奈良・京都旅行の三日目は、法隆寺をはじめ、斑鳩の里を歩きました。
JR奈良駅から、関西本線に乗って、JR法隆寺駅で下り、
法隆寺へ向け歩きます。
そのJR法隆寺駅です。
法隆寺の参道入口脇にあった法隆寺の石標です。
聖徳宗総本山 法隆寺とあります。
参道を法隆寺に向け進みます。
参道の先に南大門が見えてきました。
南大門です。
南大門の斜め前にあった下馬石と、
史跡 法隆寺境内の説明です。
その史跡 法隆寺境内の説明です。
史跡 法隆寺境内の説明です。
聖徳太子の父である用明天皇が
自身の病気平癒を願って、
妹にあたり、後に日本初の
女性天皇となる推古天皇と
息子の聖徳太子に命じ、
推古15年(607)頃、
法隆寺は完成しました。
しかし、日本書記によると
天智9年(670)、落雷により
一屋余す事無く焼失したと
記されており、
再建は710年前後と
考えられてます。
その再建された伽藍が、
金堂と五重塔を中心とした
西院伽藍で、世界最古の
木造建築です。
また、
東院伽藍は、聖徳太子により造営された
斑鳩宮が荒廃したままの状態を嘆いた
行信僧都により、聖徳太子の菩提を願って
天平11年(739)頃、建立された
夢殿を中心とした建築群です。
南大門です。
元々、南大門は中門前の石段の上にありましたが、
僧侶間の対立と権力争いが原因で、
永享7年(1435)に焼失し、
永享10年(1438)に再建された物です。
三間一戸の八脚門(やつあしもん)で、
室町時代に再建された物で国宝です。
南大門です。
その南大門を通して、正面に中門、そして、その向こうに
五重塔を見たところ。
南大門を抜けて、正面に中門を見たところ。
正面の中門が、金堂や五重塔を中心とする
西院伽藍への本来の入口です。
左右に伸びる築地塀は、大垣と呼ばれてます。
南大門から中門へ向かう参道です。
右側、築地塀の内側、築地塀越に見える屋根は、
手前から、宝光院、輪堂、護摩堂の屋根です。
正面は、中門です。
右側に見える大家根は、護摩堂です。
中門へ向かう参道です。
左側、築地塀の中ほどに見える門は、
西園院の門で、手前から上土門(あげつちもん)と唐門です。
左が上土門(あげつちもん)で、右が唐門です。
上土門(あげつちもん)は、
平安時代、屋根を水平な厚板で葺き、
その上に、土を上げておおった門を指します。
絵巻には多く出てきますが、
現存する上土門は、ここのみで、
屋根の上に土はのせず、檜皮で土をのせた形に
葺いています。
唐門は、唐破風がついた門を指します。
写真では唐破風は見えませんが、
妻に唐破風がついています。
中門へ向け進んで行きます。
正面は、西院伽藍の本来の入口の中門です。
現在は、この中門から西院伽藍に入れません。
右下は、手水舎です。
その手水舎です。
龍の口から水が流れ出ています。
手水舎の前から、東を見たところ。
その先には、東大門が見えます。
中門です。
正面が四間二戸となっており、門の中央に柱が立つのは、
他では見られない特徴です。
上層には卍崩しと人字型の割束を配した高欄を供え、
壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝え、国宝に指定されてます。
中門前にあった法隆寺伽藍配置図です。
南大門方向を見たところ。
右端が南大門、左端が護摩堂です。
中門前から南大門を見たところ。
中門前から西大門へ続く道です。
写真右よりに見える門は、大湯屋の表門です。
その先、西側に、西大門が見えます。
中門です。
中門の左右には日本最古の仁王像、金剛力士像が立ってます。
写真は、口を開けて、右側に立つ阿形の仁王像です。
塗は落ちていますが、元々は朱色で、
木の芯の上に粘土で肉付けされた塑造です。
口を閉じて、左側に立つ吽形の仁王像です。
吽形は黒色の塑造でしたが、
16世紀には顔以外の部位は木造に作りかえられています。
吽形の仁王像です。
正面から中門を見上げたところ。
南東から中門を見上げたところ。
南西から中門を見上げたところ。
中門の斜め前には、
日本最初の世界文化遺産 法隆寺 平山郁夫
と書かれた石碑がありました。
平成5年(1993)に、法隆寺地域の仏教建造物として
世界文化遺産に登録されています。
その石碑の前から中門を見たところ。
中門から続く回廊の南西角に
西院伽藍への入口があります。
西院伽藍の西側に三経院があります。
三経院は、聖徳太子が勝鬘教、維摩教、法華経の三つの経典を
注釈された三経義疏にちなんで付けられた名称です。
鎌倉時代の建立で、国宝です。
三経院の西側の道を奥に入ると、西円堂があります。
三経院の前の弁天池です。
中門と、回廊の南西角にある西院伽藍への入口です。
回廊越しに五重塔を見たところ。
その五重塔の相輪です。
相輪の最下部に、4本の鎌がかけられています。
これは雷除けの呪い(まじない)と言われています。
回廊の南西角にある西院伽藍への入口の前から
輪堂、護摩堂、弥勒院方向を見たところ。
西院伽藍への入口から回廊の内側に入る。
西院伽藍の南東に金堂があります。
そして、西院伽藍の南西に五重塔があります。
五重塔を南から見たところ。
五重塔は、推古15年(607)の創建で、現存する木造建築で
世界最古であり、国宝です。
初重から五重までの屋根の逓減率が高く設計されているのが特徴で、
五重目の屋根の一辺は、初重の屋根のおよそ半分のサイズです。
塔身もまた、下層から上層へ行くにつれ、細くなっています。
高さは、約32.5mです。
五重塔です。
心柱の下の心礎には仏舎利が納められています。
また、心柱の四方には、塑土で洞窟のような舞台を造り、
仏教に関する四つの説話から四つの場面を塑像の小群像で
表しています。
塔本塑像と呼ばれるこの群像は、
塔の完成後、和銅4年(711)に造られた物です。
五重塔の前の礼拝石です。
最下層の屋根と裳階(もこし)の間で
屋根を支えている邪鬼です。
南東の邪鬼です。
口を開けて頭で支えています。
その南東の邪鬼です。
北東の邪鬼です。
歯を食いしばり両手を頭に当てて支えています。
北東の邪鬼です。
深い屋根の軒を支える肘木(ひじき)は、
雲の形の雲肘木が使用されており、
後の時代には見られなくなった様式です。
そして、各層の屋根の先端からは、
風鐸がぶら下がっています。
その風鐸です。
各層には、卍崩しの高欄があります。
四層目と5層目の屋根の間には、
邪鬼の彫刻が施された柱があります。
その邪鬼の彫刻が施された柱です。
そして、五重塔の塔頂の相輪です。
五重塔を南東から見たところ。
中門を北西から見たところ。
西院伽藍の南東に金堂があります。
金堂は、西院伽藍最古の建物で国宝に指定されています。
金堂を南西から見たところ。
金堂を南正面から見たところ。
金堂の前にも、礼拝石があります。
金堂の内部には、中の間、東の間、西の間があり、
国宝の釈迦如来、薬師如来、重要文化財の阿弥陀如来が
本尊として祀られています。
また、金堂の外陣の12面の壁画は、
1949年の火災により極彩色は失われました。
現在の壁画は、当時の有名画家によって、
模写された物です。
金堂を南東から見たところ。
右端は西院伽藍を囲む東側の回廊です。
金堂を南東から見たところ。
金堂の南東角、初層の屋根と裳階の間で、
屋根を支える獅子です。
金堂の南東角、初層と上層の屋根の間で、
上層の屋根を支える柱に施された昇り龍です。
ちなみに、偉大な人ほど頭を垂れると言う謂れから、
頭が下を向いた龍を昇り龍と言う説もあります。
金堂を東から見たところ。
金堂の北東角、初層の屋根と裳階の間で、屋根を支える象です。
金堂の北東角、初層と上層の屋根の間で、
上層の屋根を支える柱に施された降り龍です。
南東、北西に昇り龍が、南西、北東に降り龍が施されています。
この昇り龍、降り龍は、五代将軍、徳川綱吉の母、桂昌院により、
元禄5年(1692)から宝永4年(1707)の15年に及ぶ大修理の折りに
施された物です。
西院伽藍の北側には大講堂があります。
南正面から大講堂を見たところ。
元々、大講堂は北側の回廊の外に独立して
建っていましたが、
延長3年(925)に落雷により焼失し、
正暦元年(990)にほぼ元の規模と同じ大きさに
再建されました。
更に回廊を北側に延長して大講堂に取り付けて
います。
大講堂です。
間口は9間あり、国宝に指定されてます。
中には国宝の薬師三尊像と、重要文化財の四天王像が
安置されています。
大講堂の前には、桂昌院灯籠が立ってます。
桂昌院灯籠は、五代将軍、徳川綱吉の母、桂昌院により、
元禄5年(1692)から宝永4年(1707)の15年に及ぶ大修理の折りに
建てられました。
大講堂の前から、南側、左から金堂、中門、五重塔を
見たところ。
北側から中門を見たところ。
中門です。
中門の柱です。
この柱をよく見ると、柱の中央部あたりが
ゆるやかに膨らんでいます。
これは古代ギリシャのパルテノン神殿をはじめとした
建築の柱に見られるエンタシスと呼ばれるふくらみで、
その技法が伝わったと言われてます。
中門から東に延びる回廊です。
この回廊の柱もエンタシスのふくらみが見られます。
回廊です。
中門から東に延びる南側の回廊から、
東側の回廊を見たところ。
回廊南東隅から金堂を見たところ。
右側は、東側の回廊です。
その回廊の先には、鐘楼が見えます。
回廊の北東隅の天井裏です。
回廊の北東隅から金堂と五重塔を見たところ。
西側の回廊は、経蔵につながり、更に大講堂に
つながっています。
写真は回廊と経蔵です。
経蔵は、経典を納める施設として
奈良時代に建立された物で国宝です。
現在は、天文や地理学を日本へ伝えた
百済の学僧、観勒僧正像が安置されてます。
東側の回廊は、鐘楼につながり、
更に大講堂につながっています。
写真は鐘楼と回廊です。
鐘楼は延長3年(925)に大講堂とともに焼失し、
現在の鐘楼は経蔵の様式にならって再建された物で
国宝です。
また鐘楼の中に吊るされている梵鐘は、
奈良時代前期の銅鐘で重要文化財です。
南東から大講堂を見たところ。
大講堂の右側に回廊と鐘楼が見えています。
北東から金堂と五重塔を見たところ。
北東から五重塔を見たところ。
回廊南東にある西院伽藍の出口を出て、
大宝蔵院へ向かいます。
西院伽藍の出口を出たところにある手水舎です。
大きな水瓶から龍の首が伸び、その口から水が流れ出ています。
西院伽藍の隣の聖霊院を見たところ。その右側は妻室です。
聖霊院は、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置する為に
東室の南端を改造した物で国宝に指定されています。
聖霊院の北側には、東室と呼ばれる僧坊があり、
法隆寺に住む僧が生活していた飛鳥時代に建立された建物で、
国宝に指定されています。
妻室は、小子房の僧坊で、重要文化財です。
右に聖霊院、その向こうに西院伽藍が見えます。
聖霊院、そして、その奥に東室が続いています。
聖霊院の南側にある鏡池越しに、西院伽藍の中門、回廊、
その手前に手水舎を見たところ。
鏡池です。
聖霊院、妻室を見たところ。
聖霊院、妻室の東側に、馬屋と綱封蔵があります。
左が馬屋で、右が綱封蔵です。
馬屋の中には、聖徳太子の愛馬の黒駒と
黒駒の綱を引く舎人、調子丸の像があります。
綱封蔵です。
寺宝を保管する為の蔵で、双倉といわれる様式の建物で
平安時代の建立で国宝に指定されています。
諸寺を管理する僧綱所に蔵の開閉が委ねられた事から
綱封蔵と呼ばれてます。
綱封蔵の北側に、細殿と食堂があります。
右が細殿、左が国宝の食堂です。
食堂は、もともと政所と言う法隆寺の寺務所でしたが、
平安時代に食堂として使用されるようになりました。
食堂は、隣の細殿と軒を接して建っている事から
双堂と呼ばれる奈良時代の建築様式です。
食堂の西側に、東室と妻室があります。
右が東室で、左が妻室です。
北東から見たところ。
西院伽藍の北側に位置する上御堂を南東から見たところ。
上御堂は、天武天皇の皇子、舎人親王の発願で建立されたと
伝えられていますが、永祚元年(989)に倒壊し、現在の建物は
鎌倉時代に再建された物で重要文化財です。
堂内には、国宝に指定されている平安時代の釈迦三尊像が
祀られています。
食堂の北側には、大宝蔵院があります。
写真は、中央に大宝蔵院の中門、左に西宝蔵、
右に東宝蔵、中門の奥、正面には百済観音堂があります。
百済観音堂には、飛鳥彫刻を代表する国宝の百済観音像が、
また、西宝蔵には、飛鳥時代の建築様式を伝える宮殿形の
玉虫厨子が安置されています。
大宝蔵院の中門です。
ここから中に入り、西宝蔵、百済観音堂、東宝蔵と見て回ります。
大宝蔵院を出て、大宝蔵院前から、食堂を見たところ。
大宝蔵院前から、西院伽藍方向を見たところ。
西院伽藍方向を見たところ。
手前が妻室、その隣が東室、そして、その向こうに
金堂の屋根、更にその向こうには五重塔が見えます。
北東から食堂を見たところ。
その向こうは細殿です。
大宝蔵院を出て、次は夢殿のある東院伽藍へ向かいます。
写真は、食堂の東側、手前から北倉、中倉、南倉です。
北倉、中倉、南倉の横の道を南へ向かいます。
右の木の陰の建物は、綱封蔵です。
中央に、妻室、聖霊院、
そして、その向こうに五重塔が見えます。
そして、南倉の南側、東西に走る道を東へ向け
進んで行きます。
その道の先に見える門が、東大門です。
東大門です。
東大門は、中ノ門とも呼ばれ、西院と東院の間に
建っています。
かつては鏡池の東に南向きに建っていましたが、
平安時代ごろに現在の場所に移されたと
言われています。
そして、この門は三棟造り(みつむねづくり)と言う
奈良時代を代表する建物で国宝です。
東大門を通して東を見たところ。
その先には、東院伽藍の夢殿の屋根が見えます。
東大門を出て、北東に律学院が見えます。
東大門をふり返って東から見たところ。
東大門を東から見たところ。
東大門を抜け東へ向け歩いて行きます。
その道の左右には、築地塀が建っています。
その築地塀は、粘土を棒で一層ずつ何層にも突き固めた
版築と言う工法で作られています。
築地塀の突き固められた各層は、少しずつ風雨に侵され
縞模様となって歴史的景観の一部となっています。
倒れそうな場所には、倒れ防止のつっかえ棒が
施されてました。
真っすぐ行くと、正面に東院伽藍の四脚門と
その向こうに夢殿の屋根が見えます。
四脚門の手前の白いテントは、お土産屋さんです。
東院伽藍の四脚門と夢殿の屋根です。
夢殿の甍の上には、宝珠が輝いています。
正面に東院伽藍の四脚門です。
四脚門を通して、東院伽藍の内部を見たところ。
四脚門を入ると回廊があり、その向こうに夢殿が見えます。
四脚門を入り、回廊にそって北を見ると
東院鐘楼があります。
四脚門の南東には手水舎があります。
鳳凰の口から水が流れ出ています。
四脚門の前から回廊を見たところ。
回廊前にあった
法隆寺境内の説明です。
夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年、行信により、聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたとあります。
以下は法隆寺境内図です。
回廊の西側の入口から入り、正面に夢殿を見たところ。
夢殿は、高い基壇の上に立つ八角円堂で、東院の本堂です。
もともと天平創建の建築でしたが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に
大改造を受け、高さや、軒の出、組み物などが大きく改変されて
いるものの、古材から天平の姿に復元する事もできるほど
古様を残しています。
国宝に指定されてます。
回廊の西側の入口を入って、南を見たところ。
回廊は折れ曲がり、回廊の南側、礼堂に続いています。
南西から夢殿を見たところ。
回廊の南西隅から夢殿を見たところ。
回廊南側の礼堂です。
夢殿の中央の厨子には聖徳太子等身と伝えられる
国宝の救世観音菩薩像が本尊として祀られています。
夢殿の基壇に上り、お参りをした後、
回廊の南西隅を見たところ。
夢殿を、回廊の北東隅から見たところ。
回廊北側には、絵殿・舎利殿があります。
この建物の右側が舎利殿で、左側が絵殿です。
舎利殿は、聖徳太子が二歳の春に東へ向かって合掌され、
その掌中から出現したと言われる
舎利(釈迦の遺骨)を安置する建物です。
そして、その舎利殿に続いて、左側は絵殿と呼ばれており、
聖徳太子一代の事跡を描いた障子絵が納められています。
絵殿・舎利殿は、鎌倉時代に建立された建物で
重要文化財です。
回廊を出て、次は中宮寺へ向かいます。
東院鐘楼の横を北へ通り過ぎて、
ふり返って東院鐘楼を見たところ。
この鐘楼は、袴腰と呼ばれる形式の鎌倉時代の建物で
国宝です。
東院鐘楼です。
内部には、中宮寺と陰刻された奈良時代の梵鐘があります。
中宮寺への石標です。
この石標は、大正14年に建てられた物です。
東院鐘楼の斜め横、東側には、伝法堂があります。
伝法堂は、天平11年(739)の建立で、聖武天皇の夫人、
橘古那可智の住宅を移築し、仏堂に改造したもので
国宝です。
当時のお堂としてはめずらしく床が板張りとなってます。
堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像をはじめ多くの仏像が
安置されています。
伝法堂の北側を東へ進むと、中宮寺の門が正面に見えます。
右端に少し見えている建物は、先ほどの伝法堂です。
そして、伝法堂の反対側には、北室院があります。
左端は、北室院本堂です。
檜皮葺の入母屋造りで、明応3年(1494)の建立です。
その本堂の前には、檜皮葺、現存最古の平唐門の
北室院表門があります。
右端は、中宮寺の門です。
中宮寺の門です。
中宮寺は、聖徳太子の御母、穴穂部間人皇后の御願いにより、
太子の宮居、斑鳩宮を中央にして、
西の法隆寺と対照的な位置に尼寺として
創建されました。
平安時代には寺運衰退し、戦国時代には火災に遭い、
法隆寺東院の山内子院に避難し、
そのまま住み着いていたところ、
後伏見天皇八世の皇孫、尊智女王が御住職をされ、
以来、尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整え、
今に至ってます。
よって、中宮寺の門の表には、山号の扁額は無く、
尼門跡斑鳩御所として、菊の紋の彫刻が施されて
います。
そして、門を入った内側には、中宮寺の山号の
法興山の文字が入った扁額が掛けられてます。
受付を済ませ、参拝道の矢印に従って、
もう一つ奥の門を入ります。
その門の前から、ふり返って築山を見たところ。
門を入って、本堂へ進んで行きます。
右端に見える建物が、本堂です。
本堂を南西から見たところ。
本尊は、国宝 菩薩半跏像(伝如意輪観音)です。
半跏の姿勢で左足を垂れ、右足を膝の上に置き
右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れんばかりの
優美な造形は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作です。
本堂を正面、南から見たところ。
また、本堂へは、日本最古の刺繍遺品として知られる
天寿国曼荼羅繍帳のレプリカが安置されています。
天寿国曼荼羅繍帳は、
推古天皇30年(622)、聖徳太子の妃の橘大郎女が、
太子葬去の後、太子往生の姿を偲ぶ為、
宮中の采女に命じて、太子が往生された
天寿国のありさまを刺繍せしめられた物です。
実物は、奈良国立博物館に寄託されています。
本堂の前にあった秋艸道人の歌碑です。
みほとけの あごとひぢとに
あまでらの あさの
ひかりの ともしきろかも
中宮寺にて 秋艸道人
尼寺の 御仏は 頬にあてた指先と右肘に
朝の光が優しく反射する そのお姿は
なんと神秘的で魅惑的なことか
秋艸道人と号するのは、歌人であり、美術史家の會津八一です。
中宮寺の門を出て、西を見たところ。
右手には、北室院があります。
そして、左手、南側には、伝法堂があります。
東院伽藍を出て、次は法輪寺へ向かいます。
東院の四脚門を出て、まっすぐ西を見たところ。
この道の先には、東大門があります。
法輪寺へは、四脚門を出て、北へ向かいます。
東院の築地塀に沿って北へ向かいます。
法輪寺に向かう前に、天満池の方を周って行く事にします。
途中、法隆寺の五重塔が見えます。
法隆寺の築地塀の陰にお地蔵様が並んでます。
天満池の土手の下に
斑鳩めぐり案内図がありました。
天満池の土手に人が歩いて上った道があり、登って見ました。
後でわかりましたが、土手の上は立ち入り禁止の場所でした。
子供の頃は、ため池の周りを駆け回って遊んでいたので
立ち入り禁止とは思いませんでした。
すみません。
天満池の土手の上には、五輪塔が立っており、梵語が彫られており
応永十九の文字も見えます。
応永19年であれば、1412年に建てられた物だと思います。
土手の上から法隆寺を見たところ。
土手の上を東に向け歩きながら、法隆寺を見たところ。
土手を歩きながら、法隆寺を見たところ。
土手の上から、南東方向を見たところ。
夢殿の屋根が見えます。(↓の位置)
土手を歩いて行くと柵があります。
入ったらいけない所と初めて気が付きました。
もしかすると土手の上を歩く観光客が多く
事故が多いのかもしれません。
天満池の東には、斑鳩神社があります。
斑鳩神社は、法隆寺の鎮守4社の一つで
菅原道真公が祀られています。
斑鳩神社は、神職であった伊香留我伊香志男命
(いかるがいかしおのみこと)の名前が由来との事です。
斑鳩神社から北東へ、法輪寺へ向かいます。
法輪寺の三重塔が見えてきます。
その三重塔です。
三重塔です。
法輪寺の南門の前に到着しました。
南門の前から、三重塔を見たところ。
南門と、その向こうの三重塔を見たところ。
南門です。
南門を入ったところにある
法輪寺の沿革の説明です。
法輪寺の創建は、推古30年(622)、
聖徳太子の病気平癒を願って、
太子の御子、山背大兄王によって
建立されたと伝えられています。
昭和の発掘調査では、
法隆寺式伽藍配置で、
規模は西院伽藍の
三分の二である事が明らかになり
7世紀中には寺観が整っていたと
考えられています。
南門を入った右手には、手水舎があります。
三重塔です。
三重塔は、正保2年(1645)の台風により、
金堂、講堂、回廊、食堂等、ことごとく倒壊する中で、
三層目が吹き飛ばされた三重塔だけが残ったと
伝えられてます。
元文4年に三重塔修復中に心礎から仏舎利が発見され、
宝暦10年(1760)に三重塔の修理は完了しました。
明治時代に入って国宝に指定されましたが、
昭和19年(1944)に雷火により、炎上、消失して
しまいました。
そして、昭和50年に三重塔は創建当初の様式にて再建されています。
三重塔を南東から見たところ。
三重塔です。
卍崩しの高欄を持ち、軒先には風鐸が吊り下げられてます。
軒を支える大きな雲形肘木も見えます。
三重塔を北東から見たところ。
三重塔の向かい、東側には、金堂があります。
左が三重塔で、右が金堂、正面は講堂(収蔵庫)です。
金堂です。
南西から見たところ。
金堂は、正保2年(1645)の台風により倒壊した後、
三重塔が修復された宝暦10年(1760)の翌年に
再建されたものです。
昭和25年の発掘調査で、旧金堂の位置を踏襲しながら、
旧金堂より一回り小さくなっている事が
わかりました。
金堂です。
西から見たところ。
金堂には、本尊の薬師如来が祀られていましたが、
金堂の老朽化が進み、現在は収蔵庫へ安置されています。
庫裏の塀の前に、三重塔の心礎の複製があります。
三重塔の心礎の複製です。
心礎は、基壇面より約2.5m下にある地下式です。
三重塔は、昭和19年(1944)に、雷火により、炎上消失し、
その後、再建されてますが、
本物の心礎はそのまま使用され、
仏舎利は、心礎に穿たれた直径15㎝の舎利孔の中に
納められています。
三重塔の心礎の複製の横にあった、三重塔についての説明です。
塔内には、
焼失時にお救いできた
釈迦如来像と四天王像
(平安時代)が安置されて
います。
講堂(収蔵庫)前から、金堂を見たところ。
右端は、南門です。
講堂(収蔵庫)前から、三重塔を見たところ。
左端は、南門です。
講堂(収蔵庫)の北側には、妙見堂があります。
妙見堂の隣には、鬼子母神堂が見えます。
妙見堂は、妙見菩薩を祀り、節分の星祭りや、
毎月の護摩供などを行う行の為の御堂です。
もともと寺北の山中から境内に移設された物で
江戸時代中期の様式を残す三間堂でした。
現在の妙見堂は、改築が行われ、平成15年に
完成した物です。
鬼子母神堂は、子供の守護神の鬼子母神が
祀られています。
鬼子母神は、子供を食らう夜叉女でしたが、
お釈迦様に自分の子供を隠され、子供をとられた
親の苦しみを知り、改心し、仏教に帰依しました。
法輪寺を出て、次は法起寺へ向かいます。
法輪寺をふり返ったところ。
法輪寺から東へ進んで行くと、法起寺の三重塔が
見えてきます。
法起寺の三重塔です。
法起寺の西門です。
法起寺の西門から中へ入ります。
法起寺は、別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺
と呼ばれており、平成5年(1993)に法隆寺地域の
仏教建造物として、世界遺産に登録されています。
西門から中に入り、東を見たところ。
法起寺は、推古30年(622)、聖徳太子はその葬去に臨み、
長子の山背大兄王に、聖徳太子が法華経を講説した岡本宮を
寺にする事を遺命し、寺に改められたのが始まりです。
その後、舒明10年(638)に金堂が建立され、天武14年(685)に
宝塔建立が発願され、慶雲3年(706)に完成し、伽藍が整えられ
ました。
境内の池越しに、三重塔を見たところ。
境内の池越しに、三重塔を見たところ。
境内の池越しに、三重塔を見たところ。
境内の池越しに、南西から聖天堂を見たところ。
池の東側から、木の陰で見えないが、
西門方向を見たところ。
西門からまっすぐ進むと、左手に聖天堂があります。
聖天堂を南東から見たところ。
文久3年(1863)に、元の金堂跡に建てられています。
鐘楼跡です。
聖天堂の南にあります。
講堂です。
聖天堂の北東にあります。
寄棟錣葺の建物で、元の講堂跡に建てられており、
現在の建物は、元禄7年(1694)に再建された物です。
三重塔です。
西から見たところ。
聖天堂の東にあります。
慶雲3年(706)の創建で、現存する最古の三重塔です。
三重塔を南から見たところ。
屋根の軒を支える肘木(ひじき)は、雲の形の雲肘木が、
高欄は、卍崩しの高欄が使用されています。
三重塔の初層屋根の軒下です。
南門です。
境内、北から、南門を見たところ。
境内の池です。
法起寺の境内を出て、三重塔を見たところ。
右端は、南門です。
次は、法隆寺の西に位置する藤ノ木古墳へ
法輪寺の前を経由して向かいます。
途中、法輪寺を見たところ。
法輪寺の前を経由し、法隆寺の東大門から中に入り
法隆寺境内を通って、西へ向かいます。
右端は、綱封蔵です。
中央に、妻室、聖霊院が見えます。
西へ向かう途中に五重塔を見たところ。
西大門です。
東から見たところ。
西大門を西へ抜け、ふり返って見たところ。
法隆寺、西大門を西へ抜け進んで行くと、
左手に藤ノ木古墳が見えてきます。
藤ノ木古墳を北から見たところ。
藤ノ木古墳を東から見たところ。
直径50m以上の大型円墳で、6世紀後半の築造と
推定されています。
藤ノ木古墳の説明です。
藤ノ木古墳からは、
金銅装透彫鞍金具や、
須恵器、土師器と呼ばれる
土器群が見つかっています。
藤ノ木古墳の概要説明です。
藤ノ木古墳を南東から見たところ。
藤ノ木古墳は、南東に開口を持つ両袖式の
横穴式石室を持つ古墳です。
羨道は舗装され、
ガラス越しに内部を覗くことはできますが、
中に入る事はできません。
藤ノ木古墳から出土した副葬品レプリカ等が
展示されている斑鳩文化財センターへ行きました。
斑鳩文化財センターの前に展示されていた石棺の
レプリカです。
刳抜式家形石棺で、朱が塗られていました。
斑鳩文化財センターです。
展示室へ向かう通路は、羨道の内部を再現した壁が
描かれています。
羨道には、土器が転がっています。
展示室の中には、石棺の内部を再現した展示がありました。
石棺には、2名の被葬者が埋葬され、金銅製の鞍金具や靴、等の
副葬品が発見されています。
埋葬者の骨の多くは、侵入した地下水によって溶けていたようです。
石棺内の遺物出土状況の模式図です。
家形石棺の蓋です。
副葬品の金銅装透彫鞍金具(前輪)です。
金銅装透彫鞍金具(後輪)です。
金銅製心葉形鏡板付轡や、金銅製棘葉形杏葉や、
木心金銅板装壺鐙、等の副葬品が展示されています。
金銅製冠や、剣の展示です。
土器の展示です。
法隆寺・斑鳩の里は、聖徳太子ゆかりの里、飛鳥時代の仏教の世界に触れながら歩く事ができました。