京都は、何度も訪れた事がありますが、それでも、訪問できて無い場所があります。
京都を全て見て周る事は無理だと思いますが、
そして、昨年(2024年)10月に訪問したばかりですが、
再度、三泊四日で再訪しました。
二日目は、
伏見稲荷
、光明院、分陀院、東福寺、泉涌寺、
二条城
を訪問します。
伏見稲荷へのお参りと、
「お食事処 稲福」さんで、
すずめと、うずらの焼き鳥を食べようと、
出かけました。
JR京都駅へ向かいます。
京都駅の手前、ホテルグランヴィア京都の前に、
羅城門復元模型があります。
その羅城門復元模型越しに京都タワーを見たところ。
その羅城門の説明と、復元模型です。
羅城門は、平安時代、
平安京の朱雀大路の南端に建てられた
平安京の正門です。
しかし、暴風により、2度倒壊し、
980年以降、再建されることは
無かったと言う事です。
JR奈良線のホームで、
電車を待つ間に見た
京都駅のホームの様子です。
JR奈良線の稲荷駅で下車し、
駅前から続く表参道の入口、右横の
キツネ像です。
口には稲穂をくわえ、
躍動しています。
表参道の入口の大鳥居(一番鳥居)です。
大鳥居を抜け、表参道を進んで行くと
参道の先に二番鳥居があります。
表参道の左側に、
小さな社殿が3つあります。
左から、熊野社、藤尾社、霊魂社です。
二番鳥居をくぐって進むと、
楼門があります。
この楼門は、昭和の解体修理で、
豊臣秀吉が、母の大政所の
病気平癒を願った墨書が発見され、
天正17年(1589)に
秀吉によって造営された事が
確認されています。
楼門の前、向かって
左側のキツネ像です。
鍵を口にくわえています。
鍵は「玉鍵信仰」に由来し、
玉は稲荷神の霊徳の象徴で、
鍵はその霊徳を身に付けようとする
願望とされています。
楼門の前、向かって
右側のキツネ像です。
玉を口にくわえています。
「玉鍵信仰」の玉で、
稲荷神の霊徳の象徴です。
楼門の左右は、随神が守っています。
向かって左側の随神です。
向かって右側の随神です。
楼門をくぐると、外拝殿があります。
現在の外拝殿は、
天保11年(1840)に建立されました。
そして、外拝殿の奥、東側には
内拝殿かあり、
続いてその奥には本殿があります。
伏見稲荷大社は、
全国にある稲荷神社の総本宮です。
玉城国風土記には、
伊呂具秦公が的にして射た餅が
白鳥と化して飛び翔けり、
留まった山の峰に稲が生じたと言う
奇瑞によってイナリと言う社名に
なりました。
また、社記には、元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、伊呂具秦公が勅命をこうむって、
三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのが始まりと伝えています。
祭神は、
下社(中央座):宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
中社(北座) :佐田彦大神(さたひこのおおかみ)
上社(南座) :大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
そして摂社は、
田中社(下社摂社)(最北座):田中大神(たなかのおおかみ)
四大神(中社摂社)(最南座):四大神(しのおおかみ)
以上の五社が一宇相殿に祀られています。
そして、内拝殿、本殿前のキツネ像です。
内拝殿、本殿に向かって左側のキツネ像です。
稲穂をくわえています。
稲穂をくわえているのは、
稲荷神が五穀をつかさどる農業神に由来すると
考えられています。
内拝殿、本殿に向かって右側のキツネ像です。
このキツネは、何もくわえてませんが、
神様の全般的な守護や導きを象徴していると
考えられています。
キツネは、
古くから、稲荷神(宇迦之御魂大神)の神使として、
信仰されてきました。
稲荷神は、農業の守護神であり、
特に稲作を見守る神様で、
農業が中心の時代において、
稲荷神は五穀豊穣や村の繁栄に欠かせない
信仰の対象でした。
キツネは、穀物を荒らす害獣を
退治する動物として知られ、
稲荷神のお使いとされています。
内拝殿、本殿の横、北側から東を見ると、
正面に権殿があり、
その横には、稲荷山へ向かう参道の
鳥居が見えます。
権殿は、本殿等の社殿を修理する際に、
一時的に御神体をお遷しする為の
社です。
稲荷山へ向かう参道の鳥居の手前、
向かって左側のキツネ像です。
口には、巻物をくわえています。
巻物は、知恵の象徴で、
神仏習合時代に用いられた経文とも
言われています。
鳥居をくぐり、階段を上って行くと、
正面に玉山稲荷社があります。
玉山稲荷社に向かて左側の建物は、
供物所と呼ばれ、
稲荷山に鎮まる神様へお供えをする
建物です。
玉山稲荷社に向かて右側の建物は、
文久2年(1862)に建立された
神馬社です。
玉山稲荷社の前を、右に進むと、奥宮があり、その先に千本鳥居が続きます。
玉山稲荷社の前を、右に向かうと
鳥居があり、鳥居を抜けた階段の先に
奥宮が見えます。
但し、2019年に奥宮の前を通って、
千本鳥居を抜けた事があるので、
奥宮方向へは行かずに、
玉山稲荷社の前を左へ、北へ進みます。
右、東向けて、分かれ道になっており、
右に曲がったところにあったキツネ像です。
稲穂を口にくわえています。
道を挟んで反対側のキツネ像です。
このキツネ像は、
何もくわえていません。
曲がらずに、北へまっすぐ進むと
赤い玉垣に囲まれたエリアの前に、
社殿はありませんが、赤い鳥居がありました。
何だろうと思いながら、通り過ぎると
大八嶋大神の碑があります。
大八嶋社の説明によると、
古来より、社殿は無く、
磐境(いわさか)を以って、神鎮まる清浄の地とし、
朱の玉垣で囲い禁足地としているとの事です。
大八嶋社から、
先ほどキツネ像のあった東へ向けた分かれ道に戻り、
東へ進んで行きます。
また、キツネ像があります。
鍵を口にくわえてます。
道の反対側のキツネ像です。
玉を口にくわえています。
道なりに山を上って行くと、
千本鳥居を横から見る事ができます。
道が千本鳥居に突き当たる所は、
少し千本鳥居が途切れており、
千本鳥居を横切って、反対側へ出て
千本寄居の反対側の側面を見たところ。
千本鳥居が途切れた所から
千本鳥居が二筋に分かれます。
その一方の千本鳥居の内部です。
千本鳥居を横から見て、
上って来た道を戻ります。
玉山稲荷社の前を北に進み、
東へ向けた分かれ道へ入ったところにいた
キツネ像です。
何もくわえてないキツネ像を正面から見たところ。
本殿の横を通って、
楼門の横の階段をおります。
楼門を北西から見上げたところ。
伏見稲荷大社へお参りした後は、
鳥居を抜けて、裏参道へ向かいます。
目当ての「お食事処 稲福」です。
実は学生時代にも来て、
名物のすずめや、うずらの丸焼きを
食べた事がありますが、
どんなだったか忘れてしまって、
もう一度食べて見たいと思いやって来ました。
店頭で焼いていた
すずめの焼き鳥です。
店内に入ると、
役者さんや芸人さんのサイン色紙が
飾ってあります。
この色紙は、
お笑いコンビ、銀シャリの
橋本さん、鰻さんのサインです。
歌舞伎役者の
四代目 中村橋之助さんのサインです。
そして、注文した焼鳥の
すずめ一串、うずら一串、
いなり寿しです。
すずめの焼き鳥です。
頭や嘴も見分けがつき、
食べれない人もたくさんいそうですね。
店員さんの説明によれば、
全て食べれるように焼いてある
と言う事でした。
うずらの焼き鳥です。
うずらは、すずめに比べて、
一回り以上でかいです。
うずらも全て食べれる
と言う事でしたが、
でかいだけあって、
骨の一部は食べれませんでした。
そして、これも名物のいなり寿しです。
「お食事処 稲福」を出て、
次は光明院へ向かいます。
JR奈良線と平行に走る本町通りを
北へ進みます。
途中、左手に、
伏見稲荷大社の境外摂社の田中神社が
あります。
田中神社を過ぎると、
右に折れて、東に進みます。
正面は、光明院の山門です。
山門への階段の前、
右側に摩利支尊天、
左側に雲嶺庭の石標がたってます。
そして、山門には、
「昭和名園 波心庭」の表札がかかってます。
山門への階段の
横にあった
光明院の説明です。
東福寺の塔頭として、
明徳2年(1391)、
金山明昶が
創建した寺院です。
苔が美しく、
虹の苔寺とも
称されています。
山門を入って、左を向くと、
雲嶺庭があり、
その先の建物には、
戦場の守護神、摩利支尊天が
祀られています。
方丈の内部です。
方丈の中を通して、
その先に庭が見えます。
方丈の南側の縁から庭を見たところ。
この池泉式の枯山水庭園は、
昭和14年(1939)の重森三玲による
作庭の波心庭です。
庭の背後の高台、中央左よりの
木の陰に見える建物は、
重森三玲設計の茶亭、
蘿月庵(らげつあん)です。
波心亭の北に位置する
観庭楼の一階から、
波心庭を見たところ。
波心庭は、平安式の州浜型の枯池に
多数の石組を配し、大海を表す白砂に、
三ヵ所の三尊石組から放射線上に
仏のごとく立石が並んでいます。
ここからは、三ヵ所の三尊石組として、
すぐ目の前に北側、左奥に東側、
右側、本堂の前に南側の三尊石組が
確認できます。
観庭楼の一階、東よりから見ると、
右端は方丈で、その隣、左側は本堂です。
左下は、蹲踞です。
方丈の波心亭に面した東側の縁側です。
方丈の波心亭に面した南側の縁側です。
方丈と本堂の間の建物、書院から、
波心庭を見たところ。
本堂の縁側から波心庭を見たところ。
波心亭の背後には、
サツキやツツジが、雲紋になぞらえて
刈りこまれています。
その雲の上に、
ここからは角度的に見えませんが、
月を形どる蘿月庵が配置されています。
本堂の縁側から波心庭、
左に方丈、その向こうに観庭楼を
見たところ。
書院の西側、雲嶺庭を向いた丸窓です。
拝観受付をして入った時に見た方丈の内部です。
扁額には、光明とあります。
光明院を出て、
光明院の前の道を北へ進んで行くと、
東福寺の六波羅門があります。
六波羅門を入った奥に
大きな三門が見えます。
六波羅門を入らずに、
次は、分陀院へ向かいます。
東福寺の境内に沿って北上します。
北上して行くと、
東福寺の日下門があります。
その日下門の前を、
左に、西へ折れて進むと
左手に分陀院(ふんだいん)の
山門があります。
表札に、分陀院だけでなく
雪舟寺、雪舟庭園の表札も
かかってます。
分陀院の山門です。
東福寺の塔頭の一つ、分陀院は、
元享年間(1321-24)に、
一條内経により、
東福寺開山、円爾の法孫にあたる
定山祖禅を開山として、
創建されました。
分陀院の院号は、
一條内経の法号「分陀利華院」に
ちなみます。
分陀院の山門を入り、進んで行くと、
左手に拝観入口と、
その横に唐門があります。
(唐門は、右端に一部が写っているだけで、
撮影できてません。)
元々、江戸時代、宝暦5年(1755)に、
火災にあい焼失後、
桃園天皇の皇女、恭礼門院の旧殿を賜り
再建されています。
現在の建物は、
明治天皇の皇后、昭憲皇太后からの
御内帑金により改築した物です。
建物の内部です。
襖絵は、御所から賜った物と
言う事です。
南側縁側から、南庭を見たところ。
当時の一條家当主、一條兼良によって、
「亀の画」の依頼を受けた雪舟は、
画ではなく、
石組により亀島を主体とした
枯山水庭園を作庭したと伝わります。
分陀院は、水墨画で有名な画僧、
雪舟の名庭を伝える事で、
雪舟寺とも称されています。
中央は、その亀島です。
この亀島にまつわる伝説があります。
ある夜中に、庭に気配を感じた住職が
庭に出て見ると、亀島が動いており、
雪舟に助けを求めたところ、
亀島の上に石を置いた事で
動かなくなったと言う事です。
そして、亀島の左方には鶴島があり、
南庭は、「鶴亀の庭」と呼ばれています。
その「鶴亀の庭」を
別の角度から見たところ。
南庭は、雪舟の作庭ですが、
火災と、長い歳月」の中で
荒廃が進んでいました。
そして、昭和14年(1939)、
昭和を代表する作庭家、
重森三玲によって、
一石の補足もなく復元されています。
室内の襖絵です。
江戸時代後期の画家、
村上東洲による襖絵です。
その奥の部屋です。
左側の山水画は、
江戸中後期の画家、渡邊玄対の筆です。
そして、東庭です。
東庭は、新たに重森三玲より、
南庭と同様に鶴亀の島を題材に
作庭されています。
東庭の北側に位置する
茶室「図南亭」の丸窓です。
その丸窓から、
竹林を借景とした東庭を
見る事ができます。
その丸窓です。
正面は、雪舟が留学のため明へ向かった船に見立てた
亀石と言われています。
松の木は、帆を表していると言う事です。
茶室「図南亭」です。
点前座です。
北庭で、茶室の露地庭になります。
中央、正面に屑屋型石灯籠があり、
その手前に勾玉形の手水鉢があります。
屏風画です。
分陀院を出て、
分陀院の前の道を、まっすぐ東へ
東福寺へ向かいます。
前方に東福寺の日下門が見えます。
日下門の横にあった東福寺山内案内図です。
日下門を入ると、正面、東に
東福寺の本堂があります。
本堂から、北へ
通天橋へ続く回廊が伸びています。
本堂の西側を南へ、
三門へ向かいます。
右手に、禅堂があります。
禅堂は、1347年に再建された物で、
中世から遺る坐禅道場です。
三門の南へ回り込んで、
南西から三門を見上げたところ。
三門の向こうに本堂が見えます。
三門の西側に東司があります。
通称、百雪隠と言い、
すなわち、便所です。
禅僧は、用便も修行であり、
東司へ行くにも
厳しい作法が定められていました。
室町前期の遺構です。
三門です。
その向こうは、本堂です。
三門の前、南側に位置する
思遠池(放放生池)です。
北西角から見たところ。
思遠池は、長方形をしており、
中央に、中の橋がかかっています。
その中の橋が見えます。
三門を正面から見たところ。
二階の廂下に掲げられた扁額「玅雲閣」は、
足利義持の筆によります。
室町時代初期に再建された物で、
楼上内部には諸仏が並び、
天井や柱には極彩画が描かれていると
言う事です。
北東角から、思遠池を見たところ。
池の中には、
枯れた茎と葉が残ってますが、
季節になると蓮の花が咲き誇ります。
三門を南東から見上げたところ。
三門の東西両側には、
楼上へ上がる階段の山廊があります。
山門の横、東側から、
本堂を見たところ。
左が三門で、中央が本堂です。
南東から、本堂を見たところ。
東福寺は、摂政九條道家が、
奈良の東大寺、興福寺に
なぞらえようとの念願で、
「東」と「福」の字をとり、
建長7年(1255)に
京都最大の大伽藍を造営しました。
開山は、円爾弁円(えんにべんえん)です。
東福寺 本堂(仏殿兼法堂)を
正面から見たところ。
仏殿、法堂は、方丈、庫裏と共に、
明治14年(1881)に焼失しますが、
昭和9年(1934)に、
本堂(仏殿兼法堂)は再建されています。
本堂は、重層の入母屋造りです。
本堂を、南西から見たところ。
そして、本堂から、
通天橋へ続く回廊が
北へ伸びているのが
見えます。
本堂の北西、禅堂の北へ位置する
経蔵です。
経蔵の手前には、殿鐘楼があります。
経蔵です。
東福寺開山の円爾弁円が、
宋から帰朝の際に、一千余りの典籍を持ち帰り、
経蔵に納められたと伝わります。
現在の経蔵は、寛政5年(1793)に再建された物です。
近くにあった
大本山 東福寺全景図です。
通天橋へ向かう回廊です。
その手前に、
東福寺の説明があります。
通天橋へ向かう回廊です。
回廊の途中に、回廊を横切って、
庫裏や方丈へ向かう入口があります。
回廊を横切りながら、
通天橋の方向を見たところ。
長い回廊が続いてます。
回廊を横切った先、東に
庫裏があります。
この庫裏の入口が、
本坊庭園の入口になります。
方丈、庫裏は、仏殿、法堂と共に、
明治14年(1881)の火災で焼失し、
方丈は明治23年(1890)、
庫裏は明治43年(1910)に
再建されています。
庫裏の入口に向かう途中、左手に
方丈の唐門が見えます。
その唐門は、
明治天皇の皇后、
昭憲皇太后の恩賜によって
再建された事から
恩賜門と呼ばれています。
恩賜門の扉には、菊の紋章が入ってます。
恩賜門の向こうに見える屋根は、
方丈の屋根です。
庫裏の入口を入り、
本坊庭園に向かいます。
頭上には、
江戸時代(17世紀)に描かれた
「東福寺伽藍図縁起」の図巻きの
レプリカが掲げられています。
現在は、三門の北側には本堂ですが、
この図巻きには、
二棟の巨大な建物が描かれています。
仏殿と法堂でしょうか?
庫裏から、方丈へ向かいます。
右端の建物が方丈です。
渡廊下から方丈の南庭を見たところ。
方丈は、東西南北に四庭を持ち、
「八相の庭」と称していましたが、
2014年に国指定名勝に登録され、
「本坊庭園」と改められています。
庭園は、方丈、庫裏と共に、
明治14年(1881)の火災で
焼失していましたが、
昭和を代表する作庭家、重森三玲によって、昭和14年(1939)に
鎌倉時代の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成をとり入れ、築庭されています。
渡廊下の反対側には、東庭があります。
東庭は、星座の北斗七星を
を円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣で
表現しています。
東庭です。
北斗七星を表す円柱は、
「一切を無駄にしない」と言う
禅の教えに従い、山内にある東司で
使用されていた礎石で、
東司の解体修理の際に出た
廃材を使用しています。
渡廊下を渡り、北東から
南庭を見たところ。
中央の門は、恩賜門です。
南庭は、蓬莱神仙思想を基本とし、
蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を
石だけの構成で表現しています。
その四神仙島は、
左から、瀛洲、蓬莱、少し離れて壺梁、
恩賜門の向こうに方丈です。
そして、蓬莱、瀛洲、壺梁の三神仙島は、立石とのバランスをとりながら、
6mほどの長い石を横に寝かせて表現しており、めずらしい手法がとられています。
恩賜門を中央にして、
南庭を見たところ。
恩賜門の左が壺梁で、
右が方丈の神仙島です。
南庭の南西方向の築山を見たところ。
その築山は、一切石を使用せず、
山の大きさや高さによる
造形的な美を追及した苔山で、
京都五山を表現しています。
また、築山の苔と白川砂の仕切りは、
斜線状になっており、
直線構成を庭園に用いる手法が
採られています。
南庭を、北西から眺めたところ。
中央は、本坊庭園の入口がある
庫裏です。
方丈の西へ回って行くと、
西庭があります。
西庭は、
サツキの刈込と葛石の使用で、
伝統的な市松模様が表現されており、
「井田の庭」と呼ばれています。
この西庭の市松模様は、
勅使門から方丈に向けて
敷き詰められていた敷石の縁石(葛石)を
再利用する事でできあがった意匠です。
西庭の外へ目をやると、
通天橋と、通天橋に続く回廊が見えます。
西庭の南の端を見ると西唐門が見えます。
西唐門を外へ出ると、
通天橋に続く回廊とつながっています。
西庭の南西の隅には、
自然石の三尊石組があります。
これは、東庭の北斗七星の七石、
南庭の京都五山の五つの山、
そして、西庭の三尊を組み合わせると
「七五三」になってる事がわかります。
方丈の北西角に、
通天橋を眺める展望台、通天台が
北へ向け突き出ています。
その通天台から、眺めた通天橋です。
その通天橋から伸びる回廊の先を
目で追ったところ。
方丈の北側、通天台の東側に
北庭があります。
北庭を南西の角から見たところ。
北庭も、西庭と同様に、
勅使門から方丈に向けて敷き詰められていた切石が
再利用されています。
北庭の西側は、正確な市松模様が配置されていますが、
東へ進むにつれ、少しずつ崩れていき、
最後はポツン、ポツンと一石ずつ配しながら
消えていきます。
東へ進みながら、北庭をふり返ったところ。
作庭当初は、州浜状に区切られた苔と、
市松模様のある白川砂のエリアは
完全に仕切られていましたが、
現在は、白川砂は苔に覆い尽くされています。
その西庭を南東角から見たところ。
方丈の東側の廊下です。
方丈の東側北に位置する庭です。
方丈の東側南に位置する庭、
いわゆる東庭です。
北斗七星が表現されています。
そして、南庭です。
方丈の周りを一周しました。
本坊庭園のある方丈、
そして庫裏を出て、
北東から本堂を見たところ。
本堂の向こうには、三門も見えます。
そして、
通天橋へ続く回廊へ向かいます。
その向こうに、経蔵が見えます。
通天橋拝観受付をして、通天橋へ向かいます。
この先が通天橋です。
橋の部分は、通路が太鼓状に、
ゆるやかに膨らんでいます。
通天橋は、洗玉澗と呼ばれる渓谷に架かる橋廊で、
本堂から開山堂を結んでいます。
その通天橋を渡りながら、
通天橋の西側、洗玉澗(せんぎょくかん)を
眺めたところ。
前方には、臥雲橋が見えます。
通天橋は、天授6年(1380)に、
足利義満の帰依を受けた
禅僧、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)によって
架けられたと伝わります。
洗玉澗の「澗」は、「たにみず」を表し、
「洗玉澗」は、谷水が岩にあたって玉なす様子を
表しています。
秋になると洗玉澗を黄金色に染める三ツ葉楓は、
開山の円爾弁円が宋から伝えたと言われています。
通天橋の東側の景色です。
東福寺の方丈と、
方丈から突き出した通天台が見えます。
通天橋を進んで行きます。
通天橋の中央です。
橋の中央、西側には、
景色を眺める為のテラスが
突き出ています。
そのテラスへ出て、
橋の前方、北を見たところ。
橋の袂のすぐ横には、
洗玉澗へ下りる階段が出ています。
テラスから、
橋の後方、南を見たところ。
通天橋から、東側の景色を見たところ。
方丈が見えます。
通天橋を北へ渡り、
開山堂へ続く回廊を進みます。
回廊の西側です。
木の陰になってますが、
愛染堂があります。
回廊は、折れ曲がり、
開山堂へ続きます。
更にもう一度、回廊は折れ曲がり、
その先に楼門が見えます。
楼門が正面に見えてきます。
南を見ると、方丈と、
方丈から西へ伸びる西唐門、
その向こうに本堂が見えます。
階段を上ると、楼門の前に出ます。
楼門をくぐると、
正面に開山堂があります。
開山堂は、
東福寺境内の最も高い場所に建ち、
一階の礼拝堂奥の祠堂に、
開山の円爾弁円の像が
安置されています。
開山堂です。
開山堂上部の伝衣閣には、
阿弥陀如来立像、布袋和尚坐像、
薬師如来坐像が祀られています。
訪問時は、
普門院、書院、裏門の保存修理工事が
行われていました。
普門院の前から、開山堂を見たところ。
正面に普門院前の庭園を見たところ。
右端は楼門です。
開山堂前から、
正面に楼門を見たところ。
右端は普門院です。
普門院です。
普門院は、円爾弁円が
当時の普門寺に住していた場所で、
ここから東福寺建立の様子を
眺めていたと伝わります。
そして、弘安3年(1280)に79歳で入寂し、
花園天皇から、聖一国師の諡号が
贈られています。
普門院前の庭園です。
普門院前の庭園です。
開山堂の楼門を出て、
楼門前の階段を下りながら、
西の景色を見たところ。
階段を下りながら、
正面に方丈、
その向こうに本堂を見たところ。
周りの景色を見ながら、戻って行きます。
途中、愛染堂へ寄ります。
愛染堂は、愛染明王を祀ります。
お堂は、丹塗りの柿葺八角円堂で、
南北朝時代の建築です。
昭和12年に万寿寺から
移築されたものです。
愛染堂から、洗玉澗の方へ歩いてみます。
通天橋へ戻り、方丈を見たところ。
通天橋を戻ります。
橋の中央に、
西側の景色を眺められるように
テラスが出ています。
そのテラスの横から西を見たところ。
左端に臥雲橋が見えます。
本堂の横まで戻り、
西側にある日下門を外に出ます。
正面は、その日下門です。
日下門を出て、北へ進みます。
前方に、洗玉澗に架かる臥雲橋が
見えます。
通天橋を渡る時に見えた西側の橋です。
臥雲橋は、通天橋と同様に
東福寺三名強の一つです。
江戸時代後期の弘化4年(1847)に
架けられた橋です。
その臥雲橋から東を見たところ。
右よりの木の陰に通天橋が見えます。
中央下に、
洗玉澗の谷底を流れる三ノ橋川が
見えます。
臥雲橋から東を見たところ。
眼下には三ノ橋川の流れが見え、
上よりに通天橋、方丈の屋根が見えます。
臥雲橋を過ぎ、更に北上すると、
左手に霊雲院への道が伸びてます。
霊雲院は、「本日休観」の大きな表示が
出てましたが、見落として
山門まで行きました。
霊雲院の山門です。
山門の前にも
「Closed today.本日、拝観休み」の
表示が出ています。
霊雲院への分岐まで戻り、
その道の反対側に
同聚院の山門があります。
山門の横にあった同聚院の説明です。
山門を入ると、正面に本堂があります。
同聚院は、東福寺の塔頭の一つです。
藤原道長が建立した五大堂の遺跡で、
五大明王のうち不動明王坐像が
祀られています。
同聚院を出て、次は泉涌寺へ向かいます。
途中、勝林寺の階段が見えます。
その前を過ぎて、東へ進んで行きます。
住宅街の中を進んで行くと
地蔵尊が祀られています。
その地蔵尊の前を過ぎて、東へ進みます。
階段を上って行きます。
階段を上と、右手に悲田院の山門があります。
悲田院の山門とは逆方向、東へ進むと、
泉涌寺道へ出て右へ進みます。
参道を進んで行くと、
泉涌寺の駐車場があり、
その向かいに
泉涌寺の大門があります。
大門の表札には、「御寺 泉涌寺」とあります。
この大門は、慶長時代に、徳川家康が、
御水尾天皇の即位に際し、
御所を再建しましたが、その時、
御所の内裏の南門が移築されたと
考えられています。
その大門の前にあった
大門の説明です。
大門は、
本瓦葺の四脚門で
泉涌寺の山号の
「東山(とりぜん)」の
扁額を掲げており、
東山門とも
呼ばれています。
中央が、「東山(とりぜん)」の扁額です。
一番手前の梁の上の
左側の蟇股には龍、
右側の蟇股には唐獅子の彫刻が
彫られています。
大門をくぐり、「降り参道」をおりると
正面に仏殿があります。
寺伝によると、泉涌寺は、
平安時代初期に建てられた
弘法大師、空海の草庵が起こりとされ、
法輪寺と呼ばれていました。
その後、建保6年(1218)、
宋から帰朝した月輪大師、俊芿により
大伽藍が整えられ、
その際に清水が涌き出した事から、
泉涌寺と呼ばれるようになります。
また、仁治3年(1242)の四条天皇をはじめ、
多くの歴代天皇の葬儀が行われ、寺内に御陵が営まれ、皇室の菩提所となってます。
仏殿は、寛文8年(1668)、四代将軍、徳川家綱によって再建された本堂で、
一見、重層建築に見えますが、実際は裳階の付いた一重入母屋造りの本瓦葺きの建物です。
内部には、運慶作と伝わる阿弥陀、釈迦、弥鞠の三尊仏が安置されています。
「降り参道」をおりていくと、
仏殿の手前右側、南西に浴室があります。
浴室は、
仏前に仕える僧が身を清める場所で、
風呂は床下の鉄窯で湯を沸かし、
蒸気を床上に入れる蒸し風呂です。
右が仏殿で、その奥は舎利殿です。
右端が仏殿で、その奥は舎利殿、
中央左よりに本坊への門が見えます。
仏殿の横を過ぎて進むと、
舎利殿があります。
舎利殿は、
釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する
霊殿です。
開山の俊芿律師が熱願した舎利を、
弟子の湛海律師が
安貞2年(1228)に南宋より持ち帰り
祀っています。
仏牙舎利は、舎利塔の中に納められ、
その左右に月蓋長者、韋駄天が従っています。
中央に、
舎利殿の横、北側に位置する
手水舎があり、
その向こうに本坊への門が見えます。
右端が舎利殿で、
舎利殿の奥、東側に勅使門があります。
本坊への門から、中を覗き見たところ。
左側に本坊、中央の木の陰に御座所、
右側に檜皮葺屋根の霊明殿が見えます。
霊明殿は、
歴代天皇の位牌を祀る建物で、
明治15年(1882)に霊明殿は焼失し、
明治17年に再建されています。
本坊への門から、中を覗き見たところ。
本坊への門の前から、西を見たところ。
左の木の陰に舎利殿、
その向こう、中央に仏殿が見えます。
舎利殿、仏殿の南側に回ります。
放生池があり、その向こう、西側に
泉涌寺水屋形があります。
泉涌寺水屋形です。
泉涌寺水屋形は、
泉涌寺の名前の由来となった
清泉を覆う屋形で、
寛文8年(1668)の再建です。
屋根は入母屋造り、
妻入正面に軒唐破風をつけた柿葺で、
正面に桟唐戸、上部に弓欄間が
見られます。
その泉涌寺水屋形の左には、
東山月輪に隠棲した清少納言の歌碑があります。
舎利殿を、南西から見たところ。
仏殿を北東から見たところ。
「降り参道」の坂道の下から、坂の上を見上げたところ。
坂の上に大門が見えます。
「降り参道」を上って行くと、
大門の手前、右手に
楊貴妃観音堂への道があります。
前方に楊貴妃観音堂が見えます。
楊貴妃観音堂です。
堂内には六羅漢像の中央に
聖観音(楊柳観音)が祀られています。
寛喜2年(1230)に湛海律師が
南宋から持ち帰ったと伝わります。
像容の美しさから、玄宗皇帝が
亡き楊貴妃の面影を写させて
造像したとの伝承を生み、
江戸時代初め頃から
楊貴妃観音像と呼ばれ信仰されています。
楊貴妃観音堂の横の庭です。
泉涌寺を出て、
泉涌寺道を北へ進みます。
途中、右手に
今熊野観音寺への参道が
東へ伸びています。
今熊野観音寺への参道を進むと、
前方に赤い鳥居橋があります。
その鳥居橋の手前にあった今熊野観音寺全景です。
境内への入口を入りましたが、
本堂は、階段を上った先にあります。
上方に見える建物は、お茶所です。
本堂への階段を上る途中に、
子まもり大師の像があります。
今熊野観音寺の本堂です。
今熊野観音寺は、
弘法大師が唐から帰国した翌年の
大同2年(807)に、
熊野権現の霊示を受け、
この地に庵をむすばれたのが
始まりです。
本尊は、
弘法大師自ら刻んだ
十一面観音菩薩像で
熊野権現から賜った一寸八分の観音像が
胎内に納められています。
左は、本堂の前に位置する五智の井です。
弘法大師が、
観世音を祀るにふさわしい
霊地を選ぼうと、錫杖をもって
岩根をうがつと、霊泉が湧き出しました。
この清涼なる水を、五智水と呼び、
その井戸を五智の井と呼んでます。
五智の井の向こう、右に見える建物は
大師堂です。
右が大師堂で、
左上、山肌に見える多宝塔は、
医聖堂です。
大師堂は、開創の弘法大師、
不動明王、愛染明王、そして、
今熊野観音寺の伽藍を寄進した
藤原緒嗣の像が祀られています。
そして、大師堂の前には、
ぼけ封じ観音の像がたってます。
医聖堂です。
医聖堂は、平安様式の多宝塔で、
医と宗教が手をたずさえて、
人類が明るく健康に暮らせるよう願いを込めて
建立されています。
左が本堂で、山肌に医聖堂が見えます。
本堂の横の地蔵堂の横にあった三重石塔です。
この石塔は、平安様式で、
今熊野観音寺の創建当時の石塔のようです。
泉涌寺道へ戻り、
道なりに北西へ、泉涌寺道を下ります。
途中、戒光寺があります。
戒光寺の山門です。
山門前には、
「運慶、湛慶父子の大作 釈迦如来」の
看板が出ています。
山門を入ったところ。
表に、本堂の表札がかかってます。
戒光寺は、
後堀河天皇の勅願所として、
鎌倉時代中期に創建されました。
応仁の乱で伽藍を焼失するも、
本尊の木造「丈六釈迦如来」は、
奇跡的に大火から免れました。
本堂です。
「丈六釈迦如来」の喉元には、
血が流れ出たような痕があり、
江戸時代、後水尾天皇の皇位継承争いで
刺客に襲われた時についたと
言われています。
以降、身代わりのお釈迦様と呼ばれ
信仰を受けています。
境内の南西には、
泉山融通弁財天が祀られています。
その名の通り、
金銭の融通に御利益があるようです。
戒光寺を出て、泉涌寺道を下ります。
木のトンネルを抜けて行きます。
そのトンネルの先に、
泉涌寺の総門があります。
その総門を抜け、
泉涌寺道の坂の下から
総門を見上げたところ。
門には、「御寺 泉涌寺」の
表札が掛かってます。
総門を出て、すぐ北側に
即成院の山門があります。
山門の屋根の上には、
鳳凰がとまっています。
即成院は、泉涌寺の総門の外ですが、
泉涌寺の塔頭の一つです。
即成院の山門を入ると、
正面に導延命地蔵菩薩の
お堂があります。
山門を入って、右に曲がると、
右手に、「与一の手洗い所」があります。
与一とは、
源平合戦における屋島の戦いで、
海へ逃れた平家の船から掲げられた
日輪の扇を陸から射抜いた
源氏の那須与一の事です。
那須与一は、
源平合戦の前、京都で療養中、
即成院の阿弥陀如来を信仰し、病が癒えたり、
合戦の後は、合戦で亡くなった人々の菩提を弔う為に出家し、
即成院に庵を結んで没したと伝わります。
那須与一の墓(石塔宝塔)が境内にありますが、知らずに帰ってしまいました。
山門を入って、右に曲がった正面に、
本堂があります。
即成院は、
平等院を築いた藤原頼通の第三子の
橘俊綱の開基で、
平等院の対岸にはじまります。
明治になり、廃仏毀釈の難を逃れ、
現在地に移っています。
本堂の前にあった常香炉です。
その石の常香炉には、日輪の扇が彫られています。
境内の南側に、
弘法大師像と一対の犬の像があります。
弘法大師が、
密教を伝える聖地を探していた時、
白と黒の犬に導かれ
高野山へたどり着いたと言う
伝説に基づくものです。
即成院を出て、泉涌寺を下り、
東大路通りに出ると、
道なりに南へ進みます。
京阪電車で、
東福寺駅から三条駅へ行き、
地下鉄で三条京阪駅から
二条城前駅へ向かいます。