奈良・京都旅行の8日目は、
西本願寺、東本願寺、
東寺、三十三間堂、豊国神社、方広寺、清水寺を
周りました。
西本願寺、東本願寺を訪れた後、烏丸通りを南下し、
京都駅を南へ抜けた後、西へ向かいます。
大宮通りへ出て、南へ進んで行くと、東寺が見えてきます。
東寺の慶賀門です。
慶賀門横の石碑には、真言宗総本山 東寺とあります。
平安遷都とともに官寺として羅城門の東に建立され、
東寺と呼ばれていました。
その後、東寺は、
桓武天皇の後に即位した嵯峨天皇により、
唐で新しい仏教、密教を学んだ弘法大師空海に
下賜されました。
慶賀門です。
別の石柱には、史蹟 教王護国寺境内とあります。
弘法大師空海は、東寺を真言密教の根本道場とする為に、
教王護国寺と名付けました。
正式名称は、金光明四天王教王護国寺秘密伝法院です。
慶賀門です。
鎌倉時代前期の建築です。
慶賀門を通して、境内を見たところ。
慶賀門を入ると、左手に堀で囲われた一角があり、
木立の中に宝蔵が見えます。
また、まっすぐ西へ進んで行った先に見える建物は、
食堂です。
宝蔵を囲う堀端にいたアオサギです。
慶賀門を入って南を見たところ。
慶賀門を入ってすぐ南を見ると、宝蔵を囲う東側の堀があります。
その堀の向こうに五重塔が見えます。
宝蔵を囲う堀に沿って
西へ進んで行った先に見える建物は、
食堂です。
堀に沿って進んで行くと、
宝蔵を囲う西側の堀があります。
その堀の向こうに、五重搭が見えます。
堀の向こうの五重塔を見たところ。
また堀には、宝蔵へ渡る石橋が架かっているのが
見えます。
宝蔵の西側の堀に架かる石橋と、
その向こうに見える五重塔です。
よく見ると、石橋の向こう、堀端に白サギがいます。
足指の先まで黒いので、ダイサギです。
堀越しに見た五重塔です。
慶賀門を入って西へ進んで行った正面に
手水舎があります。
五重塔です。
手水舎の南に位置する食堂です。
僧が生活のなかに修行を見出す場です。
食堂を南東から見たところ。
かつて、
千手観音菩薩が安置されていた事もあり、
観音堂とも呼ばれています。
現在の建物は、昭和5年(1930)に焼失後、
再建されたものです。
拝観受付を済ませ、拝観入口を入り、
南を見ると、
手前に講堂、奥に金堂が見えます。
拝観入口を入って、南東に
五重塔が見えます。
中には池泉回遊式庭園があり、
五重搭に向け進んで行きます。
五重塔に向け進んで行きます。
庭園の中には、瓢箪池があり、
その池越しに五重搭を見たところ。
瓢箪池越しに見た五重塔です。
瓢箪池越しに、講堂、金堂を見たところ。
右よりに講堂、中央が金堂です。
五重搭を北から見たところ。
五重塔を北から瓢箪池越しに見たところ。
瓢箪池越しに見た五重塔です。
瓢箪池越しに見た五重塔です。
瓢箪池の畔に咲いていた黄菖蒲越しに見た五重塔です。
瓢箪池の畔の黄菖蒲越しに金堂を見たところ。
五重搭を北、西よりから見たところ。
五重搭を北西から見たところ。
高さは約55mあり、
木造の建造物として日本一の高さを誇ります。
五重搭は仏陀の遺骨を安置するストゥーパが起源とされ、
弘法大師空海が唐より持ち帰った
仏舎利が納められています。
五重塔を西から見たところ。
五重塔は9世紀末に創建された以降、4度の焼失を繰り返し、
現在の搭は、寛永21年(1644)に再建されたものです。
普段、五重塔は非公開ですが、
訪問時は、初層の特別公開を実施中でした。
五重塔を南から見たところ。
五重搭の初層に安置されている
如来像の説明です。
五重搭の東面を、北東から見たところ。
初層の特別公開は、
東面の階段から基壇上へ上がって見る事が出来ます。
五重搭の北面を、北西から見たところ。
五重塔の横から金堂の方向を見たところ。。
瓢箪池を見たところ。
五重塔を北西から見たところ。
五重塔の北西に位置する金堂へ向かいます。
金堂です。
創建時の建物は、
文明18年(1488)の土一揆で焼失しましたが、
慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進により
再建されました。
金堂の北側に位置する講堂です。
講堂を南東から見たところ。
講堂も文明18年(1488)の土一揆で焼失しましたが、
講堂は焼失から5年後、
金堂よりも早く最優先で再建されました。
講堂は寺域の中心に位置し、密教の中心的建物です。
内部は、密教の世界を羯磨曼荼羅、
いわゆる立体曼荼羅で表現されています。
その立体曼荼羅は、大日如来を中心とした五智如来、
大日如来に対面し右側に金剛波羅蜜多菩薩を中心とした五大菩薩、
左側に不動明王を中心とした五大明王が配されています。
講堂を東から見たところ。
講堂の東側には、
経蔵の礎石、経蔵跡が残ってます。
講堂の北側、東の角の木の根元にも礎石が見えます。
その木の横から南を見ると、手前が講堂で、
その向こうに金堂が見えます。
北東から講堂を見たところ。
講堂の西側へ行き、北西から講堂を見たところ。
左端が講堂、その向こうに金堂が見えます。
講堂の西側を南へ、金堂の方へ進みながら、
西に見える建物は、小子房です。
講堂のすぐ横から、金堂の西側を抜けて南側に回り、
金堂の軒下から五重塔を見たところ。
五重塔を西から見たところ。
金堂を南から見たところ。
一見、二階建てに見えますが、一重裳階付きの建物です。
裳階の屋根の中央部は、切り上げされており、
切り上げされた小屋根の下には両開きの窓があり、
法会の際には開けられ散華したと言われています。
本尊は、薬師如来で、
本尊に対面し、右側に日光菩薩、左側に月光菩薩が
安置されています。
薬師如来は、薬壺を持たない古い形式の仏像です。
拝観入口へ戻り、拝観エリアを出たところにあった東寺境内図です。
拝観受付の西側、食堂の南に、
小さな二つのお堂があります。
夜叉神堂です。
その夜叉神堂の説明です。
当初は、南大門の左右に安置され、
旅人が拝まないで通ると
罰があったとされてます。
食堂と夜叉神堂の間を西へ抜け、南へ進みます。
南へ進みながら、食堂をふり返ったところ。
右端は、夜叉神堂です。
南に進みながら左手、東側に講堂を見たところ。
西側に庫裏、事務所があります。
庫裏、事務所の南に位置する小子房です。
小子房は、天皇をお迎えする特別な場所で、
南北朝時代には、足利尊氏が光厳上皇を奉じて
都へ入った折り、上皇は洛中の戦いが治まるまで
小子房を御所とされました。
現在の小子房は、昭和9年(1934)の弘法大師空海の
千百年御遠忌にあたり再建されたものです。
小子房の前の檜皮葺の唐門は、勅使門です。
そして、小子房の説明です。
更に南へ進んで行くと、東寺境内の南西の一角に、
灌頂院があります。
灌頂とは、密教において、
頭頂に水を灌いで曼陀羅と縁を結び、
種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とする
儀式を言います。
その密教を継承する重要な儀式の伝法灌頂を行うために
建てられた建物です。
そして、金堂を南西から見たところ。
金堂を南から見たところ。
金堂の前には、南大門があります。
その南大門を境内の内側から見たところ。
その南大門を出て、東を見たところ。
南大門を出て、南から南大門を見たところ。
この南大門は、
慶長6年(1601)に建てられた三十三間堂の西門を、
明治28年(1895)に東寺へ移築された物です。
その南大門を南東から見たところ。
東寺の境内の南側には、堀が残っており、
南大門へ渡る石橋の袂、石橋の陰に、
カルガモのヒナがいました。
そして、ヒナ達だけでなく、
抱卵を放棄された卵でしょうか?
卵が一個残ってました。
親鳥が見当たりませんが、
元気に育って欲しいものです。
身を寄せ合うカルガモのヒナ達です。
そして、南大門の基壇の端っこには、アオサギもいます。
そのアオサギと五重塔を見たところ。
東寺の南側の堀に沿って、東へ進みながら、
南大門をふり返ったところ。
堀に沿って東へ進みながら、五重塔を見たところ。
東寺の南側の塀越しに、五重塔を見たところ。
塀越しに五重塔を見ながら進みます。
塀越しに見た五重塔です。
大宮通りに出ると、
東寺の東側の塀に沿って、北へ向かいます。
北へ進んで行くと、東大門があります。
東大門の前には金網のフェンスがあり、
東大門へ近づくことはできませんでした。
しかし、仮に近づけたとしても、
東大門は、不開門(あけずのもん)と呼ばれ、
入る事はできません。
東大門です。
延元元年(1336)、足利尊氏の弟、足利直義は、
後醍醐天皇がいる比叡山を攻めますが、
失敗します。
足利尊氏は、直義に東寺まで退却を命じ、
尊氏も東寺へ布陣します。
後醍醐天皇方の新田義貞らが
東寺に攻撃を仕掛けると、
足利軍は、東大門から東寺へ逃げ込み
東大門は閉じられました。
それ以来、東大門は閉じられたまま、
不開門(あけずのもん)と呼ばれるように
なりました。
東寺の東側、大宮通りを北に向け進みながら、
五重塔をふり返ったところ。
次は、三十三間堂へ向かいます。
JR京都駅を北に抜け、塩小路通りを東へ向かいます。
JR京都駅を北に抜け、京都タワーを見上げたところ。
鴨川に架かる塩小路橋を渡りながら、
鴨川上流、北を見たところ。
塩小路橋を渡りながら、北を見たところ。
塩小路通りを東へ進んで行くと、
塩小路通りと南北に交わる大和大路通りがあり、
その大和大路通りの北側を見たところ。
長い築地塀は、三十三間堂の築地塀です。
塩小路通りを東に向け進みます。
東に向け進んで行くと、築地塀の先に、
三十三間堂の南大門が見えます。
南大門は、三間一戸の八脚門で、
文禄4年(1595)に豊臣秀吉が造立した
大仏殿方広寺(現国立博物館一帯)の南門として
築かれたものです。
また、南大門へ続く三十三間堂南側の築地塀も、
豊臣秀吉によって寄進されたもので、
通称、太閤塀と呼ばれています。
その三十三間堂の南大門です。
本瓦葺の八脚門です。
三十三間堂の南大門です。
この南大門は、重要文化財に指定されていますが、
自動車が通り抜けできるようになってます。
南大門を入り、北へ進んで行くと、
左手、西側に三十三間堂の境内があり、
赤い柱を使用した回廊塀が続いています。
南大門を入り、更に北へ進んで行くと、
右手、東側に竜宮門があり、
門の前に旧御陵正門の石柱と、
門の横には法住寺殿蹟の石柱が建っています。
後白河天皇は、保元3年(1158)に皇位を
二条天皇に譲り、
この法住寺の地を、院の御所と定め、
応保元年(1161)に、上皇として法住寺殿に
遷られました。
そして、上皇は、平清盛に命じて、
法住寺域内に、蓮華王院を造営し、
三十三間堂も、そのお堂の一つとして建てられました。
上皇は、嘉応元年(1169)に受戒し法皇となられます。
そして、建久3年(1192)に崩御され、法住寺の法華堂に祀られました。
明治以後は、法住寺陵として、宮内庁の所管となり、今は陵墓への参道は別にありますが、
かつては、この門が、御陵へ向かう門だったようです。
法住寺の大門です。
門の前には、後白河院御聖蹟 身代不動尊 法住寺の
石碑が建ってます。
身代不動尊は、創建当時から崇尊されている本尊です。
平清盛の死後、木曽義仲が法住寺殿を襲った際、
後白河法皇があやうく命を落とすところを、
明雲大僧正が敵の矢に倒れ、難を逃れる事ができました。
この時、法王は、お不動様が明雲となって身代りになった
と涙したと伝えられています。
その大門の前にあった法住寺の説明です。
法住寺は、天台宗の寺で、
永祚元年(989)に、
右大臣の藤原為光によって、その夫人と、
娘で花山天皇女御の忯子の菩提を
弔うために建てられました。
その大門を入ると、書院があります。
大門を入って右手、南側には本堂があります。
本堂には、身代不動尊が祀られています。
本堂の向こう、東側に阿弥陀堂があります。
法住寺を出て、北へ進むと左手、西側に
三十三間堂の東大門があります。
その東大門の向かいに、養源院の山門があります。
その山門前にあった養源院の説明です。
山門を入ると、養源院の本堂に向け、
参道がのびています。
その山門を入って養源院参道のすぐ右手に
白衣弁財天があります。
白衣弁財天の社の横の池です。
養源院の参道を進んで行くと、
左手に毘沙門天があります。
毘沙門天です。
参道を進んで行くと、
養源院の本堂が見えてきます。
養源院本堂の玄関です。
養源院は、豊臣秀吉に自害を命じられた
北近江の戦国武将、浅井長政を供養する為に、
1594年、長政の長女で、秀吉の側室だった淀君によって
建てられました。
その後、大阪夏の陣で、豊臣家が滅びた後の1616年に
長政の三女で、秀吉の政略結婚で徳川秀忠に嫁いだ
お江によって、戦没者の供養が、ここ養源院で
行われました、
そして、1619年に養源院は落雷によって焼失します。
しかし、1621年に、お江により、養源院が再建されます。
その再建には、関ケ原の戦いの前、鳥居元忠をはじめとする徳川方が守備し、
最後に自刃し血のりが付いた伏見城の床材が、養源院の天井に使用されており、
養源院の血天井と呼ばれています。
養源院を出て、三十三間堂の前から、
回廊塀に沿って北へ進んで行くと左手に、
三十三間堂の北門があります。
三十三間堂の北門を過ぎ、更に北へ進んで行くと、
三十三間堂への入口があり、
その先に京都国立博物館が見えてきます。
三十三間堂への入口横にあった
三十三間堂の説明です。
現在は、天台宗妙法院のお堂で、
正式には蓮華王院と言います。
長寛2年(1164)に
後白河上皇の法住寺殿と呼ばれる院御所内に、
平清盛の寄進により創建されました。
しかし、建長元年(1249)に
市中からの火災により焼失し、
現在の建物は文永3年(1266)に
再建されたものです。
三十三間堂への入口を入り、
東西に長い建物、普門閣に沿って
西へ進んで行くと、拝観受付があります。
拝観受付をし、中に入って、東を見ると、
北門が見えます。
拝観受付から中に入って、南東を見ると、
池があります。
その池の北側から、三十三間堂を見たところ。
池のそばにあった三十三間堂の庭の
遊歩道マップです。
三十三間堂の東側の庭には、
北と南に池が2つあり、
池沿いを歩いて三十三間堂の
南へ回るコースになってます。
北側の池の畔に、
此附近 法住寺殿址の石碑が建ってます。
その法住寺殿址碑の説明です。
法住寺殿は、保元3年(1158)に息子の二条天皇に譲位して、
上皇となった後白河院が約30年にわたり院政を行った政庁です。
法住寺殿は、政治的な施設の北殿と、
常の御所と呼ぶ住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した南殿に分かれ、
東山を背にする丘陵に大建築が甍を並べたと言われています。
三十三間堂を北東から見たところ。
三十三間堂は、南北にのびるお堂内の柱間が33ある
建築的な特徴から呼ばれています。
ちなみに、三十三と言う数字は、
観音菩薩の変化身三十三身に基づく数を
表しています。
三十三間堂です。
かつては、朱塗りの外装で、
堂内は花や雲文様の極彩色で飾られていたといい、
今もわずかにその名残を留めています。
地上16m、奥行き22m、南北120mあり、
入母屋造り本瓦葺の長大なお堂です。
池の周りには、
芍薬(シャクヤク)や黄菖蒲の花が咲いています。
芍薬(シャクヤク)の花です。
三十三間堂前から北側の池を見たところ。
左端に北門が見えます。
三十三間堂です。
白い芍薬(シャクヤク)越しに北側の池を見たところ。
手前に白い芍薬(シャクヤク)、その向こうに池を見たところ。
北側の池の南東に、法然塔(名号石)が建ってます。
元久元年(1204)に土門天皇が三十三間堂で
後白河法皇の十三回忌を行った際、
請いを受けた法然上人が音曲に秀でた僧を伴って
六時礼賛と言う法要を修し、南無阿弥陀仏と書写して
参集した人々に分け与えました。
この六字の名号が石に刻まれて、
法然塔と呼ばれています。
その法然塔のすぐそばに手水舎があり、
よく見ると手水舎の中に
お地蔵さんが祀られています。
手水舎を北東から見たところ。
近くの標札に、夜泣泉と呼ばれる井戸の
説明があります。
三十三間堂創建(1164)の翌年に、
ひとりの堂僧が夢のお告げにより発見した冷泉で、
夜のしじまに水の湧き出す音が
人のすすり泣きに似る事から
夜泣泉と呼ばれるようになりました。
いつの頃からか傍らに地蔵尊が奉られ、
特に幼児の夜泣き封じに功徳があるとして
お地蔵さんの前掛けを持ち帰り子供の枕に敷けば
夜泣きが治るとされています。
手水舎を、正面、南側から見たところ。
手水鉢の向こうに、夜泣泉と、お地蔵さんが見えます。
三十三間堂の中央、正面から、
三十三間堂を見たところ。
左右に長すぎて、写真に収める事ができません。
中央から北側、三十三間堂を見たところ。
中央から南側、三十三間堂を見たところ。
三十三間堂の正面、東側には、東大門があります。
東大門の前から、もう一度、三十三間堂を見たところ。
三十三間堂に沿って、南へ歩きながら、
三十三間堂をふり返ったところ。
南側の池です。
三十三間堂の前から、池を見たところ。
池の向こうに、朱色の回廊が見え、
左よりに東大門が見えます。
三十三間堂の前から、池を見たところ。
南側の池の南東の岸から、
池越しに三十三間堂を見たところ。
そして、池の南に位置する鐘楼を、
北西から見たところ。
鐘楼を南東から見たところ。
鐘楼の南側、境内の端に、
太閤塀の石碑が建ってます。
豊臣秀吉が、権勢を天下に誇示する為、
文禄4年(1595)に大仏殿方広寺を
三十三間堂の北隣(現国立博物館一帯)に造営し、
三十三間堂や後白河上皇の御陵をも、
その境内へ取り込んで
太閤塀と呼ばれる築地塀を築きました。
その太閤塀の軒丸瓦を見ると、
豊臣家を表す桐紋が入ってます。
豊臣秀吉は、関白就任後、
花の数が5-7-5の五七桐の紋を
使用するようになったと言われていますが、
三十三間堂の軒丸瓦には、
花の数が5-5-5の五五桐の紋が
使用されています。
更に、太閤塀の軒丸瓦をよく見ると、
丸に左三つ巴の紋もありました。
軒丸瓦によく見る巴紋は、
水が渦巻いているように見える事から、
火災除けと言われています。
南東から、三十三間堂を見たところ。
三十三間堂の南面です。
三十三間堂の西面を、南から見たところ。
三十三間堂の西縁では、
南端から、およそ120mの距離を弓で射通し
矢数を競う通し矢が行われてきました。
夕刻に始めて翌日の同刻までの一昼夜で
何本通るか競う大矢数や、
矢数を決めて的中率を競う百射、千射等が
ありました。
通し矢の始まりは不明ですが、
桃山時代にはすでに行われていたと伝わります。
三十三間堂の南端から、
東方向、鐘楼を見たところ。
三十三間堂の南西隅にある稲荷社です。
石鳥居の扁額には、久勢大明神とあります。
三十三間堂の西面に沿って、北へ進みながら、
南端をふり返ったところ。
三十三間堂の西面に沿って、北へ進み、
北西角に西門があります。
庭を一周し、
拝観受付を入った場所に戻ります。
三十三間堂の参拝は、
参進閣と言う玄関口から入ります。
堂内内部は写真撮影禁止で、以下はポスターの写真です。
国宝 千手観音坐像です。
左右、計千体の等身千手観音立像に囲まれて、堂内中央に安置されており、中尊と呼びます。
増高が約3mあり、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されています。
42手で千手を表す通例の像形で、鎌倉期の再建時に、運慶の長男の湛慶が慶派の弟子達を率いて完成させました。
そして、千手観音立像です。
前後10列の階段状の壇上に、中尊を中心に左右500体、計1000体の等身大千手観音立像が、整然と並んでいます。
その内、124体は創建時の平安期に、その他が鎌倉期に16年かけて再興された像です。
これらの観音像は、寄木内刳と言う造像法により体内が空洞で、摺仏が大量に納められています。
各像に数十体の摺仏を加え一万体の観音様を具現化しています。
三十三間堂を出て、大和大路通りを北へ、
豊国神社へ向かいます。
途中、右手に、京都国立博物館の正門があります。
正門、及び、正門を通して見える煉瓦造りの建物は、
明治28年竣工した旧帝国京都博物館の正門と本館です。
重要文化財に指定されています。
その正門の北側に、京都国立博物館の新展示館、
平成知新館があります。
京都国立博物館の前を通り過ぎて、進んで行くと、
豊国神社の鳥居が見えてきます。
豊国神社の大きな石標も建ってます。
豊国神社の石鳥居です。
鳥居の扁額には、豊国大明神とあります。
豊国神社の境内では、京都おもしろ市と呼ばれる
フリーマーケットが開催されていました。
ちなみに、このおもしろ市は、毎月8日、18日、28日に
開催されているようです。
鳥居をくぐり、参道を進みます。
参道横の手水舎です。
参道を進んで行くと、
参道横に豊臣秀吉公の像があります。
その向こうには、伏見城の遺構と伝えられる
国宝の唐門が見えます。
唐門です。
唐門は、前後に軒唐破風が付いた
入母屋屋根の四脚門です。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、
慶長3年(1598)、伏見城にて波乱の生涯を終えます。
遺命により遺骸は東山阿弥陀ヶ峯の山頂に葬られ、
慶長4年に秀吉を祀る豊国社が創建されました。
しかし、慶長20年(1615)、
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると
徳川家康ににより廃祀されます。
江戸時代を通じて草叢に埋もれてましたが、
明治元年(1868)に明治天皇の御沙汰により再興が決定し、
明治13年に社殿が造営されました。
唐門は、正月三ヶ日を除き、
普段はこの門より奥へは入る事はできません。
唐門の両脇には、秀吉の馬印であった千成瓢箪を模した
瓢箪絵馬が奉納されています。
唐門を通して、拝殿、その奥に
豊臣秀吉公を祀った本殿が見えます。
そして、その本殿の横には、
豊臣秀吉の正室、北政所を祀る
摂社、貞照神社があります。
唐門の扉下部に施された鯉の滝登りの彫刻等、
見事な彫刻が随所に見られ、
これらの彫刻は桃山時代後期から江戸時代にかけて活躍した
左甚五郎の手によるものとされています。
豊国神社の説明です。
唐門を南西から見たところ。
この唐門は、
桃山文化を代表する装飾を持つ唐門として、
西本願寺唐門、大徳寺唐門と共に
国宝三唐門と称されています。
豊国神社の境内の北側には、
槇本稲荷神社があります。
豊国神社が再建された時、鎮守社として、
若王子から移転したものです。
そして、次は、豊国神社の北に隣接する
方広寺へ向かいます。
槇本稲荷神社の北側の石瑞垣の切れ目から
方広寺の境内へ入るとすぐのところに、
鐘楼があります。
大阪冬の陣のきっかけとなった巨大な梵鐘が残る鐘楼です。
方広寺は、豊臣秀吉が東大寺を倣って大仏を安置する為、
天正14年(1586)から十年の歳月をかけて造られた寺院です。
文禄4年には南北88m、東西54m、高さ49mの巨大な大仏殿が完成し、
高さ19mの木製金漆塗座像が安置されますが、
翌年の慶長大地震によって大仏は大破します。
そして、秀吉は慶長3年(1598)に
大仏開眼を待たずに亡くなってしまいます。
秀吉の遺志を継いだ豊臣秀頼によって金銅製の大仏が完成したのは、
江戸時代の慶長17年(1612)の事です。
鐘楼は明治時代に再建されたものですが、
梵鐘は慶長19年(1614)に鋳造されたもので、
高さ4.2m、外径2.8m、重さ82.7tの巨大な梵鐘です。
この梵鐘に彫られた「君臣豊楽」「国家安康」の銘文が、
君主としての家康の名を分断したと徳川家康が因縁をつけ
大阪冬の陣が始まります。
結果、豊臣家の滅亡に至ります。
その方広寺の梵鐘です。
方広寺の大仏殿の造営は、豊臣家の権勢を示すものでしたが、
豊臣家は滅亡し、大仏は地震による倒壊や火災による焼失で、
現在は残っていません。
現在の方広寺は、当時の面影は無く、
小さく閑散としたお寺となっています。
そして、この梵鐘は、
豊臣家が滅亡してから明治時代に新たな鐘楼が再建されるまで、
現在の京都国立博物館付近に雨ざらしとなっていたようです。
方広寺の梵鐘です。
梵鐘が釣り下がっている天井には、
見事な天井画があります。
その天井画です。
天井画には、
迦陵頻伽(かりょうびんが)が描かれています。
迦陵頻伽は、上半身が人間で、下半身が鳥の
仏教で極楽浄土に住むとされる想像上の生物です。
鐘楼の北に位置する本堂です。
本堂には、本尊の盧舎那坐像が祀られています。
盧舎那坐像は、かつての大仏の10分の1の大きさで、
江戸期に造られたものです。
また、かつての大仏殿の欄間に施されていた
左甚五郎作の龍の彫刻等が残ってます。
本堂の東に隣接する大黒天堂です。
大黒天堂には、
伝教大師、最澄が延暦寺創建時に製作し
豊臣秀吉が護持したと伝わる
大黒天像が祀られています。
大黒天堂前から、本堂を見たところ。
大黒天堂前から、鐘楼を見たところ。
方広寺を出て、豊国神社の前から、
豊国神社の鳥居をふり返ったところ。
次は、清水寺へ向かいます。