石見銀山は、2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」と言う名称で、
世界文化遺産に登録されました。
私自身、山陰地方には、海水浴や、観光旅行、夏のキャンプ等で、何度も行った事がありますが、
この石見銀山については、学校の勉強で名前を知っていても、興味がなく、行った事が
ありませんでした。
世界遺産に、登録されて、初めて、そんなに貴重な遺産だったんだと認識する事ができ、
やっと、今回、訪ねる事ができました。
自家用車で行くと、石見銀山の銀山地区や、町並み地区には、
直接、自家用車で入る事はできません。
この山間の町は、世界遺産ですが、実際にここで暮らす人達にとっては、
生活の場であり、その生活を守り、かつ、遺産を守る為に、
少し離れた石見銀山世界遺産センターの駐車場へ車を置き、バスへ乗りかえて、
銀山地区、または、町並み地区へ入る事になります。
石見銀山世界遺産センターにあった
ジオラマ模型です。
石見銀山世界遺産センターからバスで町並み地区の大森バス停へ行きます。
バス停の近くには、五百羅漢で有名な羅漢寺があります。
その羅漢寺本堂と、
道と川を隔てた山肌に
三つの石窟があります。
その中央の石窟に、釈迦三尊像が、
そして、左右の石窟に五百羅漢像が
250体づつ祀られています。
写真は、羅漢寺山門前から、
五百羅漢像のある石窟を見たところ。
右が南側の石窟で、左が中央の石窟です。
18世紀の中頃に、
銀山で亡くなった方々や、
祖先の霊を祀るために、25年かけて、
羅漢寺が建立されたと言う事です。
川は、銀山川の支流です。
この川には三基の反り橋が架かっており、
石窟へ渡れるようになっています。
南側の石窟です。
五百羅漢の内、
250体が祀られています。
中央の石窟です。
この中に釈迦三尊像が
祀られています。
反り橋は、
15枚の福光石でできています。
福光石は、淡い青緑色の軟質凝灰岩で、
1500~1600万年前の
火山活動で堆積した灰が、
海底で圧縮凝固してできた石です。
北側の石窟の隣には、大宝篋印塔が建っています。
この大宝篋印塔は、
五百羅漢建立に協力した田安中納言宗武卿の
菩提を供養する為に建てられました。
次に龍源寺間歩へ向け
歩いて行きます。
羅漢寺から出ると、
近くに石見銀山公園があり、
そこに観光案内所があります。
右は、公園にあった
石見銀山遺跡案内図です。
銀山川です。
江戸後期1811年(文化8年)に
建てられた武家屋敷でした。
現在は、
日本料理店の「吐々庵」として、
利用されています。
龍源寺間歩へ向け、銀山川に沿って、
北側に舗装された道が、
南側に遊歩道があります。
この舗装道は、
昔からある街並みの中を、
銀山地区へ向け、続いています。
途中の景色です。
ここから先は、銀山川を南に渡り、
遊歩道を歩きます。
遊歩道です。
きれいに整備されています。
山裾に、大久保石見守墓所があります。
大久保石見守は、鉱山の知識に明るく、
徳川家康の命で、1601年(慶長6年)に
初代の石見銀山奉行に任命されました。
彼の就任後、採掘は、従来の堅掘りから、
坑道掘りに改められ、採掘法の革新が
行なわれました。
当時は、坑道の事を、
間歩と呼んでいました。
石見銀山で最大規模の大久保間歩は、
大久保石見守が開発したものです。
その大久保石見守墓の説明です。
遊歩道から銀山川を渡ったところに、
下河原吹屋跡があります。
ここは、17世紀初頭の銀製錬遺跡で、
鉛を使用した灰吹法と呼ばれる製錬法で
銀をとり出していたようです。
その近くにあった大森幼稚園と
大森小学校です。
子ども達の絵が見えたりして、
そして、木造校舎の温かみを
感じる事ができました。
思わず、写真を撮ってしまいました。
また、遊歩道を歩きます。
花が咲いてました。
銀山大盛祈願道場の碑が
建っていました。
鉱山の発展を祈願する場所として、
佐毘売山神社、龍昌寺、観世音寺が
指定されていました。
そして、この場所から
山側の道を登って行くと、
祈願道場に指定された
龍昌寺がありました。
遊歩道を歩いて行くと、
家の軒先に飾ってあった
フクロウ等の置物です。
カワイイので、写真撮りました。
途中、清水谷製錬所跡に行ってみます。
山に向かって登って行くと
見えて来ました。
この石垣を見たら、少し圧倒されます。
正面から見たところ。
単に段々状の石垣だけでは
ありません。
石垣には、トンネル状の穴があります。
明治時代の最先端の製錬所だった
ようです。
明治28年に
巨額の投資で建造されましたが、
わずか1年半で
操業を中止したとの事です。
何でだろう?
そして、遊歩道を歩いて行くと、清水寺があります。
せいすいじと読みます。
その清水寺の山門です。
佐毘売山神社の山門でしたが、
昭和6年に清水寺と合併した際に
移築されたと言う事です。
扁額には、
57代目の代官 加藤餘十郎の筆で
「銀華厳」と書かれています。
向かって左側には、
石造毘沙門天立像が立っています。
左手に宝塔を持っています。
向かって右側には、
石造不動明王立像が立っています。
右手に三鈷剣を持っている。
これらの立像は、福光石に彩色され、
江戸末期に造られたと
推測されています。
更に進むと、新切間歩がありました。
山肌に口が開いています。
その新切間歩です。
今は中に入れないように、鉄格子がはめてあります。
この間歩は、
幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、
1715年(正徳5年)に、
最初は、疎水坑(水抜き坑)として彫られた
と言う事です。
そして、この間歩は、最も大森の町に近く、
標高も低い場所にあります。
江戸後期には、
坑口から520mまで掘られていたと言う事で、
こんな小さな坑に入って、
よく掘ったものだと思います。
当時の過酷さを想像する事ができます。
以下は、新切間歩の説明です。
途中、咲いていた花です。
吉岡出雲の墓です。
吉岡出雲は、元は、毛利氏に仕えていましたが、
徳川家康の石見銀山支配にあたり、
大久保石見守に仕えるようになりました。
石見銀山はもとより、
伊豆、佐渡金山の開発に功績を上げた人す。
旧極楽寺の境内にあります。
道を進んで行くと、
たくさんの間歩が出てきます。
間歩には、
写真のような間歩番号が
うってあります。
先程見た新切間歩より、
もっと小さな坑です。
大人が入るのが、
やっとの大きさです。
ここにも間歩があります。
福神山間歩です。
この間歩は、
採掘を行った山師個人が経営した
「自分山」のものでしたが、
代官所直営の「御直山」の間歩に
なったようです。
大きな坑にも見えましたが、近くへ行って見ると、
穴は斜め下へ続いてます。
ここも、坑へ入るには小さすぎる大きさです。
ここは高橋家です。
銀山町年寄山組頭の遺宅で
茶室が設けられています。
また、付属の建物で
酒造も行なわれていました。
山組頭は、鉱山の取締役で、
鉱夫の人事や、物資の購入等が
役目だったようです。
山肌には、仏像が据えられて
いました。
鉱山で亡くなった方々の霊を
祀ったのであろう。
龍源寺間歩へ到着です。
多くの観光客が入って行きます。
これが、龍源寺間歩の入口です。
龍源寺間歩の入口の隣にも、
大きな坑が開いてます。
間歩の中です。
龍源寺間歩は、
代官所直営の御直山五ヶ山のひとつの間歩で、
長さは、大久保間歩に次いで長く、
約600mあります。
枝分かれした間歩が、たくさんあります。
この立坑は、排水坑でした。
途中、新しく開削された栃細谷新坑(とちばたけしんこう)と繋がっており、
そこを通って外に出る事ができます。
その栃細谷新坑には、石見銀山絵巻が展示されています。
以下は、その絵巻の一部です。
坑内の湧水を木製の角樋(木製のポンプ)を使って、段々上に引き揚げて
疎水坑へ流し出している労働を描いています。
また、石見銀山の鉱床断面図も展示されていました。
龍源寺間歩を出たら、
次は、左毘売山神社(さひめやまじんじゃ)へ
行って見ます。
左毘売山神社です。
狛犬です。
左毘売山神社の説明です。
この祭神は鉱山の守り神で、精錬の神の「金山彦命」、別名「山神社」です。
鉱夫や村人からは、「山神さん」と呼ばれて親しまれています。
壮大で全国一の規模の山神社であり、現在の建物は文政2年再建されたものと言う事です。
次は、銀山地区から、町並み地区へ
向かいます。
ここは、豊栄神社です。
説明には、毛利元就が祭神の
毛利家ゆかりの社と
言う事です。
関ヶ原の役で、
毛利の支配から、
徳川の支配へ、
そして、徳川の時代から、
幕末、明治維新へと
時代が変わる中で、
この神社もいろいろ盛衰が
あったようです。
龍源寺間歩へ行く途中に見た
下河原吹屋跡です。
金森家です。
金森家の説明です。
郷宿(郷宿)泉谷(旧河北家)の
遺宅です。
柳原家です。
石見銀山代官所同心の遺宅です。
質素な中に、
武家屋敷の体裁が間取りや玄関に
見る事ができます。
柳原家の説明です。
旧 河島家です。
河島家は、1610年(慶長15年)に、
銀山奉行 大久保石見守に召し抱えられ、
代々、銀山附きの役人を勤めました。
太田市町並み交流センターです。
ここは、旧 大森区裁判所です。
観世音寺が見えて来ました。
岩山の上に建ってます。
階段を登ると、大森の町が見渡せます。
銀山地区方面を見たところ。
今度は、その反対方向を見たところ。
山裾の大屋根は、西性寺です。
この西性寺には、
「左官の神様」と尊敬された
松浦栄吉の鏝絵「鳳凰」
(大正時代中頃の作)が
あります。
見に行けば良かった。
次の機会があれば、行って見よう。
観世音寺の本堂です。
大森代官所の祈願寺で
真言宗の寺院です。
観世音寺の説明です。
宝暦年間
(1751-1763)に
この寺の住職だった
月海浄印が、
先程見て来た
五百羅漢の羅漢寺を
建立しました。
町並み地区を進んで行くと、
ツバメが巣作りをしていました。
巣作りを頑張ってます。
青山家です。
江戸時代に石見銀山領内の村々と
代官所の間を公的に取り持つ
郷宿 田儀屋の遺宅です。
漆喰塗込めの外壁で、
大森では唯一の妻入り形式を
とっています。
その青山家の説明です。
石見銀山資料館です。
直轄領の銀山を治めた江戸幕府の
旧 大森代官所跡です。
門の中を正面から見たところ。
今は、石見銀山資料館で、
石見銀山の採掘工具や古文書、鉱石、
絵巻などが展示されています。
この資料館の中も見る事が
できませんでした。
実際、半日で見て周るのは厳しい。
もう一度、訪問して見たいと思います。