長年勤めた会社を退職し、自分で自分を労う意味を込めて、三泊四日で大阪へ出かけてきました。
広島を始発の新幹線 のぞみ74号で、大阪へ向かい、
初日は、住吉大社、世界遺産の仁徳天皇陵、あべのハルカスを訪問し、
二日目は、難波宮跡、大阪城、大阪天満宮、四天王寺を訪問し、
夜は梅田スカイからの夜景を見に出かけて来ました。
二日目、早朝にホテルを出て、阿倍野歩道橋から、
北西に通天閣を見たところ。
そして、阿倍野橋の下を通るJRの線路を
見下ろしたところ。
丁度、JR天王寺駅を発着する電車が、
通過して行きます。
JR天王寺駅へ向け、電車が入って来るところ。
阿倍野歩道橋から南側、あべの筋を見たところ。
道路の中央を阪堺線が通っており、
天王寺駅前駅が見えます。
大阪メトロ 谷町線に乗って、
谷町四丁目駅で下ります。
そして、中央大通りを東へ向かうと、
右手、南側に難波宮跡が見えてきます。
難波宮跡の南の入口へ周って、
難波宮跡へ入って行きます。
南の入口から、難波宮跡へ入って行きます。
難波宮(なにわのみや)は、
前期と後期の2回に分かれて、
造営されています。
南から、難波宮跡へ入り、北西方向を見たところ。
大化元年(645)、孝徳天皇が即位し、
大化の改新が始まり、
都は飛鳥から難波宮へうつされます。
前期難波宮の始まりです。
そして、655年に斉明天皇が即位し、
都は、飛鳥板蓋宮へ戻ります。
天武天皇の時代は、
飛鳥と並び、難波も都と定められましたが、
686年に焼失します。
南から、難波宮跡へ入り、北を見たところ。
後期難波宮は、
奈良時代、726年から聖武天皇によって、
前期難波宮と同じ場所で、造営されます。
但し、聖武天皇の本拠は平城京であり、
副都だったと考えられています。
前方に、大極殿の基壇を、見たところ。
現在、復元されている大極殿の基壇は、
後期難波宮の物です。
北西には、難波宮跡公園の向こうに、
ベージュ色の大阪歴史博物館が見えます。
大阪歴史博物館の10階には、
大極殿の建物の内部が復元されています。
その隣は、NHK大阪放送会館です。
この放送会館は、
大阪歴史博物館と共同で建設した複合施設に
なっています。
その大極殿の基壇を、南正面から見たところ。
基壇に向けた石畳の手前に、横に石畳があります。
大極殿南門跡です。
この南門から、大極殿を囲むように
回廊が伸びていました。
そして、この南門の南側には、広場があり、
その左右には、
政治、儀式の為の建物、朝堂が4堂づつ、
計8堂が建ち並び、
その朝堂を囲んだ朝堂院と呼ばれるエリアが
ありました。
大極殿の基壇へ、南正面から近づいて行き、
その大極殿南門跡から基壇を見たところ。
空を見上げると、
伊丹の大阪国際空港へ向かう飛行機でしょうか?
頻繁に飛行機が、同じ方向に飛んで行きます。
ズームして、飛行機を撮影したところ。
大極殿の基壇に上がり、南西の角から、
基壇上部全体を見渡したところ。
大極殿は、難波宮の中心の建物で、
東西約42m、南北約21m、高さ約2mの
基壇の上に礎石を置き、
9間 x 4問(東西35.2m、南北14.8m)の瓦葺で、
丹塗の柱と白壁の建物でした。
内部には政治や儀式の際に
天皇が出御する高御座が設置されていました。
南東の角から、基壇上部全体を見渡したところ。
基壇上部、中央の南の端から、北を見たところ。
大極殿の基壇の北側に、
もう一つ小さな基壇があります。
大極殿後殿の基壇です。
大極殿の基壇上部、中央の北の端から、
南を見たところ。
その基壇の中心部には、
石で方形に縁どられた場所がありました。
天皇が出御する高御座の跡かな?
大極殿後殿の基壇の上から南、
大極殿の基壇を見たところ。
大極殿後殿の基壇の北側を東西に走る
中央大通りの歩道から、大極殿後殿の基壇、
その向こう側に、大極殿の基壇を見たところ。
大極殿後殿の基壇の上、西の端から、
南西を見たところ。
砂利のエリアは、
大極殿南門から大極殿後殿にかけて、
回廊で大極殿を囲んだ
大極殿院と呼ばれるエリアです。
大極殿後殿の基壇の上、東の端から、
南東を見たところ。
大極殿後殿の基壇の西側には、
赤いレンガで整備された回廊跡がありました。
赤いレンガで整備された復元遺構跡は、
前期難波宮の物です。
赤いレンガで整備された復元遺構跡の上を、
西へ進みます。
西へ進んで行くと、復元遺構跡は、南へ折れ、
南へ伸びています。
前期難波宮の朝堂院西廻廊跡です。
柱の跡が残ってますが、
前期難波宮の全ての建物は、堀立柱で、
屋根には瓦を葺かない建物でした。
難波宮跡公園の北西角にある入口に向かいます。
その入口の脇にあった史跡 難波宮跡の説明です。
その説明の裏側には、遺跡の概要説明がありました。
難波宮跡公園の北西角にある、
東西に走る中央大通りと、
南北に走る上町筋の交差点、法円坂交差点を
大阪歴史博物館側へ渡ります。
中央大通りに架かる歩道橋の上から南東、
法円坂交差点、そして、その向こうに
難波宮跡公園を見たところ。
中央大通りに架かる歩道橋を渡りながら北東、
大阪城方向を見たところ。
大阪城の向こうには、
OBP(大阪ビジネスパーク)の高層ビル群が
見えます。
中央大通りに架かる歩道橋を
法円坂交差点の北西角へ渡り終えた場所も
難波宮跡公園の一部になってます。
その公園の際に建つビルを見上げたところ。
右が大阪歴史博物館で、左がNHK大阪放送会館です。
大阪歴史博物館とNHK放送会館は、
ビルの下部でつながっているように見えます。
これは、二つのビルは、複合施設として共同で建設されており、
関西の多様な文化、芸能を発信する情報発信拠点になっています。
大阪歴史博物館です。
NHK大阪放送会館です。
難波宮跡公園の入口を入ると
竹内街道・横大路(大道)の説明がありました。
日本書紀の推古天皇21年(613)の条に
「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
と記され、
難波津から飛鳥へ向かう大道とルートが重なり、
飛鳥時代に中国や朝鮮半島のすぐれた大陸文化は、
この大道を通って飛鳥の都へもたらされました。
日本最古の官道と呼ばれています。
そして、この付近には、
大型の倉庫群があったようです。
大阪歴史博物館の南側に、
その倉庫の建物が、復元展示されています。
大型倉庫群の説明です。
大阪歴史博物館の南側で、
東の6棟、西の10棟に分かれ、
東西に整然と並んだ倭王権直属の
倉庫群跡が見つかってます。
このスケッチを見ると
上町台地の倉庫群の
西から北にかけ海が迫ってます。
上町台地を下りて行くと、
王権によって開削された運河の
難波堀江(現在の大川)に至り、
古代の国際港として堀削された
難波津がありました。
この地は、海外交流の拠点であり、
物資の一大集積地として発達し、
大型倉庫が建てられたと
考えられています。
大型倉庫群の発掘調査の
現場の写真です。
復元された倉庫の建物です。
当時の建物の柱の位置も再現されています。
復元された倉庫の建物の
横にあった
5世紀の大型高床建物群の
説明です。
これらの建物は、
5世紀後半頃に
建てられたもので、
一棟あたりの規模は、
桁行(幅)が約10m、
梁行(奥行)は約9mで、
面積は約90㎡と、
当時としては、
極めて大規模な建物でした。
柱の配置の特徴から、
屋根は入母屋造りだったと
考えられています。
復元された高床式倉庫を、
正面から見たところ。
復元された高床式倉庫を、
南東から斜めに見たところ。
また、飛行機が飛んで来ました。
大阪歴史博物館の東側横を北へ抜け、
ふり返って見たところ。
左が大阪歴史博物館で、右がNHK大阪放送会館です。
大阪歴史博物館の北側を東西に走る本町通りを渡って、
ふり返ったところ。
左が大阪歴史博物館で、右がNHK大阪放送会館です。
大阪歴史博物館の北側、本町通りを挟んだ反対側に、
大阪府警察本部本庁舎があります。
大阪歴史博物館や、大阪府警察本部本庁舎の東側を
南北に走る上町筋を大阪城公園へ渡ります。
上町筋の東側、大阪城公園から、大阪歴史博物館を見たところ。
上町筋の東側、大阪城公園から、
大阪府警察本部本庁舎を見たところ。
大阪府警察本部から、上町筋を東へ渡った大阪城公園の南西入口にあった大阪城公園案内図です。
まず、最初に、
大阪城公園の南外堀の南側、南西に位置する
教育塔へ行ってみます。
教育塔は、
昭和9年(1934)の第一次室戸台風によって、
多くの犠牲者を出した事を機に、
二度とこのような惨事が起こらない事を願って、
子ども、教職員を追悼し、
その名を永くとどめようと建造されました。
教育塔です。
台風や、震災により被災した子供たちや、教職員が
合祀されています。
南外堀です。
石垣の上に見える隅櫓は、六番櫓です。
大阪城の天下普請は、
元和6年(1620)から寛永7年(1630)の間に
行われましたが、
六番櫓は、西側の懸魚の裏に
「寛永五歴辰拾月吉日」と記されており、
寛永5年(1628)に造営されたものと
判明しています。
南外堀は、西の端で北に折れ曲がっています。
正面には、大手門へ渡る大手口の土橋が見えます。
南外堀の説明がありました。
南外堀は、二の丸の南に位置し、
西は大手口から、東は玉造口まで続き、
堀の最大幅は75mあります。
内側の石垣の上には、
東から、一番櫓から七番櫓まで、
七棟の隅櫓がありましたが、
明治維新の大火で、四番、五番、七番を焼失し、
第二次世界大戦の空襲で二番、三番を失い、
現在は一番と六番が残ります。
南外堀が、西の端で北に折れ曲がってます。
左端は、大手門へ渡る大手口の土橋です。
右端の石垣の角、その上には、
七番櫓がたってましたが、
明治維新の大火で焼失してます。
外堀に沿って、大手口の土橋へ向け進みます。
大手口土橋が大手門へ向け続いており、
大手門の向こうに、大手口を守る多聞櫓が見えます。
また、中央、左より、土橋の向こうは、
千貫櫓です。
大手口土橋の手前にあった大阪城公園案内図です。
大手口土橋です。
土橋を西から東へ渡って行くと、
正面に大手門があります。
中央、右よりに、大手口を守る
多聞櫓が見えます。
中央、左よりに、千貫櫓が見えます。
この千貫櫓は、土橋を渡って攻めてくる敵に、
側面から横矢を射かける事ができます。
大手口土橋を渡りながら、
土橋の北側の外堀を見たところ。
西外堀です。
右端に大手門が見えます。
中央は、大手口を守る多門櫓です。
大手門です。
大手門は、高麗門形式の門で、
寛永5年(1628)に、
徳川幕府による天下普請によって
創建されたものが残っています。
ちなみに、
豊臣時代の大阪城は、埋め立てられており、
大手門に限らず、現存していません。
大手門を入ると、枡形になっており、
東側、正面に巨石が三つ並んでます。
特に、中央の巨石は、大手見付石と呼ばれ、
高さ5.1m、幅11.0mで、大阪城第4位の巨石です。
左の巨石は、二番石で第5位、
右は三番石で第8位の大きさです。
採石地は、小豆島の大阪城石垣石切・千軒丁場跡
と言う事です。
左が、大手見付石で、その右側が三番石です。
大手見付石の前にあった
大手口桝形の巨石の説明です。
大手口枡形の南側の土塀です。
この土塀は、旧陸軍による
コンクリート造りのものですが、
かつては、多聞櫓が建っていました。
その多聞櫓では、
定期的に商人の入場が許可され、
城に詰める旗本(大番衆)が日用品を調達する為の
市が開かれており、市多聞と呼ばれていました。
その市多聞は、明治維新の大火で焼失しましたが、
現在は、雁木の上に礎石が残っています。
左側が、枡形南側の土塀で、
かつての市多聞の跡です。
右側は、大手門南方塀です。
大手門を挟んで、土塀が続き、
南側は南方塀、北側は北方塀と呼ばれています。
外堀に面した石垣に巨石が使用されていますが、
枡形の内側は、雁木となっており、
土塀を支える控え柱が建っています。
土塀と、雁木の境に、笠石銃眼が設置されています。
大手門を入り、左へ折れると、大門があります。
その上を多聞櫓が通っています。
その多門櫓は、枡形東側の続櫓へと続いています。
続櫓の下の石垣には、
大手見付石等、三つの巨石が並んでいます。
大門の上に多聞櫓が通り、
いわゆる、渡櫓になってます。
渡櫓の前面には、鉄板張りの格子窓があり、
鉄砲を撃つことができるようになってます。
また、写真ではわかりませんが、
下を通る敵を攻撃する為の
槍落としが設置されています。
大門を北に抜けると、西側に千貫櫓が見えます。
千貫櫓は、
大手門へ向け、土橋を渡って攻めてくる敵に、
側面から横矢を射かけ守る役目がありました。
千貫櫓は、戦後の解体修理の際、
墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と
棟上げ式の日を記した部材見つかっており、
乾櫓と同様に大阪城最古の建造物です。
大門を抜けて、大門をふり返ったところ。
大門です。
大門の上には、多聞櫓が通ってます。
大門を抜けると北側に、
西の丸庭園がありますが、入らずに、
二の丸の中を道なりに南東へ進みます。
太鼓櫓跡の手前で、
本丸の西に位置する空堀を見たところ。
大阪城の内堀は、
南側とそれに続く西側半分は、空堀で、
東側、北側、それに続く西側半分が
水堀になってます。
この空堀は、大坂の陣で、
徳川方によって埋め立てられたのではなく、
最初から空堀であったと言う事です。
本丸の南側の空堀です。
中央は、本丸への入口、桜門へ渡る土橋です。
そして、南仕切門跡・太鼓櫓跡です。
ここは、南仕切門と言う門の跡で、
西側の石垣の上に、二層の太鼓櫓がありました。
太鼓櫓には、太鼓坊主と呼ばれる僧形の役人が
交代で詰め、香を焚いて時刻を計り、太鼓をたたいて、
城内勤務の大名や旗本以下の招集や交替の時を、
または、緊急を知らせていました。
南仕切門の東側の石垣と、
その前にあった南仕切門跡・太鼓櫓跡の説明です。
南仕切門跡を南へ抜けて、ふり返ったところ。
南仕切門跡を中へ入って、南へ進むと、
石山本願寺推定地の碑があります。
明応五年(1496)に、本願寺八世蓮如が、
法安寺の東側、生玉庄に大阪坊舎を建立しました。
その後、六角定頼と法華宗徒により、
山科本願寺が焼き討ちされるに及び、
本願寺教団の本拠として石山本願寺に
発展しました。
そして、十一世顕如の時代に、
織田信長との石山合戦により、石山本願寺を退去し、
最終的に京都堀川に本拠を移す事になります。
そして、石山本願寺跡には、
豊臣秀吉によって大阪城が築かれ、
大阪の陣の後には、徳川大阪城が築かれ、
大きな地形的変動も加えられたことから、
正確な場所は確認できていません。
二の丸の内堀、南西の角から、
本丸の石垣越しに見える天守閣を見たところ。
二の丸の内堀、南西の角から、東を見たところ。
右側に、
内堀を横切って、桜門へ続く、土橋が見えます。
内堀に沿って、その土橋に向け歩きながら、
西を見たところ。
左よりに、南仕切門跡が見えます。
右は、本丸の石垣です。
桜門に続く土橋です。
正面に桜門が見えます。
桜門に続く土橋の南橋詰から、東を見たところ。
本丸の石垣の上に煉瓦の建物が見えます。
MIRAIZA OSAKA-JO(旧第四師団司令部庁舎)です。
桜門に続く土橋を北へ、本丸に向け渡りながら、
正面の桜門を見たところ。
桜門を通して、天守閣が見えます。
桜門です。
豊臣時代、二の丸の桜の馬場にあった桜並木の近くに、
門があった事から、桜門と呼ばれるようになりました。
徳川の天下普請で門の場所も変わりましたが、
桜門と呼ばれています。
そして、桜門は、明治維新の大火で焼失しましたが、
扉の角の金具にイギリス製のものが、使用されている事から、
陸軍によって修築再建されたものとわかってます。
桜門を中に入り、桜門をふり返ったところ。
桜門は、高麗門形式の門になってます。
桜門を入って、すぐ左手、西側に、
銀明水井戸の井筒があります。
この井筒は、亀裂が入り、3つに分離していますが、
もともと一石を刳り貫いて造られたものです。
本丸御殿の台所東北隅にありましたが、
移転されたもので、
今は手水として使用されています。
桜門を入った正面に蛸石があります。
桜門を中へ入ると、
大手門と同様に、枡形が形成されており、
この蛸石を含む巨石の上には、
多聞櫓が連なっていました。
多聞櫓は、明治維新の大火で焼失しています。
蛸石です。
石の表面の模様から、蛸石と呼ばれています。
高さ5.5m、幅11.7mあり、大阪城で最も大きい
巨石です。
桜門の枡形を抜けて、ふり返って見たところ。
門の上には、渡櫓が通り、
多聞櫓が連なっていました。
ちなみに、大阪夏の陣で、
この桜門に一番旗をたてたのは、
鬼日向と恐れられ、初代福山藩主となった
水野勝成でした。
枡形を抜けて北を見ると、天守閣が見えます。
そして、右手、東側に、
天守閣のそばで、今まで知らなかった
大阪城を感じる事ができる施設、
MIRAIZA OSAKA-JOがあります。
この建物は、昭和天皇の即位を記念し、
昭和6年(1931)に、大阪城天守閣の再建と合わせて、
第四師団司令部庁舎として建設されたものです。
大阪城の天守閣を南、少し東よりから見たところ。
豊臣期の大阪城は、
慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、
豊臣方は敗れ落城します。
その後、豊臣期の大阪城は、
完全に埋め立てられ、その盛土の上に、
徳川家により、元和6年(1620)からの天下普請で
徳川大阪城が再築されます。
しかし、寛文5年(1665)、天守への落雷によって、
天守閣を失なってしまいます。
天守閣を、南正面から見たところ。
目の前は、
1970年に大阪で開催された
日本万国博覧会を記念して埋められた
タイムカプセルが埋設された場所です。
左がタイムカプセルの埋設場所で、
右がその説明です。
「人類の進歩と調和」をテーマとした
日本万国博覧会を記念して、
毎日新聞と松下電器産業株式会社が
同じ内容のカプセル2個を完成し、
この地下15mに埋設されています。
世界の平和と繁栄を信じて、
5000年後の人類に残されています。
天守閣に向け、進みます。
徳川大阪城の天守閣を落雷で失って以降、
長い間、天守閣が無い時代が続きますが、
昭和6年(1931)に、鉄筋コンクリート製の
現在の天守が再建されます。
この天守閣の外観は、
「太閤秀吉の城を復興する」と言う意識のもと、
「大阪夏の陣図屏風」等の資料を参考に再建されています。
その天守閣に向け、進みます。
天守閣への入場チケットを買って、入場します。
天守閣への階段を上りながら、天守閣を見上げたところ。
階段を上って行くと、小天守台に
金明水井戸屋形があります。
井筒は、一つ石を刳り貫いてつくられています。
豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めた
と言う伝説がありましたが、
調査の結果、徳川の天下普請で
寛永3年(1626)に屋形が創建された事
がわかってます。
天守閣に入り、2Fを見て周ります。
2Fには、天守閣を装飾する
鯱、伏虎の原寸大レプリカがあります。
その再現は、豊臣秀吉のお抱え絵師の
狩野山楽の伏虎図を参考にしています。
伏虎は、天守閣最上階の高欄下の外壁に
東西南北4面に2頭づつ配されています。
ここに展示されている伏虎は、
その東面、向かって右側の伏虎のレプリカです。
天守閣の一番上に飾られている阿形(雄)の鯱瓦のレプリカです。
青銅製の鋳物に金箔を貼付けてつくらっれており、
昭和6年(1931)に推定復元されたものです。
その他、
昭和34年(1959)の
大阪城総合学術調査の
展示もあります。
大阪城内刻印石
所在地図です。
全城壁の50万個を超す
石の表面を調べ、
5~6万個の
刻印の詳細が明らかに
されています。
しかし、石田三成や
小西行長など、
関ケ原合戦で滅んだ
大名の家紋、家印の
刻印はひとつもなく、
幕府が再築時、
石垣をすべて
根石から新規に
積み上げた事が
わかっています。
豊臣・徳川大阪城本丸の
平面重ね合わせ図です。
その大阪城総合学術調査の中で、
本丸の地下7.3mの地点から、
下方に続く古い"謎の石垣"が
発見されました。
そして、調査の結果、
その石垣は、豊臣大阪城の本丸の石垣だと
わかっています。
そして、調査結果からわかった
南側から見た豊臣・徳川大阪城本丸の比較断面図です。
この比較断面図を見ると、豊臣秀吉によって築城され、大阪夏の陣で落城した豊臣期の大阪城は、
徳川幕府によって埋め立てられ、その上に徳川大阪城が再築されている事がわかります。
そして、大阪城の大きさがわかる数字がまとめられています。
3Fは、写真撮影禁止エリアで、黄金の茶室原寸大模型や、豊臣、徳川大阪城復元模型、等が
展示されています。
4Fも、写真撮影禁止エリアで、豊臣秀吉ゆかりの品々をはじめとし、
戦国時代や大阪城にまつわる資料が展示されています。
5Fでは、大阪夏の陣図屏風の世界が、映像とミニチュア模型で紹介されています。
大阪夏の陣図
屏風(右隻の一部)と
ミニチュア模型
です。
合戦の舞台は、
天王寺駅の
北側にある
上町台地と
呼ばれる
細長い丘陵地
です。
赤備えの一軍は、
四天王寺西門の
石鳥居の前に
陣取る豊臣方の
真田幸村隊です。
一時は、
徳川家康の本陣を
蹂躙するほどの
攻撃を見せます。
真田隊の左側は、
豊臣家を
最後まで支えた
大野治長隊です。
一方、これに対する徳川方は、
家康の孫、松平忠直率いる越前兵です。
豊臣方の首級3750を挙げて、
大阪城一番乗りを果たし、
諸侯中線功第一と称されました。
両軍の激突は、慶長20年(1615)5月7日、
最後の決戦のクライマックスシーンとして、
大阪夏の陣図屏風の右隻のほぼ中央に
描かれています。
大阪夏の陣図屏風に描かれた武将たちの
紹介がありました。
豊臣方の武将の紹介です。
大阪夏の陣図屏風の右隻です。
中央辺りに、四天王寺西門の石鳥居の前に陣取る豊臣方、赤備えの真田幸村隊がいます。
その後方に、大野治長隊がおり、更に後方に大阪城が見えます。
次は、徳川方の武将の紹介です。
次の6Fは、回廊のみで立ち入り不可の為、7Fへ向かいます。
7Fは、豊臣秀吉の生涯の展示があります。
そして、8Fの展望台です。
西を見たところ。
内堀の向こうに、西の丸庭園が見えます。
右側の大きな屋根の建物は、大阪迎賓館です。
大阪迎賓館は、1995年のAPEC95の開催に向け、
京都二条城白書院を模してつくられました。
また、2019年のG20大阪サミットの
晩餐会会場にも選ばれ、各国要人を
もてなしています。
西、少し北よりに目を移したところ。
西の丸庭園の中、中央、少し左よりの大きな屋根は、
大阪迎賓館です。
その向こう、西の丸の端に、乾櫓が見えます。
乾櫓の乾は、西北を意味し、
大阪城の西北に位置します。
大棟の瓦に
「元和6年申ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」と
記されたへら書きが見つかっており、
千貫櫓と同様に大阪城最古の建造物です。
北西を見たところ。
中央下、天守閣の陰に、姫門跡とその枡形跡があり、
その姫門を出たところに、山里口出枡形跡が
見えます。
中央上部、少し左よりのビルは、
24年5月にオープンするテレビ大阪新本社ビルです。
北西、遠方に梅田の高層ビル群が見えます。
左の白いビルは、梅田ツインタワーズ・ノースで、
その右横は、梅田ガーデンです。
そして、その横には、
グランフロント大阪のインターコンチネンタルホテルが入る北館や、
オーナーズタワーも見えます。
そのビル群の間に、赤いHEV FIVE観覧車も見えます。
北西、少し北よりを見たところ。
左端の白いビルは、24年5月にオープンする
テレビ大阪新本社ビルです。
中央辺りには、
旧大阪砲兵工廠科学分析場の遺構が見えます。
赤レンガを用いたネオ・ルネッサンス風の建物で、
ここで兵器の研究開発や化学実験が
行われていました。
その遺構の向こうに見える川は、大川で、
その大川に架かる斜張橋は、川崎橋です。
北を見たところ。
左下は、山里出口枡形で、右が山里丸です。
山里出口枡形は、
本丸と山里丸を結ぶ経路上に設けられた枡形で、
徳川大阪城再築時に築かれました。
北、遠方を見たところ。
中央、左よりに見える鴻巣ビルは、OAPタワーです。
(OAPは、大阪アメニティパークの略)
中央を流れる川は、旧淀川の大川です。
現在の淀川から、毛馬水門で大川が南へ分かれ、
大阪城の北で寝屋川と合流し、西へ流れを変えます。
その後、堂島川、土佐堀川に分かれます。
その大川に架かる桜宮橋(銀橋)と、
その北側の新桜宮橋(新銀橋)が重なって見えます。
左の高層ビルは、OAPタワーです。
中央右よりの高層ビルは、
桜宮リバーシティ・ウォータータワーです。
OAPタワーの下に、造幣局本局が見えます。
北東、OBP(大坂ビジネスパーク)方向を見たところ。
左端の空を映して空に溶けこみそうな高層ビルは、
クリスタルタワーです。
右よりに見える水色の丸い屋根は、
西日本最大級の多目的ホールの
大阪城ホールです。
北東、OBP(大阪ビジネスパーク)方向を
見たところ。
東を見たところ。
中央に大阪城東外堀が見えます。
その東外堀の向こう、左よりに、
大阪城野球場、太陽の広場が見えます。
東外堀の手前、外堀に沿って、
ピンクに染まった梅林が見えます。
遠方には、生駒山が見えます。
東、少し南よりを見たところ。
左に東外堀が見え、
その手前に梅林が広がってます。
南、少し東より、本丸を見たところ。
中央には、旧第四師団司令部庁舎で、
現在のMIRAIZA OSAKA-JOが見えます。
MIRAIZA OSAKA-JOの向こうには、
二の丸、南外堀に沿って建つ一番櫓の屋根が
見えます。
MIRAIZA OSAKA-JOのの手前には、
なまこ壁の金蔵も見えます。
一番櫓は、徳川幕府の天下普請によって、
寛永5年(1628)頃の創建です。
金蔵は、徳川幕府の金貨、銀貨の保管庫で、
宝暦元年(1751)に創建されました。
南を見たところ。
眼下には本丸跡が広がります。
そして、鯱の尾鰭の先には、二の丸跡に、
柔道、剣道、なぎなた、弓道、等、武道の
普及振興を図る為に創建された大阪市立修道館の
緑の屋根が見えます。
その左隣には、豊国神社があります。
大阪市立修道館の向こうには、
20階建ての最高級ホテル、
パティーナ大阪が、'25年開業予定で建設中です。
天守閣正面の視界が悪くなるのが気がかりです。
南、少し西よりを見たところ。
左に緑の大屋根の大阪市立修道館が見え、
その右側、中央辺りに六番櫓が見えます。
六番櫓は、徳川幕府によって、
寛永5年(1628)に創建されたものです。
左端の建設中のビルは、
'25年開業予定のパティーナ大阪です。
その右側に見える緑地は、難波宮跡です。
遠方には、あべのハルカスや、
中央右よりには、小さく通天閣も見えます。
その通天閣をズームアップして見たところ。
通天閣は、明治45年(1912)に
当時、日本一の高さ250尺の
初代通天閣が誕生しました。
しかし、昭和18年(1943)に
火事のもらい火に巻き込まれ、
解体の運命をたどりました。
その後、塔の高さ約103mの二代目通天閣が、
昭和31年(1956)に完成します。
塔の高さでは名古屋テレビ等に及びませんが、
展望台の高さは日本一だったようです。
西へ視線を移すと、
大阪城公園の南西角に、
大坂歴史博物館、NHK大阪放送会館や、
大阪府警察本部本庁舎が見えます。
南西を見たところ。
中央に、大坂歴史博物館、NHK大阪放送会館や、
大阪府警察本部本庁舎を見たところ。
8Fの内部には、昔の大阪の風景として、
歌川(五雲亭)貞秀(1807-1879)の「大阪名所一覧<九枚続>」の展示がありました。
右側が大阪城で、
大手口からの
大名行列の
登城風景で
しょうか?
旧淀川、
現在の大川が、
大阪城の北側で
蛇行し、その後、
西の大阪湾へ向け
流れています。
大川の中央に
中之島が描かれ、大川は大川(堂島川)と土佐堀川に分かれています。
また、大川から分かれた東横堀が南へ向け流れています。
絵をよく見ると、曽根崎天神、天神橋、天満橋、等の文字が見えます。
大川(堂島川)と
土佐堀川は合流し、
安治川として、
大阪湾へ
そそぎます。
安治川の河口には、
天保山が見えます。
また、
南流する東横堀は、
長堀や道頓堀
となって西流し、
安治川から分かれて南流する木津川に合流して大阪湾へそそぎます。
大坂の町を流れる川、運河を渡る為に多くの橋が架けられ、
浪華八百屋橋と呼ばれた町の様子をうかがう事ができます。
天守閣を下りて、外に出ると、
南側の小天守台に金明水井戸屋形があります。
天守閣の下から、天守閣を見上げたところ。
天守閣の前には、大砲があります。
元々、天保山の砲台にあった大砲で、
文久3年(1863)に制作された青銅製大砲です。
明治維新後に大阪城へ運ばれ、
旧陸軍によって空砲を時報として使用された事から、
「お城のドン」と呼ばれています。
天守閣の天守台の前にあった残念石です。
元和6年(1620)から始まった天下普請で
用材石として使用される予定だった多くの石が、
小豆島には割られたまま使用されずに残されており、
残念石と呼ばれています。
天守閣を南西から見たところ。
天守閣には、足が不自由な方の為に、
エレベーターが設置されています。
本丸の西の石垣の際まで行って、
内堀を見下ろしたところ。
本丸の西の端、南西から、天守閣を見たところ。
天守閣に近づいて、
南西、天守閣の下から、見上げたところ。
本丸の石垣の西の端から、
内堀を見下ろしたところ。
西側の内堀は、
南半分が空堀で、北半分が水堀です。
その空堀と水堀の堺が見えます。
天守閣の西側から、天守閣を見上げたところ。
天守閣の西側から、天守下仕切門跡を出て、
北側に周り、
本丸の北側の石垣の上から、
北を見たところ。
眼下に、山里丸、そして、
その山里丸と二の丸を結ぶ橋、
極楽橋が見えます。
本丸の北側の石垣の上から、
西側に山里口出枡形跡を見たところ。
そして、天守閣の北西に位置する
姫門跡に向かいます。
姫門跡です。
両側の石垣の上には、渡櫓が乗り、多聞櫓が続いて、
枡形が形成されていたのだと想像します。
姫門を抜けて、山里口出枡形跡から、天守閣をふり返ったところ。
天守閣の下に姫門跡が見えます。
山里口出枡形跡の石垣の北西角から、
内堀北側を見下ろしたところ。
山里口出枡形跡の石垣の北西角から、
西を見たところ。
内堀の向こうに、
西の丸と二の丸を南北に仕切る石垣の門、
北仕切門が見えます。
山里口出枡形跡の石垣の上から、
山里丸を見下ろしたところ。
中央に刻印石広場が見えます。
徳川大阪城の再築は、
西日本69藩の諸大名に命じ、
担当する普請場の工事を競わせながら進める
天下普請で行われました。
石垣の石は、各藩で準備した石を使用しており、
石集めや石積みの過程や、完成した石垣の表面に
担当大名の家紋などが刻印されています。
山里口出枡形跡から、山里丸へ坂を下ります。
坂を下ったところに、刻印石広場があります。
刻印石広場です。
刻印石広場の碑が建ってます。
刻印と、どこの藩の刻印か、整理した表があります。
刻印石です。
刻印石。
刻印石。
山里丸の刻印石広場の前を過ぎて、
山里丸の東側のエリアへ移動します。
内堀に面した北東の石垣の上から、
内堀を見下ろしたところ。
山里丸の北東の石垣の上から、天守閣を見上げたところ。
左は、天守閣で、右は山里口門跡です。
山里口門跡の横から、天守閣を見上げたところ。
山里口門跡を見たところ。
山里口門跡を出ると、枡形になっています。
その枡形から、
山里口門跡をふり返って見たところ。
山里口門跡を出たところにある枡形です。
この枡形から、内堀を渡り、二の丸へ続く
極楽橋が架かってます。
極楽橋の山里口側の袂です。
極楽橋を渡り、二の丸へ向かいます。
極楽橋を渡りながら、内堀の東側を見ていると、
お堀めぐりの御座船がやってきました。
御座船は、極楽橋の下をくぐり、
内堀の西側へ周って行きます。
極楽橋を渡り、天守閣をふり返ったところ。
ちなみに、この極楽橋は、
石山本願寺時代には存在しており、
豊臣大阪城から、現在の大阪城まで、
橋の名称が引き継がれてきています。
極楽橋を渡り、内堀に沿って、
南東へ向け進んで行くと、
青屋門があります。
青屋門へ向かいながら、
北東から天守閣をふり返ったところ。
天守閣最上階の高欄下の外壁には、
伏虎が睨みをきかせています。
この東面右側の伏虎のレプリカが、
天守閣2Fに展示されています。
青屋門の前から、本丸東面の石垣を見たところ。
この志垣の高さは32mあり、
日本一の高さと言う事です。
青屋門を、内側正面から見たところ。
そして、青屋門を外に出て、
青屋門をふり返って見たところ。
青屋門を出ると、枡形になってます。
その枡形を出て、ふり返ったところ。
その枡形は、外堀を北外堀と東外堀に
分け隔ててます。
枡形を出たところから、北外堀を見たところ。
左側は、二の丸です。
反対側には、東外堀が続いてます。
再び、二の丸へ戻る為に、
今出てきた枡形へ入ります。
枡形です。
その向こうに青屋門が見えます。
青屋門を入った二の丸から天守閣を見たところ。
二の丸の中を南に向かいます。
南へ進んで行くと、
大阪城梅林の標柱がたってます。
ここは、梅林の北側の入口です。
その梅林へ入って行きます。
梅の花が咲いています。
梅林の中から、西に天守閣を見たところ。
その天守閣です。
梅林の南側にも、
大阪城梅林の標柱がたってました。
二の丸の中の坂道を、
南へ、内堀に沿って上って行きます。
内堀の東側は水堀ですが、南側は空堀です。
その堺が前方に見えています。
内堀をふり返って見ると、
お堀めぐりの御座船が、
内堀の東側までやって来てました。
南へ向けて坂道を上りながら、
天守閣をふり返って見たところ。
内堀を見たところ。
御座船が、北へ向けて帰って行きます。
内堀の南側は、空堀になってます。
南側の空堀です。
二の丸の中を、
内堀に沿って、南へ坂道を上って行くと、
坂道の先に豊国神社の東側にたつ
裏鳥居があります。
豊国神社の裏鳥居です。
表からお参りする為に、
豊国神社の西側の入口に向かいます。。
豊国神社の西側の入口へ向かう途中、
朝通った桜門が見えます。
桜門と、桜門へ続く土橋です。
桜門の南側に、豊国神社への入口があり、
入って行きます。
表鳥居です。
その先に、豊臣秀吉公の像があり、
その向こうに、ニノ鳥居が見えます。
豊臣秀吉公の像です。
その向こうに、ニノ鳥居、更に向こうに拝殿が見えます。
豊臣秀吉公の像を、正面から見たところ。
明治36年に大阪城内に秀吉公の像が建立されていましたが、
戦局の激化による物資不足を補う為、
昭和18年の金属回収令で供出されてしまいます。
その後、再建を望む声が絶えず、平成19年に再建されました。
この像は、旧像の大きさや姿を踏襲しつつ、
新たな時代考証の矛盾点を修正し、復元されています。
右手に軍配を、左手に刀を持ち、陣羽織を羽織っています。
豊臣秀吉公の像を、後ろから見たところ。
豊臣秀吉公の像を、横から見たところ。
ニノ鳥居を、西、正面から見たところ。
ニノ鳥居をくぐって、
ニノ鳥居をふり返って見たところ。
ニノ鳥居の向こうに、豊臣秀吉公の像が見えます。
また、右に表鳥居が見えます。
ニノ鳥居をくぐると、
正面に拝殿があり、その奥に本殿があります。
祭神は、豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、豊臣秀長公です。
明治元年(1868)、明治天皇が大阪へ行幸された際に、
国家の為に大勲労のあった豊太閤を
大阪の地に奉祀する様、仰せ出された為、
別格官幣社豊国神社の別社として、
明治13年に中之島に創立されました。
その後、昭和36年に大阪城内に移転しています。
豊国神社の境内の北側にあった笹の小径です。
小さな笹の生えた藪の中に、小径が通っていて、
笹の枝に、願い事が書かれた赤い短冊が飾られています。
豊国神社の裏鳥居を出て、
北側の本丸方向を見たところ。
本丸の石垣の上の赤茶色のレンガの建物は、
MIRAIZA OSAKA-JO(旧第四師団司令部庁舎)です。
二の丸の中を東へ向かいます。
前方へ玉造多聞櫓跡、玉造門跡が見えてきます。
玉造門跡の前から、
北西方向、天守閣をふり返ったところ。
その天守閣です。
玉造門跡から、玉造土橋を南へ下りながら、
右手に南外堀を見たところ。
南外堀は、二の丸の南側にありますが、
東の端で、少し北へ折れ曲がっています。
その折れ曲がり部です。
右に見える建物は、一番櫓です。
玉造土橋を下って、北西方向、
南外堀を見たところ。
南外堀が、東の端で、北へ折れ曲がった
北の端にあたります。
その石垣の上に天守閣がのぞいて見えます。
その天守閣を見たところ。
玉造土橋を下ったところから、
南西を見たところ。
南外堀が、二の丸の南側へ
折れ曲がって続きます。
南外堀に沿って、南へ進み、
一番櫓をふり返って見たところ。
一番櫓は、寛永5年(1628)頃の創建と推測され、
3度の改修を経て、残っています。
南外堀の南東の角です。
右が二の丸で、
二の丸の南側を、西に向け
南外堀が続いています。
玉造門跡へ続く土橋の南側の袂まで戻り、
東へ進みます。
東へ進んで行くと、東外堀があります。
お堀では、キンクロハジロが遊んでいます。
東外堀です。
東外堀から、南東へ進んで行くと、
噴水広場があります。
噴水広場の噴水です。
大阪城公園を出て、中央大通りを西へ進み、
途中、越中町筋を南へ進んで行くと、
越中井があります。
中央の越中井の石柱の前に、その井戸があります。
石柱には、「細川忠興夫人 秀林院殉節之遺址」とあり、
その横に地蔵尊が祀られています。
越中井由来の説明です。
細川ガラシャは、明智光秀の三女であり、そして、細川越中守忠興公の夫人で、
熱心なキリスト信者でした。
慶長5年(1600)忠興公が徳川家康に従い会津上杉征伐で留守中に、
石田三成が大名の妻子を人質にしようとします。
しかし、ガラシャは聞き入れず、石田三成に取り囲まれる中、
家来に首をうたせ屋敷に火を放ち果てます。
この越中井は、その屋敷の台所にあったと伝えられます。
越中井から中央大通りに戻る途中、難波宮跡東辺の碑があります。
この碑の下には、難波宮の建物、回路、築地跡、難波宮造営以前の建物跡が保存されているようです。
そして、中央大通りへ出て、西へ向け進んで行くと、難波宮内裏東方遺跡の説明があります。
この場所は、難波宮の中心である内裏や朝堂院から約200m東方にあり、
回廊や塀などの跡が見つかっています。
そして、高床式倉庫や、望楼と思われる建物跡も見つかっています。
中央大通りを更に西へ進んで行くと、
朝、訪れた難波宮跡が見えてきます。
中央は、大極殿跡です。
大極殿跡を見ながら、西へ進んで行きます。
難波宮跡の西の端から、南を見たところ。
前方に見える遺構跡は、前期難波宮の五間門跡です。
難波宮跡の前を通り過ぎて、西へ向かいます。
大阪メトロ谷町線の谷町四丁目駅から天神橋筋六丁目駅へ行き、
天神橋筋商店街を歩き、大坂天満宮へ行きました。