長年勤めた会社を退職し、自分で自分を労う意味を込めて、三泊四日で大阪へ出かけてきました。
広島を始発の新幹線 のぞみ74号で、大阪へ向かい、
初日は、住吉大社、世界遺産の仁徳天皇陵、あべのハルカスを訪問し、
二日目は、難波宮跡、大阪城、大阪天満宮、四天王寺を訪問しました。
但し、四天王寺は、拝観時間を過ぎていたので、中心伽藍へ入る事ができず、
翌日、三日目に再訪しました。
■大阪 二日目 四天王寺へ
大坂旅行二日目は、
難波宮跡、大阪城、大阪天満宮へ行った後、
四天王寺へ行きました。
大坂メトロ谷町線の四天王寺前夕陽ケ丘駅で下りて、
谷町筋から、旧熊野街道へ入り、南下して行くと、
四天王寺の中之門があります。
四天王寺は、平安時代以降、
浄土信仰の隆盛により、境内西側の重要性が増し、
西に面して北よりに建つ中之門は、
東に進むと本坊に至る重要な門でした。
まず、中之門を入り、四天王寺境内を通り、
四天王寺の正面玄関にあたる南大門前へ行きます。
南大門を、正面、南から見たところ。
その南大門を入り、
中心伽藍の中門、その向こうに五重塔を見たところ。
この日は、中心伽藍の拝観時間を過ぎていたので、
中へは入れませんでした。
翌日、出直す事にします。
そして、目の前には、石灯籠があり、
その向こうには、
玉垣に囲われた熊野権現礼拝石があります。
往古より、熊野詣には、
まず、この場所で、熊野を遥拝し、道中の安全を祈り、
熊野街道を南へ向かったと言われています。
中門の両脇で、
金剛力士像(仁王像)が伽藍を守護しています。
中門に向かって右側、東側の那羅延金剛力士です。
中門に向かって左側、西側の密迹金剛力士です。
南大門の東側に位置する唐門です。
唐門を外へ出て、唐門を南、正面から見たところ。
その唐門を入って、すぐ左側にある
太子井戸屋形です。
手水舎になってます。
太子井戸屋形を過ぎて、中に入ると、
左手に南鐘堂があります。
南鐘堂の正式名は、鯨鐘楼といいます。
その南鐘堂を南東から見たところ。
左側が南鍾堂です。
そして、南鍾堂の向こうには、
中心伽藍の五重塔、金堂が見えます。
南鍾堂の前から、境内を西へ、
中門の前を過ぎて西へ向かいます。
正面に阿弥陀堂が見えます。
左は、萬燈院です。
右手にあった四天王寺境内案内図です。
萬燈院を北から見たところ。
萬燈院は、
紙の衣を着て修行した羅漢さんを形どった仏像、
紙衣仏(かみこぶつ)が祀られており、
紙衣堂とも呼ばれています。
左端は、清浄水井戸屋形です。
南西から、中心伽藍の中に建つ五重塔を見たところ。
萬燈院の前から北へ向け進みながら、
西大門を見たところ。
北へ向け進みながら、
中心伽藍の中に建つ五重塔、
その左側に金堂を見たところ。
左端には、中心伽藍の西側の門、西重門が見えます。
西大門へ向かいながら、
西大門の直前、左手に
真言宗の開祖の弘法大師修行像がたってます。
西大門を外に出て、ふり返って、
西正面から西大門を見たところ。
西大門を出て、右手、北側に
見真堂があります。
見真堂は、親鸞聖人(見真大師)を顕彰し
建立されました。
本尊は、阿弥陀如来です。
見真堂の横の露座には、親鸞聖人像がたってます。
西大門を入り、西正面に
中心伽藍の西側の門、西重門を見たところ。
中心伽藍内の拝観は、この西重門から中に入りますが
拝観時間を過ぎており、閉まってます。
西重門の左右に続く回廊の向こう側には、
右側に五重塔、左側に金堂が見えます。
西大門を入ったところにある
義経よろい掛け松です。
源義経は、兄の頼朝と不仲となり、
都を落ちて吉野山へ逃れる途中、
四天王寺に立ち寄りました。
その際に、鎧を脱ぎ、松の木に掛けたと伝わります。
西大門から北西へ進みます。
中央は、北鍾堂です。
北鍾堂の正式名は、黄鐘楼です。
北鍾堂の西に丸池があります。
丸池は、鏡の池とも呼ばれています。
この丸池は、
「いかなる日照りによる水不足の時でも
池の水が枯れることはなく、
往古より雨乞いを行う時はこの池の聖水を使って
祈祷をしていた」との事です。
丸池の東側、北鍾堂の北側に、亀の池があります。
中央の石には、舞台講と刻まれています。
この舞台講は、
亀の池の真ん中に石橋が架かり、
その石橋の上に石舞台を再建した
大阪の材木問屋の集まり(講)の名称です。
亀の池の北側には、
薬師如来、四天王を祀る六時礼讃堂がありますが、
訪問の際は、保存修理工事中で
覆屋で覆われていました。
亀の池です。
池の中には、亀がいます。
右側に、池の真ん中に架かる石橋の上の
石舞台が見えます。
左側には、保存修理工事中の六時礼讃堂の
覆屋が見えます。
その石橋の上に組まれた石舞台です。
石舞台の説明です。
住吉大社の石舞台、
厳島神社の板舞台
(平舞台、高舞台)と共に、
四天王寺の石舞台は、
日本三舞台の一つに
数えられています。
石舞台を、南正面から見たところ。
石舞台を南東から見たところ。
亀の池です。
亀が甲羅干しをしています。
亀の池の南側、北鍾堂と相対峙する位置に、
太鼓楼があります。
太鼓楼は、太鼓を鳴らし刻を知らせていましたが、
再建の際に、北鍾堂と同じ黄鐘調の鐘を設けており、
大晦日には、除夜の鐘、招福の鐘が撞かれています。
亀の池の南東の角から、亀の池を見たところ。
南東の角の石にも、舞台講の文字が刻まれています。
亀の池の東側、北から南を見たところ。
右に見える建物は、石舞台の上で舞楽が奉奏される際に、
左舞に対して楽を奏でる左方楽舎です。
(右舞に対して楽を奏でる右方楽舎は、
石舞台を挟んで反対側にあります。)
左方楽舎の向こうには、中心伽藍の講堂、
そして、五重搭が見えます。
その左側は、太鼓楼です。
太鼓楼の南側から、西を見たところ。
右端は太鼓楼で、左方楽舎、右方楽舎が、重なって見え、
その向こうに北鍾堂が見えます。
左端は、講堂です。
太鼓楼の南側から、東を見たところ。
左側の赤いお堂は、石神堂で、
牛王尊の巨石が祀られています。
牛王尊は、四天王寺の建立に際して、
建築資材の石や材木を運搬した牛が、
伽藍が完成すると石になったと伝えられています。
太鼓楼の東に、亀井堂と亀井不動尊があります。
右側が亀井堂で、中央左が亀井不動尊です。
亀井不動尊の向こうに、太鼓楼が見えます。
亀井堂の中には、地表下約1.5mのところに、
亀形頭部と甲羅を持つ上水槽と、
甲羅の縁以外の中心部を抉りとった下水槽の
二段に構成された亀形石槽があります。
これは、飛鳥の酒船石遺跡の亀形、舟形石槽と
酷似しています。
亀井不動尊は、本尊として水掛不動尊が祀られています。
寺伝によると、聖徳太子を呼び止める声があり、亀井の井戸を覗くと、
仏法の守護神の不動明王の姿が水面に映っており、不動尊が祀られました。
亀井不動尊の前から、
中心伽藍の東側の回廊の外を南へ進んで行くと、
番匠堂があります。
その向こうには、東重門が見えます。
四天王寺の創建に際し、
聖徳太子は百済国より番匠と称される数多の名工を招請し、
高度な建築技術を導入しました。
こうした事蹟を慕い、建築に携わる人達が、
大工、建築技術の向上、工事の安全を願い
曲尺を持つ曲尺太子が祀られています。
更に南へ進んで行くと、
唐門や、南鐘堂の場所へ戻ってきました。
中心伽藍へは、拝観時間を過ぎていた為、
翌日出直しします。
■二日目 四天王寺 再訪
前日、中心伽藍へ入れなかった為、再訪しました。
大坂メトロ谷町線の四天王寺前夕陽ケ丘駅で下りて、
谷町筋から、旧熊野街道へ入り、南下して行くと、
西から四天王寺へ向かう参道へ出ます。
その参道の入口に、石鳥居が建ってます。
お寺に鳥居の組合せは奇異に感じますが、
元来、鳥居は、聖地結界の四門として、
古来インドより伝わったもので、
神社に限ったものでは無いという事です。
この鳥居は、元々、木造でしたが、1294年に現在の石造りになりました。
その扁額には、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあり、
「お釈迦さんが説法を説くところであり、ここが極楽の東門の中心である」と言う意味です。
また、額は箕の形をしており、ちり取りのように全ての願いをすくいとる阿弥陀如来の本願を現しています。
その石鳥居をくぐると、夕日に映える歴史のいきづくまちなみの説明がありました。
かつて大阪湾は、四天王寺のある上町台地のすぐ西にまで迫っており、
上町台地から大阪湾に沈む夕陽を眺める事ができました。
そして、歌人の藤原家隆は、この地に夕陽庵と呼ぶ庵を結び、
「契りあれば難波の里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」と言う歌を詠み、
谷町筋に夕陽丘と言う地名が残ってます。
四天王寺の西大門、その前の石鳥居は、古来より西方極楽浄土の東門にあたると信じられており、
真西に陽が没する彼岸の中日に、夕日を拝して極楽浄土を観想する修法、日想観が行われています。
そして、その先に引導石があります。
引導とは、
「生者必滅 会者定離」の無常の迷いの世界より、
人々を究極の悟りの世界へ導く事を言います。
そして、古事記によると、
諸人葬送の時に棺を引導石の前に置き、
北鍾堂の引導鐘を三度鳴らすと、
太子様が引導石に影向ありて、亡魂を極楽浄土へ導く
と伝わります。
石鳥居をくぐって、東へ進んで行くと、
正面に極楽門があります。
極楽門へ向け進む途中にあった四天王寺境内地図です。
石鳥居から参道を東へ進んで行くと、
西大門があります。
この西大門は、
古来より西方極楽浄土の東門にあたると考えられており、
極楽門とも呼ばれています。
西大門を入ると、中心伽藍の西重門が正面にあります。
西重門の両側に続く回廊越しに、五重塔、金堂が見えます。
中心伽藍の拝観入口は、この西重門になります。
中心伽藍へ入る前に、中心伽藍の南へ回ってみます。
南東から、中心伽藍の回廊越しに、五重塔を見たところ。
中門へ向け歩きます。
前方に南鍾堂、右手に南大門が見えます。
中門を南正面から見たところ。
中門の上部から、
五重塔の最上層の屋根、その屋根の上の相輪が
のぞいて見えます。
中門から、中心伽藍の中をのぞいて見たところ。
中門の扉は開いており、
伽藍の内部を見る事はできますが、
柵があり、中へは入れません。
西重門から、中心伽藍へ入り、五重塔を見たところ。
日本書記によれば、
日本古来の宗教を支持する物部守屋と、
仏教を支持する蘇我馬子との戦いで、
仏教を支持する聖徳太子が、四天王像を自刻し、
戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、
全ての人々を救済すると誓願し、
勝利後の推古天皇元年(593)に四天王寺を建立したと伝わります。
四天王寺の創建は、難波宮より古く、日本最古の官寺です。
しかし、度重なる災害、落雷や火災、地震、
戦乱(応仁の乱、石山合戦、大坂冬の陣、大坂空襲)、等で
焼失、倒壊、再建を繰り返し、
現存の中心伽藍は昭和38年(1963)に完成した物です。
中門を、中心伽藍の内側、北西から見たところ。
南西から五重塔を見たところ。
左端は、金堂です。
中心伽藍は、南北一直線上に、
南から中門、五重塔、金堂、講堂が配置され、
それを回廊が囲む形式となってます。
この中心伽藍の配置は、日本で最も古い様式で、
四天王寺式伽藍配置と呼ばれています。
この伽藍配置の源流は、中国や朝鮮半島に見られ、
6~7世紀の大陸の様式を伝える貴重な様式です。
五重塔を南正面から見たところ。
聖徳太子創建時、六道利救の悲願を込めて、
塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪六毛を納めており、
六道利救の搭と呼ばれています。
五重塔を南東から見たところ。
右端は、中門、五重塔と南北一直線上に並ぶ金堂です。
南東、回廊の下から、
五重塔、金堂、更にその向こうに講堂を見たところ。
東側回廊の内側を見たところ。
回廊の柱は、柱の中央部辺りがゆるやかに膨らみ、
柱の上部に向け、次第に細くなってます。
これは、古代ギリシャの神殿建築に見られる
エンタシスの影響を受けていると言われてます。
回廊の下、南東から金堂を見たところ。
左端は五重搭で、
金堂の向こう、右側に講堂が見えます。
北東から、五重搭を見たところ。
左端に中門が見えます。
北東から、五重搭を見たところ。
右端は、金堂です。
金堂を南正面から見たところ。
聖徳太子の本地仏の救世観音を祀り、
四方を四天王が守護しています。
宗派は、日本仏教の祖の聖徳太子創建の寺であり、
特定宗派に属さない全仏教的な立場の寺として、
1946年に、天台宗から、和宗の総本山として
独立しています。
北東から、五重塔を見たところ。
その向こうに中門が見えます。
更にその向こうに、あべのハルカスが見えます。
東側の回廊の北の端から南を向いて、
回廊の内部を見たところ。
回廊の北東隅から、金堂を見たところ。
その向こうに五重塔が見えます。
北側の回廊を、講堂へ向け歩きながら、南を見たところ。
右端から、金堂、五重塔、中門と並んで見えます。
金堂を北側から見たところ。
北西から、金堂、五重塔、中門を見たところ。
右側には、龍の井戸の屋形が見えます。
西側の回廊を南へ進みながら、
南西から講堂を見たところ。
講堂は、
経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つです。
講堂の内陣は、中央を境に、東を冬堂、西を夏堂と呼び、
冬堂には現世の人々の悩みや苦しみを救う
十一面観音菩薩、
夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来が
祀られています。
西側の回廊を北から南へ進んで行くと、
龍の井戸があります。
龍の井戸です。
龍の井戸の説明です。
四天王寺の山号を、荒陵山(あらはかやま)と言い、
その荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護していると
信仰されています。
創建当初の事が記された四天王寺御朱印縁起には、
「その麗水は東に流れている…」と記されており、
江戸時代には井戸屋形が造られ、
境内図には龍の井戸と明記されていました。
西側の回廊を南へ進みながら、五重塔を見たところ。
左は、金堂です。
そして、西重門から、外へ出ます。
西重門の前から、西側に西大門を見たところ。
西大門を出て、右側に見真堂があります。
見真堂は、親鸞聖人(見真大師)を顕彰し
建立されました。
本尊は、阿弥陀如来です。
見真堂の横の露座には、親鸞聖人像がたってます。
その親鸞聖人像です。
西大門から西へ、石鳥居を出て進んで行くと、
旧熊野街道へ出てすぐに奈良街道があります。
奈良街道を南へ渡って、四天王寺を
ふり返って見たところ。
奈良街道超しに、西大門、五重塔が見えます。