長年勤めた会社を退職し、自分で自分を労う意味を込めて、三泊四日で大阪へ出かけてきました。
広島を始発の新幹線 のぞみ74号で、大阪へ向かい、
初日は、住吉大社、世界遺産の仁徳天皇陵、
そして、訪問時点で日本で2番目の高さを誇るあべのハルカスを訪問しました。
大阪メトロ、御堂筋線で天王寺駅へ到着し、
近鉄前交差点から、あべのハルカス全体を見れる位置まで、西へ進み、
あべのハルカスを見上げたところ。
そして、近鉄前交差点に架かる阿倍野歩道橋へ戻りながら、
あべのハルカスを見上げたところ。
阿倍野歩道橋へ上がり、
近鉄前交差点を見たところ。
近鉄前交差点の北東の角、阿倍野歩道橋の陰に、
JR天王寺駅が見えます。
阿倍野歩道橋の南側から、
あべの筋を見たところ。
あべの筋の路面中央を、阪堺電車が通っており、
歩道橋から、阪堺電車の天王寺駅前駅へ
下りるようになってます。
その阪堺電車へ乗って、
住吉大社へ向かいます。
阪堺電車を住吉鳥居前駅で下りて、
駅のホームから乗って来た阪堺電車を見たところ。
阪堺電車は、市街地を走る路面電車で、
いわゆるちんちん電車です。
住吉大社へ向かう前に、
住吉大社の西に位置する住吉公園に行ってみます。
住吉公園の東側の入口です。
住吉公園の中を西から東へ、
住吉大社へ向けた参道、汐掛道が通っています。
住吉公園に入った所にあった
住吉公園案内図です。
その参道、汐掛道の脇に、松尾芭蕉句碑があります。
升買て分別かはる月見かな 翁
芭蕉が没した年、元禄七年(1694)の九月九日に
上野から住吉詣の旅に出て、
九月十三日に住吉の宝の市で名物の升を買い、
その翌日の句席で発句しました。
十月十二日に南御堂近くで没しており、
この住𠮷詣が生涯最後の旅となりました。
この句碑は、芭蕉没後百七十年を記念し、
元治元年(1864)に建てられたものです。
住吉公園の中、汐掛道の南側に
心字池があります。
その心字池にいた鳥です。
左の白い鳥は、冬も嘴が黒いのでコサギ、
真ん中の2羽はカルガモ、右側はアオサギだと
思います。
心字池です。
この鳥は、嘴が黄色で、
口角が目の下より後ろへのびており、ダイサギかな?
アオサギです。
住吉公園の中を走る汐掛道を西の端まで歩くと、
国道26号を隔てた西側に住吉高燈籠があります。
この高燈籠は、
元々、鎌倉時代に住吉大社の常夜燈として寄進されましたが、
次第に航路標識の役割が大きくなりました。
戦後、解体され、撤去されましたが、
昭和49年に現在地に鉄筋コンクリートで再建されました。
住吉公園の西の入口です。
住吉大社へ向け東へ、参道の汐掛道が伸びています。
その汐掛道を住吉大社へ向け東へ戻ります。
その汐掛道の脇に、汐掛道の記があります。
住吉公園は、かつて、
住吉大社の馬場として使用された場所で、
社殿から松原が続き、すぐに遠浅の海岸が開け、
出見の浜と呼ばれる名勝の地でした。
そして、住吉大社より、神輿を担ぎ出し、
神輿を担いだまま出見の浜の海に入り、
神輿を洗い清める神事が行われていました。
浜で清めた神輿が通る事で、汐掛道と称されています。
汐掛道の記の横に汐掛道顕彰碑があります。
光が反射し見えにくいですが、
出見の浜、高灯籠から住吉大社へ向かう汐掛道が
描かれています。
現在は、大阪南港の埋立により、
海岸線は西へ移動してますが、
かつての海岸線はこの辺りにあったと言う事が
うかがえます。
汐掛道を住吉大社へ向け進んで行くと、
汐掛道の北側に、花と水の広場があります。
住吉公園を東に出て、
住吉公園の入口横に建つ
住吉公園の標柱をふり返って見たところ。
住吉公園を東へ出て、
住吉大社への参道、汐掛道を東へ進みます。
汐掛道の上を、南海電鉄の南海線が走っています。
南海電鉄の南海線の高架の下をくぐって
汐掛道を住吉大社へ向け進みます。
高架の下にも石燈籠が並んでいます。
これらの石灯籠は、住友家が
別子銅山の鉱石を船で大阪北浜の銅座へ運び、
精錬して巨額の富を成し、
航海安全を祈願して寄進した物で、
住友燈籠と呼ばれています。
元々、住友燈籠は、住吉大社境内に散在していましたが、
潮掛道に集められ、年代別に整理し
並べられています。
汐掛道を住吉大社へ向け進みます。
正面に住吉大社の鳥居が見えます。
西大鳥居です。
一の鳥居ともいいます。
その鳥居の前の道には、
乗って来た阪堺線が通ってます。
その道を渡って、ふり返ると、
丁度ちんちん電車がやって来ました。
住吉大社へ入ります。
正面に西大鳥居が見え、
その鳥居を通して、赤い反橋が見えます。
西大鳥居は、石造で、内転びの丸柱に貫を通し、
反りのある島木・笠木を重ねた明神鳥居形式です。
西大鳥居の手前、参道横に、
遣唐使進発の地の石碑が建ってます。
4隻の船団と、住吉大社、
そして、その前に広がる出見の浜が
描かれています。
630年に始まった遣唐使は、
894年に廃止されるまで、
大陸に向かう船団は住吉津から出航した
と伝わります。
その遣唐使進発の地の石碑の反対側には、
俵屋宗達の代表作、
源氏物語関屋澪標(みおつくし)図屏風を
原寸大で複製した陶板屛風があります。
光源氏が紫の上を伴って
華やかに住吉詣をする場面です。
鳥居の前にいた、鳥居に向かって左側の狛犬です。
鳥居をくぐります。
正面に赤い反橋があります。
反橋の手前、左右に絵馬殿があります。
これは、北絵馬殿です。
その北絵馬殿に掲げられた絵馬です。
南絵馬殿です。
南絵馬殿に掲げられた絵馬です。
反橋の手前に、
住吉大社の日本遺産への認定の説明がありました。
反橋の手前から、北を見たところ。
反橋です。
太鼓橋とも呼ばれています。
長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5m、
最大傾斜約48度あります。
現在の石造橋脚は、慶長年間に
淀君が豊臣秀頼公の成長祈願の為、
奉納されたものと伝わります。
反橋は、神池に架かっており、
反橋を渡りながら神池を見下ろしたところ。
反橋の上から東、本宮方向を見たところ。
反橋を転げないように気をつけて下りて行きます。
反橋を下りて正面に、
角鳥居と本宮域に入る為の幸寿門が見えます。
幸寿門の前の角鳥居は、
石造で、柱に大面取の角柱が用いられ、
貫を通し、反りのある島木・笠木を重ねる
明神鳥居形式です。
そして、この鳥居の扁額には、住吉神社とあり、
陶製です。
反橋を下りたところに、手水舎があります。
その手水舎です。
丸々とした兎の口から出た水が、
竹筒を通して水が流れ出ています。
兎は、住吉大社の創建が、
神功皇后摂政十一年(211)、辛卯年の卯月の夘日
と言う縁があるようです。
幸寿門を入ると、正面に第三本宮があります。
住吉大社の祭神は、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が
禊祓(みそぎはらえ)を行った際に海中より出現した
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神と、
住吉大社鎮斎の神功皇后です。
ちなみに、底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神は、
総称して住吉大神と呼ばれています。
神功皇后は、強大な新羅を平定し、
凱旋の途中、住吉大神の神託により、
現在の住吉の地に鎮斎されました。
住吉大社の本宮は、
第一から第四の四つの本宮からなり、
祭神は以下のようになってます。
祭神
・第一本宮 底筒男命
・第二本宮 中筒男命
・第三本宮 表筒男命
・第四本宮 息長足姫命(神功皇后)
木の陰になってますが、
左が第三本宮で、右が第四本宮です。
四本宮の寝殿は、
第一、第二、第三本宮が、東西に直列し、
第三、第四本宮は並列する独特の配列に
なってます。
左が第三本宮で、右が第四本宮で、並列しています。
南西角の幸福門です。
本宮域の南西角に位置する門で、
その門を内側から見たところ。
第一本宮の東に位置する第二本宮です。
南西から見たところ。
左端の建物は、祓殿です。
右端には、第一本宮が見えます。
第一から第四の本宮の構成は、
西側に幣殿、東の奥に本殿、そして、
幣殿と本殿の間を渡殿で接続しています。
第二本宮の北側に位置する祓殿です。
第二本宮を北西から見たところ。
中古から左にかけて第二本宮で、
その向こうが第三本宮、
そして、その向こうに幸寿門が見えます。
左端の建物は、第二本宮の本殿です。
住吉大社の本殿は、住吉造と称される建築様式で、
神殿建築の最古の様式を伝えており、
国宝に指定されています。
屋根は桧皮葺の切妻造で直線的な建築です。
室内は、内陣と外陣の二間に分かれ、
内陣は一段高くなってます。
現存の本殿は、江戸時代の文化七年(1810)に
造営されたものです。
第一本宮です。
住吉大社の本宮へお参りした後は、
住吉大社の北に位置する摂社の大海神社へ
向かいます。
本宮域の北瑞籬門を出て、大海神社へ向かう途中、
第一本宮の北辺りに御文庫があります。
御文庫は、享保八年(1723)、書物を収める目的で、
大阪を中心に京、江戸の書籍商によって創建された
土蔵です。
そして、大阪の書籍商で結成した株仲間で、
書籍が奉納されています。
大海神社へ向かいます。
大海神社は西向きに建っており、
その鳥居を西へ出て、正面から鳥居を見たところ。
鳥居をくぐると、階段があり、
その上に西門があります。
大海神社は、摂社の中でも社格が高く、
住吉の宗社と称えられています。
大海神社の幣殿です。
その向こうに渡殿、本殿があります。
本殿は、住吉造りで、
宝永五年(1708)に造営されたものです。
祭神は、海幸山幸神話の海宮の竜王、豊玉彦命と、
その娘にあたる豊玉姫命を祀っています。
大海神社の境内にある玉能井です。
海幸山幸神話で、
山幸彦が海神より授かった潮満玉を
沈めたと伝わります。
大海神社の隣に、住吉大社の摂社、種貸社があります。
種貸社の祭神は、倉稲魂命で、元種を授ける神です。
資金調達、子宝、知恵を授かろうと
信仰を受けています。
種貸社前から、住吉大社境内の東側の道を
南へ進みます。
住吉大社末社の招魂社本殿(旧護摩堂)があります。
住吉大社末社の招魂社本殿です。
旧神宮寺護摩堂で、
江戸時代前期の元和五年(1619)の造営とされ、
境内に残る唯一の仏教建築です。
住吉大社の東側の道を南へ進んで行くと、
東門と北瑞籬門を結ぶ路地に出ます。
北瑞籬門方向に、楠高社の楠が見えます。
楠高社の前から、その楠を見たところ。
住吉大社の東側の道を、更に南へ進むと、
夫婦楠があり、その南側に楠珺社があります。
その楠珺社の横から、夫婦楠をふり返ったところ。
楠珺社を過ぎ、西へ折れ進むと、東小門があります。
その東小門を通して、五所御前が見えます。
東小門を入ると、第一本宮の南に位置する場所に、
五所御前があります。
五所御前は、鳥居と社があり、一本の御神木が
玉垣に囲われています。
鳥居と反対側から、五所御前を見たところ。
一本の御神木が、玉垣に囲われています。
社伝によると、
神功皇后が住吉大神を祀る場所を定める際、
三羽の白鷺が降り立った場所を
祀りの場として定めたと伝わります。
よって、4つの本殿が神聖なのはもちろんですが、
加えてここも同様に神聖な場所と言う意味で
五所御前と呼ばれています。
そして、この玉垣の内側には、
「五」、「大」、「力」と書かれた玉砂利があり、
それを見つけて、袋に入れてお守りにすると
願いが叶うと言われています。
そして、願いが叶った暁には、お守りを返納し、
新たに自分で「五」、「大」、「力」と書いて、
玉垣内に放り込む慣わしになってます。
玉垣に掛けられたお守りは、
願いが叶い返納されたお守りです。
私が見つけた「五」、「大」、「力」と書かれた
玉砂利です。
そして、五所御前の西側には、南瑞籬門があり、
その門から本宮域に入る事ができます。
南瑞籬門を入ったすぐ右手に、第二本宮があり、
その向こうは第三本宮です。
入って来た南瑞籬門をふり返って見たところ。
南瑞籬門を通して向こうに、
五所御前に隣接する若宮八幡宮が見えます。
若宮八幡宮は、神功皇后の御子、
応神天皇(八幡神)が祀られています。
そして、若宮八幡宮の前に立つ鳥居は、
柱に角柱が使用され、貫を柱内に納め、
反りのない島木・笠木を重ねる
独特の形式がとられており、
住吉鳥居と呼ばれています。
南瑞籬門を出てすぐの所にある南中門を南に出ます。
正面に石舞台があり、その向こうに南門が見えます。
石舞台です。
石舞台は、
池に架けられた石造桁橋の上に設けられており、
舞楽が奉納される際は、木製の高欄が
取り付けられるようになってます。
慶長12年(1607)、
豊臣秀頼が、住吉社の社殿造営を命じており、
この石舞台は、その時に寄進されたものです。
毎年、5月上旬の卯の日の卯之葉神事で
この石舞台の上で、舞楽が奉納されています。
この石舞台は、四天王寺の石舞台、
厳島神社の板舞台とともに日本三舞台に
数えられています。
石舞台の西側、横から、池越しに斎館を見たところ。
石舞台の南に位置する南門を出て、
南門をふり返って見たところ。
この南門も、豊臣秀頼公によって、
寄進されたものです。
南門を出て南東へ進むと、東大鳥居があります。
東大鳥居を出て、ふり返って正面から見たところ。
東大鳥居を出て、道なりに南東へ進んで行くと、
沼の中に建つ石灯籠があり、
浅澤社が見えてきます。
浅澤社を正面から見たところ。
浅澤社は、カキツバタが群生する沼地の
島に祀られた神社です。
鳥居をくぐり、石橋を渡って、中へ入ります。
祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、
芸事、作法、美容を願い、
女性の守護にあらたかな神として
信仰を受けています。
また、住吉さんの弁天さんとして親しまれています。
石橋を渡りながら、
季節になるとカキツバタが咲き誇るであろう
沼を見たところ。
古く万葉集には、
住吉(すみのえ)の浅澤小野の杜若(かきつばた)
衣に擦り付け着む日知らずも
と詠まれ、カキツバタの名勝として知られていました。
一時、清水が枯れ、
花菖蒲に変わった時代もありましたが、
今では、保存会によって、住吉区の花のカキツバタは
復活され維持されています。
浅澤社のお堂に入り、お参りします。
浅澤社の境内の南の沼の端に、
「官幣大社 住吉大社 境外末社 浅澤神社」と書かれた
標柱が建ってます。
浅澤社の南を流れる細井川を渡り、
大歳社へ向かいます。
大歳社は生垣で囲まれており、
大歳社の境内のおいとしぼし社の「おもかる石」の
矢印案内が出ています。
生垣に切れ目があり、大歳社の鳥居があります。
鳥居の扁額には、大歳神社とあります。
大歳社の境内に入ります。
大歳社の境内の南東の隅に、
おいとしぼし社があります。
大歳社の祭神は、大歳神で、
古くは五穀豊穣と収穫の神ですが、
近世には商人たちの信仰を集め、
集金の満足、契約の不変を祈るようになりました。
大歳社の境内にあるおいとしぼし社です。
中には、おもかる石の霊石が三個あります。
おもかる石の占い方は、以下です。
先ず、二拝二拍手一拝
次に、霊石を持ち上げ重さを覚える
次に、霊石に手を当て祈る
次に、再び持ち上げた重さの感じが
・軽い=かなう
・重い=好転へ努力
次に二拝二拍手一拝して退出
そして、おもかる石の奥に、おいとしぼし社の祠があります。
次は、仁徳天皇陵へ向かいます。
大歳社を出て、大歳社の南を周って、旧熊野街道を北上します。
細井川に架かる龍の橋です。
細井川を北へ渡って、龍の橋をふり返ったところ。
旧熊野街道を更に北上していくと、
住乃江味噌の醸造元、池田屋があります。
現在は、池田屋本舗として、
味噌の製造販売をされています。
池田屋本舗は、1531年に酒造業を創業し、
その後、みそ醸造を始めたと伝えられます。
住乃江味噌は、明治初期、17代池田甚兵衛が、
食が細った母親に滋養をつけてもらおうと
造ったのが始まりで、
名物になり、明治天皇へ献上し、
大正天皇、昭和天皇も食されたと言う事です。
住乃江味噌の命名の由来の説明です。
住吉大社の宮司によって、謡曲「高砂」にも記されている古来よりの名勝、住の江の浜に因んで
名付けられたと言う事です。
旧熊野街道を、池田屋本舗の前で東に折れ、
南海電鉄の高野線の住吉東駅へ向かいます。
ちょうど、なんば行きの電車がやって来て、
踏切にかかりました。
なんば行きの区間急行が通り過ぎて行きます。
南海電車で、住吉東駅から乗って、堺東駅で下ります。
仁徳天皇陵をはじめ、百舌鳥古墳群を眺める事ができる
堺市役所21階展望ロビーへ行ってみます。
中央が、堺市役所です。
堺市役所へ向かう途中、
南海電鉄の堺東駅をふり返ったところ。
堺東駅から、白い屋根の付いた歩道橋が伸びおり、
この歩道橋は、堺市役所まで続いてます。
堺市役所21階展望ロビーへ到着です。
展望ロビーは、地上80mあります。
南東を見たところ。
中央の緑地は、仁徳天皇陵古墳です。
右よりを、南海電鉄の高野線が通っているのが
見えます。
南を見たところ。
中央は大仙公園で、白い塔は平和塔です。
左側の緑地は、仁徳天皇陵古墳で、
右の緑地は、履中天皇陵古墳です。
北東を見たところ。
中央の緑地は、反正天皇陵古墳です。
その向こうの高層ビルは、
ベルマージュ堺壱番館と弐番館です。
西を見たところ。
堺泉北港が見え、
その向こうに日立造船 堺工場が見えます。
更にその向こう、大阪湾の向こうには、
明石海峡を横断し、本州と淡路島を結ぶ
明石海峡大橋が見えます。
明石海峡大橋は、全長3,911m、中央支間3,911mで
世界最大級の吊り橋です。
西、少し北よりを見たところ。
目の前のビルは、ハローワーク堺です。
遠方に、堺泉北港が見えます。
同じ方向を、拡大して見たところ。
正面のビルは、ペルル堺ウィングタワーです。
その向こうには、堺泉北港が見えます。
その右側の埋立地には、
シャープグリーンフロント堺があります。
北西を見たところ。
右側の赤白の電波塔のあるビルは、
NTT西日本 堺ビルです。
中央辺り、遠方に見える高層ビルは、
コスモタワーです。
コスモタワーには、大阪府咲洲庁舎展望台があり、
地上252mからの展望を楽しめます。
北、少し西よりを見たところ。
大阪港に架かる赤いトラス橋、港大橋が見えます。
港大橋は、全長980m、中央径間510mあります。
北を見たところ。
右よりに見える高層ビルは、
300mの高さを誇るあべのハルカスです。
展望ロビーに、泉州堺湊新地繁栄之図の拡大図の展示がありました。
宝永元年(1704)の大和川の付け替えで、堺湊は港湾機能を失い、
寛政4年(1792)に、吉川俵右衛門によって、大波止、小波止が整備され、内川(濠)が堀削され、
堺湊新地(現在の堺旧港)が完成しました。
北、少し東よりを見たところ。
左よりに、あべのハルカスが見えます。
右端の通りは、堺市役所の前を南北に通る
堺中央線です。
中央左よりには、
南海電鉄高野線の線路が見えます。
右端には、ヤンマースタジアム長居の
白い屋根が見えます。
あべのハルカスです。
北東を見たところ。
中央の緑地は、反正天皇陵古墳です。
展望ロビーに、
百舌鳥古墳群の航空写真が展示されています。
また、展望ロビーでは、
ゴルゴ13 x 堺市役所 さいとう・たかを 劇画の世界
が開催されていました。
故・劇作家さいとう・たかを氏は、
幼少期から中学3年まで堺で過ごされたと
言う事です。
堺市役所を出て、堺中央線を南西へ、
大阪中央環状線へ続くフェニックス通りを南東へ進むと、
仁徳天皇陵古墳の外周路へでます。
仁徳天皇陵古墳の周囲には、環濠がめぐらされています。
その道端には、
右回り、左回り、それぞれの古墳の正面までの距離の標識が
たってます。
私は、左回りに進みます。
仁徳天皇陵古墳の外周に沿って進みながら
環濠を見たところ。
仁徳天皇陵古墳の環濠は、
三重にめぐらされており、
見えているのは、一番外側の環濠です。
仁徳天皇陵古墳の西側の中央辺りに、
外側の環濠が膨れた箇所があり、
そこから水が流れ出ています。
樋の谷水路です。
その外側の環濠が膨らんだところに、小さな島があります。
陪冢(ばいちょう、ばいづか)の樋の谷古墳です。
その樋の谷古墳の説明です。
外側の環濠が膨らんだ箇所です。
右側が、外側の環濠が膨らんだ箇所にある
樋の谷古墳です。
左側が樋の谷古墳です。
更に進むと、万葉歌碑がたってます。
自然石の歌碑は、
仁徳天皇の皇后、磐之媛によって詠まれた歌です。
在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日
ありつつも君をば待たむ
うち靡く我が黒髪に霜の置くまで
(訳)いつまでもお待ちしよう、
黒髪が白髪に変わろうとも
仁徳天皇陵古墳に沿って、更に進んで行くと、
右手に陪冢(ばいちょう、ばいづか)の
銅亀山古墳があります。
その銅亀山古墳の説明です。
その銅亀山古墳です。
仁徳天皇陵古墳に沿って、
古墳の西側を南西へ進んで行くと、
古墳の前方部の角に出ました。
仁徳天皇陵古墳は、
三重の環濠に囲われていますが、
一番外側の環濠しか見えません。
一番外側の環濠を見たところ。
仁徳天皇陵古墳の前方部南側を
御陵通りが通っており、
その御陵通りを挟んで南側は、大仙公園です。
その大仙公園の中に、平和塔が建ってます。
仁徳天皇陵古墳の前方部南側を古墳に沿って進みながら、
環濠を見たところ。
古墳に沿って進みながら、
前方部南西角の方を見たところ。
古墳に沿って進んで行くと、
仁徳天皇陵古墳の拝所の前の駐車スペースの脇に建つ
国旗が見えてきます。
仁徳天皇陵古墳の拝所の前の駐車スペースから、
拝所を正面から見たところ。
仁徳天皇陵古墳の拝所の前の駐車スペースの脇に、
仁徳天皇陵古墳の説明があり、国旗が掲揚されています。
仁徳天皇陵古墳の説明です。
仁徳天皇陵古墳は、墳丘の全長249m、前方部の幅307m、周豪を含めた南北の長さ840m、
東西の長さ654m、周囲の距離2,718m、面積464,124㎡で、日本最大の前方後円墳です。
その大きさは、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝と並び
世界三大墳墓の一つと言われています。
ちなみに、仁徳天皇陵古墳を含む堺市の百舌鳥古墳群と、羽曳野市、藤井寺市の古市古墳群は、
古墳時代の社会階層を表した証拠となり、日本列島独自の墳墓形式の明らかな例として、
令和元年(2019)に、ユネスコ世界遺産として登録されています。
前方部の幅の中央部は、
拝所の前まで渡れるようになっており、
三重の環濠の内、
一番外側の環濠と二番目の環濠は途切れて、
陸続きになってます。
拝所の前に進みながら、
一番外側の環濠を横切ります。
一番外側の環濠の西側を見たところ。
一番外側の環濠の東側を見たところ。
一番外側の環濠、二番目の環濠を
横切った先に鳥居があります。
しかし、一般の観光客は、
2番目の環濠の手前に垣があり、
二番目の環濠から先へは進めません。
二番目の環濠の手前から遥拝します。
二番目の環濠の手前から、
二番目の環濠を見たところ。
拝所を出て、東へ少し行ったところに、堺歴史まちめぐりの案内図があります。
古墳時代の堺の図です。
かつては、仁徳天皇陵のすぐ近くに
海岸線があったようです。
また、その近くには、
仁徳天皇陵古墳の復元模型が展示されています。
前方後円墳の墳丘は、三段に築かれ、
くびれ部の両側に造り出しを備え、
墳丘の周囲には、三重の周濠が巡ります。
その外側には、多くの陪冢(ばいちょう、ばいづか)が
造られてます。
この仁徳天皇陵を造るには、
仮に一日最大2000人が従事し15年8ヶ月の年月が必要と言う
試算が出ています。
ちなみに、仁徳天皇は、16代天皇で、
応神天皇の息子、住吉大社の最新の神功皇后の孫にあたります。
仁徳天皇は、大阪の難波に都を定めた時、
人家から炊煙が立ち昇ってないのを見て、生活の厳しさに気づき、
3年間の租税の免除を行なったり、倹約の為、
宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった逸話が残っています。
仁徳天皇の治世は、仁政として知られています。
墳丘や堤には、3万本近い埴輪が立て並べられ、円筒埴輪の他、
女性埴輪、馬形埴輪、水鳥形埴輪などが出土しており、
5世紀中頃に古墳が完成したと考えられています。
一方、8世紀に編纂された日本書紀によって、
仁徳天皇陵とされていますが、
古墳の完成が5世紀中だとすると、仁徳天皇の没年と一致せず、
後年の天皇の墳墓とする説も出ています。
仁徳天皇陵古墳の復元模型の隣には、
埴輪が並べられた仁徳天皇陵古墳を模した花壇がありました。
その花壇です。
仁徳天皇陵古墳の南側、御陵通りを挟んで反対側に、
陪冢の孫太夫山古墳があります。
孫太夫山古墳は、前方後円墳で、
東側の後円部を見たところ。
孫太夫山古墳の西側にあたる
前方部を見たところ。
左側が前方部で、中央の小山が後円部です。
古墳は環濠で囲われています。
孫太夫山古墳の西側、環濠の横から、
仁徳天皇陵古墳を見たところ。
孫太夫山古墳の前方部を、南へ回って行くと、孫太夫山古墳の説明があります。
孫太夫山古墳の南側には、堺市博物館があります。
その入口に、千利休像があります。
千利休は、堺の商家に生まれ、
堺の豪商、竹野紹鴎に茶の湯を習い、
織田信長や、豊臣秀吉の茶頭として仕えました。
千家茶道の祖です。
堺市博物館です。
堺市博物館から大仙公園内を西へ進むと、
いこいの広場があり、
ICOROBA Cafe Teraceがあります。
ICOROBA Cafe Teraceの前を周って南へ進むと、
大仙公園の中央にあるどら池に出ます。
寒いので、顔を羽にうずめてますが、
カワウがいました。
カワウです。
どら池を周りながら、平和塔を見たところ。
平和塔の北側、正面へ周って、平和塔を見たところ。
この平和塔は、堺市が市民の渇望にこたえ、
世界の永遠の平和を念望し、郷土の戦争犠牲者の霊名を念誦し、
建設されています。
平和塔の正面の道を北へ進み、
御陵通りの手前、西側に
陪冢の狐山古墳があります。
狐山古墳は、5世紀後半築造の円墳です。
狐山古墳の横は、大仙公園の入口になっており、大仙公園 案内図がありました。
大仙公園の入口の真ん中に
地球のモニュメントがあり、正面に平和塔を見る事ができます。
大仙公園の北側、御陵通りの歩道を南東へ進みます。
陪冢の竜佐山古墳があります。
竜佐山古墳は、環濠を持つ帆立貝形の前方後円墳で、
5世紀中頃に築造されました。
西側、前方部側から古墳を見たところ。
更に進んで行き、後円部を見たところ。
御陵通りに沿って、南東へ進んで行くと、
仁徳天皇陵古墳の拝所の前の国旗が見えてきます。
仁徳天皇陵古墳の拝所の前を通り過ぎて行くと、
大仙公園内に、百舌鳥耳原由来の像があります。
日本書紀によると、
仁徳天皇がこの地へ行幸し、陵地と定め、陵の造営に着手した際に、
急に鹿が役民に向け野原から走り出て来て倒れました。
そして、百舌鳥が鹿の耳の中から飛び去り、
調べてみると、耳の中が喰いさかれていました。
よって、この地は、百舌鳥耳原と呼ばれるようになりました。
この像は、仁徳天皇と思いますが、
右手に百舌鳥を、左手は鹿の角を持っていますが、
日本書紀の話と少しギャップを感じます。
ちなみに、仁徳天皇陵古墳の正式名は、宮内庁のHPによると、
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵です。
仁徳天皇陵古墳の南東の角へ向けて歩きます。
南東の角の辺りに、陪冢の収塚古墳があります。
環濠は埋まり前方部も削られており、
円墳に見えますが、
前方部を西に向けた帆立貝形の前方後円墳です。
5世紀中頃に築造されました。
仁徳天皇陵古墳の南東の角から
環濠、西方向を見たところ。
仁徳天皇陵古墳の南東の角から
環濠、北方向を見たところ。
仁徳天皇陵古墳の南東の角から、
古墳の東側を、北上します。
進んで行くと、陪冢の塚廻古墳があります。
5世紀中頃に築造された円墳です。
仁徳天皇陵古墳の後円部の北東辺りに、
陪冢の源右衛門山古墳があります。
今は無くなってますが、
かつては環濠を持つ円墳で、
5世紀前半に築造されたものです。
仁徳天皇陵古墳の後円部の外側の環濠に沿って進むと、
大阪中央環状線を跨ぐ歩道橋があり、その上から、
仁徳天皇陵古墳の後円部を
一番外側の環濠が西へ続く様子を見たところ。
その歩道橋の上から、今、後円部の外側の環濠に沿って歩いてきた
その環濠を見たところ。
右側の小山は、
仁徳天皇陵古墳に隣接し、
一番外側の環濠と二番目の環濠の間にある円墳で、
陪冢の茶山古墳です。
茶山と言う名前は、
豊臣秀吉が、鷹狩りをした時、仮居宅を築いた山を
茶屋山と呼んだ事に由来します。
仁徳天皇陵古墳の後円部に接して北東を走る
南海電鉄の高野線に沿って南東へ帰って行くと、
南海電鉄/JRの三国ヶ丘駅が見えてきます。
JR阪和線に乗って、天王寺駅へ向かいます。
JR天王寺駅で下り、あびこ筋へ出て、
あべのハルカスを見上げたところ。
阿倍野歩道橋へ上がり、歩道橋から
北西の景色を見たところ。
下に見えるJRの線路に架かる橋は、阿倍野橋です。
中央辺りに、通天閣が見えます。
高さ300mのあべのハルカスに入り、
ハルカス300(展望台)へ向かいます。
まず、ハルカス300(展望台)のチケットカウンターがある16Fへ上がり、
チケットを購入し、展望台直行エレベーターで60Fまで上がります。
60Fへ上がる途中の展望台直行エレベーターの内部です。
ハルカス300(展望台)、60Fにある天上回廊へ到着しました。
北西側、眼下に、天王寺動物園、天王寺公園、茶臼山が見えます。
天王寺動物園の向こうには、通天閣も見えます。
中央に、難波の高層ビル群が見えます。
その右に目を移すと、
道頓堀の大観覧車えびすタワーが見えます。
中央に通天閣を見たところ。
中央に、道頓堀の大観覧車えびすタワーが見えます。
北、少し西よりを見たところ。
中央辺りに、梅田の高層ビル群が見えます。
中央辺りに、百貨店の阪急うめだ本店が入る
大阪梅田ツインタワーズ・ノースと、
阪神梅田本店が入る
大阪梅田ツインタワーズ・サウスが見えます。
梅田の高層ビル群の更に北側遠方には、
千里中央から、箕面船場方面も見えます。
その千里中央から、箕面船場方面です。
中央辺りに3つの高層ビルが見えますが、
右端は、千里中央のザ千里タワーで、
中央は、シエリアタワー千里中央で
左端は、箕面船場にある
シティゲートタワー千里中央です。
右下の黒っぽい高層ビルは、ザ北浜タワーです。
千里中央から、視線を東へ移動させると、
中央下よりに、関西大学が見えます。
白い大屋根は、千里山中央体育館です。
北を見たところ。
眼下には、天王寺動物園、天王寺公園、茶臼山が見えます。
その右、東側に谷町筋が北へ伸びています。
北、少し遠方を見たところ。
中央に見える大きな通りは、谷町筋です。
谷町筋の先の辺りに、OAPタワーが見えます。
更にその先に見える白いビルは、吹田のメロード吹田です。
そして、更に先には、
ららぽーとEXPOCITYの高さ日本一の観覧車、OSAKA WHEELや、
万博記念公園の太陽の塔も見えます。
中央下、少し左よりにOAPタワー、
その上、左よりに太陽の搭、
右上にOSAKA WHEELが見えます。
左端のビルは、吹田のメロード吹田です。
北、少し東よりを見たところ。
2本のクレーンがのっている
建設中のビルのすぐ横に、
大阪城が見えます。
北、少し東より、手前を見たところ。
四天王寺が見えます。
その四天王寺の伽藍配置を拡大して見たところ。
四天王寺は、推古天皇元年(593)に
聖徳太子によって建立された日本最古の官寺です。
南から北に、南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、
中門から北は回廊が囲む伽藍配置で、
6~7世紀の中国や、朝鮮半島の伽藍配置を現在に伝え、
四天王寺式伽藍配置と呼ばれています。
大阪空襲で焼失しており、現在の建物は、再建したものです。
東を見たところ。
大阪府と奈良県の県境に位置する
生駒山が見えます。
左下には、JR大阪環状線が見えます。
東、少し南よりを見たところ。
右側に見える高層ビルは、
シティタワーグラン天王寺です。
左下から右へ伸びている高架道路は、
天王寺バイパスです。
左下から右へ、JR阪和線が、
大きくカーブして伸びています。
シティタワーグラン天王寺の
すぐ左横から上方、東へ
近鉄南大阪線が伸びてます。
中央は、シティタワーグラン天王寺です。
左下から右へ、JR阪和線が、
大きくカーブして伸びています。
遠方には、左側に生駒山地、
中央辺りに、二上山があり、
金剛山地が右に伸びています。
南東を見たところ。
右下から中央へ、阪神高速14号松原線が伸び、
左下から、右へJR阪和線が走っています。
左側、遠くには、雄岳と雌岳の二つの頂きを持つ
二上山が見えます。
更に、金剛山地の岩橋山、葛城山、金剛山を
見渡せます。
右端の緑地は、長居公園です。
南、少し東よりを見たところ。
中央は、長居公園で、
白い建物は、ヤンマースタジアム長居です。
陸上競技、サッカー、コンサート等に
使用されています。
その長居公園です。
ヤンマースタジアム長居も良く見えます。
南、少し西よりを見たところ。
中央の緑地は、
仁徳天皇陵古墳、大仙公園、履中天皇陵古墳です。
緑地の中にたつ白い塔は、
大仙公園の中の平和塔です。
南西を見たところ。
中央を流れる川は、木津川で、
土佐堀川から別れ、途中、道頓堀川と合流して南下し、
大きく西へ回り込みながら、大阪港へ流れ出ます。
その木津川の、中央、河口付近には、
平成6年の開通当時、アーチ橋として日本最長だった
新木津川大橋が架かっています。
西、少し南よりを見たところ。
左に、大阪港に流れ出る木津川が見え、
中央に大阪港に浮かぶ咲洲が見えます。
その咲洲の中に見える高層ビルは、
コスモタワーです。
左側の高層ビルが、そのコスモタワーです。
コスモタワーには、大阪府咲洲庁舎展望台があり、
地上252mからの展望を楽しめます。
そのコスモタワーの向こう、大阪湾を隔てて
明石海峡大橋が見えます。
明石海峡大橋は、明石海峡を横断し、
本州と淡路島を結ぶ
全長3,911m、中央支間3,911mの橋で
世界最大級の吊り橋です。
西を見たところ。
左に、咲洲で、コスモタワーが見えます。
中央に、
その咲洲のある住之江区と、港区を結ぶ赤い橋、
港大橋が見えます。
港大橋は、全長980m、中央径間510mのトラス橋で、
トラス橋としての中央支間長は、日本最長です。
(訪問時点)
西、少し北よりを見たところ。
中央の緑のネットは、
大正区にある阪神ゴルフセンターです。
大正区の向こうは港区で、
中央、左よりに海遊館や天保山大観覧車が見えます。
その向こうは、此花区の舞洲で、
その左側には、2025年の大阪・関西万博予定地の
夢洲が見えます。
夢洲と舞洲は、アーチ橋の夢洲大橋で結ばれています。
そして、この夢洲大橋は、世界初の浮体式旋回可動橋で、
緊急時には、大型船舶の航行を可能にする為、
可動部を旋回する事ができます。
北西を見たところ。
左よりには、淀川河口を走る
阪神高速5号湾岸線が見えます。
中央、左よりに、
JR弁天町駅周辺に建つ高層ビルが見えます。
その高層ビルは、左から、
キングスクエア ザ・タワー ランドレックス
クロスシティ弁天町、オークプリオタワー
大阪ベイタワーが見えます。
遠方、背後には、六甲山が見えます。
最上階の60Fからは、外だけでなく、
吹き抜けになっているハルカス300の内側、
58F~60Fの様子も見下ろせます。
60Fは、天上回廊で広大な景色を一望できます。
59Fは、ハルカス300グッズ等を販売するショップで
買い物ができます。
そして、58Fは、上空まで吹き抜けの天空庭園になってます。
58Fへ下りて、天空庭園へ出たところ。
天空庭園の南側では、
「囲むdeこたつ」と銘打った
こたつ席が設けられていました。
ここで、しゃぶしゃぶや、おでんを
食べる事ができます。
帰りは59Fから、エレベーターに乗って、16Fへ下ります。
そのエレベーターの中です。
エレベータの中です。
ハルカス300から、16Fへ下りて、
16Fにある屋外庭園に出て見ます。
16Fの屋外庭園から、
あべのハルカスを見上げたところ。
16Fにある屋外庭園です。
16Fの屋外庭園にあった月の装飾です。
16Fの屋外庭園から下りて、
阿倍野歩道橋から、西を見たところ。
少し早いですが、
宿泊するホテルへチェックインし、一休みします。
夕食は、長い間、会えてなかった大阪に住む妹と
心斎橋で食事をしました。
会えてよかった。