知恩院、八坂神社: 16May2019


奈良・京都旅行の6日目は、上加茂神社、下加茂神社、銀閣寺、哲学の道を通って、 南禅寺、青蓮院門跡
そして、知恩院、八坂神社を周りました。

青蓮院門跡を出て、
平安神宮の前から続く神宮通りを南へ進んで行くと、
左手に知恩院の黒門が見えてきます。











黒門を抜け、東へまっすぐ進んで行きます。













黒門を抜けて続く坂は、黒門坂と呼ばれています。

その黒門坂を登って行きます。











突き当りを左に曲がって、北へ進んで行きます。


















次を右に、東へ曲がると、正面に寺務棟が見えてきます。













寺務棟の下を右に、南へ曲がると北門があります。













北門です。


















北門を入ったところ。













北門を入ったところに、御影堂修理の影響でしょうか?
参拝ルート変更のお知らせが出ておりました。



















北門を入り、南へ進むと新玄関があります。

新玄関には、総本山知恩院 新玄関の表札が掲げられています。

知恩院は、法然上人が開かれた浄土宗の総本山です。









新玄関の前を過ぎて、南へ進むと、
左手に参拝入口となっている武家門があります。












その武家門から中をのぞくと、集会堂があります。

往古は、衆会堂とも称し、
寛永12年(1635)に建立されたものです。
俗に千畳敷と言われるほど広いお堂で、
南に位置する御影堂と
渡り廊下で結ばれています。

訪問時は、修理中で
入口の左右には工事の為に建てられた建物が
建ってます。



集会堂の前を過ぎ、南へ進むと四脚門があります。













その四脚門を抜けると、御影堂が見えます。

左に見える渡り廊下は、御影堂と先ほどの集会場を結びます。

そして、右側の渡り廊下は、阿弥陀堂と結ばれています。









四脚門を抜け、まっすぐ南へ進みます。

正面は、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下です。
左が御影堂で、右が阿弥陀堂です。










御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下の下をくぐり抜けると、
右手に阿弥陀堂が見えます。












その渡り廊下の下をくぐって、まっすぐ南へ進んで行くと、
御影堂の南側に広い境内が広がっています。












御影堂の西に位置する阿弥陀堂です。

現在の建物は、明治43年(1910)に再建されたものです。











御影堂の南に広がる境内を、西から見たところ。













阿弥陀堂の南にあった手水舎です。













御影堂を南西から見たところ。













御影堂を、南正面から見たところ。













御影堂は、法然上人の御影を祀る事から、御影堂と呼ばれ、
俗に大殿とも呼ばれています。

念仏の根本道場になってます。

現在の建物は、寛永16年(1639)に徳川家光公によって
建てられたものです。







御影堂の南に広がる境内の東の端に、納骨堂があります。













納骨堂へは、池に架かる橋を渡って行くようになってます。













その池の南側から大鐘楼への道が延びています。













大鐘楼への道です。


















大鐘楼が見えてきました。


















その大鐘楼です。













大鐘楼の前に、大鐘楼の説明の標札が立っています。













大鐘楼の説明です。

この釣鐘は、寛永13年(1636)、第32世雄誉霊巌上人の鋳造で、
高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トンあります。

日本三大名鐘の一つと言われています。












大晦日の除夜の鐘を鳴らす時には、親綱1人、小綱16人の
計17人で撞き、京都の冬の風物詩となっています。












釣鐘です。


















梵鐘を撞く撞木です。


















撞木と梵鐘です。













梵鐘です。


















鐘楼を正面から見たところ。













鐘楼から下りてきて御影堂を見たところ。

御影堂の向こうに見えるのは、阿弥陀堂です。











御影堂の東側に広がる境内です。

正面に見える門は唐門で、
大きな屋根は大方丈の屋根です。

ちなみに唐門、大方丈、共に、
寛永18年(1641)に建立されたものです。







御影堂の東には、圓光大師本廟路の石標があり、
その横に御廟へ続く階段があります。

圓光大師は法然上人の諡で、法然上人のことです。










法然上人の本廟へ続く階段です。


















その階段の横に法然上人像が立っています。

法然上人は平安の末、長承2年(1133)に美作国に生まれ、
幼名を勢至丸と言いました。
9歳の時、父が夜襲を受け、死の枕辺で
「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。
もし遺恨をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。」の遺言を受けます。
勢至丸は菩提寺で修学し、15歳で比叡山に登って剃髪受戒し、
天台の学問を修めます。
18歳で黒谷の慈眼房叡空の弟子として法然房源空の名を授けられました。
以後、遁世の求道生活に入ります。
そして、苦しむ民衆を救う事が出来ない仏教に疑問を感じていた法然上人は、
「南無阿弥陀仏」と一心に称えることで、すべての人々が救われる専修念仏の道、
阿弥陀仏の本願を見出します。
承久5年(1175)、浄土宗が開かれました。




階段を登ったところ。

更に正面に門と階段は続くように見えますが、
こちらは御廟ではありません。










左手にもう一つ門があり、
門の前に御廟の標札が立ってます。












その門を入ると、勢至堂が正面に見えます。

ここは、法然上人がお念仏の教えを広められた
大谷の禅房の故地で、知恩院発祥の地です。

現在の勢至堂は、享禄3年(1530)に再建されたもので、
知恩院最古の建造物です。

本尊は、元々、法然上人の御尊像(御影)でしたが、
御影堂が建立された際に移された為、それ以降は、
上人の本地身とされる勢至菩薩像を本尊としています。




この勢至堂の門を入った右手に
御廟へ続く階段があります。












その階段を登って行くと、
御廟の拝殿が見えてきます。












拝殿です。













そして、拝殿の正面、北側に御廟堂があります。

拝殿の中から、御廟堂を見たところ。
正面に唐門が見えます。

法然上人は、訪れる人を誰でも迎え入れ念仏の教えを説く生活を送っていましたが、
専修念仏の教えが広まるにつれ、旧仏教からの弾圧も大きくなりました。
そして、門弟が後鳥羽上皇の怒りをかう事件を起こし、
法然上人は四国流罪となります。
5年後に帰京できましたが、草庵は荒れ果てており、
その翌年、建歴2年(1212)に80歳で入寂されました。

門弟たちは、房の傍らに上人の墳墓をつくりましたが、
叡山の僧兵によって破却されそうになり、
亡骸を西山粟生野へ移し荼毘に付します。
その後、文歴元年(1234)に源智上人は、
荒れるがままの墓所を修理し遺骨を納め
知恩教院大谷寺と号し開山しました。

勢至堂の前から、御廟を見上げたところ。













御廟から御影堂の前まで下りたところ。

中央は、御影堂の石灯籠です。
その向こうに、手水舎と多宝塔が見えます。










手水舎の西側、阿弥陀堂の南に位置する多宝塔です。

七百五十万霊塔と呼ばれ、
法然上人七百五十年遠忌に向け1959年に落成しました。
コンクリート製です。













三門に向け下りる男坂の手前にあった知恩院境内案内図です。


























男坂を三門に向け、下ります。

ちなみに、男坂の隣に女坂があり、女坂の方が勾配が緩いようです。
















男坂を下ると、正面に見えるのが三門です。













三門を東から見たところ。

一般には寺院の門を称して山門と書きますが、
知恩院の門は三門と書きます。
これは空門(くうもん)、無相門(むそうもん)、
無願門(むがんもん)と言う
悟りに通ずる三つの解脱を表す三解脱門を
意味しています。






構造は、五間三戸、二階二重門、入母屋造り本瓦葺、
高さ24m、横幅50mで、屋根瓦は約7万枚が使用されています。












南東から三門を見上げたところ。

三門の両側には、山廊があります。











その山廊から階段で、三門の二階へ上がれるようになってます。


















三門の西側、正面に周って、三門を見上げたところ。

正面には「華頂山」の扁額が掲げられていますが、
この扁額の大きさは、畳2畳以上あります。










三門を、西側正面から見たところ。

元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠の命を受け
建立されました。










楼上内部は、仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、
脇壇には十六羅漢像が安置されて、
天井や柱、壁などには
迦陵頻伽や天女、飛龍が極彩色で描かれているようです。










三門の正面の参道を西に進みながら、
三門をふり返ったところ。












参道は、三門からまっすぐ西へ伸びています。













参道を歩く観光客です。

その先には、知恩院新門が見えます。











西側、正面から三門を見たところ。













南西から三門を見たところ。













三門前の道を南へ行くと、知恩院の南門があります。

その南門を北から見たところ。











南門を出て、南から南門をふり返ったところ。

門には、総本山知恩院の標札が掲げられています。











知恩院の南門を南へ抜けると、円山公園です。

円山公園へ入って行くと、ひょうたん池があります。











ひょうたん池の池畔から、
ひょうたん池に架かる橋を見たところ。












その橋の袂から、ひょうたん池、
そして、池畔に立つ時計塔を見たところ。












円山公園のひょうたん池から、西へ進んで行くと、
赤い鳥居があります。












その赤い鳥居をくぐって、八坂神社の境内へ入ります。













その鳥居を入った左手に、玉光稲荷社があります。
祭神は、商売繫盛の神で、素戔嗚尊の娘の宇迦之御魂神です。

そして、玉光稲荷社の奥の階段を上がったところに
命婦稲荷社(みょうぶいなりしゃ)があります。

左上が、命婦稲荷社です。
稲荷大神の神使の白狐の霊を命婦大神として祀られています。






玉光稲荷社の前を西に進むと、
八坂神社の本殿があります。












本殿の東側を見たところ。

右端は、祇園 御神水と立札が立ってます。
八坂神社 本殿の下から湧き出ており、
地元民からは力水と呼ばれています。

その隣には、伊勢神宮の祭神、天照大神を祀る
大神宮社があります。

更にその隣は、素戔嗚尊の荒御魂を祀る悪王子社です。
悪は悪いという意味ではなく、強いという意味です。


本殿の前、南側には、舞殿があります。

舞殿を東から見たところ。











舞殿を西から見たところ。













舞殿を南から見たところ。

舞殿には、花街の置屋や料亭から奉納された
たくさんの提灯が吊られています。










その提灯です。













舞殿の北側の本殿です。

承応3年(1654)に再建されたもので、
本殿と拝殿を一つの入母屋屋根の下に納めた祇園造りです。

八坂神社の創祀については諸説ありますが、
斉明天皇2年(656)に素戔嗚尊のをお祭りしたのが始まりと
言われてます。
慶応4年(1868)に八坂神社と改称するまでは、
感神院または祇園社と呼ばれていました。

祇園社は、祭神の素戔嗚尊が祇園精舎の守護神である
牛頭天王と一体視されていたことに由来します。



舞殿の南にある南楼門です。

この南門が、八坂神社の正門に当たります。

慶応2年(1866)に火災に逢い、明治12年に再建されたものです。









南楼門の脇、北西にある手水舎です。













南楼門の東側にある能舞台です。













能舞台です。













南楼門を北側から見たところ。













南楼門を出て、参道からふり返ったところ。













参道の石鳥居を出て、ふり返ったところ。













この石鳥居の前、南へ向かう下河原通りから、
東へ向け、大谷御廟へ向かう参道があります。












八坂神社の石鳥居前を西へ進み、
東大路通りへ出て北へ進みます。

その東大路通りへ、西から伸びる四条通りが突き当たる
交差点が見えます。









その交差点の手前下から、
八坂神社の西楼門を見上げたところ。












西楼門を西側正面から見たところ。













東大路通りを渡って、西楼門を見たところ。













西楼門から四条通りを西へ、花見小路を北へ、新橋通りを西へ行くと、
白川に架かる祇園新橋があります。

その祇園新橋の上から南側、白川の流れを見たところ。

この流れは、源流を琵琶湖に持つ琵琶湖疎水から流れてきているとの事。













新橋通りから、白川に沿って白川南通りが分岐する辺りに
巽橋があります。












その巽橋です。

その巽橋から南へ向かう通りは、
切り通しと呼ばれています。










その切り通しです。

切り通しの通りに面した町屋の下側には、
薄く切った竹を曲げて作った柵状のものが
あります。

これは犬矢来と呼ばれる犬の放尿除けです。












切り通しです。


















巽橋の上から北東、白川の流れを見たところ。













そして、巽橋の袂、すぐ横では、舞子さん達が観光客につかまって、
写真撮影が行われていました。

















舞子になる為に、仕込みと呼ばれる花街で生きる為の
厳しい躾の期間や、見習い期間を経て、
舞踊に加え三味線、囃子(笛、太鼓、小鼓)、唄、更に
茶道の修行を積んでいるそうです。

こちらの舞子さんたちは、
少しお年を召されているように見えます。







そして、巽橋のすぐ北側、
新橋通りから白川南通りが分岐する地点に
辰巳大明神があります。











京都御所の辰巳(南東)の方角にあることから
辰巳大明神と呼ばれ、辰巳の方角を守る神社でした。

祇園の人々からの信仰が厚く、
特に芸事の上達を願ってお参りする
芸妓さん、舞子さんの姿がよく見られるそうです。








祇園のお稲荷さんとも呼ばれ、祭神は狸と言う事です。
かつて、この界隈に住んでいた狸がいたずらをして人々を困られせていた為、
狸を祀る祠を建てたら治まったと言う逸話に由来するとの事です。
















辰巳大明神の北側を東西に走る新橋通りです。













辰巳大明神の南側を東西に走る白川南通りです。













白川南通りを西へ進んで行くと、
白川の河畔に歌碑があります。

祇園をこよなく愛した吉井勇(1886-1960)の歌が
刻まれています。

 かにかくに 祇園はこいし 
    寝るときも 枕のしたを 水のながるる






白川が鴨川にそそぐ手前に小さな祠があり、
弁財天が祀られています。












そして、鴨川の東岸を南へ進んで行くと、四条通りへ出る手前、
四条大橋の東詰め北側に、出雲の阿国像があります。

現在の歌舞伎の原型と言われる「かぶき踊り」を始めたのが、
出雲大社の巫女だった阿国と言う事です。














四条大橋の東詰めから、鴨川を見たところ。













四条大橋の東詰め南側には、
歌舞伎の劇場「南座」があります。

南座は、江戸時代から続く日本最古の劇場と
言われています。

そして、出雲阿国が、
ここで最初の歌舞伎興行をした地とされています。






四条大橋を、西へ渡りながら、鴨川上流を見たところ。

この鴨川の河川敷は、カップルが等間隔に座る事で有名です。

少し等間隔でも無いように見えますが、
たくさんの人達が川岸に座っています。








川沿いの店では、京都の風物詩、納涼床が出ています。
この川床の下を、人工水路のみそそぎ川が流れています。












四条大橋を渡ってすぐのところにあった先斗町の説明です。

元々、鴨川の州だったが、江戸時代初期の寛文10年(1670)に
護岸工事で埋め立てられました。
この地に水茶屋が初めて設けられたのは
正徳2年(1712)の頃と言われ、高瀬川を上り下りする
高瀬舟の船頭や旅客目当ての旗小屋が
茶立女を置いていました。
安政6年(1859)に芸者稼業の公許がおり、
明治5年に鴨川をどりが初演され、
先斗町は花街として花を開きました。

先斗町と言えば、お座敷小唄が有名ですね。

 富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も
 雪に変わりはないじゃなし とけて流れりゃ皆同じ。・・・












その先斗町の先斗町通りです。


















先斗町通りです。


















そして、先斗町通りから西へ、河原町通りへ向かう途中、
高瀬川を横切ります。

高瀬川は、角倉了以、その子の素庵によって、
慶長19年(1614)に開かれた運河です。














河原町通りへ出て、河原町通りを南に進んで行くと、
坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難之地の石標が建ってます。

















その石標横に建っているいる坂本龍馬、中岡慎太郎、遭難之地の説明です。




















この地は、慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬が、
その盟友の中岡慎太郎と共に刺客に暗殺された
近江屋(醤油商)があった場所です。










一日歩き通しで、足はクタクタになりました。
ホテルの最寄り駅まで、京都河原町駅から阪急電車で帰りました。




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