施され、
唐破風や、瓦屋根を見る事ができます。





旧開智学校の敷地内に、
「明治天皇行幸所 開智学校」と
「明治天皇御駐蹕之處」
の碑がたっています。

明治13年(1880)に開智学校で、
松本地方の物産品や古器物が
天覧に供されました。





旧開智学校校舎を南東から見たところ。












正面の玄関は来賓用で、
児童の出入口は、向かって右、東側にあります。

その児童の出入り口から中に入り、
東西に走る廊下を、東から見たところ。













廊下を西へ向け進んで行くと、
右手に、二階へ上がる階段があります。
















その先、廊下の右側に、廻り階段があります。


この廻り階段は、最小踏み幅が8cmで、
全部で17段の急な階段です。













中央の玄関口を入った場所から、
北へ伸びる廊下を見たところ。

東西に走る廊下と交わり、十字路になってます。

そして、突き当りには、桟唐戸(さんからど)があります。

桟唐戸は、
框の中に桟を組み、その間に薄板や連子をはめた扉です。









東西に走る廊下を西の端まで行き、
階段で二階へ上がります。
















二階の廊下を東へ向かいます。

左手の部屋には、
表札に明治天皇御座所とあります。

明治天皇御座所は、明治13年(1880)の行幸に際し、
明治天皇が休憩をとる為の便殿とした部屋です。
そして、講堂を天覧品陳列所として、天皇を迎えました。










二階、南側にある講堂のステンドガラスです。

外から見ると、二階のバルコニーの奥に
ステンドガラスがあります。









一階にあった廻り階段を上ると、
二階のここに出ます。

二階の廻り階段の出口には、扉がついてます。

寒い日に、冷気が一階から二階へ流れ込むのを防ぎ、
暖房効率を高める為の扉です。











東側の一階へ下りる階段の横から
講堂を見たところ。











旧開智学校校舎を出て、
再び、旧開智学校校舎の正面、南から
旧開智学校校舎を見たところ。











■松本市旧司祭館

旧開智学校校舎の敷地を出て、
旧開智学校校舎の西側に
松本市旧司祭館があります。

松本市旧司祭館は、明治22年(1889)にフランス人の
オーギュスタン・クレマン神父により、
松本城の北側に建設された
アーリーアメリカン風の西洋館で、
以後、100年近く松本カトリック教会の
宣教師達の住居として使用されてきました。

平成3年に現在地へ移築復元されています。

松本市旧司祭館の前にあった説明です。





















部屋の中にあった暖炉です。












各部屋に暖炉が備わっています。

















松本市旧司祭館を出て、
旧開智学校の前の道から、
南東を見たところ。

目の前のグランドと校舎は、開智小学校で、
その向こう、左より遠方の山は、
鉢伏山です。







■松本城 外堀、旧第一勧業銀行ビル、松本市立博物館

松本市旧司祭館を出た後、
松本城の外堀沿いの道に戻って、
外堀沿いに東へ進みます。















外堀に沿って東へ進んで行くと、
本丸の北裏門跡へ続く土橋が
外堀に架かっています。










更に東へ進んで行くと、
本丸を囲う内堀が、外堀から南へ
伸びています。










中央は、外堀から南へ伸びる内堀です。

内堀の右側が本丸で、左側が二の丸です。










外堀に沿って東へ進んで行くと、
二の丸へ向けて架かる
二の丸裏御門橋があります。










外堀の東の端まで来ると、
外堀は、方向を変え、南へ向けて伸びてます。











外堀に囲われた二の丸の北東角に、
二の丸丑寅隅櫓跡が見えます。











外堀に沿って、南へ進んで行きます。












外堀に沿って進んで行きながら、
松本城の天守を見たところ。











外堀に沿って南へ進んで行くと、
右手に太鼓門が見えてきます。











東側の外堀を南へ進んで行き、
南の端で外堀は南側に回り込みます。

工事が行われている外堀越しに
松本城の天守を見たところ。








南側の外堀に沿って西へ進み、次は
大名町通りに入って、南へ進みます。

大名町通りを南へ進んで行くと、右手に
昭和12年(1937)建築の
旧第一勧業銀行ビルがあります。

現在は、レストラン、カフェ、結婚式場を備える
HARMONIE BIENになってます。




そして、更に進んで行くと、右手に
松本市立博物館があります。











大名町通りを南へ進んで行くと、
左手に松本城大手門枡形跡広場があります。












■信州松本手打ちそば こばやし

今朝お参りした四柱神社境内に入り
参集殿の横にある蕎麦屋さん、
「信州松本手打ちそば こばやし」で
昼食をとります。









さっそく、「ざる」一人前(二枚)を注文します。

ガラスのボトルに入ったそば茶と、
ねぎ、わさび、大根おろしと薬味の小皿がのった
蕎麦つゆが出てきます。














二段に積み重なったざるそばが出てきます。

「こばやしのそば」は、
手で練り、手で押し、手で切るを
忠実に守り続けた
そば粉八、つなぎ二でつくる二八そばです。









そして、最後に、
蕎麦つゆを、蕎麦湯で割って頂きました。

ちなみに、蕎麦湯は、
そばをゆでた時のゆで汁です。









信州松本手打ちそばを食べた後は、
大名町通りへ戻り、
女鳥羽川に架かる千歳橋へ向かいます。










その千歳橋を南へ渡り、
女鳥羽に沿って西へ進みながら
千歳橋をふり返ったところ。

千歳橋の向こうには、
四柱神社の北に位置する
NTT東日本松本営業支店の電波塔が
見えます。





女鳥羽に沿って西へ少し行くと、
松本市時計博物館があります。

松本市時計博物館の北東の角には、
日本最大級の振り子時計が動いています。

松本市時計博物館の中には、
本田親蔵氏が収集した古時計コレクションを中心に、
国内外の古時計が保存、展示されています。









その松本市時計博物館の前には、
旧開智学校跡の石碑が建ってます。











女鳥羽川に沿って西へ進み、南へ折れると
浄林寺があり、その南側には、
瘡守稲荷神社があります。

浄林寺は、
京都知恩院の末寺にあたる浄土宗寺院で、
中世小笠原氏の創始とされています。
江戸時代に建造された山門や鐘楼が残っています。

瘡守稲荷神社は、商売繫盛の神であり、かつ、
疱瘡(天然痘)からの平癒が願われた神社です。


浄林寺の前を南へ進んで行くと、
東側にMウイングと言う名称の中央公民館があり、
その前にカラフルな「手まり時計」があります。

この「手まり時計」は、からくり時計になっていて、
昼から夕方にかけ、一時間ごとに、
手まりが上下に開き、中の人形が音楽を奏でます。





この日は、寒波が来ていて、
3月ですが真冬に戻ったような寒さで、
早めにホテルへチェックインしました。




■松本での夕食

ホテルで、寒波の中、歩き回って疲れた体を休めた後、
郷土料理を求めて、松本駅前に出かけます。

松本駅から東へ伸びる公園通りです。














その隣、南側の筋です。

風林火山と言うお店が開いてます。















「大衆酒場 風林火山」の看板が出ている
このお店に入ります。












1席空いていたカウンター席へ座ります。

出てきた突き出しです。

肉団子汁だったかな?













注文した日本酒「大雪渓」です。

















肴に注文した「玉ねぎ丸焼き」です。

メニューには、
「玉ねぎ丸ごと焼いただけ。それがいいんですよ。」と
コメントが付いてました。













「人気ナンバーワン!元祖ホル天」です。

確かにトロける美味さでした。











左が「玉ねぎ丸焼き」で、右が「ホル天」です。













そして、「松本B級グルメ 山賊焼」です。













左が「玉ねぎ丸焼き」で、右が「山賊焼」です。













日本酒のおかわりは、
「アルプス正宗」です。
















食事を終えて、風林火山を出て、
ホテルへ帰りました。













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