旧海軍司令部壕:29Mar2012



家族で沖縄旅行に行って来ました。
沖縄と言えば、美ら海、美ら島、南の楽園と言うイメージですが、しかし、戦争と言う辛い過去もありました。

楽しいだけでなく、ここで何があったか知ると言う意味でも、子供達と一緒に、戦争遺跡のひとつである
旧海軍司令部壕を訪問しました。

太平洋戦争の末期、ここ沖縄では、住民を巻き込んだ地上戦が行われました。

この沖縄戦は、日本が戦況不利な状況の中で、持久戦に持ち込み、アメリカに戦争継続を断念させる目的で、
本土決戦の前に、沖縄を日本の捨て石にしようとした「捨て石作戦」とも呼ばれているらしい。

そして、沖縄戦では、日本軍 7,5000人、米軍 14,000人、民間人 15万人が戦没した言われてます。
女性、子供、老人、学生にかかわらず民間人の犠牲者が多く、投降したくても投降できず、集団自決に追い込まれ
たりと悲惨な戦いであったらしい。


ここは、沖縄県豊見城市豊見城にあります。

周囲を海まで見渡せる小高い山の上にあります。

今は、本当に見渡しの良い景色が眺められますが、
当時は、この大地を、米軍の戦車が埋め尽くし、進軍してきた 
のであろう。













山の 頂上には展望台がありました。

子供達は、無邪気に景色を楽しんでます。
本当に、平和のありがたさを実感します。
















また、海軍戦没者慰霊之塔もありました。


















まず旧海軍司令部壕の入口に併設された資料館へ。

入口の説明板。

司令官は、大田實少将。

昭和20年4月1日に、米軍が
沖縄本島へ上陸。

6月13日夜に、大田司令官が
自決し、本壕の終焉となる。

米軍によって、破壊されたが、
今は、復元され公開されている。


















米軍の侵攻経路。
赤丸印が、旧海軍司令部壕。
































米軍の侵攻で、大田實司令官の「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の
有名な電文は、6月6日に発信された。
そして、6月13日が最後となった。





























いよいよ地下壕に降りて行く。
やはり、不気味である。





















壕入口から昇降廊を下りたところに、壕内見取り図があった。


































壕の内部。























ここは幕僚室だったところ。

子供は、ここで何があったのか実感がわかないのであろう。
大きくなった時に、理解し、平和の大切さを噛みしめて欲しい
と思う。















ここで、幕僚達が、手りゅう弾で自決した。

室の壁には、残った手りゅう弾の破片の跡が、
なまなましい。
















ここは、司令官室だったところ。
そして、昭和20年6月13日の夜に、大田實司令官が自決した
部屋でもある。

司令官室には、2つ出入口があり、反対側の入口が見える。















ここは、暗号室だったところ。



















公開されてない通路もある。



















この先は、壕の出入口だった。
今は通行禁止になっている。

戦時の出入口の前では、敵の攻撃を前に、
身構え、緊張を強いられている人達の絵が
飾られている。


















壕内を順路に従って、一巡し、司令官室に戻る。
今度は、反対側の入口から内部を見る。

その向こうの壁には、「大君の御はたのもとに死してこそ、人と生まれし甲斐はありけり」と言う辞世の句が残されている。

「天皇陛下の為に死ぬことは、人として生まれて来た甲斐がある。」と言うような意味でしょうか?

考えが良いか、悪いかは別にして、昔の軍人の
覚悟はすごかった。死を覚悟して戦った。

しかし、軍人でない一般人も、女性も、子供も、
集団自決を余儀なくされ、戦争の悲惨さが、
つのるばかりである。







大田司令官が、海軍次官にあてた最後の電文では、司令官として戦況を伝えたと言うよりは、沖縄県民が、
老人、子供、女性が共に戦った悲惨な状況を伝えると共に、沖縄県民への特別な配慮を要請している。

それが、有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。」の電文である。

いずれにしても、沖縄は、本当に捨て石のごとく戦い、今の日本がある事を忘れてはならないと思う。
しかし、現実は、特別な配慮どころか、基地問題で、今でも沖縄県民を苦しめている。

基地の無い本当の平和を築く事を目指して行動しなければ、犠牲になった方々もうかばれないのでは
無いだろうか。





以下の図は、6月4日から13日にかけての防御線の変化が記載されている。
包囲網が日に日に狭くなっていく様子が伺える。





































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