京都へは、子供の頃、学生時代と、何度か旅行で訪れた事があります。
直近では、2019年の5月に奈良・京都旅行で訪れました。
京都を全て見て周る事は無理ですが、
初めての場所や、改修中等で行ったけど見れなかった場所を少しでも見て周ろうと、
10月15日~19日の間(三泊四日)で再訪しました。
初日は、市比賣神社、五条大橋、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、八坂庚申堂、
そして、2019年の訪問時は、本堂が改修工事中だった
清水寺
、
京都霊山護国神社(坂本龍馬、中岡慎太良の墓所)、高台寺、圓徳院、安井金比羅宮、
建仁寺、錦天満宮、本能寺、等を周りました。
広島始発の新幹線で京都へ向かいます。
京都駅へ到着し、京都駅を北側に出て、
京都駅をふり返ったところ。
京都駅を北側に出ると、京都タワーが出迎えてくれます。
京都タワーです。
京都の街を照らす灯台をイメージし、
1964年に竣工しています。
地上100mにある展望室から、
京都三山に囲まれた古都京都の市街地を
見渡す事ができます。
京都駅の北側を東西に走る
塩小路通りを北へ渡り、
京都駅をふり返ったところ。
現在の京都駅ビルは、
平成9年(1997)に完成したものです。
南北に走る烏丸通りを北へ進みながら、
烏丸通りに沿って北を見たところ。
前方には、
東本願寺の御影堂門
が見えます。
京都駅近くの宿泊するホテルへ荷物を預け、
まずは、市比賣神社へ向かいます。
北方向へ進んで行くと、
東本願寺の渉成園があります。
但し、開園時間前の為、
後日、訪問する事にします。
更に北方向へ進んで行くと、
市比賣神社があります。
この入口を南へ入って行きます。
市比賣神社の入口から境内を見たところ。
この入口を抜けた先に見える鳥居の扁額には、
市比賣神社とあります。
延暦14年(795)、桓武天皇の勅命により、
創建された古社です。
祭神は全て女神で、
女人守護、女人厄除けの社として
信仰されています。
正面の鳥居を抜けて、左へ折れ、南を向くと、
稲荷神社の扁額が掲げられた鳥居があります。
市比賣神社の摂社の植松稲荷社です。
その右、西側に市比賣神社の社があります。
その社の前には、
姫みくじにもなっている無数の姫だるまが
並べられています。
並べられた姫だるまです。
この姫だるまが並べられた台の下は、
御神井「天之真名井(あめのまない)」と呼ばれる
井戸になってます。
この「天之真名井」は、
洛陽の七名水の一つに数えられ、
市比賣神社の神宝天目椀「天之八塩」で
汲み出された「若水」が
歴代天皇の産湯に用いられたと言う
伝承が残っているようです。
その「天之真名井」の前から、
境内全景を見たところ。
右側奥は、市比賣神社の社です。
左側は、植松稲荷社です。
植松稲荷社です。
社の両脇には、キツネが鎮座します。
市比賣神社の東側を南北に走る
河原町通りを北へ進むと、
五条通りへ出ます。
その交差点を渡っていると、
中央分離帯の東側、五条大橋の西側袂に
牛若丸弁慶像があります。
弁慶は、刀を奪い取る為に、武者に戦いを挑みながら、
京の街をさまよい歩いていました。
そして、あと一本で千本と言う時に、
五条大橋を笛を吹きながら橋を渡る牛若丸を
見つけます。
弁慶は戦いを挑みますが、
牛若丸は橋の欄干をひらりと飛び移り、
弁慶の長刀をかわします。
とうとう弁慶は降参し、牛若丸の家来になります。
その牛若丸は、後の源義経です。
当時の五条大橋は、現在の五条大橋の一本北に位置する松原橋あたりだったようです。
五条通りの北側歩道脇、五条大橋西詰にある
牛若ひろばです。
牛若ひろばには、
江戸時代後期の尼僧で歌人、そして、陶芸家の
太田垣蓮月の歌碑があります。
あすも来て 見んと
思へば 家づとに
手折るも をしき
山さくら花
太田垣蓮月の歌碑のすぐ東側には、
扇塚があります。
この地には、
平安時代に創建され、
扇の発祥地として知られる
御影堂と呼ばれるお寺が
ありました。
平安末期の一ノ谷合戦で、
平家の武将、平敦盛が亡くなった後、
敦盛の妻が夫の菩提を弔う為、
尼となって御影堂へ入り、
寺僧と共に扇を作ったと伝えられます。
五条大橋の西側袂から、
鴨川上流方向を見たところ。
五条大橋を、東へ向け渡りながら、
鴨川上流方向を見たところ。
その鴨川右岸に、木造三階建、総檜造りの
料理旅館「鶴清」が見えます。
昭和初期に築造されたという事です。
五条大橋を東へ渡り、
五条大橋をふり返って見たところ。
五条通りと平行に走る柿町通りを東へ進み、
大黒町通りを北へ入ると、
あじき路地があります。
そのあじき路地の入口です。
あじき路地です。
築100年を越える町屋に、
ものづくりをする若者が集まり住み、
活動が行われているようです。
路地には、
昔懐かしい井戸の手押しポンプが
残っています。
また、路地端には、
小さなお地蔵さんの祠もあります。
あじき路地を出て、
あじき路地の東へ位置する
六波羅密寺へ向かいます。
六波羅密寺です。
門を入り、正面に福寿弁財天、
右側に本堂があります。
六波羅密寺は、天歴5年(951)、
醍醐天皇第二皇子、光勝空也上人により
開創されました。
そして、空也上人は、
南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで、
凡夫愚人も極楽往生できると
口称念仏の思想を実践し広め、
多くの庶民を助けた事から、
市聖(いちのひじり)と呼ばれました。
本堂を南東から見たところ。
六波羅密寺は、空也上人没後、
荘厳華麗な天台別院として栄えます。
そして、平安後期、平忠盛が寺内の塔頭に
軍勢を止めてより、清盛、重盛に至り、
広大な境域内に平家一門の邸館が栄えます。
しかし、寿永2年(1183)、平家没落の時、
兵火を受け、諸堂は類焼し、
本堂のみ焼失を免れました。
現在の本堂は、貞治2年(1363)の修営で、
昭和44年(1969)に解体修理が行われています。
本堂を北東から見たところ。
本堂の正面に伸びる向拝は、
豊臣秀吉による本堂補修の際に、
附設されたものです。
本堂の南側には、
阿古屋塚と、平清盛公之塚が並んであります。
右端が阿古屋塚です。
歌舞伎 壇浦兜軍記「阿古屋」の中で、
平家の残党、悪七兵衛景清の行方を捜す為、
想い人で五條坂に住む白拍子、阿古屋を捕え、
代官庄司重忠は阿古屋を問い質します。
知らぬと答える阿古屋に、
詮議の為に弾かせた琴、三味線、胡弓の調べに
一点の乱れもない事に感動した重忠は、
景清の所在を知らぬ事が真実とし、釈放します。
阿古屋塚は、阿古屋の菩提を弔う為、鎌倉時代にされた石造宝塔です。
その下の台座は、古墳時代の石棺の石蓋が用いられています。
平清盛公之塚です。
平清盛公にまつわる供養塔と言う事です。
本堂の北西にある令和館です。
六波羅密寺には、たび重なる兵火を逃れ、
平安、鎌倉期の木造彫刻を代表する名宝が
残されています。
その内の平安期の薬師如来坐像や、
鎌倉期の空也上人立像や、平清盛坐像などが
展示されています。
境内に掲示されていた空也上人立像のポスターの写真です。
空也上人立像は、南無阿弥陀仏と念仏を唱えると、
一音一音が阿弥陀仏になったと言う伝説が
表現されています。
そして、左手に鹿の角のついた杖を持ち、
左手で鉦鼓を打ち、念仏を唱えながら、
大地を踏みしめています。
運慶の四男、康勝の作で、
像高は、わずか117cmですが、迫力が伝わります。
六波羅密寺から、松原通りへ出て、東へ進みます。
その松原通りに出たところにあった付近観光案内図です。
松原通りを東へ進んで行くと、
左手に六道珍皇寺があります。
六道珍皇寺の山門です。
六道珍皇寺の入口脇には、
小野篁卿𦾔跡の石碑と、
山門の前には、六道の辻の石碑が
あります。
山門の前には、六道珍皇寺の説明があります。
創建は平安時代で、真言宗東寺に属してましたが、
南北朝時代に建仁に属し再興され
現在に至ってます。
寺域は、古来からの葬送地、鳥辺野の麓で
入口付近に当たる事から、
冥界との境界「六道の辻」と称され、
お盆に帰る精霊は、必ずここを通るとされました。
六道珍皇寺の説明の足元にあった
謡曲 熊野 清水詣よりの一節です。
愛宕の寺もうち過ぎぬ 六道の辻とかや
げに恐ろしやこの道は めい土にかようなる
ものを
六道とは、仏教の教義でいう地獄道、餓鬼道、
畜生道、修羅道、人道、天道の六種の冥界をいい、
人は因果応報により、
死後はこの六道を輪廻転生します。
この六道の分岐点、この世とあの世の堺の辻が、
六道珍皇寺にあると信じられてきました。
山門を抜け、まっすぐ進むと、
正面に本堂が見えます。
右は、薬師堂です。
重文本尊 薬師如来坐像が安置されています。
奥へ向け進んで行くと、
必願成就の絵馬掛けがあります。
その向こうには、閻魔・篁堂があり、
更にその向こうには、鐘楼が見えます。
この鐘楼には、
毎年盂蘭盆にあたり精霊を迎える為に撞く
「迎え鐘」があり、
古来よりその音響が冥土にまで届き、
亡舎はそのひびきに応じて
この世に呼び寄せられると信じられています。
閻魔・篁堂です。
小野篁(802-852)は、
嵯峨天皇につかえた官僚ですが、
閻魔王宮の役人とも言われ、
昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていた
と言う奇怪な伝説があります。
そして、本堂背後の庭内には、
篁が冥土へ通うのに使った
「冥土通いの井戸」があります。
この閻魔・篁堂の右側に、小野篁卿 木立像が、
左側に、閻魔大王 木座像が安置されています。
鐘楼の反対側には、
多くのお地蔵様が並んでいます。
中央にたつ大きなお地蔵様は、大石地蔵菩薩です。
鳥辺山には、いつも骸を荼毘にふす煙が絶えず、
裾野一帯には火葬すらできない人々の
遺骸や髑髏が転がっていました。
こうした人の世の無常とはかなさを憂い、
亡者の魂魄の弔いと冥界での往生を願った
弘法大師空海が六道の辻に
一夜にして大きな石仏を刻みました。
正面は、本堂で、本堂の前の庭には、
三界万霊十方至聖の石塔婆があります。
本堂です。
その本堂の脇、東側に格子があり、
本堂の奥の庭に
小野篁が冥土へ通うのに使ったとされる
「冥土通いの井戸」を見る事ができます。
その格子です。
格子から、本堂横の庭を覗いて見たところ。
一見、井戸は、どこか?わかりにくく、
中央右の手水鉢と間違えそうになります。
と言う事で、手水鉢ではなく、本堂の奥を良く見ると
朱色の献灯の横に、井戸が見えます。
これが、「冥土通いの井戸」のようです。
六道珍皇寺を出て、清水寺へ向け、松原通りを東へ進みます。
途中、松原通りから北へ道をそれ、
八坂の塔(五重塔)や、その近くの八坂庚申堂へ寄ってみます。
八坂の塔(五重塔)を南西から見たところ。
八坂の塔(五重塔)を西から見たところ。
八坂の塔は、正式には「霊応山 法観禅寺」と言い、
臨済宗 建仁寺派に属します。
崇峻天皇5年(592)、聖徳太子が如意輪観音の夢告により
創建したと伝わります。
焼失と再興を繰り返し、永享8年(1436)に伽藍を焼失します。
現在の塔は、永享12年(1440)、
室町幕府 足利義教の援助により再建されたものです。
高さは46mあります。
八坂の塔(五重塔)の少し西側に、
八坂庚申堂があります。
八坂庚申堂は、正式には大黒山 金剛寺で、
天徳4年(960)に、浄蔵貴所が
青面金剛を本尊として創建しました。
表門の屋根の上には、
「見ざる、言わざる、聞かざる」の
三猿がのってます。
表門を入ると、正面に
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)を祀った
小さなお堂があり、
その向こう、木の陰に本堂が見えます。
お堂の周りには、カラフルな「くくり猿」が
無数に奉納されています。
「くくり猿」は、
猿が手足を縛られて動けない姿を現しており、
願い事を叶えるために欲を我慢する大切さを
教えているとの事です。
小さなお堂の中に祀られた
賓頭盧尊者です。
賓頭盧尊者は、お釈迦様の弟子の一人で、
また、十六羅漢の一人に位置付けられており、
なで仏として、自分の体の悪い部分と、同じ部位を撫でると、
撫でた部位の病気やケガが治るとされています。
本堂です。
本堂は、江戸時代の延宝6年(1679)に
再建されたものです。
本堂にも無数の「くくり猿」が奉納されています。
本堂です。
庚申信仰は、奈良時代に中国から伝わった
三尸(さんし)説の庚申(かのえさる)の日をもとに
猿を神徒と考える日本独自の信仰です。
人の体には、三尸と言う3種類の悪い虫が棲み、
庚申の日の夜、眠っている間に体から出て
天帝にその人の罪を告げ口しに行くと
言われています。
そこで、告げ口されないように、
庚申の夜は身を慎んで徹夜する信仰行事「守庚申」が
生まれました。
そして、カラフルな「くくり猿」です。
境内にあったお地蔵様です。
八坂庚申堂を出て、八坂の塔を見たところ。
松原通りへ戻り、東へ進むと、清水坂へ続きます。
その清水坂を東へ上って行くと、
坂の上に清水寺の三重搭が見えてきます。
清水坂は、平日ですが多くの人でごった返しています。
清水寺に向け、清水坂を上って行きます。
清水寺の仁王門下の広場へ到着しました。
左が仁王門で、
右側手前が西門、
その向こうに三重搭が見えます。
仁王門は、応仁の乱で1469年に焼失し、
1500年前後に再建されたもので、
正面幅約10m、側面幅約5m、棟高約14mあります。
清水寺は、2008年から2021年にかけて、
平成の大修理が行われました。
2019年に清水寺を訪問した時
は、
本堂素屋根の檜皮葺替工事で
覆い屋に覆われていて、
工事が完了した後、ぜひ再訪をしたいと
考えていました。
清水寺の仁王門下の広場の横には、
馬駐(うまとどめ)があります。
応仁の乱(1467-77)の兵火で焼失し、
室町時代後期に再建されたものです。
この馬駐は、
5頭の馬を繋ぐ事ができるようになっており、
かつて、貴族、武士は、ここで馬を繋ぎ、
歩いて諸堂を参詣しました。
また、馬駐に馬を繋ぐ鐶の向きが、
二か所のみ、異なっており、
馬駐の逆鐶(さかさかん)と呼ばれ
清水寺七不思議に数えられています。
仁王門の北西に位置する地蔵院善光寺堂です。
堂に向かって右手前の赤い頭巾と前掛けのお地蔵様は、
願い事がある方向に首を回して拝めば
願いが叶えられると言う
首ふり地蔵です。
仁王門へ続く階段の下の狛犬です。
一般的に狛犬と言えば、一方が口を開けた阿形、
一方が口を閉じた吽形ですが、
この狛犬は、両方とも口を開けた阿形です。
よって、阿阿の狛犬と呼ばれ、
清水寺七不思議に数えられています。
ちなみに、狛犬は、古代インドの獅子像を起源とし、
仏教伝来初期は、左右の差は無く、
平安時代に左右の姿が異なるように
なったようです。
仁王門へ上がって行きます。
その北西角にあった明治初期の基準点標石です。
明治8年(1875)、
内務省地理寮(後に地理局)により、
英国の測量技術を導入し、
京都市街地図を作成する為に設置されました。
仁王門です。
この格子の中で、仁王様が、門を守護しています。
この仁王門の柱を固定する為に、柱に孔を開けて、
柱の間を水平方向に掛け渡す部材の貫(ぬき)があります。
腰の高さにある貫を腰貫と言い、
仁王門の南東角の柱の穴を通した貫の端末が丸く凹んでいます。
この腰貫の端末を叩くと、なぜか?
対角にある腰貫に音が伝わり音が響くと言う事です。
この音が響く腰貫も、清水寺七不思議に数えられています。
仁王門の横から、西門、
そして、その向こうの三重塔を見上げたところ。
西門、そして、三重塔横の階段を
上って行きます。
西門は、寛永6年(1629)の火災で焼失し、
寛永8年(1631)に再建されたもので、
天皇の勅使だけが通行を許される勅使門です。
階段を上って行くと、左手に鐘楼があります。
鐘楼の向こうには、仁王門が見えます。
鐘楼です。
階段を上って、前に進むと、右手に、
平家の侍大将、平景清、通称、悪七兵衛が
爪で刻んだと伝わる景清爪形観音の石灯籠があります。
この石灯籠の横の石標に、
「かげきよ」、「くわんぜおん」の文字を見る事ができます。
この石燈籠の火袋の中を目を凝らして見ましたが、
観音様を見つける事はできませんでした。
晴れた日には、
線刻された観音様を見る事ができるようです。
火袋の穴の縁にあるノミの跡の筋が、
爪で刻んだように見えなくもありません。
私は見る事ができませんでしたが、
景清爪形観音は清水寺七不思議に
数えられています。
その景清爪形観音の石灯籠の東側に三重塔があります。
三重塔の創建は847年で、
現在の搭は江戸時代の1632年に徳川家光によって
再建されたもので、
約30mの高さがあります。
そして、三重塔の各層の屋根の四隅には、鬼瓦がありますが、
南東のみ龍の鬼瓦になっており、
清水寺七不思議に数えられています。
写真は、南西の鬼瓦です。
南東の鬼瓦です。
龍の顔がうまく撮影できてませんが、
龍の顔の周りに胴体が巻き付いています。
2019年の訪問時
は、上手く龍の顔を撮影してますので、
参照ください。
北東の鬼瓦です。
北西の鬼瓦です。
三重塔から東へ、轟門へ向かいます。
中央が轟門で、左が経堂です。
轟門の前には、水が流れてないのに
轟橋が架かっています。
これは、手水鉢の水を流したとか、
かつては、轟川が流れていたとか、諸説があり、
清水寺七不思議に数えられています。
その轟橋の横には、梟の手水鉢があります。
龍の口から、水が流れ出ていますが、
一見、梟は見当たりません。
手水鉢の下の台座を覗き込んで見ると、
観音様を囲んで、四方に梟が彫られています。
これも、清水寺七不思議の一つと言う事です。
手水を使い轟門へ向かいます。
この轟門は、門の扉がありません。
お釈迦様の教えを四方万里に轟かせようと、
轟門と名付けられており、
扉も必要無いとされたのかもしれません。
これも、清水寺七不思議の一つとなってます。
本堂へ向け続く回廊です。
本堂へ向け進みながら、
南側の山肌を見たところ。
小さく子安塔が見えます。
正面は本堂で、1633年に再建されたものです。
2019年の訪問時
には、
平成の大修理(2008-2021)で
本堂は覆い屋に覆われていましたが、
今は、工事が完了し、覆い屋もとれ、
スッキリしています。
本堂へ入る手前には、
弁慶の鉄の下駄と、錫杖が置かれています。
持ち上げるとご利益があるという事で、
修学旅行の生徒達が、チャレンジしていました。
本堂へ入ったところで、
出世大黒天が出迎えてくれます。
大黒天は、
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身、マハーカーラ
(マハーは偉大な、カーラは黒)が仏教にとり入れられました。
シヴァ神は、破壊と創造の神ですが、
大黒天は、仏教の守護神となり、財幅、豊穣の神となって、
七宝が入った大きな袋を背負い、何でも出す事ができる
打ち出の小槌を持っています。
本堂に入り、廊下を進んで行くと、
前方に舞台、舞台越しに奥の院が見えてきます。
また、舞台の下には、音羽の瀧が見えます。
舞台と奥の院、眼下に音羽の瀧が見えます。
南には、子安搭が見えます。
この子安搭は、
聖武天皇、光明天皇の祈願所と伝えられますが、
創建年代は不明で、
現在の建物は、1500年に再建されたものです。
本堂です。
1633年に再建された木造建築です。
本堂の前には、舞台があります。
舞台では、
清水寺の本尊の観音様に芸能を
奉納する場所です。
古くから、雅楽や、能、狂言、歌舞伎などの
伝統芸能が奉奏されてきました。
本堂は、音羽山の急峻な崖に建築されており、
舞台の高さは約13mあります。
これは、日本古来の「懸造り(カかけづくり)」と呼ばれる工法で、
格子状に組まれた木材同士が支え合い
建築が困難な崖でも耐震性の高い構造を可能にしています。
舞台の南西の端から、懸造りをのぞき込んだところ。
舞台の上から、南西方向の景色を見たところ。
中央に京都タワーが見えます。
京都タワーは、
京都市街で一番高い地上100mの展望を
楽しめます。
舞台から眼下に音羽の瀧を見たところ。
舞台の上、西方向を見たところ。
多くの観光局が歩いています。
舞台の南東の端から、懸造りをのぞき込んだところ。
舞台の上から、南西の市街地を遠望したところ。
本堂の外から、外陣を見たところ。
本堂の外から、外陣を見たところ。
本堂の東の端から、東側、
左端に釈迦堂、中央に阿弥陀堂、
その向こうに奥の院を見たところ。
本堂を出て、本堂の北側に
地主神社があります。
但し、地主神社は
社殿修復工事の為、閉門中でした。
(2022年8月から約3年間の予定です。)
拝殿の天井の狩野元信による丸竜を
見たかったのですが、
次の機会に見たいと思います。
釈迦堂の前を南へ向かいます。
左端が釈迦堂で、中央が阿弥陀堂です。
この阿弥陀堂は、
法然上人が唱導した常行念仏が
日本で最初に行われた場所です。
阿弥陀堂の前を過ぎて、奥の院へ向かいます。
左端が阿弥陀堂で、中央が奥の院です。
奥の院は、
本堂と同時期の1633年に再建されたもので、
懸造りの舞台があります。
奥の院の舞台へ向かいながら、本堂を見たところ。
2019年の訪問時
は、
平成の大修理(2008-2021)で
本堂は覆い屋に覆われていたので、
覆い屋に覆われていない本堂が見れて
来た甲斐があります。
奥の院の舞台から、本堂を見たところ。
奥の院の舞台から、
南西の市街地を見たところ。
中央に京都タワーが見えます。
京都の街を照らす灯台をイメージして
つくられました。
奥の院の舞台から見た本堂です。
奥の院の舞台越しに見た本堂です。
奥の院から、道なりに南へ進みながら、
本堂を見たところ。
市街地の景色を見ながら、進みます。
三重搭から、轟門、回廊、本堂と、
清水寺全景を見たところ。
木立の間から、三重搭を見たところ。
今回は、子安搭へ行くのは、スキップし、
次は音羽の瀧へ向かいます。
赤い前掛けのお地蔵様が祀られていました。
音羽の瀧へ向け、坂道を下って行きます。
音羽の瀧です。
音羽の瀧は、清水寺の開創の起源で、
寺名の由来となった瀧です。
流れ出る清水は、古来、黄金水、延命水と呼ばれ、
清めの水として尊ばれてきました。
音羽の瀧です。
音羽の瀧は、3筋に分かれ、流れ落ちます。
音羽の瀧の横から、
音羽山の急峻な崖に建つ本堂の懸造りを
見上げる事ができます。
本堂の舞台の高さは約13mあります。
音羽山の崖の下を、西へ進みながら、
本堂の舞台の懸造りを見上げたところ。
音羽山の崖の下を西へ進みながら、
本堂の舞台を見上げたところ。
崖に沿って、西へ進んで行くと、
三重搭の下へ出ます。
三重搭を見上げたところ。
その先、右手に放生池があります。
その放生池と反対側に、
清水寺十一重石層搭が建ってます。
清水寺は、
室町時代中期の文明元年(1469)の応仁の乱による兵火や、
江戸時代前期の寛永6年(1629)の火災で、
多くの伽藍を焼失しました。
その後、徳川家光の寄進によって伽藍の再建が始まり、
十一重石層搭は、寛永11年(1634)に伽藍の再建を祈願し、
建立されました。
清水寺を出て、清水坂を下って行きます。
清水坂を下ります。
途中、産寧坂に分かれ、産寧坂を下ります。
産寧坂は、
かつて、子安搭が清水寺の仁王門の前にあった事から、
子安搭へ通ずる道として産寧坂と呼ばれるように
なったようです。
産寧坂の階段を下りて、道なりに進みながら、
階段方向をふり返って見たところ。
産寧坂を下って行くと、八坂の搭が見えてきます。
八坂の搭です。
この後、坂本龍馬、中岡慎太郎の墓を訪ね、
高台寺、圓徳院、安井金毘羅宮、建仁寺を周りました。