石見銀山: 04May 2014



石見銀山は、2007年に「石見銀山遺跡とその文化的景観」と言う名称で、世界文化遺産に登録
されました。

私自身、山陰地方には、海水浴や、観光旅行、夏のキャンプ等で、何度も行った事がありましたが、
この石見銀山については、学校の勉強で名前を知っていても、興味がなく、行った事がありません
でした。

世界遺産に、登録されて、初めて、そんなに貴重な遺産だったんだと認識する事ができ、やっと、今回
訪ねる事ができました。

自家用車で行くと、石見銀山の銀山地区や、町並み地区には、直接、自家用車で入る事はできません。

この山間の町は、世界遺産ですが、実際にここで暮らす人達にとっては、生活の場であり、その生活を
守り、かつ、遺産を守る為に、少し離れた石見銀山世界遺産センターの駐車場へ車を置き、バスへ
乗りかえて、銀山地区、または、町並み地区へ入る事になります。



石見銀山世界遺産センターにあった
ジオラマ模型。

















石見銀山世界遺産センターからバスで町並み地区の大森バス停へ行く。
バス停の近くには、五百羅漢で有名な羅漢寺がある。

その羅漢寺本堂と、道と川を隔てた山肌に三つの
石窟がある。

その中央の石窟に、釈迦三尊像が、そして、左右の石窟に五百羅漢像が250体づつ祀られている。

写真は、羅漢寺山門前から、五百羅漢像のある
石窟を見たところ。
右が南側の石窟と、左が中央の石窟。

18世紀の中頃に、銀山で亡くなった方々や、祖先の霊を祀るために、25年かけて、羅漢寺が建立されたらしい。







川は、銀山川の支流。 

この川には三基の反り橋が架かっており、石窟へ渡るようになって
いる。























南側の石窟。

五百羅漢の内、250体が祀られている。

















中央の石窟。

この中に釈迦三尊像が祀られている。

















反り橋は、15枚の福光石でできている。

福光石は、淡い青緑色の軟質凝灰岩で、1500〜
1600万年前の火山活動で堆積した灰が、海底で圧縮凝固してできた石である。















 北側の石窟の隣には、大宝篋印塔が建っている。

この大宝篋印塔は、五百羅漢建立に協力した田安中納言宗武卿の
菩提を供養する為に建てられたとの事。 























次に龍源寺間歩へ向け歩いて行く。

羅漢寺から出ると、近くに石見銀山公園があり、
そこに観光案内所がある。

右は、公園にあった石見銀山遺跡案内図。













銀山川。
 


























国史跡 渡辺家住宅です。

江戸後期1811年(文化8年)に建てられた
武家屋敷だった。

現在は、日本料理店の「吐々庵」として、利用
されている。













龍源寺間歩へ向け、銀山川に沿って、北側に
舗装された道が、南側に遊歩道がある。

この舗装道は、昔からある街並みの中を、
銀山地区へ向け、続いている。















途中の景色。

ここから先は、銀山川を南に渡り、遊歩道
を歩く事に。
















遊歩道。

きれいに整備されている。























山裾に、大久保石見守墓所があった。
 
大久保石見守は、鉱山の知識に明るく、
徳川家康の命で、1601年(慶長6年)に
初代の石見銀山奉行に任命された。

彼の就任後、採掘は、従来の堅掘りから、
坑道掘りに改められ、採掘法の革新が
行なわれた。
当時は、坑道の事を、間歩と呼んでいた。

石見銀山で最大規模の大久保間歩は、
大久保石見守が開発したものである。







その大久保石見守墓の説明文。

 

























遊歩道から銀山川を渡ったところに、
下河原吹屋跡がある。
 
ここは、17世紀初頭の銀製錬遺跡で、
鉛を使用した灰吹法と呼ばれる製錬法で
銀をとり出していたようです。














その近くにあった大森幼稚園と大森小学校。

子ども達の絵が見えたりして、そして、
木造校舎の温かみを感じる事ができました。
思わず、写真を撮ってしまいました。














また、遊歩道に歩きます。

花が咲いてました。
















銀山大盛祈願道場の碑が建っていた。

鉱山の発展を祈願する場所として、佐毘売山神社、龍昌寺、観世音寺が指定されていた。
そして、この場所から山側の道を登って行くと、祈願道場に指定された龍昌寺があった。














遊歩道を歩いて行くと、家の軒先に飾ってあった
フクロウ等の置物。

カワイイので、写真撮りました。
















途中、清水谷製錬所跡に行ってみる。

山に向かって登って行くと見えて来た。

この石垣を見たら、少し圧倒される。















正面から見たところ。


















 単に段々上の石垣だけでは無い。


















石垣には、トンネル状の穴がある。 


























明治時代の最先端の製錬所だったらしい。















 


明治28年に巨額の投資で建造されたが、
わずか1年半で操業を中止したとの事。

何でだろう?















そして、遊歩道を歩いて行くと、清水寺がある。
せいすいじと読むらしい。






















その清水寺の山門。

佐毘売山神社の山門であったが、昭和6年に
清水寺と合併した際に移築されたらしい。

扁額には、57代目の代官 加藤餘十郎の筆で
「銀華厳」と書かれている。












向かって左側には、石造毘沙門天立像。

左手に宝塔を持っている。






















向かって右側には、石造不動明王立像が立っている。

右手に三鈷剣を持っている。

これらの立像は、福光石に彩色され、江戸末期に造られたと
推測されている。




















更に進むと、新切間歩があった。

山肌に口が開いている。























その新切間歩。

今は中に入れないように、鉄格子がはめてある。

この間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、
1715年(正徳5年)に、最初は、疎水坑(水抜き坑)として彫られた
と言う事だ。

そして、この間歩は、最も大森の町に近く、標高も低い場所にある。

江戸後期には、坑口から520mまで掘られていたと言う事で、
こんな小さな坑に入って、よく掘ったものだ。
当時の過酷さを想像する事ができる。












以下は、新切間歩の説明

























途中、咲いていた花。


















吉岡出雲の墓。

吉岡出雲は、元は、毛利氏に仕えていたが、徳川家康の石見銀山
支配にあたり、大久保石見守に仕えるようになった。
石見銀山はもとより、伊豆、佐渡金山の開発に功績を上げた人で
ある。

旧極楽寺の境内にある。


















道を進んで行くと、たくさんの間歩が見れるように
なってきた。

間歩には、写真のような間歩番号がうってある。

先程見た新切間歩より、もっと小さな坑だ。
大人が入るのが、やっとの大きさだ。













ここにも間歩が。

























福神山間歩。

この間歩は、採掘を行った山師個人が経営した「自分山」のもの
だったが、代官所直営の「御直山」の間歩になったようだ。





















大きな坑にも見えたが、近くへ行って見ると、穴は斜め下へ。
ここも、坑へ入るには小さすぎる。
























ここは高橋家。

銀山町年寄山組頭の遺宅で茶室が設けられて
いる。
また、付属の建物で酒造も行っていた。

山組頭は、鉱山の取締役で、鉱夫の人事や、
物資の購入等が役目だったらしい。











山肌には、仏像が据えられていた。

鉱山で亡くなった方々の霊を伴ったのであろう。
















龍源寺間歩へ到着です。

























多くの観光客が入って行きます。

























これが、龍源寺間歩の入口です。

























龍源寺間歩の入口の隣にも、大きな坑が。


















間歩の中です。

龍源寺間歩は、代官所直営の御直山五ヶ山のひとつの間歩で、
長さは、大久保間歩に次いで長く、約600mある。






















枝分かれした間歩が、たくさんある。

























この立坑は、排水坑だった。

















途中、新しく開削された栃細谷新坑(とちばたけしんこう)と繋がっており、そこを通って外に出る事ができる。
その栃細谷新坑には、石見銀山絵巻が展示されている。

以下は、その絵巻の一部。

坑内の湧水を木製の角樋(木製のポンプ)を使って、段々上に引き揚げて疎水坑へ流し出している労働を描いている。



































また、石見銀山の鉱床断面図も展示されていた。



































龍源寺間歩を出たら、次は、左毘売山神社(さひめやまじんじゃ)へ
行って見る。

























左毘売山神社。


















狛犬。


















左毘売山神社の説明板。

この祭神は鉱山の守り神で、精錬の神の「金山彦命」で、別名「山神社」である。
鉱夫や村人からは、「山神さん」と呼ばれて親しまれている。

壮大で全国一の規模の山神社であり、現在の建物は文政2年再建されたものと言う事だ。





























次は、銀山地区から、町並み地区へ向かう。

ここは、豊栄神社。

















説明には、毛利元就が祭神の
毛利家ゆかりの社と言う事だ。

関ヶ原の役で、毛利の支配から、
徳川の支配へ、そして、徳川の
時代から、幕末、明治維新へと
時代が変わる中で、この神社も
いろいろ盛衰があったようだ。















龍源寺間歩へ行く途中に見た下河原吹屋跡。


















金森家。



















金森家の説明板。

郷宿(郷宿)泉谷(旧河北家)の遺宅
である。





















柳原家。

石見銀山代官所同心の遺宅である。


質素な中に、武家屋敷の体裁が間取りや玄関に
見る事ができる。













柳原家の説明板。
























旧 河島家。

河島家は、1610年(慶長15年)に、銀山奉行
大久保石見守に召し抱えられ、代々、銀山附きの
役人を勤めました。













太田市町並み交流センター。

ここは、旧 大森区裁判所だったところ。
















観世音寺が見えて来た。

岩山の上に建ってます。
















階段を登ると、大森の町が見渡せます。

銀山地区方面を見たところ。























今度は、その反対方向を見たところ。

山裾の大屋根は、西性寺。

この西性寺には、「左官の神様」と尊敬された
松浦栄吉の鏝絵「鳳凰」(大正時代中頃の作)が
ある。

見に行けば良かった。
次の機会があれば、行って見よう。










観世音寺の本堂です。

大森代官所の祈願寺で真言宗の寺院です。
















観世音寺の説明板。

宝暦年間(1751-1763)に
この寺の住職だった月海
浄印が、先程見て来た
五百羅漢の羅漢寺を
建立した。


















町並み地区を進んで行くと、ツバメが巣作りを
していた。

















巣作りを頑張ってます。


















青山家。

江戸時代に石見銀山領内の村々と代官所の
間を公的に取り持つ郷宿 田儀屋の遺宅。

漆喰塗込めの外壁で、大森では唯一の妻入り形式をとっている。












その青山家の説明板。






















石見銀山資料館。

直轄領の銀山を治めた江戸幕府の
旧 大森代官所跡である。
















門の中を正面から見たところ。

今は、石見銀山資料館で、石見銀山の採掘工具や古文書、鉱石、絵巻などが展示されている。

この資料館の中も見る事ができなかった。
実際、半日で見て周るのは厳しい。

もう一度、訪問して見たいと思う。









 

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