天龍寺、落柿舎、二尊院、清凉寺: 19May2019


奈良・京都旅行の9日目の最終日は、 渡月橋、嵐山公園、小倉山、御髪神社、竹林の道、野宮神社、
天龍寺、落柿舎、二尊院、清凉寺を周りました。

野宮神社から長辻通りへ出て、南へ進んで行くと、
天龍寺の総門があります。











その総門です。または、本門と呼ばれています。

その総門を通して奥に見える門が中門です。










その総門の南側には、駐車場へ入る入口があり、
大本山 天龍寺の石標が建っています。

臨済宗の禅刹で、天龍寺派の大本山です。









入口横にあった天龍寺境内図です。
































入口を入り、参道を西へ進んで行くと、勅使門があります。

勅使門は、工事用のフェンスで囲まれており、
改修工事の貼り紙がしてありました。









勅使門の横を過ぎて、参道を西へ進みます。












勅使門の西に位置する放生池です。

放生池は、方形の池が南北に2つ並び、
その中央が水路でつながっています。

そして、その水路には石橋が架かっています。







その石橋です。

放生池の中から伸びている茎や葉は蓮の花で、
夏には蓮の花が見頃になります。









南側の放生池の南畔の参道を西へ進みながら、
勅使門をふり返ったところ。











参道から北へ折れる道に入り進んで行くと、
勅使門から西へ伸びる参道があります。

その参道を横切りながら、東を見ると勅使門があります。









その参道を横切りながら、西を見ると法堂があります。












北側の放生池の北側の参道へ出て、東へ引き返します。

北側の放生池です。










北側の放生池の北側の参道を東へ進みながら、
北側の放生池を見たところ。











北側の放生池の北側の参道を東へ進むと、
中門があります。

中門を西から見たところ。









その中門を東へ抜け、東を見ると、総門が見えます。












総門を入ったところにある天龍寺の境内図です。























そして、中門を東から見たところ。












中門を入り、西へ向かいます。

北側の放生池です。










勅使門からまっすぐ西に伸びる参道に戻り、西を見たところ。

正面に法堂があります。










左端は、法堂で、その北側、横には、売店があります。












法堂の北側、参道を西へ進みます。

正面に庫裏が見えます。
その左横に売店があり、左端は法堂です。









売店です。












法堂(はっとう)を北東から見たところ。

法堂は、説法堂の意で、住持が仏に代わって衆に説法する場所です。

元治元年(1864)の蛤御門の変で焼失し、
明治32年(1899)に、江戸期後期に建立された雲居庵禅堂を
移築したもので禅宗七堂伽藍の一つです。






法堂の北側の参道を西へ進むと、庫裏があります。

右が庫裏で、その隣に式台があります。










庫裏です。
禅宗七堂伽藍の一つで、が明治32年(1899)に建立されたものです。

南北朝時代に足利尊氏の北朝と、後醍醐天皇の南朝が
激しく争いました。
しかし、元々は、尊氏と後醍醐天皇は、鎌倉幕府倒幕で協力した仲です。

後醍醐天皇が崩御すると、歴応2年(1339)に
天皇の菩提を弔う為、足利尊氏によって、天龍寺が創建されます。

開基は足利尊氏で、開山は、当代の名僧、夢窓疎石です。


左端が庫裏で、中央が式台、右端に大方丈が見えます。












庫裏に入ると、正面に、元住職の平田精耕老師の筆による
達磨図の衝立があります。

モチーフは、禅宗の祖師で、
インドから中国に禅宗を伝えた達磨大師です。








庫裏から大方丈へ移動すると、
大方丈の西側に庭園が広がります。

夢窓疎石作庭当時の面影を残した曹源池庭園です。

夢窓疎石が池の泥をあげた時、池中から、
曹源一滴と記した石碑が現れた事から曹源池と名付けられています。






大方丈の縁側から北西を見たところ。
右端には、小方丈(書院)が見えます。

大方丈は明治32年(1899)、小方丈は大正13年(1924)の建築です。









庭の中央に配置された曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、
嵐山や、庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園です。

大方丈の縁側から、南西方向を見ると、
遠方に見える山が嵐山です。








大方丈の内部は、表3室、裏3室の六畳間取りの方丈方式で、
東が表、西の曹源池側が裏です。

その東西を仕切る襖の雲龍図です。

この雲龍図は、昭和32年に物外道人によって描かれたものです。







その雲龍図です。












大方丈の縁側から、曹源池庭園を見たところ。












曹源池庭園です。












大方丈の縁側の南の端から、曹源池庭園、北西方向を見たところ。

大方丈の縁側の先に、小方丈(書院)が見えます。










大方丈の縁側から西を見たところ。

左の出島の向こう、対岸に、滝石組が見えます。

龍門の滝です。

中国の登龍門、鯉が滝を登り龍になる故事になぞらえ、
鯉魚石が配されています。
通常、鯉魚石は滝の下に配されますが、
この滝の鯉魚石は流れの横に配され、
龍と化す途中の姿を現しているとの事。



大方丈の縁側の北の端から、南西を見たところ。

曹源池庭園の先、遠方に借景している嵐山が見えます。










そして、大方丈の表、東側へ周ります。

中央に大方丈への中門があり、その外に法堂の大屋根が見えます。










大方丈から北東を見たところ。












大方丈の表、東側の庭を見たところ。












大方丈の内部です。

この奥に、本尊の釈迦如来坐像が祀られています。

平安時代後期の作とされ、天龍寺の造営よりも古く、
天龍寺が受けた8度の火災を逃れ助けられた仏像で、
天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い像です。






大方丈の内部。












大方丈から表、東側を見たところ。

中央の大屋根は、法堂。

その手前、左よりに大方丈への中門が見えます。








大方丈の南東隅から、大方丈の表、東側の庭を見たところ。












大方丈の南の縁側です。












再び、大方丈の西側の縁側へ戻り、曹源池を見たところ。












大方丈から小方丈(書院)へ渡る角から、曹源池庭園を見たところ。












小方丈(書院)の南側の縁側を西へ進みながら、南西を見たところ。

曹源池の背後に亀山、
その向こう、遠方に嵐山が見えます。









そして、小方丈(書院)の内部です。

小方丈は、2列に多くの部屋が並び、
来客や接待や様々な行事、法要などに使用されます。

その部屋の一つに達磨図の掛け軸が掛かってます。







小方丈(書院)の南側の縁側から、曹源池庭園を見たところ。












曹源池の背後に亀山、
そして、その向こう、遠方に嵐山が見えます。











小方丈(書院)の南側の縁側から、曹源池庭園、
そして、左に大方丈を見たところ。












小方丈(書院)の西側の縁側を北へ進むと、
北西の角から、多宝殿に向け、屋根付きの渡り廊下が続きます。











小方丈(書院)の西側の縁側の北の端から、北側の庭を見たところ。












多宝殿へ続く渡り廊下の横を小川が流れており、
大堰川の標柱がたってます。











渡り廊下の横を流れる大堰川です。

















木立の間に見える建物は、祥雲閣です。

祥雲閣は、わび茶を大成した千利休の血脈を伝える
表千家の茶室、残月亭を写して、昭和9年に建立されたものです。









渡り廊下を進んで行くと、長い渡り廊下の途中に、
腰掛けて休む休憩所があります。

その休憩所の壁には、花頭窓がついてます。









そして、更に先へ渡り廊下は伸びています。












先へ伸びる渡り廊下。

















渡り廊下を進んで行くと、右手に甘雨亭が見えます。

甘雨亭は四畳半台目の茶室で、、昭和9年に建立されたものです。

四畳半台目とは、丸畳四畳と半畳一畳と
台目畳一畳の点前座で構成された茶席を言います。







渡り廊下を進んで行きます。












その廊下を突き当り、左に折れて階段を上りふり返ると、
梵鐘があります。











渡り廊下を進んで行くと、多宝殿があります。












多宝殿内部を正面から見たところ。

多宝殿は、昭和9年(1934)に建築されたもので、
中央に、後醍醐天皇の尊像が祀られています。









後醍醐天皇聖廟 多宝殿の説明です。























この場所は、亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、
多宝殿は、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式で建てられています。




渡り廊下を引き返しなら、渡り廊下を見たところ。












長い渡り廊下を引き返します。

















引き返す廊下の正面に掲げられた丸い額。

和月かな?










大方丈へ戻り、大方丈の東側の部屋の内部を見たところ。












庫裏から外へ出て、次は歩いて大方丈の庭を回ります。

大方丈の東側の庭へ入り、南を見たところ。










大方丈の東側の庭へ入り、北東から大方丈を見たところ。












大方丈への中門です。












大方丈の説明です。

禅宗様式伽藍の一つで、住職の居室です。










大方丈の東正面の中門です。












大方丈の前の東側の庭を南へ歩き、ふり返ったところ。

右側の大屋根は、法堂です。










大方丈を、南東から見たところ。












大方丈の西側へ周り、曹源池を南側から見たところ。












曹源池です。












曹源池。












曹源池。

正面、対岸の石組は、龍門の滝です。
現在は枯滝ですが、戦前までは水が流れていたようです。

中国の登龍門、鯉が滝を登り龍になる故事になぞらえ、
鯉魚石が配されています。
通常、鯉魚石は滝の下に配されますが、
この滝の鯉魚石は流れの横に配されています。
これは、龍と化す途中の姿を現しているとの事。

その竜門の滝の手前には、二つの石に三枚の平石を置いた石橋が見えます。

そして、竜門の滝の手前右よりに見える細く立った石が見えます。
鶴島です。

大方丈の前を北へ向け歩きながら、曹源池庭園を見たところ。

遠方に見える山、嵐山を借景しています。










曹源池庭園です。












北東から、曹源池庭園を見たところ。












北から、曹源池庭園を見たところ。












手前に曹源池、遠方に嵐山を見たところ。

















北から、曹源池庭園を見たところ。

左端は、大方丈です。










北から、曹源池庭園を見たところ。












曹源池の北側には亀島があり、細い石橋が架かってます。












小方丈の西側の西側を北へ向かいます。

渡り廊下の横を流れる大堰川が、渡り廊下の下をくぐって、
曹源池へ流れます。









その流れの横には、草花が咲いています。

そして小方丈の西側の道は、多宝殿へ向かう階段が続いています。










その道端、大堰川の畔に咲いていた青いアヤメ(菖蒲)です。

アヤメは、外側の花弁に網状の模様があるのが特徴です。










白いアヤメ(菖蒲)も咲いています。












箱根空木です。












多宝殿へ向かう階段を上り、多宝殿の前の庭へ出ると、
石灯籠があります。











多宝殿です。

正面が拝堂で、その奥の祠堂に後醍醐天皇像が祀られています。

昭和9年(1934)に建築されたもので、
拝堂の正面には階段付きの向拝がついています。







その多宝殿の西側には、平和観音と愛の泉があります。












平和観音と愛の泉の前から、多宝殿を見たところ。

右側が多宝殿の拝堂で、左が多宝殿の祠堂です。










平和観音と愛の泉から更に北へ進むと、硯石があります。

明治32年(1899)、選仏場(坐禅堂)を法堂として再建した時、
天井に仏法を守護する龍の大画を鈴木松年画伯に依頼し、
60数人の修行僧が摺った墨を用い、大筆で一気に雲龍図を描き上げました。
しかし、その絵は和紙に描いたものを、そのまま天井に貼り付けだけで、
経年劣化が激しく、100年後の法堂改修に合わせて、
平成9年に加山又造により、新たに雲龍図が描かれ直されました。

硯石は、鈴木松年画伯が雲龍図を描いた硯?として、今に残されています。








近くに咲いていたサツキです。












硯石の前から引き返し、曹源池の西側の園路を南に進みながら、
東を見ると大方丈の屋根が見えます。











曹源池の西側の園路を南へ進んで行くと、小さな池があります。












曹源池の西側を回って引き返します。

引き返す途中、法堂の雲龍図を見に寄ります。

法堂の西側、大方丈側の入口から中に入ります。

天井には、厚さ3cmの杉板159枚を張り合わせ前面に漆を塗り、
更に白土を塗った上に直径9mの二重円相内に直接墨色で
八方睨みの龍が描かれています。




法堂を出て、総門へ引き返しながら、
庫裏の方をふり返って見たところ。











天龍寺を出て、次は、落柿舎、二尊院の方面へ向かいます。

天龍寺の総門の前から、北へ進んで行くと、
気軽に軽食を食べれる一角があります。

朝から何も食べずに動き回った為、少し腹ごしらえをする事に。







嵯峨豆腐 三忠と言うお店でしたが、
お店の名前をよく見ずに天ぷらそばを頼みました。

後からお豆腐屋さんと気が付いて、
お豆腐にすればよかったと思いましたが、後の祭りでした。








注文した天ぷらそばです。












軽く食べ終わった後は、先に行った野宮神社の横を通って、
竹林の道を進みます。











竹林の道を西へ進みます。

















竹林の道を抜けると、右手に嵯峨野観光鉄道の
トロッコ嵐山駅があります。











竹林の道を抜けたところにある小倉池の横を北へ向かいます。

小倉池を過ぎて進んで行くと、木立の中に人形がいます。

人形作家の森小夜子さんがオーナーをされている
カフェ アイトワの庭です。







カフェ アイトワの前を北へ進んで行くと、
常寂光寺の山門があります。











その山門の横に境内の案内図が
あります。

































常寂光院の山門を入ると、木立の中に参道が伸びています。












常寂光院の説明です。

常寂光寺は、慶長元年(1596)に開創された
日蓮宗の寺院です。











拝観料を惜しんで、今回は参拝をスキップします。




常寂光寺の前の道を東へ進み、次の交差を北へ折れ、進んで行くと、
こんもりとした木立の中に、茅葺屋根の落柿舎が見えてきます。











右側が茅葺屋根の落柿舎です。

左側の石鳥居は、嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓です。










嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓。

有智子内親王は、弘仁元年(810)に4歳で
初代の加茂斎院に卜定されています。










有智子内親王墓の前を東へ進むと、垣根越しに茅葺屋根が見えます。

落柿舎です。










落柿舎の門です。

落柿舎へは、南から門を入ります。










落柿舎の門前にあった落柿舎の説明です。

落柿舎は、蕉門十哲の一人、
向井去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704))の
閑居の跡です。

落柿舎の名は、庭にあった四十本の柿の実が、
一夜のうちに、ほとんど落ちつくした事に由来します。

その前の日に、柿を買う約束をして帰った商人を
気の毒に思い、お金を返したと言う事です。

現在の落柿舎は、江戸中期の俳人、蝶夢門下の
井上重厚が、明和7年(1770)に再建したものです。



門を入り、落柿舎を、南、少し東よりから見たところ。

落柿舎の入口には、蓑と笠がかけてあります。

この蓑と笠は、蓑と笠がかけてあったら庵主の在庵を示し、
なければ外出中を示すしるしと言う事だ。







落柿舎の玄関から、中を見たところ。

玄関の上り端に、
「頭上に珍しい茅葺きの屋根裏が見えます 落柿舎」の表示があります。














その茅葺屋根の屋根裏です。












玄関の右手、奥の土間を覗いて見たところ。

土間には、竈がありました。















玄関を出て、建物の奥、西側へ周って、南から落柿舎を見たところ。












建物の西側は、四畳半と三畳の座敷が、南北に続いてます。

向井去来の師匠の松尾芭蕉も、三度、訪れ、
元禄4年の滞留時には、嵯峨日記を誌したと言われています。










落柿舎を、南、少し西よりから見たところ。












落柿舎を、南、少し西よりから見たところ。

















落柿舎を、西から見たところ。












落柿舎の西側です。

南西の角の柱には、竹の筒でできた俳句道場・落柿舎の投句箱が設置されています。

入選すると季刊誌『落柿舎』に掲載されるとの事。













落柿舎の北西には、落柿舎を模した次庵があります。












次庵を、南、少し西よりから見たところ。












次庵を、南から見たところ。












落柿舎の西の庭にあった鹿威し(ししおどし)です。

















その鹿威しです。

細い竹筒から流れ落ちた水が、支点で支えられ、斜めに切った太い竹筒の中にたまり、
水の重みで、太い竹筒が倒れ石を打ち、音が鳴り響きます。

静寂の中、一定の間隔で、竹が石を打つ音で、風情を感じる事ができます。












幕末から明治にかけての俳人、下平可都三の句碑です。

  草の戸や わが名月の 山はなれ

この他、落柿舎の敷地内には、向井去来や松尾芭蕉、高浜虚子ら、
俳人達の句碑がたっています。












次庵を、西から見たところ。












落柿舎の玄関前に戻り、玄関横の蓑と笠を見たところ。

蓑と笠があれば、庵主の在庵を示します。















落柿舎を出て、北へ向かいます。

二尊院の総門が見えてきました。










その二尊院の総門の前にあった境内案内図です。



























二尊院の総門です。

慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を
角倉了以によって移築、寄進されました。









二尊院の総門の前にあった二尊院の説明です。















二尊院は、小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)に属します。

承和八年(841)、嵯峨天皇の勅願により慈覚大師、円仁が創立し、
本尊に釈迦如来、阿弥陀如来の二尊が祀られています。



総門をくぐりながら、前方を見たところ。

総門をくぐった左手には、茶所 四季庵です。










総門を入って参拝受付を済まし、参道を進みながら、
総門をふり返ったところ。











参道を西へ、新緑の木立の中を進みます。












新緑の参道を西へ進みます。












参道の階段を上り、突き当りを左へ折れると、黒門があります。











黒門です。

黒門は通用口で、正式な入口は、
黒門から少し南側に勅使門があります。









黒門を入ったところ。

軒端の松です。

 しのばれむ ものともなしに 小倉山
        軒端の松に なれて 久しき
                 藤原定家

思い慕われることもなく、小倉山の家の軒端の松のように、
待ち続けています。



奥の建物は本堂で、本堂の前庭は、
その昔この地に龍女が住み、正信上人によって解脱昇天した
故事をもとに龍神遊行の庭と呼ばれています。










二尊院の本堂です。

室町時代の応仁の乱(1467-77)の兵火で諸堂が全焼しますが、
永正18年(1521)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建されました。

六間取り方丈形式の間口が広い建物です。






本堂を正面から見たところ。

中には、釈迦如来、阿弥陀如来の二尊が祀られています。

正面の扁額の二尊院は、後奈良天皇の自筆によるもので、
再建時に与えられたものです。








二尊院の本堂の由来の説明です。




















本堂へ上がり、本堂正面、東側の縁側から、
本堂の前、龍神遊行の庭を見たところ。











龍神遊行の庭です。

右端の門は、勅使門です。










本堂正面、東側の縁側から、庭の南側を見たところ。












本堂の縁側を南側へ周り、本堂南側の庭を見たところ。












本堂南側の庭は、寂光園と呼ばれています。

















寂光園は、小さくまとまった枯山水提案です。












寂光園です。












本堂北側の縁側に周り、本堂の北側を見たところ。

左側手前は、位牌堂で、その向こうに弁天堂が見えます。

弁天堂は、弁財天の化身の九頭龍大神、宇賀神が祀られています。

湛空上人の時代に、二尊院の四脚門(現在の勅使門)の門前の池、
竜女池より霊蛇が出て、門に掲げられた額を字形や彩色が消える程
舐めていました。
湛空上人は、これを防ぐ為、霊蛇に自らの戒法を授ける為、
血脈を書いて池に沈めました。
すると竜女成仏の証として千葉の蓮華一本が咲いたと伝わります。


左端が位牌堂で、その右側が弁天堂です。












本堂に展示されている法然上人の肖像画、法然上人足曳の御影です。

法然上人は、鎌倉時代初期に二尊院に住んで法を説き、
関白藤原兼実を筆頭に多くの信望を集めました。

法然上人は、建永の法難で75歳の時、讃岐に流されることになり、
藤原兼実がそのお姿を残したいと言う思いから
宅間方眼に描かせたものです。















法然上人足曳の御影の説明です。

藤原兼美は、法然上人にお姿を残さん事を願ったが許されず、
いたしかたなく上人に内密に御簾の陰から描かれました。

後日、上人がその画を見て、裾より片足が出た無作法な姿を恥じ、
南無阿弥陀仏と唱えると、裾から出た足が引き込まれたと伝わります。
















本堂を下りて、本堂の東に位置する勅使門を見たところ。












本堂の前を北へ進みながら、
本堂の北側に位置する位牌堂と、弁天堂を見たところ。

中央が弁天堂で、その左側が位牌堂です。









弁天堂の北側に石段があり、
その石段の手前に二尊院普賢象桜があります。

二尊院普賢象桜の手前の説明板によると、
鷹司家より、下賜されたもので、
開花時期は4月中旬から下旬にかけてという事で、
訪問時は、花を見る事はできませんでした。


特徴として、花びらが150~60枚あり、
長く屈曲した雌しべが普賢菩薩が乗る象の鼻に似ている事が
名前の由来になってます。

その石段の上り口の右手に、角倉了以像があります。

角倉了以(1554-1614)は、京の豪商の家に生まれ、
徳川家康の政策の下、御朱印船貿易の第一船を出航し、
以来13年間に渡り安南国との貿易で蓄財を成しました。
その私財を投じて保津川、大堰川の開削、富士川疎通、天竜川開削、
鴨川疎通、高瀬川開削を行い、水運の父と呼ばれる偉業を残しました。






角倉了以像の裏、西側に鐘楼があります。

鐘楼は、慶長年間(1596-1615)に建立され、
梵鐘は慶長9年(1604)に鋳造され、
平成4年(1992)に再鋳されたものです。













小倉山の中腹に続く石段を上って行きます。

石段の先に見える建物は、湛空廟です。















その湛空廟を正面から見たところ。

二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑が納められており、
碑は、慶長5年(1253)に中国の石工によって彫られた碑と
考えられています。
また、碑堂は室町時代末期の建築です。







湛空廟の前を南へ進んで行きます。












湛空廟の前を南へ進んで行くと、時雨亭跡があります。

時雨亭で、藤原定家が小倉百人一首を選定したと言われています。










その時雨亭跡から、東を見たところ。












時雨亭跡から、東、北よりを見たところ。

中央辺りに、清凉寺が見えます。










北東を見たところ。

右端に清凉寺が見えます。










湛空廟の前へ戻り、北へ進むと、
角倉家の墓所があります。

大小4つ並んだ墓があり、左の二つが角倉了以とその夫人、
右の二つが、角倉了以の長男、素庵とその夫人の墓です。








角倉家の墓所から、本堂前に戻り、勅使門から外へでます。

そして、勅使門をふり返って見たところ。

今は誰でも通る事ができますが、かつては天皇の使いの勅使だけが通れた門で、
唐破風形の屋根を持つ格式が高い門です。












二尊院の総門を出て、次は清凉寺へ向かいます。












二尊院から東へ進んで行くと、
清凉寺の本堂の大屋根と、西門が見えてきます。











西門を入り、進んで行くと、右手に鐘楼が見えます。












左手には、嵯峨薬師寺の本堂があります。

平安時代初期に悪病が蔓延し、それを憂慮した嵯峨天皇が
弘法大師に薬師如来像の彫刻を命じられました。
その心経秘鍵薬師如来像が本尊です。

この本堂の前に、「生の六道 小野篁公遺跡」と刻まれた
石標があります。

小野篁(802-852)は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官僚ですが、
昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王に仕えたと伝わります。
六道珍皇寺には篁が地獄に通った井戸があり、
嵯峨の福正寺(現在の嵯峨薬師寺)には地獄から戻って来たと伝わる井戸がありました。
(現在は、井戸は無く、「生の六道 小野篁公遺跡」の石標がたってます。)


嵯峨薬師寺の本堂の向こうに、清凉寺の本堂があり、
その本堂と本堂の間に、豊臣秀頼の首塚があります。

1980年に行われた大阪城三の丸跡の学術調査で、
豊臣秀頼の頭蓋骨が出土し、
1983年に秀頼が再興に尽くした清凉寺に首塚が造られ、
祀られています。






清凉寺、通称、嵯峨釈迦堂の本堂です。

清凉寺は、奝然(ちょうねん)上人による開山で、
本尊に三国伝来生身釈迦如来像が祀られています。

寛永14年の嵯峨大火で諸堂宇は焼失しますが、
徳川綱吉とその生母、桂昌院の寄進により、
現在の建物は、元禄14年(1701)に再建されたものです。

本堂正面には、栴檀瑞像と書かれた大額が掲げられています。



本堂前から南を見ると、仁王門があります。

天明4年(1784)に再建されたものです。










本堂の前、東側には手水舎があります。

その手水舎の東側、清凉寺の境内に京料理ゆどうふ竹仙があります。










南東から本堂を見たところ。












本堂の横、東側に位置する阿弥陀堂です。

嵯峨天皇の皇子、左大臣の源融(みなもととおる)が、
山荘、棲霞観を建て、後に棲霞寺と改め、
これが阿弥陀堂の始まりです。

現在の建物は、文久3年(1863)に再建されたものです。

かつては、阿弥陀堂へ阿弥陀三尊坐像が安置されていましたが、
現在は、霊宝館に収蔵されています。



阿弥陀堂の前にあった
棲霞観跡の説明板です。

源氏物語の光源氏は、
源融がモデルとされています。
















阿弥陀堂から、仁王門へ向け進みます。

















仁王門へ向け進んで行くと、右手に多宝塔があります。

多宝塔は、元禄16年(1703)に建立されたものです。















更に進むと、法然房源空二十四歳求道誓願像があります。

保元の乱が起きた保元元年(1156)に、
後の浄土宗開祖、法然が24歳の時、7日間、比叡山をおり、
清凉寺の釈迦如来に参籠したと伝わります。













清凉寺の仁王門を出たところにあった清凉寺の説明板です。

















清凉寺の仁王門を出て、正面、南から仁王門を見たところ。

仁王門は、和様と禅宗様を折衷したケヤキ造りの二階二重門で、
天明4年(1784)に、再建されたものです。

初層には、室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像が
安置されています。






仁王門に向かって、左側、吽形の仁王像です。

















その吽形の仁王像を、角度を変えて見たところ。

















仁王門に向かって、右側、阿形の仁王像です。

















その阿形の仁王像です。

















見上げて見たところ。

















仁王門です。







仁王門の前の道を、まっすぐ南へ、渡月橋へ向け歩きます。




清凉寺の仁王門から、少し南へ下ったところ、右手に、
愛宕野々宮両御旅所があります。

ちょうど、この日は、愛宕神社、野々宮、両神社の
嵯峨祭りの神幸祭で、神霊を神輿に移す神事が行われた後でした。
また、次の週には、還幸祭が行われ、
神輿が、大覚寺へ立ち寄る等、嵯峨野一帯を巡行します。






愛宕野々宮両御旅所の赤い鳥居を中へ入ると、
正面に拝殿があります。











その奥、向かって右に愛宕大神、左に野宮大神の神輿が並び、
その前にたくさんの献酒が並んでます。

ちなみに、元禄4年、松尾芭蕉が落柿舎へ滞在中、
この嵯峨祭を見た記録が嵯峨日記に残っており、
古い歴史をも持つお祭りです。







そして、渡月橋まで出て、渡月橋を渡り終えようとするタイミングで、
車折神社の三船祭りの行列に出会いました。

三船祭は、車折神社の祭神の清原頼業が活躍した平安時代の
船遊びが大堰川で再現されます。








三船祭は、平安時代に船遊びする際には、
和歌、漢詩、奏楽の三つの船を浮かべた事に由来します。











雅楽の奏者の方でしょうか、
手に笙(しょう)や、篳篥(ひちりき)、横笛を持っています。











そして、十二単を着た女性が輿に乗ってやってきました。












枕草子で有名な清少納言役として公募で選ばれた女性です。












あっという間に、通り過ぎて行きます。












過ぎて行く十二単の女性の輿です。












行列は続きます。












過ぎて行く十二単の女性の輿。












朱色の装束を着た3人の内、前を歩く女性は、
舞楽 蘭陵王の装束を身に着けています。
蘭陵王は、広島の厳島神社でも奉奏されることがあり、
なじみがある舞楽です。
また、後ろの2人は、舞楽 迦陵頻(かりょうびん)の装束のようです。

舞楽 迦陵頻は、子供による童舞で、
極楽浄土に住み、上半身は人の姿をしており、美しい声で歌う鳥、
迦陵頻伽が舞うさまを、子供たちが、背中に鳥の羽をつけて舞います。




三船祭の行列が進みます。












三船祭は、この行列の後、平安時代の船遊びが
大堰川で再現されます。











行列が過ぎて行きます。

この日、偶然、渡月橋で三船祭の行列に出会いましたが、
この後、船遊びがある事を知らず、帰途につきます。









渡月橋を渡り、中ノ島を過ぎ、渡月小橋の手前から、南を見たところ。












渡月小橋を南へ進みます。












渡月小橋を渡りながら、下流、東方向を見たところ。












渡月小橋の上から、上流、北西方向を見たところ。











8泊9日の奈良・京都旅行は、今日で終わりです。
阪急嵐山駅から、阪急電車で大阪へ、そして広島へ帰りました。





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