4年に一度、オリンピック開催の前年に、マラソン代表選考レース、
Marathon Grand Championship(通称MGC)が行われます。
パリ2024夏季オリンピックの前年に当たる2023年は、MGCが10月15日に開催される為、
その応援と、観光を兼ねて、東京へ出かけてきました。
MGCの前日は、上野恩賜公園から、アメ横、湯島天神、東大へと歩きました。
その上野恩賜公園を紹介します。
ちなみに、上野恩賜公園は、明治6年(1873)に日本で最初に指定された公園の一つで、
大正13年(1924)に皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚を記念して、東京市に下賜されました。
広島を始発の新幹線 のぞみ74号に乗って、
東京へ向かいます。
のぞみ号が富士川を渡る途中に、
車窓から見た富士山です。
前方に見える橋は、富士川水管橋です。
東京駅に着くと、山手線の内回り(左回り)に乗って、上野へ向かいます。
上野駅の公園口を出たところにあった上野恩賜公園案内図です。
ちなみに、恩賜とは、臣下などに対し、忠節や功労に感謝する為に与える物をさします。
JR上野駅の公園口を出て、
上野駅をふり返ったところ。
JR上野駅の公園口から西へ、
恩賜上野動物園(東園)の正門へ向け、
道が伸びています。
その道の左側に、東京文化会館があります。
右側には、国立西洋美術館があります。
国立西洋美術館の本館は、
戦後、日仏間の国交回復、関係改善の象徴として、
20世紀を代表するフランスの建築家
ル・コルビュジエ(1887-1965)の設計により、
昭和34年(1959)に竣工した歴史的建造物です。
平成28年(2016)に
世界文化遺産に登録されています。
美術館の前庭には、
近代彫刻の祖と呼ばれるフランスの彫刻家、
オーギュスト・ロダン(1840-1917)の作品が
展示されています。
カレーの市民 Burghers of Calais
製作年 原型1884-88
鋳造1953
中世百年戦争の時代、
イギリス国王が1347年に英仏海峡を越えて
カレー市を包囲した際、6人のカレー市民が
人質としてイギリス国王の陣営へ赴き、
カレー市を救いました。
絶望と苦悩のうちに、市の鍵を手に、首に縄を巻いて裸足で市の門を出て行く
群像の彫刻です。
ロダンが原型を製作し、死後鋳造された本物です。
これも、ロダンの作品です。
考える人(拡大作) The Tinker(Enlarged)
製作年 原型1881-82
拡大1902-03
鋳造1926
国立西洋美術館の敷地から出て、
美術館の西側の道を北へ進んで行くと、
国立科学博物館があります。
その敷地に展示されている
D51形蒸気機関車です。
D51形蒸気機関車は、
昭和14年(1939)に製造され、
昭和50年(1975)まで走行し、
1115両造られました。
デゴイチの愛称で呼ばれていた機関車です。
国立科学博物館です。
国立科学博物館の北西の角にあった
シロナガスクジラの実物大模型です。
地球上に生息する最大の動物で、
全長30mの巨体を海面から深く
潜行させようとしている姿が
再現されています。
国立科学博物館から西へ進んで行くと、
噴水池があります。
そして、噴水池の北側には、
東京国立博物館があります。
正面の建物は、本館です。
そして、出口の門から中を覗くと、
本館に向かって左側の表慶館が見えます。
中央と左右に美しいドーム屋根をいだき、
上層部の外壁面には、製図用具、工具、楽器などを
モチーフにした
明治末期の洋風建築です。
噴水池をふり返って見たところ。
東京国立博物館の前の道を西へ進んで行くと、
旧因州池田屋敷表門があります。
徳川家と姻戚関係にあった因幡、伯耆32万石、
鳥取藩池田家の表門が移築されたものです。
加賀藩、前田家屋敷門であった
現在の東大の赤門に対して、
上野の黒門と呼ばれています。
その黒門の前を通り過ぎて、
ふり返って見たところ。
黒門の前を過ぎて、進んで行くと、
交差点があり、交差点の角に
京成本線の旧博物館動物園駅の駅舎が
残っています。
京成本線の旧博物館動物園駅の駅舎です。
その向こう、北西の角には、
黒田記念館があります。
日本近代洋画の父と呼ばれる
黒田清輝(1866-1924)の遺産と作品が
国に寄贈された事が契機となり建てられました。
昭和3年の竣工です。
そして、
その交差点の角にあった方向案内板です。
その方向案内板の近く、交差点の南東の角には、
旧東京音楽学校奉楽堂があります。
旧東京音楽学校奉楽堂は、
東京藝術大学音楽学部の前身、
東京音楽校の校舎として、
明治23年(1890)に建築されました。
建物の老朽化により、
台東区が東京藝術大学から譲り受け、
現在の地へ移築復元し公開されています。
旧東京音楽学校奉楽堂前から、噴水池に続く
園路の両側の広場には、
芸術の散歩道として、
毎年、東京藝術大学美術学部の卒業・終了制作作品の中から、
優秀作品が選出され、展示されています。
その展示作品です。
壁を突き抜けている女性?の作品です。
幽霊?
「わたし見た」と言うタイトルのようです。
噴水池に出て、池に沿って南へ進んで行きます。
噴水池の南側の竹の台広場では、
SALSA Street 2023と言うイベントを
やってました。
フードやグッズのお店も出て、賑やかです。
竹の台広場の西側には、
東京都美術館があります。
東京都美術館の南側には、
恩賜上野動物園(東園)の正門があり、
行列ができてます。
行列の後ろに向かうと、
道端にパンダのポストがありました。
このポストへ投函すると、パンダや西郷さんが描かれた
風景印の消印を押してもらえるようです。
動物園への行列の反対側には、
小松宮彰仁親王像があります。
小松宮彰仁親王は、
鳥羽伏見の戦いで征討大将軍に任命され、
戊辰戦争では奥羽征討総督として
指揮を執られました。
行列に並んで、
恩賜上野動物園(東園)の正門を入ったところ。
正面のドーム屋根の建物は、
動物園の総合案内所です。
ちなみに、上野動物園は、
明治15年(1882)に日本で最初に開園した
動物園です。
その後、宮内省の所管になりますが、
大正13年(1924)に
皇太子殿下(昭和天皇)のご成婚を記念して、
東京市に下賜されました。
最初は、日本の鳥を見に行きます。
雷鳥です。
2万年前、氷河期の頃、日本へやって来て、
その後、温暖になるにつれ
冷涼な高山に生息するようになりました。
絶滅危惧種であり、
国の特別天然記念物に指定されています。
ウグイスかな?
私には、見分けがつきません。
奄美大島、徳之島に生息するルリカケスです。
ルリカケスです。
瑠璃色と赤茶色のコントラストが美しい鳥です。
東園の中を進んで行くと、
動物慰霊碑があります。
慰霊碑には、
「動物よ安らかに」の文字が刻まれており、
動物への愛情と弔意を表す
ブロンズのリボンが飾られています。
そして、動物の霊を見守ってくれる象徴として
フクロウがとまっています。
動物慰霊碑を過ぎて、
その先には、カワウソがいました。
園路横の大きな水槽と、
園路の脇に設置された小さな水槽は、
パイプで繋がっており、
パイプを通って小さな水槽へ
カワウソが出てきてました。
手足をや頭をダランと下げて、
死んだように動きません。
カワウソの次は、フクロウです。
クマタカです。
オオワシです。
コンドルです。
閑々亭です。
江戸時代初期の寛永年間に
藤堂高虎が建てた茶室でしたが、
明治維新の上野戦争(1868)で焼け、
明治11年(1878)に再建されました。
スマトラトラです。
舌を出してます。
ゴリラです。
小さいので、子供のようです。
一心不乱に何かを食べています。
ニシローランドゴリラと言う種類です。
二ホンツキノワグマです。
ツキノワの三日月を見せてくれないので、残念です。
エゾヒグマです。
地上に住む日本最大の哺乳類で、
体長180-200cm、体重150-300kgに
なるようです。
ホッキョクグマです。
うつ伏せに寝転がっており、
顔は見えません。
恩賜上野動物園は、動物園通りによって、
東園と西園に分かれています。
東園を見た後は、
動物園通りの上に架かるいそっぷ橋を渡って、
西園へ移動します。
いそっぷ橋を渡って、橋の上から、
西園の南に広がる不忍池を見たところ。
不忍池は、花の季節は過ぎましたが、蓮でいっぱいでした。
そして、池の中には、辯天堂を見る事ができます。
東園から西園へ渡って来たいそっぷ橋です。
いそっぷ橋の下には、動物園通りが通っています。
いそっぷ橋を西園へ下りながら、
不忍池を見たところ。
いそっぷ橋から、
西園の地上へ下りるスロープです。
そのスロープの下辺りに、
多くの人の行列ができています。
パンダのシンシンとリーリーの
双子の子供を見ようと並んでいます。
と言う事で、私も並びました。
約50分、並んで待って、
やっと観覧の順番がまわって来ました。
観覧は、係員の指示で、
数人のグループに分けられ、
各グループの観覧時間は1分程度です。
観覧のエリアへ出て見ると、パンダが見えません。
木陰に隠れて、竹を食べているようです。
もう少し顔を見せてくれ。
この日は運が悪く、パンダを見れないかもと、
あきらめムードです。
しかし、パンダが動き出しました。
みんなの前に出てきてくれそうです。
パンダの背中には、緑色のラインが入ってます。
これは、双子のパンダを見分ける為で、
このパンダはオスのシャオシャオです。
シャオシャオが、岩陰を歩いています。
シャオシャオが岩陰から出て来そうです。
岩陰から出てきました。
シャオシャオを正面から見る事ができます。
そして、エサの竹を物色中?
あれ?どこへ行くの?
と思いきや、地面に腰を下ろします。
両手に竹を持ってます。
そして、ムシャムシャ食べ始めました。
お食事中です。
なにジロジロ見てんだよ~。
するどい牙が見えます。
フン、放っといてくれ!とでも、
言っているのでしょうか?
もう、腹いっぱい?
少し食べたら、岩陰に入ってしまいます。
岩陰に入って見えなくなりました。
ちなみにシャオシャオは、
今年の6月に満2歳になり、
体重は60kgを越えてます。
しかし、成獣は100kgを越えるので、
まだ子供なんですね。
シャオシャオを見終わって、通路に沿って出て行く途中にあった、看板です。
シャオシャオのお父さんのリーリーと、お母さんのシンシンが、
2011年に日本へやって来た時の説明です。
そして、そのリーリーとシンシンの三人の子供たちの説明です。
長女のシャンシャンは、2017年に上野動物園で生まれ、2023年2月に中国に返還されました。
そして、2021年6月に双子のパンダ、オスのシャオシャオと、メスのレイレイが生まれています。
パンダの次は、ブタです。
これは、アグーという種類のブタです。
14世紀に中国から持ち込まれた
中国系のブタが起源で、
沖縄では島豚と呼ばれています。
ガツガツと一心不乱に食べています。
かなり食欲旺盛です。
周りの子供たちが、
宮崎駿の「千と千鶴の神隠し」で
ブタになった両親のブタのようだと
騒いでました。
全身黒色です。
こちらは、アヨーと言う種類のブタで、
唐豚とも呼ばれています。
1844年に難破船救助の謝礼として
イギリスから贈られたブタが起源と
言う事です。
体には黒斑と白班があります。
不忍池越しに西を見たところ。
不忍池越しに南を見たところ。
中央に辯天堂が見えます。
不忍池に沿って南へ進んで行くと、
オオワシがいました。
なぜ逃げないの?
このオオワシは、
1985年に新潟県の海岸で傷ついて
動けなくなっているところを
保護されました。
自由に空を飛びたくても、
飛べなくなっていると言う事です。
そのオオワシです。
不忍池に沿って南へ進んで行くと、動物園の弁天門があり、その手前に園内マップがありました。
弁天門を出て、
その弁天門をふり返って見たところ。
こちらの門は、行列はできてませんでした。
弁天門を出て、南へ進むと、
不忍池の中の弁天島の辯天堂へ、西へ伸びる
参道がありました。
辯天堂へ向け、参道を進むと、
天龍橋があります。
天龍橋を渡り、参道を進むと、
正面が辯天堂です。
正式には、東叡山 寛永寺 不忍池辯天堂です。
この辯天堂は、江戸初期の寛永年間に、
天台宗東叡山寛永寺の開山、
慈眼大師天海大僧正(1536-1643)によって
建立されました。
そして、辯天堂がある弁天島の北側には、
大黒天堂があります。
参拝後、参道を東へ戻って行くと、
正面に階段があり、その上に清水観音堂が見えます。
清水観音堂です
清水観音堂は、寛永8年(1631)に、
天台宗東叡山寛永寺の開山、
慈眼大師天海大僧正(1536-1643)によって
建立されました。
当初、上野公園内の摺鉢山に
建てられましたが、
元禄7年(1694)に現在地へ移築されています。
清水観音堂から不忍池を望む西側、
舞台の前には、円を描いた月の松があります。
月の松の円の中に、
不忍池辯天堂が収まる仕掛けになっています。
月の松の円の中に、
不忍池辯天堂を見たところ。
清水観音堂の本堂と庫裏は、
渡り廊下で結ばれています。
清水観音堂の本堂です。
本堂には、京都の清水寺から奉納された
千手観音菩薩が本尊として祀られています。
これにより、京都の清水寺を見立てた
清水寺と同じ舞台造りになってます。
その本堂の横には、人形供養碑が建ってます。
本堂に安置された子育て観音に願を掛けて、
子供を授かった両親が
無事の成長を願って奉納した人形の供養が、
古い人形に感謝を込めて供養する形に転じた
と言う事です。
清水観音堂を出て、その東側にまわって、
清水観音堂の本堂を見たところ。
次は、清水観音堂から南に位置する
上野公園のシンボル、西郷隆盛像へ向かいます。
西郷隆盛は、明治維新の立役者の一人です。
1867年(慶応3年)、
15代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行います。
そして、王政復古の大号令が発布され、
天皇中心の新政府が樹立します。
その後、旧幕府の弱体化を図る新政府と、
権力を維持したい旧幕府が衝突し、
戊辰戦争(1868-9)が始まります。
その戊辰戦争の初戦、鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍を追い
江戸へ向け進軍する新政府軍が総攻撃をしかける直前に
旧幕府軍の勝海舟と、新政府軍の西郷隆盛の江戸開城交渉が行われ、
江戸城の無血開城が決定しました。
その結果が、江戸に住む人々の命、生活を守りました。
但し、西郷隆盛は、西南戦争で明治政府に反旗を翻し、
朝敵にもなってます。
明治22年(1889)、大日本帝国憲法の発布に伴い大赦を受けた事で、
薩摩藩出身者が中心となり、銅像が建てられました。
その銅像建立の場所は、
上野戦争の黒門口の戦いで薩摩兵が奮戦した
ゆかりの地として選ばれたと言う事です。
この銅像は、薩摩犬の愛犬ツンをつれて、
兎狩りに出かける姿と言う事です。
但し、西郷隆盛のイネ夫人によると、
礼儀正しく人前で普段着は着ないと言う意味で
「こんな人ではなかった。」と語られたようです。
西郷隆盛像を制作したのは、
日本を代表する彫刻家の高村光雲です。
その銅像の横にあった、西郷隆盛と銅像の由来の説明です。
その説明の上の「敬天愛人」は、西郷隆盛の信条として、好んで使われた言葉です。
西郷隆盛像の近く、すぐ北側に、
彰義隊の墓があります。
1868年(慶応4年)、旧幕府軍の勝海舟と、
新政府軍の西郷隆盛の交渉で、
徳川慶喜は水戸で謹慎し、江戸城の無血開城が
行われました。
それに不満を持つ旧幕府の家臣達は、
彰義隊を結成し、上野の寛永寺に集結します。
対する新政府軍は、
軍事の天才、大村益次郎が指揮を執り、
1日で彰義隊を壊滅させました。
彰義隊は、新政府にとって賊軍であり、墓石には彰義隊の文字はありませんが、
旧幕臣の山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」の字が刻まれています。
彰義隊の墓の説明です。
次は、正岡子規記念球場へ向かいます。
向かう途中に、旧町名由来案内がありました。
徳川三代将軍家光が、天海僧正に命じて、この地に寛永寺を建てさせます。
そして、幕末の上野戦争で寛永寺は焼失し、一面焼け野原となりました。
後に上野の山の景観を見たオランダ人医師のボードワン博士の進言で、
明治6年に公園に指定されました。
正岡子規記念球場です。
正岡子規(1867-1902)は、明治を代表する歌人で、
野球をこよなく愛していた事が、知られています。
そして、正岡子規が、野球用語として、
打者、走者、四球、直球、飛球と言った日本語に
訳しました。
ちなみに、ベースボールを野球と訳したのは、
中馬庚と言う人物です。
この球場は、
正岡子規が草創期の野球を楽しんでいた事から、
正岡子規記念球場と称されています。
次は、上野大佛に向かいます。
上野大佛は、この階段の上、パゴダ薬師堂の横にあります。
正面に見えるパゴダ薬師堂は、
昭和42年(1967)に上野観光協会が願主となり、
薬師仏を祀るパゴダ様式(ミャンマー様式)の仏塔として
建立されました。
そのパゴダ薬師堂の横には、
上野大佛の顔面部のみが祀られています。
上野大佛は、幾度の被災、損壊、修復、再建を繰り返し、
大正12年(1923)の関東大震災で崩れ落ちるまで、
鎮座していました。
往時の大佛は、像高が6mあったと伝わります。
顔面部のみになった上野大佛です。
顔面部のみになった大佛様は、
「もうこれ以上落ちない」と言う事で、
合格祈願のパワースポットになっているようです。
上野恩賜公園の南側、入口近くに、
かつての東叡山寛永寺の総門の黒門跡が
あります。
現在は、かつての黒門の姿を表現した
壁泉となってます。
その黒門跡の前を東へ進んで行くと、
中央通りに下りる階段があります。
その階段を下りながら、前を見ると、
高架になったJR山手線が通っており、
JR上野駅の不忍口が見えます。
上野恩賜公園を出た後は、アメ横、湯島天神、東大へと歩きました。