隅田川ウォーターフロント: 16Oct2023


4年に一度、オリンピック開催の前年に、マラソン代表選考レース、
Marathon Grand Championship(通称MGC)が行われます。

パリ2024夏季オリンピックの前年に当たる2023年は、MGCが10月15日に開催される為、
その応援と、観光を兼ねて、東京へ出かけてきました。

MGCの翌日は、隅田川に沿って、石川島公園、佃公園から勝鬨橋、築地場外市場を歩き、
その後、お台場を歩きました。

朝早くホテルを出て、
JR八丁堀駅から鍛冶屋橋通りを東へ進むと、
亀島川があります。

その亀島川に架かる高橋の上から南、
亀島川を見たところ。








亀島川の水辺の遊歩道を南へ進みます。

正面に見える橋は、南高橋です。

南高橋は、関東大震災の復興事業で、
隅田川に架けられていた旧両国橋の
3連トラスの中央部を、径間の幅を
3分の1程度に縮小し転用して、
昭和7年に架橋されました。

土木遺産に認定されています。



その南高橋の南側には、
亀島川水門があります。

防潮水門で、高潮の被害を防いでいます。










南高橋の上から、北側を見たところ。













南高橋を東へ渡った東詰めに、
徳船稲荷神社があります。

この地、新川(旧町名 越前堀)は、
三方を掘割に囲われた越前松平家の下屋敷が
広大に構えていました。
その中に小さな稲荷が祀られており、
御神体は徳川家の遊船の舳を切って
彫られたものと伝えられていました。





そして、明暦3年の振袖火事や、
関東大震災の難を逃れましたが、
戦災で全焼します。

昭和29年に隅田川畔に再建され、
平成3年の中央大橋架橋工事で、
現在地に遷座しています。

屋根の下に、小さな社が祀られています。





亀島川が隅田川へ合流する河口沿いの
隅田川テラスへ出ます。

金色の錨のモニュメントがあります。

ここは、江戸湊発祥の地で、
慶長年間、江戸幕府が、江戸湊を築港して以来、
水運の中心地として江戸の経済を支え、
昭和11年まで、伊豆七島など諸国への
航路の出発点としてにぎわったという事です。




江戸湊発祥の地の錨のモニュメントから
亀島川に沿って、隅田川との合流点へ向かいます。

ウォーキングテラスの前方に見える
逆三角形のフレームは、
霊岸島水位観測所です。

東京湾の埋立により、
降雨による隅田川の水位への影響が大きくなり、
水準原点の検証をする機能は、
三浦半島の油壷へ移されています。
但し、荒川水系のデータ観測は
継続されているようです。

亀島川が隅田川に合流する地点から、
南を見たところ。

右端に霊岸島水位観測所が見えます。

ちなみに、霊岸島は、
日本橋川と亀島川に囲まれた土地で、
浄土宗の雄譽霊岸の発願で埋立が行われ、
霊岸寺が建立された事に由来します。

明暦の大火で類焼した霊岸寺跡を、
越前松平家が拝領する事になります。


亀島川が隅田川に合流する地点から、
隅田川に沿って、上流に向け進みます。

中央大橋の北詰から、
中央大橋の主塔を見上げたところ。









中央大橋です。

中央大橋は、東京駅から伸びる八重洲通りが通る
隅田川に架かる橋で、中央区の新川と佃を結びます。
平成5年(1993)8月26日に開通しています。

同日に、愛称がレインボーブリッジの東京港連絡橋が
開通しましたが、
中央大橋も、小さいですが愛称があれば良いのにと
思いました。









中央大橋の隅田川下流側の歩道から、
南側、下流方向を見たところ。












中央大橋の隅田川下流側の歩道を進んで行き、
南側、下流方向を見たところ。












中央大橋の隅田川下流側の歩道から、反対側、上流方向に、
東京スカイツリーを見たところ。

















中央大橋北詰に戻り、
隅田川に沿って、上流方向へ歩き、
中央大橋をふり返って見たところ。

橋長210.7m、幅員25.0mの斜張橋です。









中央大橋北詰付近の花壇のトウガラシです。

カラフルなトウガラシです。















これもトウガラシかな。













中央大橋を、北から南へ、佃方面へ渡って行きます。

中央大橋の主塔は、
2本の角柱が斜めに伸び、塔頂部で接合され、
下方に向け末広がりに伸びるA形形式のデザインに
なってます。
隅田川は、パリを流れるセーヌ川と姉妹関係を結んでおり、
フランスのデザイン会社が、兜をイメージして設計しています。











中央大橋の主塔の上流側には、モニュメントがたってます。


















左側にそのモニュメント、
隅田川の上流方向に、
東京スカイツリーを見たところ。











そのモニュメントです。

このモニュメントは、
20世紀を代表する前衛彫刻家、オシップ・ザッキンの彫刻、
メッセンジャーで、
1937年のパリ万博に出品された作品を鋳造したものです。

1992年、当時のパリ市長、
後のフランス大統領、ジャック・シラクによって、
友好の印として東京都に寄贈されたものです。

隅田川の上流を向いてたっているため、
正面から見れなく、残念です。






中央大橋を佃へ向け歩きながら、
隅田川上流を見たところ。

東京スカイツリーの手前に見える橋は、
永代橋です。

永代橋は、大手門から日本橋を経由して伸びる
永代通りが通る隅田川に架かる橋です。

関東大震災の復興事業として、
大正15年(1926)に竣工した
全長185mのタイド・アーチ橋です。

初代の永代橋は、5代将軍、徳川綱吉の50歳を祝し、
元禄11年(1698)に深川の渡しに架けられました。
永代橋の名前は、徳川の世が末永く続くようにとする説と、
永代寺、富岡八幡宮の鎮座する永代島に渡る橋とする説と、2つの説があります。

中央大橋を佃へ向け進みながら、
隅田川上流を見たところ。












中央大橋を佃へ渡り終えると、
中央大橋の東側には、
隅田川に沿って、石川島公園があります。

その石川島公園から、
中央大橋をふり返って見たところ

中央大橋の主塔の後ろに聳える高層ビルは、
リバーシティー21新川です。





石川島公園を、隅田川に沿って、
上流方向に歩きながら、
中央大橋を見たところ。

中央大橋を渡った辺りは、隅田川の三角州で、
この辺りの地名は、佃になってますが、
元々、石川島と佃島の2つの島でした。

石川島は、寛永3年(1626)に
船手頭の石川八左衛門が拝領した土地で、
寛政2年(1790)に無宿人の就労厚生施設として
埋立てて造成された場所に、
人足寄場が設置されました。
また、幕末の嘉永6年(1853)には
造船所が設けられた以降、石川島播磨重工業への変遷を経て、
現在は、大川端リバーシティ21に生まれ変わってます。

隅田川が、晴海運河へと分流する辺りから、
中央大橋を見たところ。












中央大橋の主塔の上流側に設置されている
オシップ・ザッキンの彫刻、メッセンジャー像です。

当時の万国博覧会の案内書によると
「この作品は、希少木材を求めて海外に船を派遣する守護神を
表したもの。
像が抱いている帆船は、パリ市の紋章に描かれている
帆船を思わせる」
とあるようです。










石川島公園を隅田川に沿って歩いた北東端です。

ここで隅田川は、右の晴海運河に分流します。

分流する突端に向けて、
三角形にウッドデッキが伸びています。








そのウッドデッキの上から、
隅田川が、晴海運河へと分流した
晴海運河を見たところ。











晴海運河の下流に見える橋は、
相生橋です。












隅田川に沿った石川島公園に囲われたエリアに、
大川端リバーシティ21の高層ビル群が建ってます。

東京のウォーターフロント開発の先駆けとして、
「水と緑にあふれた都市景観の創造」をテーマに
開発されています。

一番手前のビルは、センチュリーパークタワーです。

そして、一段と高くなった土手の上には、
パリ広場があります。








そのパリ広場には、
「友情から未来へ」のモニュメントがあります。

このモニュメントは、
中央区とフランスの児童250人が描いた絵をもとにした
陶版画が用いられており、
田名網敬一氏の監修・構成の作品です。












石川島公園を、中央大橋に向けて戻りながら、
中央大橋を見たところ。












中央大橋に向けて戻りながら、
隅田川の上流、永代橋を見たところ。












中央大橋の下を西へ抜けると、
石川島公園から続く佃公園へ入ります。

そして、中央大橋をふり返って見たところ。










佃公園を、隅田川に沿って下流、
南西に向かいながら、
中央大橋をふり返ったところ。











隅田川下流、南西方向を見たところ。

隅田川に架かる橋は、佃大橋です。

そして、右よりに見える高層ビルは、
聖路加タワーです。








佃公園を、隅田川に沿って、下流に進んで行くと、
石川島灯台を復元したモニュメントがあります。
(モニュメントの下は、公衆トイレでした。)

慶応2年(1866)、人足寄場の西岸に築かれた
六角二層の常夜灯、石川島灯台により、
江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、
近在漁師の安全が図られました。

現在の灯台のモニュメントは、
四角二層で当時とは少し異なりますね?なぜ?



住吉小橋です。

かつては、石川島と佃島は、2つの島に分かれていましたが、
今では、二つの島の浅瀬は、埋め立てられ、
両方合わせて、佃と言う地名になってます。
但し、石川島と佃島を隔てていた掘割として、佃掘が残っており、
二つの島を結ぶ橋が架かってます。

その住吉小橋です。

そして、住吉小橋の右には、住吉水門が見えます。








住吉水門です。

隅田川から佃堀への入口に、
高潮等の水害から町を守るために設置されています。
昭和40年の竣工です。














住吉小橋を、かつての佃島へ渡ります。

住吉神社の赤い鳥居があります。

鳥居の前を過ぎて、渡って来た住吉小橋をふり返ります。
その先には、石川島灯台のモニュメントが見えます。













その赤い鳥居をくぐって、正面に住吉神社を見たところ。

住吉神社の歴史は以下です。
神功皇后三韓征伐の際、住吉三神の御守護によって達成され、
摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、
住吉三神を遥拝されました。
これが大阪佃の住吉の社の起こりです。
天正10年(1582)、本能寺の変で明智光秀によって
織田信長が暗殺された際、
上方旅行中の徳川家康の逃走を助けたのが
蓑島の漁夫たちでした。
その後、徳川家康と関りを持つようになった
大阪田蓑島の人々は漁業の傍ら田も作れと家康の命を受け、
村名を佃に改めます。
そして家康公が関東下降の際、
摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職が江戸へ下り、
この地の干潟を賜り、故郷の名をとって佃島としました。
そして、正保3年(1646)に、
住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉還祭祀したのが、
佃住吉神社の起源です。

ちなみに、その佃島で小魚や貝類を甘辛く煮た保存食は、
佃煮と呼ばれるようになりました。

参道を拝殿に向け進み、境内に入った右側に
水盤舎があります。

明治2年に建てられたもので、
欄間には、佃島周辺を描いた浮彫が
配されています。








石造りの水盤の背面には、
「天保十二年 丑正月 白子組」と
刻まれています。











水盤舎の奥にあった鰹塚です。

昭和28年(1953)に
東京鰹節類卸商業協同組合から奉納されました。















拝殿に向かって左側の狛犬です。


















拝殿に向かって右側の狛犬です。


















住吉神社の拝殿です。

主祭神は、住吉三神の
底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命です。

住吉三神は、
伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で
禊をされた際に、海の中から現れた神様です。

相殿神は、
息長足姫命(神功皇后)と、
東照御親命(徳川家康)です。

拝殿の左側に、旧神輿庫が見えます。
この神輿庫は、明治44年(1911)の
住吉神社大改修の折に建てられたもので、レンガ造り(イギリス積み)の蔵です。

住吉神社を出て、隅田川沿いの道に戻り、
隅田川に沿って、南へ進んで行くと、
佃まちかど展示館があります。

この展示館には、千貫神輿が展示されています。

終戦後に千葉の寒川神社の宮神輿として
新調されましたが、あまりの大きさと重さの為、
人形町末廣神社を経て、
昭和34年に佃住吉講が譲り受けました。




その佃まちかど展示館の横にあった佃公園の案内です。
この辺りには、佃渡し跡があったようです。























佃まちかど展示館の前から、
東へ進んで行くと、佃小橋があります。

赤い欄干の佃小橋の上から、
佃堀を見たところ。

佃堀の中に立つ注意書きを読むと、
寛政拾年(1798)に徳川幕府より
建立を許された大幟の柱、抱が
埋設されているようです。




佃堀広場の堀端から北側に、
佃堀、赤い欄干の佃小橋、その向こうに
大川端リバーシティ21の高層ビル群を
見たところ。










昔ながらのレトロな佃の町を出て、
佃大橋の上流側の歩道に上がって北東、
隅田川の上流方向を見たところ。
















隅田川の上流を見ると、
中央大橋、その向こうに、東京スカイツリーが
見えます。











次は、佃大橋の下流側の歩道に上がります。

佃大橋に上がりながら南西、
隅田川の下流方向を見たところ。

下流に見える橋は、勝鬨橋です。








佃大橋から、隅田川右岸に、
聖路加ガーデンの聖路加タワーと聖路加レジデンスが
見えます。

聖路加タワーは地上48階、聖路加レジデンスは地上38階あり、
聖路加タワーの28階と聖路加レジデンスの32階は
連絡ブリッジがあり、展望を楽しむ事ができます。












佃大橋を渡りながら、隅田川下流を見たところ。













正面に、勝鬨橋が見えます。

勝鬨橋の中央径間部に、跳開式の可動桁を持ち、
両サイドは鋼タイドアーチ橋になってます。

但し、この写真は、
勝鬨橋の中央径間部に、
更に一つ下流の築地大橋が重なって見えており、
一見、三連のアーチ橋のようですが、違います。





佃大橋を渡りながら、隅田川下流を見たところ。

右端は、聖路加タワーと聖路加レジデンスです。
















佃大橋西詰、橋の北側にあった
佃島渡船場跡の碑です。

佃島渡船は、佃の渡しとも呼ばれ、日常生活や
住吉神社の参詣に、利用されてきましたが、
昭和39年(1964)に佃大橋の完成によって、
廃止されました。







佃大橋の上流側の歩道に上がり、
隅田川上流を見たところ。












佃大橋から、中央大橋を見たところ。













佃大橋から、中央大橋、
東京スカイツリーを見たところ。












佃大橋西詰から、隅田川右岸を、
下流に向け歩きます。

進んで行くと、右手に聖路加ガーデンがあります。
聖路加ガーデンは、医・職・住・学・悠の融合都市として
開発された都市空間です。
ちなみに、聖路加は、St.Lukeを指し、
4つの福音書を書いた著者の一人です。

そして、聖路加ガーデンの中の
右が聖路加タワーで、左が聖路加レジデンスです。
この二つの高層ビルは、連絡ブリッジでつながっています。







聖路加タワーと聖路加レジデンスの下には、
大屋根広場が広がっています。

















その大屋根広場の前から、
聖路加タワーと聖路加レジデンスの連絡ブリッジを
見上げたところ。
















聖路加ガーデンを出て、下流に向け歩きます。

前方に見える橋は、勝鬨橋です。











右の赤茶色のビルは、興和往生築地ビルで、
その向こうの白いビルは、ニチレイ東銀座ビルです。

















川岸には、植栽が植えられており、
堤防は高いレンガの壁になってます。












勝鬨橋です。

勝鬨橋は、中央径間部に、跳開式の可動桁を持ち、
両サイドは鋼タイドアーチ橋となってますが、
その中央径間部です。

中央径間部の橋桁の中央が、
二つに割れて跳ね上がる
可動式の橋桁になってます。





勝鬨橋です。

明治38年(1905)、日露戦争の旅順陥落祝勝記念で、
勝鬨の渡しが運航を開始しました。
その後、昭和15年の勝鬨橋の開通に伴い、
勝鬨の渡しは廃止されました。

勝鬨橋は、開通当時、軍艦や、大型船舶の
通航が可能でしたが、やがて、
勝鬨橋の上を通る晴海通りの交通量の増大に伴い、
昭和45年(1970)に跳開を止めています。



勝鬨橋に近づいてみると、工事中でした。

勝鬨橋の下流側に隅田川テラスを設け、
上流側のテラスと橋の下を通って抜けれるように
する工事のようです。









勝鬨橋の上を通る晴海通りを、銀座へ向け進んで行くと、
左手に築地場外市場があります。

江戸時代初期、佃島の漁民は、江戸湾での漁業の特権を幕府から得て、
魚を幕府に納め、余った魚を日本橋で売るようになりました。
これが魚河岸の始まりです。
日本橋の袂には、魚市場発祥の記念碑がたってます。
明治時代には、魚市場は、日本橋など4ヶ所に統合整備されましたが、
大正12年の関東大震災で日本橋の魚河岸は幕を閉じました。
震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、狭いと言う理由で、
東京市は築地に市設魚市場移転させたのが、築地市場の始まりです。
そして、、昭和10年に築地に東京都中央卸売り市場が開設されます。
そして、築地市場は、開設以来、東京の食生活を支え続けましたが、
老朽化などから、平成30年に豊洲に移転しています。





築地場内市場は、
豊洲へ移転し、今はありませんが、
東京都中央卸売市場の一つでした。
卸売業者や中卸業者の競りによる取引や、
仲卸店の業者販売が行われる
東京都公設の卸売市場です。

一方、
築地場外市場は、
業者以外に観光客や一般客を対象とした
民間の卸売市場です。

築地場外市場の中は、人でいっぱいです。

朝食をまだとってなかったので、
築地場外市場の「鳥めし 鳥藤分店」へ入ります。

明治40年(1906)創業の鳥肉専門店、鳥藤の直営一号店です。
親子丼やとり弁当が人気のようです。














と言う事で、親子丼を注文しました。














その親子丼です。

大山山麓の豊かな自然の中で放し飼いされ、
コクがあって柔らかい大山鳥の肉が
使用されています。

前日に一日かけて煮込んだ
鶏白湯スープをベースに作った割り下で
新鮮な鶏肉を煮込み、
卵を半熟加減で仕上げたトロトロの親子丼です。

たかか、親子丼でと思いながら、
一口食べたら、ウマッ!
今まで食べた親子丼の中で一番美味しかった。

朝飯の後は、お台場へ向かいました。



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