渉成園、京都タワー :18Oct2024


京都へは、子供の頃、学生時代と、何度か旅行で訪れた事があります。
直近では、2019年の5月に奈良・京都旅行で訪れました。
京都を全て見て周る事は無理ですが、
たまたま訪問した日が公開休止日で見れなかった場所や、初めての場所を少しでも見て周ろうと、
10月15日~19日の間(三泊四日)で再訪しました。

四日目最終日は、東寺、羅城門跡、六孫王神社、雨が降り出したので、
アーケードのある錦市場商店街へ行って昼食をとり、本能寺跡を周って、
その後、西本願寺 唐門、渉成園、京都タワーを見て周りました。

ホテルを出て、東寺へ向かいます。

京都駅前にある京都タワーです。














京都駅です。











京都駅の2Fへ上がり、南北自由通路を南へ抜けます。
















京都駅出て、南へ進み、
東寺通りを西へ進みます。

右手に赤い鳥居があります。
伏見稲荷大社御旅所の南鳥居です。

御旅所とは、祭りの時、神様を乗せた神輿が
休憩や宿泊をする場所で、
伏見稲荷大社御旅所では、稲荷祭の際に、
神輿が渡御、還幸されます。


南鳥居の横にあった
伏見稲荷大社御旅所の説明です。












境内の東側に、4つの社殿が並んでいます。

右から
・大神宮:豊受皇大神、天照大神
・御旅殿:稲荷大神
・上命婦社:上之命婦
・下命婦社:下之命婦
です。




境内を南の端まで行くと、
伏見稲荷大社御旅所の北鳥居があります。










北鳥居を入ると、
境内の西側、手前に神楽殿があり、
その向こうに神輿台車庫があります。









北の鳥居を入って、境内を進みながら
先ほどの4つの社殿を見たところ。










東寺通りを西へ進んで行くと、
正面に東寺の慶賀門が見えてきます。

東寺の正式名は、
金光明四天王教王護国寺秘密伝法院ですが、
平安京鎮護の為の官寺として、
796年に羅城門の東へ建立されました。

当時は、平安京の正門の羅城門を挟んで、
東西に対をなして官寺が建立され、
創建当時から、西を西寺、東を東寺と呼ばれてきました。

そして、桓武天皇の次に即位した嵯峨天皇は、
唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に東寺を託しました。

私は、 2019年に訪問 していますが、
その際は、密教の教えを具現化した立体曼荼羅の一部が
東京国立博物館へ貸出されており完全な形で
見る事は叶いませんでした。
今回は、その立体曼荼羅を、完全な形で見る為に、再訪しました。

慶賀門を入り、南を見ると、五重塔が見えます。
手前に見える堀は、宝蔵を延焼から護る為のものです。















慶賀門を入り、西へ進んで行くと、
食堂があります。

境内の伽藍の配置は、南から北へ、
金堂(仏)、講堂(法)、食堂(僧)とまっすぐに並び、
仏法僧を表しています。

食堂は、平安時代の建立でしたが、
昭和5年(1930)に焼失し、再建されたものです。



拝観料を納め、庭園の中を五重塔へ向けて進みます。
















庭園の瓢箪池越しに見た五重塔です。
















庭園の中を進んで行くと、
東側に東大門があります。

創建年代は不詳ですが、
現在の建物は、建久9年(1198)の再建です。

建武3年(1336)、新田義貞が足利尊氏を攻め、
足利尊氏は、この東大門を閉めて
難を逃れた故事より、「不開門」と呼ばれています。



五重塔です。
北西から見たところ。

五重塔は、4度の焼失を経て、寛永21年(1644)に
再建されたもので、
五重塔の高さは、約55mで、木造の建造物としては、
日本一の高さを誇ります。

そして、五重塔には、弘法大師空海が唐より持ち帰った
仏舎利が納まっていると言う事です。






庭園の中から、金堂を見たところ。
















瓢箪池越しに見た五重塔です。
















手前が講堂で、奥が金堂です。











まず、金堂へ向かいます。

金堂を、北東から見たところ。

東側の拝観入口から中へ入ると、
中央に本尊の薬師如来、
本尊に対面し右に日光菩薩、
左は月光菩薩が安置されています。

薬師如来は、薬壺を持たない古い様式の仏像で、
台座には、十二神将が並び、如来を守っています。

金堂を南東から見たところ。

金堂は、文明18年(1486)に焼失し、
現在の建物は、関ケ原の合戦後に再建された物です。

金堂の仏像も、金堂消失時、焼失しましたが、
桃山時代の仏師、康正により、
古い様式のままに復興されています。




再建された金堂は、
宋の様式を取り入れた天竺様と和様を合わせた
桃山時代の代表的な建物で、
中央の屋根の切り上げは、
東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られます。







金堂の横から、五重塔を見たところ。
















金堂の北側、境内の中心に位置する講堂です。

講堂を南東から見たところ。

講堂は、密教を伝え広める為の建物で、
そこに安置される立体曼荼羅は、
密教の教えを、大日如来を中心とした
二十一尊の仏を講堂の須弥壇に登場させ
視覚的に表現しています。

今回の訪問で、完全に揃った立体曼荼羅を
見る事ができました。

講堂を南西から見たところ。

初代の講堂は、835年に建てられましたが、
文明18年(1486)に焼失し、
現在の講堂は、焼失の5年後、延徳3年(1491)に
再建されたものです。






有料の拝観エリアを出て、
講堂の北に位置する食堂を南東から見たところ。

食堂は僧が生活の中に修行を見いだす場です。
食堂の建立は平安時代ですが、
昭和5年(1930)の火災で焼失し、
昭和8年に再建されています。

本尊は、平安時代から千手観音菩薩でしたが、
昭和5年の火災で大きく損傷し、
新たな本尊は、十一面観音菩薩になってます。

食堂の前、南側に、二つの祠があります。

夜叉神堂です。
食堂に向かって右、東側は、雄夜叉の本地文殊菩薩、
左、西側は虚空蔵菩薩が祀られています。

かつて、南大門の左右に祀られてましたが、
旅人が拝まないで通ると罰があたったとされ、
南大門と金堂の中間あたりにあった
中門の左右に移されましたが、
中門の倒壊によって、
現在地に小堂が建立されています。

食堂の前を西へ、講堂の横を南へ進みます。

進みながら、北西を見たところ。

中央、右よりの門を入ると、
毘沙門堂があります。
門の前には、「都七福神 毘沙門天」と書かれた
立看板がたってます。

都七福神は、室町時代の京都が発祥の地で、
都七福神の一人、毘沙門天が東寺の毘沙門堂に
祀られています。

毘沙門堂の前の門の向こうに見える檜皮葺の屋根は、御影堂です。
御影堂は、弘法大師空海の住房だった場所です。

講堂、金堂の西側辺りに、
扉に菊の紋層が入った檜皮葺、唐門の
勅使門があり、 その奥に、小子房が見えます。

小子房は、真言密教の修行道場として
建てられましたが、南北朝時代に
足利尊氏が光厳上皇を奉じて都入りした際に
上皇の御所として使用した歴史があります。

その後、文明18年(1486)に焼失し、
昭和9年(1934)に再建されています。

勅使門と、その向こうに小子房です。











講堂、金堂と小子房の間を南へ進んで行くと
鎮守八幡宮があります。

鎮守八幡宮は、796年、東寺が創建された時、
王城鎮護を願って祀られた神社です。
しかし、明治元年(1868)に焼失し、
平成3年に再建されています。





鎮守八幡宮です。

鎮座する僧形八幡神と二尊の女神は、
空海自ら彫った日本最古の神像と伝わります。








鎮守八幡宮の横を東へ進みます。

正面に五重塔が見えます。

右下は、八島社殿です。

祭神は、東寺の地主神とも、大己貴神とも言われます。
東寺創建以前から祀られており、空海は伽藍建立に先立ち、
寺門造立成就、等を祈願したとされます。








南を見ると南大門があります。











南大門の反対側、正面には、金堂があります。

金堂中央の切り上げされた
小屋根の下の両開きの扉は、
法会の時に開けられ、
散華が行われていました。






南大門を出て、五重塔を見たところ。

南大門は、文明18年(1468)、明治元年(1868)と
焼失を繰り返し、
現在の南大門は、明治28年(1895)に
三十三間堂の西門が移築された物です。






南大門を出て、南西から、
南大門を見上げたところ。










南大門を出た後、西へ、羅城門跡へ向かいます。

西へ向かいながら、
東寺の南大門、その向こうに五重塔を
ふり返ったところ。







その南大門と五重塔です。
















南大門の前を東西に走る
九条通りを西へ進んで行くと、
右手に地蔵堂あり、
その手前に羅城門跡の標柱がたってます。








この地蔵堂の中には、
矢取地藏尊が祀られています。

しかし、私は何を思ったか、
高札の横のお地蔵様と勘違いして
地蔵堂の中を見落としてしまいました。






矢取地藏尊の説明です。

天長元年(824)、
日照りが続き人々が苦しむ中、
淳和天皇の勅命で、
東寺の空海と、
西寺の守敏僧都
(しゅびんそうず)が
神泉苑で雨乞いを行います。
先に守敏が雨乞いしますが、
雨は降りません。
対して空海が雨乞いすると、
三日三晩雨が続き
国土が潤います。

そして、守敏は空海を恨みに思い、
空海を羅城門で待ち伏せし矢を射かけます。
すると黒衣の僧が現れ、空海の身代わりとなって矢を受け、空海は難を逃れます。
その黒衣の僧は、身代わり地藏の化身で、人々は矢取り地藏と呼び、羅城門の跡地に祀られています。

九条通り沿いにある羅城門跡の標柱の横の道を
北へ入ると、 唐橋羅城門公園があります。

その公園の真ん中に、
羅城門遺址の標石がたってます。

桓武天皇によって、794年に京都へ遷都が行われ、
平安京と名付けられます。
その平安京の中央を南北に走る
朱雀大路の南の端の大門が羅城門です。
大きさは、間口約35m、奥行約9m、高さ約21mと
推定されています。

弘仁7年(816)に大風で倒壊し再建されましたが、
天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊し、以降、再建されることはありませんでした。

唐橋羅城門公園を出て東へ、
壬生通りを北へ進みます。

進んで行くと、壬生通りと八条通りが交わる角に、
六孫王神社の南東の鳥居が見えてきます。







壬生通りと八条通りの交差点を西へ進むと
六孫王神社の南鳥居があります。

南南鳥居を通して正面に見える建物は、
六孫王会館です。







壬生通りと八条通りの交差点を北へ進むと
六孫王神社の東鳥居があります。

六孫王は、清和天皇(850-881)の六男を父として生まれ、
経基と名付けられましたが、
天皇の六男の子供、すなわち孫と言う事で、
六孫王と呼ばれていました。
後に源の姓を賜り、源経基として鎮守府将軍となります。
没後、屋敷にあったこの地に葬られ、社殿を築き祀られたのが、
六孫王神社の始まりです。







東鳥居を入った先に、中鳥居があります。
















その中鳥居です。











その中鳥居を入ったすぐ右手に
睦弥稲荷神社があります。










その西側、隣には、誕生水弁財天社があります。

源経基は、その子、満仲が誕生する際、
屋敷にあった井戸の上に社を建て、
琵琶湖の竹生島の弁財天を勧進し、
安産祈願し、産湯を使いました。






誕生水弁財天社の横に神龍池があります。

源経基は、臨終に際し、
「霊魂滅するとも龍となり、西八条の池に住みて
子孫の繁栄を祈る故、この地に葬れ」と
遺言したと言います。

その池のようです。




中鳥居を抜け、本殿に向け進むと、
神龍神池に架かる太鼓橋があります。










その橋を渡った袂に、神龍拝所があります。











太鼓橋を渡って、まっすぐ進むと、
唐破風屋根を持つ唐門があり、
左右に回廊が続いてます。

唐門の中に入れないよう柵がありました。







唐門の前から、内部を見ると、
拝殿があります。

祭神は、清和源氏の祖の源経基です。

本殿は見えませんが、この拝殿の奥にあります。






六孫王神社神社を出て、壬生道を北へ、
東海道新幹線の高架をくぐると、
兒水不動明王堂があります。

「兒水」は、「ちごのみず」または「ちごすい」と
詠むようです。






兒水不動明王堂の内部です。











先ほどから、雨が強く降り始め、
お堂を出て歩くか迷いましたが、
その内にやむと信じて先へ進みます。


兒水不動明王堂からJR東海道線に沿って東へ進むと
JR東海道線の下を北へ渡るアンダーパスがあり、北へ向かいます。
アンダーパスを渡ると、南北に走る大宮道の横に出ます。その西側に、梅小路公園があります。

















少しだけ、梅小路公園へ寄ってみます。

東側から、梅小路公園へ入って行くと
市電の展示がありました。

この電車に935の表示があります。






公園の南側に、芝生広場が広がっています。
芝生広場の西側に
屋根付きの野外ステージが見えます。









芝生広場に入って、北側を見ると
京都水族館が見えます。










雨が強くなったので、京都駅へ非難する事にします。

梅小路公園へ入って来た東側の入口へ向かう途中にあった
「エコちゃん」と言う銅像です。

小さくて、かわいくて、思わず写真におさめました。











雨が降る中、京都駅の地下へ避難し、
雨がやみそうにないので、
京都中心部のアーケードがある商店街へ
行ってみる事にしました。

地下鉄で、京都駅から京都市役所前まで行き、
アーケードのある寺町通りを南へ進みます。










寺町通りから、新京極商店街にコースを変えて進んで行きます。
















新京極商店街を南へ進んで行くと、 ろっくんプラザがあります。

ろっくんプラザは、南北に平行に走る寺町通りと、新京極通り、
そして、東西に走る六角通りが交わる一角にある
三角形の公園です。












その寺町通り側の三角形の頂点に
獅子をイメージして造られたモニュメントがたってます。

このモニュメントは、ろっくんと呼ばれ、
獅子の顔を持ち、円筒形で、赤茶と白のホーダー柄の胴体を
持ってます。











ろっくんプラザから、新京極通りを南へ進んで行くと
東側、左手に誠心院があります。

誠心院の山門です。

誠心院は、上東門院彰子が父の藤原道長に勧めて、
法成寺東北院に小御堂を建立し、
和泉式部に与えたのが誠心院の起こりで、
和泉式部が誠心院の初代の住職となります。

誠心院は、当初、御所の東、荒神口界隈にありましたが、
鎌倉期には、誓願寺の南へ移転し、
天正年間には、豊臣秀吉の命で、現在地へ移転し、
明治5年(1872)に、府の政策で、境内に新京極通りが通され
境内地は二分され、
明治43年(1910)には火災で蔵を残して全て失う等、
困難を乗り越えて現在に至ってます。

山門を入ると、和泉式部と誠心院の説明があります。

和泉式部は、平安中期の歌人で、
中古三十六歌仙の一人として知られています。

和泉式部は、和泉守の橘道貞と結婚し、
女子、小式部内侍を設けますが、ほどなくして離婚します。
和泉式部と言う呼称は、橘道貞の任地に由来します。

その後、冷泉天皇の皇子、為尊親王と恋に落ちますが死別し、
次は、為尊親王の弟の敦道親王と恋に落ちますが、
早世してしまいます。

その後、藤原道長の娘、上東門院彰子に女官として仕え、
彰子が主催する文芸サロンで、
赤染衛門や紫式部と交流したと言われます。

本堂に続く通路には、
江戸時代に描かれた和泉式部縁起絵巻(上下二巻)の
画額が掲示されています。

上巻は、和泉式部が女人往生を遂げるまで、
下巻は、謡曲「誓願寺」の題材となった
一遍上人へのお告げと、
式部が来迎の歌舞の菩薩と共にお迎えに来る様子が
描かれています。



通路の天井には、
たくさんの誠心院の提灯が、吊られています。















通路の先に、本堂があります。











その本堂です。











誠心院を出て、少し南へ行くと、左手に、寅薬師があります。

新京極通りに面した門を入り、
細い路地を進むと、もう一つ門があります。

寅薬師は通称で、正式には北亀山 西光寺と言い、
本尊は、阿弥陀如来です。

寅薬師の通称は、
その阿弥陀如来の横に安置されている寅薬師如来に由来します。
寺伝によると、
後宇多天皇(1267-1324)が宮中にあった寅薬師如来像を
西光寺へ下賜したとあり、
その薬師如来は空海の作で、成就したのが
寅の日の寅の時刻だった事から寅薬師如来と称されています。


西光寺の本堂です。











北亀山 西行寺(通称 寅薬師)の
説明です。














寅薬師の少し南には、蛸薬師があります。

蛸薬師の正式名は、浄瑠璃山 永福寺と言い、
本堂に蛸薬師と呼ばれる薬師如来の石像が安置されています。













蛸薬師堂の説明です。












蛸薬師を出て、新京極通りを南へ、
そして、錦小路通りを西へ進みます。

少し早いですが、
天ぷら、だし巻きのお店、「錦 平野」で
昼食をとる事にします。

「錦 平野」を行き過ぎて、ふり返って見たところ。

平日の昼間なのに、観光客が多いです。







天ぷら、だし巻きのお店、「錦 平野」です。












注文した上天丼御前です。

丼ぶりをはみ出る天ぷら、
お出汁たっぷりのだし巻きです。









腹ごしらえの後は、錦小路通りを西へ向かい
アーケードを出ると、雨が上がってました。

錦小路通りを、ひたすら西へ
烏丸通りを越えて、更に西へ、
本能寺跡へ行って見る事にします。

油小路通りへ出て、北へ進むと、右手に
本能寺跡の石碑があります。

現在の本能寺は、
御池通りから寺町通りを少し南へ下った所に
ありますが、
かつて、天正10年(1582)の本能寺の変で、
織田信長が明智光秀に討ち取られた
本能寺があった場所が、この辺りです。

油小路通りを北へ進み、蛸薬師通りに出て、東へ進むと、
小川通りとの交差点があり、その角に
「此附近 本能寺址」の石碑があります。

当時、本能寺があったこの辺りは、
町外れで水はけが悪く居住に適さ無い場所、防御に弱い場所と
言われています。

では、なぜ、信長は、本能寺を宿泊先にしたのか?

本能寺は、法華宗の総本山で、
鉄砲が伝来した種子島や鉄砲を生産する境と結びつきが強く、
戦において、鉄砲を重視する信長にとって、
法華宗、本能寺とは、切っても切れない関係であったと
言われています。


蛸薬師通りを東へ向かい、烏丸通りを北へ進みます。

地下鉄の烏丸御池駅から京都駅へ戻り、
西本願寺の唐門を見に行く事にします。

烏丸通りを、烏丸御池駅へ向かいながら、
右手に新風館を見たところ。

新風館の前身の旧京都中央電話局が、
大正15年(1926)に竣工しました。
設計は通信省技師の吉田鉄郎で、
東京中央郵便局や大阪中央郵便局の設計でも
知られています。
そして、2001年に将来の再開発を前提に、旧電話局の外観をそのままに、
京都に新しい風を吹かせたいと言う想いから、新風館と名付けた商業施設を開業しています。

京都駅から北へ向かうと、七条通りがあり、
七条通りを西へ進み、堀川通りを渡って、北を見たところ。

興正寺の築地塀と三門が見えます。
また、築地塀に沿って、水はありませんが、堀川があります。












七条通りを西へ進んで行くと、
右手に猪熊門があり、
猪熊通りが南北に通っています。









猪熊門を入り、北へ進んで行くと、
左手に龍谷大学 大宮キャンパスの正門があり、
正門を通して西を見ると、
正面に本館があります。








その本館です。

明治12年(1879)に竣工した
和洋折衷の擬洋風建築です。








猪熊通りを北へ進むと、
北東に檜皮葺屋根を持つ唐門が
見えてきます。

左端に一部が見える門は、
西本願寺の大玄関門です。






西本願寺の唐門です。

私は、 2019年に訪問 に訪問してますが、
その時、唐門は修復工事中で、
見る事ができませんでした。
今回の訪問で、ぜひ見たいと思っておりました。

その唐門を、南西から斜めに見たところ。




唐門を、南側、正面から見たところ。

桃山時代の豪華な装飾彫刻が施された
檜皮葺、唐破風の四脚門です。

彫刻の見事さに、
日が暮れるのを忘れてしまう事から
日暮らし門とも呼ばれています。




上の虹梁の上、中央には大瓶束があり、
その左右の中備えには、
「牡丹に唐獅子」の彫刻が施されています。
その虹梁の中央には、
「菊」の装飾金具が施されています。

下の大虹梁の中央には平三斗があり、
その左右の中備えには、
「麒麟」の彫刻が施されています。
その大虹梁の中央には「鳳凰」、左右に「桐」の
装飾金具が施されています。

上部の大虹梁には、
「鳳凰」の装飾金具が施されています。

下半分に見える門扉上部の欄間には、
「牡丹に唐獅子」の彫刻が施されています。







この唐門は、四脚門ですが、
実際には2本の親柱の前後に控柱がたち、
計6本の柱がたっています。

その親柱と控柱の間、門の側面の欄間にも
彫刻が施されています。

門に向かって、左側面の欄間は、張良の彫刻です。

張良は、秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗し、
身を隠していたある日、一人の老人と出会います。
老人は、わざと履を橋の下に落とし、「拾へ」と命じ、
張良は黙って拾います。
そして、老人は、五日後の朝、ここへ来るよう命じます。
張良は、五日後の夜明けに行くと、既に老人は来ていて、
「遅れてくるとは何事か」と叱り、五日後に来るよう命じます。
そして、五日後の鶏鳴の時に行ってみると、既に老人は来ており、更に五日後に来るよう命じます。
今度は、真夜中に行ってみると、老人はまだ来てなく、後からやって来た老人は、一冊の書物を渡します。

この彫刻は、張良が老人の履を拾って、履を渡す場面と思います。

門に向かって、右側面の欄間です。

この老人は、履を橋の下に落とし、
張良に拾わせた老人で、
彫刻の老人は履をはいてないので、
その場面と思います。

老人は、最後に張良へ一冊の書物を渡し、
「これを読めば、王たる者の師になれる。
そして、10年後には、秦に対抗して立ち上がり、
13年後には、済北の穀城山の麓で黄石を見る事に
なろう。その黄石こそ私だ。」と言って消えました。

門扉の上部、虹梁の上の蟇股の前には、
孔雀の彫刻があります。










門扉は、桟唐戸になっており、
組まれた框にはめ込まれた板には、
唐獅子の彫刻が施されています。









唐門の前にあった説明です。























唐門を南東から見たところ。











唐門の前の北小路通りを東へ進み
北小路門を出たところで、北を見たところ。

西本願寺の築地塀と、
それに沿った堀川が続いてます。







北小路門を出ると、
堀川通りが南北に走っており、
堀川通りを北へ進みます。

堀川通りを北へ進みながら、
堀川通りの反対側、右手を見ると
総門が見えます。





その総門と、堀川通りを挟んで反対側、西側に
御影堂門があります。










御影堂門を入り、南を見ると、
飛雲閣が見えます。

飛雲閣は、金閣、銀閣と共に京都三名閣の一つで、
三層からなる楼閣です。







今度は、唐門を内側から見る為に、
広い境内の中を唐門へ向かいます。

御影堂の南にある書院の前を抜けて、
唐門へ向かいます。







唐門です。

境内の内側、東側から唐門を見たところ。

その向こうに見える門は、大玄関門です。







唐門を、境内の内側、北側、正面から見たところ。











上の虹梁の上、中央には大瓶束があり、
その左右の中備えには、
「牡丹に唐獅子」の彫刻が施されています。
その虹梁の中央には、
「菊」の装飾金具が施されています。

下の大虹梁の中央には平三斗があり、
その左右の中備えには、
「麒麟」の彫刻が施されています。
その大虹梁の中央には「鳳凰」、左右に「桐」の
装飾金具が施されています。

彫刻は、唐門の表側の彫刻と、モチーフは同じですが、
絵柄や色使いは異なります。

虹梁の中央上部の蟇股には、
表側から唐門を見た時には、
孔雀の彫刻がありましたが、
内側には孔雀ではなく、牡丹の彫刻が
施されています。
蟇股の左右の中備えには、
「松・竹」の彫刻があります。
虹梁の装飾金具には、菊の紋章が見えます。

下半分に見える門扉上部の欄間には、
「牡丹に唐獅子」の彫刻が施されています。

唐門の親柱と控柱の間、門に向かって右側面の欄間です。

この彫刻は、中国の高潔の士として知られる
許由(きょゆう)と単父(そうほ)の故事の一場面です。

聖天子と仰がれた堯帝が、許由が高士である事を聞き、
天下を譲ろうと言うと、許由は汚れた事を聞いたとして、
穎水(えいすい)で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れました。
その許由が耳を洗う場面です。








唐門の親柱と控柱の間、門に向かって左側面の欄間です。

許由が穎水で耳を洗うのを見た単父は、
そのような汚れた水は、牛にも飲ませられないと言い、
引いていた牛を連れて帰りました。
その単父が牛を連れて帰る場面です。

この故事は、出世や高い地位につく事を良しとしない話ですが、
考えようによっては、誰かがやらねばならない仕事から
逃げているだけのようにも感じてしまいます。







その単父が牛を連れて帰る場面の彫刻を反対側から見たところ。
牛の向きを変えている最中で、
頭が見えず胴体だけの牛の姿がよくできています。














門扉には、唐獅子の彫刻が施されています。

門を表側から見た時の唐獅子のポーズと、
内側から見た時の唐獅子のポーズは
異なっています。







唐門から、御影堂の前に引き返します。
途中、書院をふり返って見たところ。

中央の茅葺屋根の建物が、書院で、
その向こうの小さな茅葺屋根は能舞台の屋根です。







御影堂の前、東側には、
樹齢約400年と推定されている
イチョウがあります。

イチョウは、耐火性の強い樹種で、
天明8年(1788)や、元治元年(1864)の大火の際に、
火の粉を浴びながら生き抜いたと言う事です。





そのイチョウを過ぎると、
阿弥陀堂門があります。










阿弥陀堂門を出て、
御影堂門の前から、堀川通りを東へ渡り、
総門を抜けて、東へ進みます。

前方に、本願寺伝道院が見えます。

本願寺伝道院は、明治28年(1895)に
真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、
東京帝国大学 伊藤忠太の設計で、
建築された物です。







東へ進みながら、来た道をふり返ったところ。

総門が見え、総門を通して、御影堂門が見えます。














東へ進んで行くと、東本願寺がありますが、
東本願寺は、 2019年に訪問 しているので、
今回はパスし、まだ、訪問した事の無い
東本願寺の飛地境内の名勝 渉成園へ行きます。

東本願寺の飛地境内 名勝 渉成園の西門です。






渉成園(枳殻邸)の説明です。

渉成園は、寛永18年(1641)に
徳川家光によって寄進されました。

渉成園の名前は、
中国の詩人、陶淵明の「帰去来辞」の一説、
「園日渉面以成趣
(園、日に渉って以って趣を成す)」から
名づけられました。

また周囲に枳殻(からたち)を
生垣とした事から、
枳殻(きこく)邸とも呼ばれています。

入園受付の前にあった
園内マップです。














園内に入り、東へ進むと、高石垣に突き当たります。

高石垣は、石橋のような長い切石や、
礎石、山石、瓦など、多様な石が使われ
築かれています。







その高石垣に沿って、北へ進み、
北の端を回って、東へ進みます。

屏の先に、庭園北口があります。








庭園北口です。











庭園北口を入り、南へ進むと、
園林堂(おんりんどう)があります。

園林とは、
元来、中国宮廷に設けられた大規模な庭園の意で、
仏典では浄土を表す表現として
用いられています。





園林堂の前から東を見ると、
傍花閣(ぼうかかく)があります。

傍花閣は、園林堂の山門にあたる位置にあり、
庭園内には珍しい楼門作りで、
左右側面に山廊と呼ばれる階段入口があり、
階上には四畳半の部屋があります。





傍花閣です。

左右の山廊から、階上の四畳半へ
階段で上がれるようになってます。








傍花閣から、東へ進んで行くと、
印月池(いんげつち)があります。

渉成園は、広い池泉回遊式庭園で、
印月池は、渉成園の南東に位置し、
渉成園の中心となる園池です。

東山から上る月影を映して美しい事から、
印月池と呼ばれています。



印月池の北岸から、印月池を見たところ。

正面に見える橋は、
侵雪橋(しんせつきょう)です。

侵雪橋は、印月池の西岸から、
北大島へ渡る木造の反橋です。

頼山陽は、「渉成園記」の中で、
雪の積もった侵雪橋のありさまを
玉龍にたとえて表現していると言う事です。

印月池の北岸に沿った道を東へ進んで行くと
回棹廊(かいとうろう)があります。

回棹廊は、北大島へ続く木橋です。
安政の大火(1858)の焼失以前は、
朱塗りの欄干を持つ反橋だったと伝えられます。
現在は、柿葺の屋根を持つ橋で再建されています。





回棹廊は、北大島へ渡った所で、工事中の為、
その先へは勧めず、引き返します。

回棹廊の上から、西を見たところ。








印月池の北岸に沿った道を西へ戻りながら、
西を見ると傍花閣が見えます。










印月池に沿って、南へ向きを変え、進みながら
東を見ると
中央、右よりに、先ほどの回棹廊が見えます。









印月池に沿って、南へ進むと、
侵雪橋があります。

侵雪橋を北大島へ渡って、
橋の袂から、北西を見たところ。

左端に、園林堂が見えます。





北大島の南岸に沿って進み、
来た方向をふり返ったところ。
侵雪橋が見えます。









北大島の南岸に沿って進むと 小さな湾があり、
小さな橋が架かってます。

その小さな橋の手前から、
小さな湾の奥を見たところ。

そして、島の頂上には、
縮遠停(しゅくえんてい)が見えます。




その小さな橋を渡り、進みながら、
南、少し東よりを見ると、
中央、右よりに鶴島、右端に南大島が見えます。









縮遠停に上って行きます。

南東、木立の間から、亀島が見えます。

亀島には、九重の石塔の
源融(みなもとのとおる)ゆかりの搭が
たってます。

源融は、嵯峨天皇の第八皇子で、
源の姓を賜り、臣籍に下りました。
そして、「源氏物語」の主人公、光源氏の
モデルの一人と言われています。

縮遠停に上りながら、
先ほどの小さな湾を見たところ。










縮遠停の前からの景色です。
印月池と、その向こう、
中央、右よりに閬風亭(ろうふうてい)が
見えます。

縮遠停の周りも工事中でした。






北大島へ渡って来た侵雪橋へ戻り、
橋の上から、南西を見たところ。

中央の建物は、漱枕居(そうちんきょ)です。

漱枕居は、
四畳半に三条敷が続く座敷と土間からなり、
印月池に乗り出すように建てられています。
訪問時は、あいにく工事中でした。

そして、漱枕居の名は、旅路にある事を意味する
漱流枕石の語からきています。

侵雪橋を渡り、まっすぐ西へ進むと、
藁の天日干し??があります。

右の建物は傍花閣で、中央は園林堂です。








私の子供の頃は、
稲刈りをすると、田んぼの中に、はぜ掛けをして、
刈ったばかりの稲を天日干しにしていたのを
思い出しました。

右の建物は傍花閣です。






庭園の中を、南へ移動します。

左手には、印月池が続いてます。

北東に北大島を見たところ。
左よりに北大島へ渡る侵雪橋が見えます。
北大島の上の建物は、縮遠停です。





東を見たところ。

中央は、南大島で、左よりに北大島が見えます。









印月池の反対側、右手に、
「明治天皇御小休所枳殻邸」の
石碑がたってます。

明治元年(1868)、
明治天皇の大坂行幸の行きと、帰りに枳殻邸で
休憩をとられました。
これを最初として、計4回立ち寄られてます。




庭園南口を出て、大玄関の前を通って、
西門へ向かいます。

大玄関前のロータリーの中に
井戸がありました。







そのロータリーを過ぎて、ふり返ったところ。











そして、高石垣、西門へ向けて進みます。











南北に続く高石垣です。











高石垣です。











渉成園の西門を出て、正面通りを西へ進みます。

左手に、蔦が絡まる外観の重信会館があります。

アールデコの特徴を持つ昭和初期の建築です。












正面取りを西へ進んで行くと、烏丸通りに出て、
その向こうに東本願寺があります。

正面は、東本願寺の御影堂門です。








烏丸通りを南へ進みます。

北側から見た京都タワーです。














烏丸通りを南へ進みながら、
東本願寺を見たところ。

御影堂門の南に位置し、
御影堂門に比べると小ぶりな門は、
阿弥陀堂門です。

左よりの赤い屋根は、鐘楼です。




烏丸通りを南へ、京都タワーへ向かいます。

京都タワーの手前のビルは、京都ヨドバシです。














京都タワービルへ入り、
京都市街で一番高い地上100mの展望室を目指します。

京都タワービル1Fでチケットを購入し11Fへ上がり、
エレベーターを乗り換えて、最上階の展望台へ上がります。
そのエレベーターです。











地上100mの展望台へ到着です。

南側眼下にJR京都駅が見えます。









南西に東寺が見えます。

東寺の五重塔や、金堂、講堂が見えます。









南西、遠方を見たところ。

薄っすらと、突出して高いビルが見えます。

そのビルが、
大坂、天王寺の「あべのハルカス」です。






中央のビルが、「あべのハルカス」です。











北西に西本願寺が見えます。

中央の一番大きな屋根が西本願寺の御影堂で、
その右側が阿弥陀堂です。








北西、遠方を見たところ。

中央辺りに京都外国語大学が見えます。

そして、その先には
嵐山の観光エリアがあります。






視線を少し北よりに移します。

左端の白い煙突を持つ建物は、
京都市北部グリーンセンターです。

中央に見える五重塔は仁和寺です。
五重塔の左に目を移すと、
仁和寺の三門があります。

仁和寺の三門の手前、下辺りに
大きな黒い屋根が三つ並んでいます。
妙心寺です。
左から妙心寺の山門、仏殿、法堂です。

北、少し西よりを見たところ。

市街地に二つの緑地帯が見えます。

手前の緑地は、二条城で、
本丸御殿や、西南隅櫓が見えます。

奥の緑地は、北野天満宮と平野神社です。

中央の山肌には、「大」の字が見えます。
大北山 大文字山の「左大文字」」です。


そして、少し視線を右へ、東へ移動させると、
中央の山肌に、
西賀茂船山の「舟形」が見えます。









北、少し東よりの遠方、中央の山肌、松ケ崎西山に、
字がわかりづらいですが、「妙」の字が見えます。

その手前には、二つの緑地が見えますが、
中央の緑地は、下鴨神社がある糺の森で、
その手前、左側の緑地は、京都御苑です。






その「妙」の文字の東側、中央の山肌、松ケ崎東山に、
字がわかりづらいですが、「法」の字が見えます。

ちなみに、お盆に行われる」「五山送り火」は、以下です。
 ・東山如意ヶ嶽の「大文字」
 ・大北山 大文字山の「左大文字」
 ・松ケ崎西山と東山の「妙法」
 ・西賀茂船山の「舟形」
 ・嵯峨鳥居本曼茶羅山の「鳥居型」

「妙」と「法」の文字は、一組で「妙法」と
考えられています。

北側、眼下に東本願寺が見えます。

二つの黒い大きな屋根の建物の内、
手前が東本願寺の阿弥陀堂で、奥が御影堂です。













東本願寺です。

東本願寺のすぐ右側を走る通りは、烏丸通りです。














北を見たところ。

中央、左よりに、
南北、上下に走る通りは、烏丸通りです。

その右側に広がる緑地は、京都御苑です。






北東を見たところ。

中央の緑地は渉成園です。

渉成園の向こうに、
左から右に鴨川が流れています。






右下辺りに、
その鴨川に架かる五条大橋も見えます。

右上辺りに、
建仁寺の法堂、こけら葺き屋根の方丈が
見えます。






五条大橋より下流の鴨川です。











北東、遠方を見たところ。

背後に見える山は比叡山です。
その山の中心から、視線を下げて行くと、
赤い鳥居が見えます。
平安神宮の大鳥居です。

そして、右端に、知恩院が見えます。




右よりに見える赤い鳥居は、
平安神宮の大鳥居です。

その左側、奥に、くろ谷 金戒光明寺が見えます。








視線を東へ移していきます。

右端に知恩院が見えます。

中央、下方に、祇園甲部歌舞練習場が見えます。

その更に手前、左よりには、
建仁寺の法堂が見えます。




更に視線を東へ移します。

右よりの一番大きな黒い屋根は、
知恩院の御影堂で、
中央辺りの小さな屋根は、三門です。

知恩院の御影堂の手前、
右下に見える先が尖った特徴的な屋根は、
祇園閣です。



東、少し北よりを見たところ。

中央に清水寺が見えます。









少し拡大して見ると、上方が清水寺です。

左よりに仁王門、中央少し左よりに三重塔、
右よりに本堂、奥の院が見えます。

下より、左から右に、
五条バイパス(国道1号線)が走り、
その上に大谷本廟の屋根が見え、
その上、中央辺りに大谷墓地が見えます。



東を見たところ。

中央下辺りの横長の黒い屋根は、
三十三間堂です。

三十三間堂の東、上方には、
智積院が広がっています。

大きな屋根は、智積院の金堂です。



三十三間堂の北側に視線を移すと、
京都国立博物館があります。

中央の煉瓦造りの洋風建築は、
明治30年(1897)に帝国京都博物館として
開館した建物です。

その左側の白い直線的な建物は、
平成26年(2014)の開館の新しい建築です。



南東を見たところ。

中央に東福寺が見えます。

背の高い大きな屋根が二つ見えますが、
右側が東福寺の三門で、左側が本堂です。






少し南よりに視線を移します。

中央、右よりの山際の辺りに、
赤い鳥居が見えます。

その鳥居の手前、右側に、
伏見稲荷大社の社殿が見えます。





南側、眼下に、京都駅ビルが見えます。











京都タワーを下ります。










近くの宿泊したホテルへ
預けた荷物を受け取りに行って、
広島へ帰りました。




What's New? | お勧め遺跡 | タイ クメール遺跡 | 古代・その他 | ドヴァラヴァティ遺跡 | スコータイ遺跡 | ランナータイ遺跡
アユタヤ遺跡 | チャクリ朝~現代 | 博物館 | ガンボジア クメールの旅 | 浮彫Gallery | 遺跡年表 | OTHERS
自己紹介 | LINK | 掲示板 | E-Mail | 遺跡BOOKS | 古墳の丘を歩く | 里山へ登ったよ!