名古屋城: 09Mar2026


2日9日から4泊5日で、名古屋城、松本城、犬山城、岐阜城、彦根城と5つのお城を周って来ました。

まず、初日は、 名古屋城を訪問し、その後、バンテリンドーム、熱田神宮、久屋大通りを周ります。


■喫茶モーニング

早朝六時始発の新幹線に乗って、
名古屋に向かいます。

名古屋に到着すると、
宿泊予約をしたホテルへ荷物を預ける為、
名古屋駅の太閤通口(西口)へ向かいます。

太閤通口には、
待ち合わせ場所としてよく利用される
「銀の時計」がたってます。



名古屋駅の太閤通口を出て、
北へ向かいながら名古屋駅の東側に建つ
高層ビルを見上げたところ。

右の2棟は、JRセントラルタワーズです。
その左側は、JRゲートタワーです。








名古屋駅の北側には、名古屋ルーセントタワーがあります。

















その高層ビルの下には、
名古屋駅新幹線ホームが見え、
停車中の新幹線が目の前に見えます。










宿泊予約をしているホテルに荷物を預け、
モーニング発祥の地として知られる名古屋で
モーニングを体験しに、喫茶店へ向かいます。

行ったのは、その名も「喫茶モーニング」です。













「小倉トーストセット」を注文すると渡された
ゆで玉子のキャラクターの注文札です。
















そして、やって来た「小倉トーストセット」です。

小倉トーストの他に、
ゆで玉子、サラダ、ヨーグルトがついてます。










小倉トーストです。
この小倉トーストも、名古屋名物と言う事です。

今では全国展開されている「コメダ珈琲店」の
始まりは名古屋で、
メニューのモーニングでは
コメダ特製おぐらあんが選べるようになってます。







ゆで玉子には、オメ目のシールが貼ってあります。

















モーニングを食べ終わって、
「喫茶モーニング」をふり返って見たところ。
















「喫茶モーニング」を出て、昭和通りを西へ、
そして、太閤通にある地下鉄 太閤通駅へ向かいます。

昭和通りです。
その昭和通りにあった郵便ポストを良く見ると、
「太閤秀吉功路」とあります。

豊臣秀吉の出世物語を描いたモニュメントを設置した
名古屋駅西から大門、中村公園を結ぶ散策路が、
「太閤秀吉功路」として設定されています。

太閤通駅から、地下鉄に乗って、名古屋城へ向かいます。







■名古屋城

地下鉄で名古屋城駅へ行きます。

名古屋城駅を出たところを、大津通が南北に走っています。

その大津通の西側に名古屋市役所西庁舎があり、
中に入って見ると
名古屋城天守閣木造模型がありました。

この木造模型は、木目が細かく、
色目や光沢が美しく、曲がりや節が少ない特徴を持つ
奈良県吉野のヒノキを材料とした30分の1の模型です。







名古屋市役所西庁舎を出て、
大津通を挟んで反対側、南東に
愛知県庁本庁舎があります。

愛知県庁本庁舎は、
昭和13年(1938)に竣工した
鉄骨鉄筋コンクリート造、
地上六階地下一階(一部七階)建の建物です。
壁は褐色のタイル張り、一階は花崗岩を張り、
上層は白壁の仕上げで、
頂部に瓦屋根を載せた帝冠様式の建物です。


愛知県庁本庁舎の北側には、
名古屋市役所本庁舎があります。

名古屋市役所本庁舎は、
昭和天皇御大典事業として建設され、
昭和8年(1933)に竣工した
鉄骨鉄筋コンクリート造、
地上五階地下一階、塔屋付の建物です。

中央の高さ53.5mの時計塔には、
四方にらみの鯱を載せた二層の瓦屋根を配し、
名古屋城との調和を図った意匠になってます。

名古屋市役所本庁舎の前にあった附近案内図です。


























名古屋市役所本庁舎を見上げたところ。
















名古屋市役所本庁舎の説明です。


















名古屋市役所本庁舎の北西に道路を渡ると、
名古屋城の外堀があります。

その外堀を南東の角から見たところ。

名古屋城の東側、南側は、
熱田台地の上にある為、空堀になっており、
雨が降っても、
台地の下にあたる西側、北側の外堀に
水が流れるという事です。



南側の外堀に沿って、西へ歩きます。

石垣の向こうは、二之丸跡です。










外堀端に咲いていた白い椿です。












南側の外堀に沿って、西へ進みます。

正面に、水資源機構中部支社の白い鉄塔が
見えます。









西へ進みながら、
東側をふり返ったところ。











外堀に沿って西へ進んで行くと、
外堀は直角に北へ折れ曲がっています。











北へ折れ曲がった外堀を、
南から見たところ。

その外堀には、二之丸跡に向け
土橋が架かってます。








ロウバイ(蝋梅)の蕾?












外堀に沿って、北へ進んで行くと、
土橋の先に二之丸大手二之門が見えます。











その二之丸大手二之門です。

二之丸大手二之門は、本瓦葺の高麗門です。










二之丸大手二之門前の土橋を渡りながら、
北を見たところ。











二之丸大手二之門の柱や扉には、
鉄板が打ち付けられた堅牢な造りに
なってます。










二之丸大手二之門を入ると
大手枡形が形成され
その先に櫓門の二之丸大手一之門が
ありました。

二之門と一之門、その間の枡形含めて
西鉄御門と呼ばれていました。






西鉄御門を入ると、二之丸跡です。

二之丸は、
徳川家康の九男、尾張藩初代藩主の徳川義直が、
元和6年(1620)、
本丸御殿から二之丸御殿へ
住居 兼 藩の政庁を移し政務を執った場所です。

この二之丸跡の片隅に「歩兵第六聯隊の跡」の
石碑が建ってます。



そして、二之丸跡に建つ愛知県体育館です。

愛知県体育館は、
大相撲名古屋場所をはじめ、
数々のイベントが開催されてきましたが、
2025年6月に体育館としての一般利用を終了し、
新しく完成したIGアリーナへ
体育館機能を引き継いでいます。





愛知体育館前にあったパブリックアートです。

  《伸》   野々村 一男  















愛知県体育館横を東へ進んで行くと、
二之丸東門跡が見えてきます。

二之丸東門は、東鉄門とも呼ばれていました。









二之丸東門跡を城内から見たところ。

手前の石垣の上には、
櫓門の二之丸東一之門がありました。









二之丸東一之門を出ると、枡形があり、
その向こうに
高麗門の二之丸東二之門がありました。

二之丸東二之門は、
愛知県体育館の建設に際し、解体され、
現在は、本丸東二之門のあった場所へ
移築されています。





二之丸東二之門跡を出ると
外堀に架かる土橋があり、
その土橋の上から、
二之丸の石垣と二の丸を囲う外堀を
見たところ。








土橋の上から、
二之丸東二之門跡をふり返ったところ。











次は、二之丸東二之門跡から、
再び、城内へ入ります。

二之丸東二之門跡を入ると、枡形があり、
道は鍵型に曲がっています。








そして、二之丸東一之門跡を入り、東門へ向かいます。
その東門の手前にあった名古屋城内図です。




















東門で観覧料を払って入城し、
まっすぐ西へ進みます。

中央、右よりに天守の屋根が見えます。
左側に、東南隅櫓が見えます。








西へ進んで行くと、
右手に将校集会所前庭があります。

元々、この場所には、文政5年(1822)まで、
二之丸御殿の南御庭があった場所で、
明治時代には、右側奥の二之丸茶庭の辺りに
陸軍の将校集会所が建てられており、
ここに将校集会所の前庭がありました。





更に西へ進んで行くと、
二之丸広場があります。

中央、右よりに天守が見えます。
左端は、東南隅櫓です。

かつて、この二之丸広場の辺りには、
二之丸御殿がありました。





二之丸広場の横には、「藩訓秘伝碑」が建ってます。

この「藩訓秘伝碑」には、
尾張藩初代藩主の徳川義直が著した
「軍事合鑑」の巻末に記された
「王命に依って催さるる事」が刻まれています。

この言葉は、天皇の命令に従うべきことを示し、
尾張藩の藩訓と受け継がれています。
この勤王の精神は、幕末の動乱期に尾張藩が
新政府側に立つ一因となりました。







二之丸広場の横を西へ進みながら、
右よりに天守、左端に東南隅櫓を見たところ。











西へ進んで行くと、内堀に囲まれた本丸があり、
本丸の南東の角に東南隅櫓が建ってます。

東南隅櫓は、慶長17年(1612)頃に建造され、
外観二重、内部三階の建物です。

二階の東面と南面には、
石落としを備えた千鳥破風が、
三階東側の屋根の軒には、
弓なり形状を持った格式の高い軒唐破風が
施されています。


東南隅櫓と、本丸の石垣と内堀を見たところ。












その反対側には、
「清正公石曳きの像」があります。

名古屋城天守の石垣普請は、
築城の名手、加藤清正に割り当てられ、
巨石を運ぶにあたり、
清正自ら石の上に乗り音頭をとったと
伝えられています。





本丸を囲う内堀と、反対側、南側は
ここまで外堀が入り込んできています。

「鵜の首」です。

外堀を内側へ引き込み、道幅を狭くして、
敵の侵入を阻む工夫です。






内堀に沿って、西へ進んで行くと、
本丸表二之門があります。











本丸表二之門の前の土橋へ向かいながら、
東南隅櫓を見たところ。











本丸表二之門の前の土橋の手前、正面から、
本丸表二之門を見たところ。










本丸表門の説明です。
本丸表二之門は、本瓦葺の高麗門で、本丸内側から2番目の門です。
本丸内側から1番目には、櫓門の表一門がありましたが、名古屋空襲で焼失しています。
一之門と二之門に囲まれて枡形がありました。

















本丸表二之門へ向け土橋を渡りながら、東側に
東南隅櫓を見たところ。











土橋から、内堀、西側を見たところ。

木の陰になってますが、
本丸の石垣の南西の角には、
西南隅櫓が建ってます。








土橋を渡り、本丸表二之門を入ると、
枡形があります。

その枡形の石垣の上には、多聞櫓が囲い、
石垣の切れ目には、櫓門の表一之門がありました。








この石垣の切れ目には、
本丸表一之門がありました。











枡形の中から、
高麗門の本丸表二之門を
ふり返って見たところ。










本丸表一之門跡を入り、北へ曲がった先には
復元された本丸御殿があります。











本丸表一之門跡を入って、東側には
東南隅櫓があります。
















復元された本丸御殿です。

本丸御殿は、
尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、
慶長20年(1615)に完成しましたが、
初代藩主の徳川義直は
元和20年(1620)に二之丸御殿へ移り、
以後、本丸御殿は徳川将軍専用の宿舎と
なりました。

昭和20年(1945)の名古屋大空襲で焼失しましたが、
平成30年(2018)に往時の姿が復元されています。

本丸御殿への入口から入ります。

大廊下へ展示されている
デジタル複製の襖絵です。

この襖絵は、名古屋大空襲で焼失する前に、
取り外されて残っていた襖をスキャンして、
金箔を貼った上に印刷したものです。





玄関の二之間(28畳)です。

本丸御殿を訪れた人がまず通され、
対面を待つ場所で、古くは遠侍と
呼ばれていました。

玄関は、二之間(28畳)、
そして、床や違棚がつく一之間(18畳)の
二部屋からなります。




玄関の二之間(28畳)です。

四周の壁や襖は、金地の障壁画「竹林豹虎図」で、
竹林と勇猛な虎や豹などが描かれています。









玄関の一之間(18畳)です。

床や違棚が見えます。










玄関の一之間(18畳)です。

虎は、勇猛さの象徴として、
戦国武将に好まれて描かれましたが、
実際の虎を見たことが無い絵師は、
虎のメスは豹柄と思い込み、
虎と豹が一緒に描かれていたようです。






表書院の三之間です。

表書院は、
正式な謁見に用いられた
本丸御殿で一番広大な建物で、
上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、
三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の
5部屋からなります。





表書院の二之間です。

三之間側の襖絵です。










表書院の二之間です。

ー之間側の襖絵です。















手前が、表書院の一之間です。

開けられた襖から、奥の上段之間が見えます。










手前が、表書院の一之間です。

開けられた襖から、
奥の上段之間の床と違棚が見えます。









表書院の一之間です。

二之間側の襖絵を見たところ。










表書院の上段之間です。

左側に、上段之間の床や違棚があります。

正面は、書院造りに見られる「帳台構え」です。








正面は、表書院の上段之間の「帳台構え」です。

この「帳台構え」を開けると納戸之間があります。

また、この「帳台構え」には、
左から右に大きく伸びる紅梅と、
雉が描かれています。






順路に従って、進んで行くと、
対面所があります。

対面所は、
身内や家臣との私的な対面や
宴席に用いた建物で、
上段之間(18畳)、次之間(18畳)、
納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の
四部屋から成ります。




手前は、対面所の納戸二之間、
奥は、納戸一之間です。

納戸一之間には、床が見えます。

納戸は、着替えをしたり、
寝室としてくつろいだりする部屋です。






対面所の次之間です。

初代藩主、徳川義直の正室、春姫の部屋として
使用されていました。

次之間と上段之間の障壁画は、
風俗画と呼ばれ、
京都や和歌山の四季の風物や名所が
穏やかな筆致で描かれています。




対面所の次之間です。

次之間には、和歌山から嫁いできた春姫が
寂しくないようにと、
和歌山の庶民の暮らしが描かれています。

中央は、塩をつくるために海水をくむ「塩汲」、
左側は、2艘の船をつないでつくった
舞台の上で、唄に合わせて舞う「船祭り」、
右下は、無病息災を祈る「弓矢神事」です。



対面所の上段之間です。

左側は、床です。
その向こうに違棚が見えます。

そして、上段之間には、
京都の風景が描かれています。






対面所の上段之間です。

左に違棚があり、右側は帳台構です。

帳台構の左側、左上は、上賀茂神社です。
その隣、そして、更にその隣には、
賀茂競馬(かもくらべうま)の様子が
描かれています。





対面所と上洛殿を結ぶ鷺之廊下です。

上洛殿に向かって鷺之廊下を進んで行くと
右手に雪積る柳に鷺が描かれており、
長押の上部まで図が広がっています。








鷺之廊下の左側、窓の下にも
鷺が描かれています。











鷺之廊下を渡り、上洛殿を囲む廊下から、
東を見たところ。

正面に表書院が見えます。









上洛殿の南側の廊下です。

上洛殿は、寛永11年(1634)の三代将軍 家光の上洛に合わせて
増築された建物で、
上段之間(15畳)、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、
松之間(20畳)、納戸之間(10畳)の六部屋からなります。

この上洛殿の廊下の天井は、
黒漆塗の格子に飾金具がついた格天井です。

廊下の途中、二之間前から一之間に移る境には、
彫刻欄間があります。






その彫刻欄間です。

青い鳥は、サンジャクで尾が長い瑞鳥です。
椿の花や、笹が描かれています。









上洛殿の廊下にあった釘隠しです。












釘隠しです。












上洛殿の観覧は、一旦、上段之間の横まで進み、
上段之間、一之間、二之間、三之間、梅之間と、
引き返しながら観覧します。















上洛殿の上段之間です。

左側に床があり、
その向こうに違棚があります。

上段之間と一之間には、
為政者の模範を示す
中国皇帝の様々な場面の「帝艦図」が
狩野探幽によって描かれています。




上段之間の違棚の右、正面は帳台構です。

この帳台構に描かれている絵は、
帝艦図の不要利口と言い、
饒舌だが中身が伴わない者を重用しようとした
漢の文帝を諫める場面です。







上洛殿の一之間です。
左側の開いた襖の向こうは、上段之間です。

一之間の東側、正面の襖絵は、
帝艦図の褒奨守令と言い、
優れた地方官を惜しみなく
厚遇する場面です。






上洛殿の一之間です。

一之間の東側の襖絵の上部の欄間には、
太鼓の上に載った鶏が見えます。
諫鼓鶏鳴の図です。

中国の聖王、禹(う)王は、
政治に対する不満を伝える為に鳴らす
太鼓を用意したが、
善政がしかれ、諫鼓がなる事は無く、
諫鼓の上に鶏が載っている場面です。


上洛殿の一之間を南から見たところ。

開いた襖から、奥の上段之間が見えます。
また、上段之間は、一之間より、
一段高くなっているのが、 わかります。

上段之間と一之間の間の欄間は、
鶴と亀の彫刻が施されています。

そして、天井は、
黒漆塗折上金具付格天井になってます。


上洛殿の二之間です。

二之間の北側、正面には床の間があります。

二之間の床の間には、狩野探幽による
琴棋書画図(書)が描かれています。

古来、中国では、琴、囲碁、書、画の4芸は、
高士の風流事として嗜まれ、尊ばれています。




上洛殿の二之間です。
二之間の床の間を見たところ。

天井は、黒漆塗金具付格天井で、
格子のひとつひとつに
天板絵が嵌められています。







上洛殿の三之間です。

三之間には、
狩野探幽による四季花鳥図が描かれています。

三之間の北側、正面の襖絵は、
四季花鳥図のひとつ、
雪中梅竹鳥図です。

梅が咲き始める春への期待感が
描かれています。


そして、三之間の西側の襖絵は、
四季花鳥図のひとつ、
芦鷺瀑辺松樹図です。

夏の渓流と蓮が描かれています。

天井は、二之間と同様に
格子に天板絵が嵌められた
黒漆塗金具付格天井になってます。




上洛殿を囲む廊下を引き返して行くと、
梅之間があります。

梅之間は、将軍をもてなす為の
尾張上級家臣の控えの間で、
上洛殿と共に増築されました。

東側に床の間があり、
その壁には金箔障壁画として、
雪中の梅が描かれています。



梅之間です。

左側に、雪中の梅が描かれた床の間があります。










梅之間の西の壁には、
紅梅が描かれています。











上御膳所です。

上御膳所は、
上台所で調理された料理を
温めなおすのに使用された場所です。

料理を温めるのに使用した
囲炉裏があるところを御膳場と呼び、
その横に上之間と御上段と言う部屋があります。




上御膳所の御前場の横には
手前に上之間があり、
その奥の小さな部屋が御上段です。










対面所の納戸一之間です。
対面所の上段之間の北側に位置します。

尾張藩主が最後に身支度を整えられた部屋です。

納戸の障壁画は、山水花鳥図です。

西側の面が床の間で、松が描かれており、
その横、左側に紅葉が描かれ、
水鳥が遊んでいます。



対面所の納戸二之間です。

身内や家臣が控える待合の部屋です。

開けられた襖から、納戸一之間が見えています。








本丸御殿の出口へ向かって行くと、
「木造天守に使用する木材(月山松)」の
展示があります。

現在の天守は、戦後、再建された
鉄筋コンクリート造の建物ですが、
再建から半世紀が経過し、老朽化が進み、
耐震性の確保の課題から、
木造天守の復元が進められています。
その木造天守に使用する予定の
松材根元部分の輪切り材です。
岩手県奥州市の月山神社が保有する
境内山林で伐採された推定樹齢350-400年の
年輪が緻密で真っすぐな松材です。

この輪切り材には、2023年のWBC直前に貰った岩手県奥州市出身の
大谷翔平選手のサインが入ってます。

本丸御殿を出て、そのまま北へ進んで行くと
本丸東門跡があります。

この石垣の上には、
櫓門の本丸東一之門がありました。








本丸東一之門を出ると、枡形があり、
その先に高麗門の本丸東二之門がありました。

この本丸東二之門を含めた本丸東門は、
名古屋大空襲で焼失し、
本丸東二之門跡には、
同じ高麗門の二之丸東二之門を移築しています。

その移築された旧二之丸東二之門です。




本丸東二之門を入ると、
枡形を越えた向こう正面に
清正石があります。

築城の際には、「丁場割り」と言って
大名ごとに持ち場が決められており、
加藤清正は、天守台の石垣を担当し、
熊本から約2万人を引き連れてやってくると、
わずか3ヶ月足らずで工事を終えたと
伝えられています。

清正石は、
大きさは約8畳敷き、重さ推定10トンとされる名古屋城で最大の巨石で、
加藤清正が運んだと言われてますが、この石垣の施工大名は黒田長政なので、
近代に創作された説話と言う事です。

本丸の天守閣を眺められる場所へ戻り、
天守閣を見上げたところ。

天守閣の左下に、小天守閣が見えます。

小天守閣の手前、下には、
本丸御殿の上台所が見えます。






本丸御殿です。

中央辺りは、
本丸御殿の下御膳所です。









中央に天守閣、左端は小天守閣です。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、
慶長8年(1603)に幕府を開いた後、
慶長15年(1610)に、
加藤清正、福島正則などの大名に命じ、
公儀普請として名古屋城の築城を開始します。
家康の子、義直が初代藩主として名古屋城へ入り、
盤石の体制を整えた名古屋城から、
大阪冬の陣、夏の陣へ出陣しました。



名古屋城の最上層の屋根の上には、
金の鯱が載っています。

北側の雄の金鯱です。
ちなみに南の金鯱は雌です。

金の鯱は、徳川家の権威を誇示してきましたが、
空襲で焼失し、
現在は復元された2代目の金鯱が
屋根に載ってます。



天守閣へ向け進んで行きます。

















天守閣へ向け進みながら、
本丸御殿をふり返って見たところ。

大きな屋根が3つ並んでおり、
左から、中之口部屋、下御膳所、対面所です。








天守閣へ近づき、
東、南よりから見上げたところ。
















天守閣の南に位置する小天守閣です。
北東から見上げたところ。

天守閣も、小天守閣も、
耐震性の問題で、閉鎖されており、
中へ入る事はできませんでした。







天守閣を南東の下から、見上げたところ。

















天守閣の東側、北よりに、
天守横から北へ抜ける
不明門(ふめいもん)があります。

不明門は、多聞塀の下をくぐる小さな埋門です。

「常に鎖して開かず」から
不明門(あかずもん)と言う意味で、
本丸御殿の大奥へ通じる
秘門となっていました。

この不明門の右側に、御殿椿が植えられています。
空襲で焼けて枯れたと思われていた根株から新芽が出て生き続けています。

その不明門を北へ抜けると内堀があり、
内堀に架かる土橋の上から、天守閣を見上げたところ。
















内堀に架かる不明門へ続く土橋の上から、
内堀の東側を見たところ。











土橋の上から、天守閣を見上げたところ。

















土橋を渡り、
多聞塀の下をくぐる小さな埋門の不明門を
ふり返って見たところ。










不明門から土橋を渡ると、
御深井(おふけ)丸です。

少し東へ進んで、
天守閣をふり返ったところ。








不明門から土橋を渡り、東へ進むと、
塩蔵門跡があります。

御深井丸の東側には、
塩蔵構と呼ぶ小さな曲輪があり、
塩等を保存する塩蔵がありました。
その塩蔵構と御深井丸を結ぶ枡形を配した門が、
塩蔵門です。





塩蔵門から西へ進みながら、
天守閣を見たところ。
















御深井丸には、名古屋城が
鉄筋コンクリート造で再建される際に、
天守台から移設された天守礎石があります。










その天守礎石の横には、
島根県松江市にあった団原古墳の石棺式石室が
あります。

昭和11年に
名古屋の古美術商の長谷川長宜堂が石室を購入し、
名古屋へ輸送等、変遷を経て、
長谷川氏から名古屋市へ寄贈されています。





その団原古墳の石棺式石室です。












天守礎石の北側から、
御深井丸の北側を囲む外堀が見えます。











内堀に沿って西へ進み、
天守台の石垣を、北西から見たところ。











南を向いて、内堀を見たところ。

内堀は、空堀です。















天守閣を北西から見たところ。

















西、少し南よりから、
天守閣の西面を見たところ。
















天守閣と、天守閣の南の小天守を結ぶ
橋台です。

多聞櫓ではなく、橋台で結んでいるのは、
橋台の両側を、燃えにくい土塀にする事で
防火帯としての機能を持たせる為です。

但し、土塀は多聞櫓に比べ、
敵に対する防御力が低い為、
土塀の軒先に剣を並べています。
その剣を並べた土塀を、剣塀と呼んでいます。


その剣塀です。

土塀の軒先に、
錆びてはいますが、剣が並んでいます。









剣塀の説明です。












天守閣を南西から見たところ。

天守閣と小天守を結ぶ橋台が、
右側に見えます。









内堀に沿って、南へ進んで行くと、
西側から外堀が入江のように
入り込んでいます。

「鵜の首」です。

「鵜の首」は、
外堀を内側へ引き込み、道幅を狭くして、
敵の侵入を阻む工夫です。

この「鵜の首」の北側は、御深井丸で、
南側は、西之丸です。

内堀に沿って南へ、西之丸へ入ります。

南へ進みながら、天守閣をふり返ったところ。










内堀の南西の角から、
東を向いて、本丸の南側の内堀を見たところ。

左上は、
本丸の南西角にある西南隅櫓の低層部です。

中央には、
本丸表二之門へ渡る土橋が見えます。





南側から、本丸の西側の内堀を見たところ。

















西之丸から天守閣を見たところ。












西之丸にある「西の丸 御蔵城宝館」です。

外観は、
西之丸にあった三番蔵と四番蔵の外観が
再現されています。

名古屋城の歴史の紹介や、
国指定重要文化財名古屋城本丸御殿障壁画を
はじめとした名古屋城所蔵品等の
展示がされています。

但し、訪問した際は、展示室の制約がかかっており、
展示室を見る事はできませんでした。

「西の丸 御蔵城宝館」にあった名古屋城内郭絵図です。
このマップは、(株)文化環境計画研究所によって制作されています。






















「西の丸 御蔵城宝館」を出て、
南へ進むと、正門があります。

正門は、
離宮時代(明治26年ー昭和5年)の呼び方で、
江戸時代は榎多門と呼ばれていました。
その榎多門は、
明治24年(1891)の濃尾大地震で倒壊した為、
江戸城の蓮池門を移築してました。
しかし、名古屋大空襲で焼失した為、
現在の正門は、外観を復元したものです。


正門を東から西に抜け、
枡形内を南へ折れて進みながら、
北をふり返ったところ。

枡形内に埋門が見えます。
後世に追加されたもの?







正門を出て、南へ折れて、進んで行くと、
外堀があります。

外堀に架かる土橋を渡りながら、
東を見たところ。

この辺りは、熱田台地の上に位置する為、
外堀は、空堀です。





外堀に架かる土橋を渡り、
外堀に沿って、西へ、
熱田台地を下って行きます。

坂を西へ下って行くと、
三之丸の巾下門跡があります。







名古屋城の外堀の南西角辺りから、
西側の外堀を見たところ。

熱田台地を下った場所の為、
水堀になってます。








西側の外堀に沿って、北へ進みながら、
天守閣を見たところ。











天守閣を見たところ。

また、西之丸と御深井丸の境となる鵜の首が、
城内へ向けて伸びる切れ込みが見えます。









北へ進みながら、
天守閣と鵜の首を見たところ。











北へ進みながら、鵜の首を見たところ。

鵜の首の右側が西之丸で、
左側が御深井丸です。









外堀に沿って北を見たところ。

御深井丸の北西角に、
西北隅櫓が見えてきます。









西北隅櫓です。

御深井丸の北西の角に西北隅櫓が建ってます。

西北隅櫓は、元和5年(1619)頃に建造され、
外観三重、内部三階の建物です。

北面と西面には、石落としを備え、
各面には、千鳥破風が施されています。




西北隅櫓を西から見たところ。












西北隅櫓を北西から見たところ。












西北隅櫓を北、少し西よりから見たところ。












北側の外堀を、西から見たところ。












北側の外堀に沿って、東へ進みます。

木立の中から、
天守閣の最上階がとび出して見えています。









御深井丸の北側の外堀は、お堀の幅も広く
なみなみと水をたたえており、
御深井大堀と呼ばれています。










御深井大堀越しに天守閣を見たところ。












東へ進みながら、天守閣を見たところ。

外堀は鍵型に折れ曲がりながらも、
東へ続きます。









お堀端には、早咲きの桜と一緒に、
天守閣を見たところ。
















早咲きの桜と、天守閣です。












外堀が、御深井丸へ切れ込んでいる
鵜の首があります。

この鵜の首より西、右側が御深井丸です。
東、左側が塩蔵構です。








外堀に沿って、東の端まで来ます。

名古屋城東側の外堀を、北から見たところ。

中央の三角屋根は、名古屋市役所本庁舎で、
その左に見える電波塔は、
NTTドコモ名古屋ビルです。






名古屋城北側の外堀を見たところ。

右よりに天守閣が見えます。










名古屋城東側の外堀に沿って、南へ、
熱田台地の坂を上って行きます。

名古屋城東側の外堀は空堀です。









二之丸東門跡です。












外堀に沿って南へ進み、
外堀の南東の角まで、戻ってきました。

交差点の斜めに渡ったところに
名古屋市役所本庁舎があります。








その交差点にあった地下鉄の名古屋城駅の
城門風入口です。






この後、バンテリンドーム、熱田神宮、等へ
行きました。




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