飛鳥路1: 11May2019



有給休暇を利用して、8泊9日の
奈良・京都旅行に行って来ました。

その初日、広島から始発の新幹線で大阪へ、
そして、大阪阿部野橋から近鉄南大阪線で
9時に奈良の飛鳥へ到着しました。

飛鳥駅前で、レンタルの自転車を、
樫原神宮前駅で返却前提で借りて
飛鳥路サイクリングに出発です。

写真は、飛鳥駅前にあった
飛鳥観光広域案内図です。






























■キトラ古墳

まず最初に、キトラ古墳へ向かいます。

キトラ古墳は、国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区に
あります。

右手に、国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区が見えてきました。

こんもりとした森の中には、後から向かう於美阿志神社・檜隈寺跡
があります。








国営飛鳥歴史公園 キトラ古墳周辺地区内に入り、
キトラ古墳へ向かいます。

公園内には、農体験ができる五穀の畑があります。




















四神の広場と、四神の館。














 

キトラ古墳へは、四神の館の上を通る中街道を向こうに超えた
丘の南側斜面にあります。















そのキトラ古墳。

南西から見たところ。

7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳で、
1983年に発見されました。











キトラ古墳は、下段直径13.8m、上段直径9.4m、高さ4mの
二段式の円墳です。

南から見たところ。













その地形復元模型。
















キトラ古墳の説明板。






























中には二上山産凝灰岩で作られた石室があり、石室内部には、玄武、青龍、白虎、朱雀、十二支像、天文図が
描かれてた大陸風の壁画古墳です。



キトラ古墳下には、モニュメントのような石が建ってます。

















この石の上には、乾拓板が設置されてます。

乾拓とは、板に刻まれた図様の上に紙を置いて、
上から筆記用具でこすり、板の図様を写し取る事。

写真は、朱雀の乾拓板。

朱雀とは、中国の伝説上の神獣で、
青龍、白虎、玄武と共に四神の一つ。

南方を守護する神獣です。






玄武の乾拓板。

玄武も、中国の伝説上の神獣で、北方を守護します。

亀に蛇が巻きついた形で描かれます。














白虎の乾拓板。

西方を守護します。














 
そして、四神の館へ。

四神の館では、実物の壁画や
出土遺物が保管されてますが、
期間限定公開の為、見る事は
できませんでした。

しかし、地下一階の展示室では、
キトラ古墳を学べる展示
(写真撮影可)がされてました。

写真は、キトラ古墳の説明。

























石室の原寸大レプリカ。

本物は見れなくても、精巧なレプリカを見れて、
説明までして貰って、大満足でした。





















石室の原寸大レプリカへ、南側から入り左側、
西側の壁には、西方を守護する白虎が描かれてます。
















 北側の壁には、北方を守護する玄武が描かれてます。
















 
そして、東側の壁。

ここには、東方を守護する青龍が描かれてますが、
地下水が流れ込み、何が描かれているか判然としません。














天井には、天文図が描かれています。

この天文図には、天の赤道や、太陽の通り道である黄道が
描かれており、現存する世界最古の科学的な天文図です。















東西南北、それぞれの四神の下には、十二支の獣面の人身像が描かれている。

これは、北側の壁に描かれている寅。






















そして最後は、南側の壁。

侵入した地下水で汚れ、わかりにくいですが、
南方を守護する朱雀が描かれてます。














石室の原寸大レプリカ。

写真の中の赤い矢印の位置が実際の石室の床面です。

そして南側の石室の壁は、開いており、一部が壊されています。

これは、盗掘の跡です。

偶然ですが、南側の壁の朱雀は、盗掘の壁の穴から外れて
今、後世の私達が目にする事ができています。








キトラ古墳の四神像の説明。












 




獣頭人身十二支像の説明。





















■檜隈寺跡

四神の館を出て、
次は、於美阿志神社・檜隈寺跡(おみあしじんじゃ・ひのくまでらあと)
へ向かいます。













檜隈寺の説明板の向こうに、於美阿志神社・檜隈寺跡が
あります。














檜隈寺の説明板。































於美阿志神社へ、脇から入れそうだが、















正面の鳥居から、境内へ入る。

於美阿志神社の境内は、檜隈寺跡として史跡に
指定されています。

そして、檜隈寺は、7世紀に渡来系集団の倭漢(やまとのあや)氏の
寺として建立されたと考えられてます。









そして、ここにも於美阿志神社・檜隈寺跡の説明板があります。




















檜隈は、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住し、於美阿志神社は、その阿智使主を祭神とし、祀られている。
阿智使主は、先に出た倭漢氏の祖に当たる。



於美阿志神社の境内にあった手水鉢と小さな鳥居。
その向こうに土地が平らに盛り上がった場所がある。















その平らに盛り上がった場所。

ここは、檜隈寺の講堂跡。

この講堂基壇の規模は、東西35,3m、南北21.2m、
建物の規模は、桁行29.4m、梁間15.3mで、
これは、飛鳥寺や、法隆寺の西院伽藍の大きさに匹敵する。

基壇化粧は、朝鮮半島に多く見られる瓦積基壇が採用されており、
渡来系集団の倭漢氏の寺として建てられた事を物語っている。






重要文化財に指定されている十三重石塔。
(現在は、搭の一部が欠落して、十三重では無い。)

檜隈寺の搭跡に、平安時代に建てられた物らしい。











■文武天皇陵

次は、国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区へ向かいます。

向かいの丘に見える円錐形の頂点を平らにした台形形状が
高松塚古墳です。












国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区へ向かって行くと、
正面に文武天皇陵が見えてきます。














文武天皇陵の説明板。













文武天皇陵。

陵名を、檜隈安古丘上陵(ひのくまのあこのおかのえのみさぎ)と称す。

文武天皇は、草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)と阿部皇女の長男。
697年に持統天皇から攘位され、天皇の位に着きました。
天武天皇が律令制定の詔を発令し、文武天皇の代、701年に大宝律令が
制定されました。

そして、707年に崩御され飛鳥岡で火葬の上、この地に葬られました。













■高松塚古墳

高松塚古墳へ向かいます。

南東から見たところ。














高松塚古墳の説明板、










































高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された
終末期古墳で、下段直径23m、上段直径18m、高さ5mの
二段式の円墳です。

南から見たところ。












中には、南北長さが約265cm、東西幅が約103cm、
高さが約113cmの二上山産凝灰岩で作られた石室があり、
石室の南壁には盗掘孔がありましたが、1972年に極彩色の
壁画が発見されました。













高松塚古墳の近くには、高松塚壁画館がある。

館内には、発見当時の現状模写、一部復元模写、
石槨原寸模型、等が展示されている。

東壁には手前から男子群像、青龍とその上の太陽、女子群像、
西壁はそれと対照的に、手前から男子群像、白虎とその上の月、
女子群像が描かれている。
男子・女子の群像は、いずれも4人一組で、計16人の人物が
描かれている。中でも西壁の女子群像は、色彩鮮やかで
「飛鳥美人」のニックネームで知られている。
奥の北壁は玄武が、天井には星辰が描かれている。







■中尾山古墳

国営飛鳥歴史公園 高松塚周辺地区内には、
高松塚古墳だけでなく、中尾山古墳がある。

高松塚古墳の北の丘陵にある中尾山古墳へ行ってみた。













西からみたところ。
















中尾山古墳の説明。




















東から見たところ。
















南から見たところ。

















三段構造の八角形墳と言う事だが、見ても判別が難しい。



















■国営飛鳥歴史公園館

中尾山古墳を見た後、国営飛鳥歴史公園館へ
行って見る。
















国営飛鳥歴史公園館に
あった
明日香観光周辺案内図。


































国営飛鳥歴史公園館の内部。

飛鳥地方の史跡や歴史等を立体模型や映像等で
紹介しています。













明日香村周辺の
様子が一目でわかる
立体模型(ジオラマ)。

写真上端中央の
小さな山が、
大和三山のひとつ、
耳成山。

左上部の山が、
これも
大和三山のひとつ、
畝傍山。















別の角度から
立体模型(ジオラマ)を
見たところ。

写真左端の山が、
耳成山。

写真中央右よりの
山が畝傍山。




















次は欽明天皇陵、吉備姫王檜隈墓へ向かいます。


■吉備姫王檜隈墓・猿石

写真は、欽明天皇陵の手前にあった吉備姫王檜隈墓です。

吉備姫王は、欽明天皇の孫。
また、皇極天皇、そして重祚し斉明天皇となった女帝の母親でも
ある。

そして、近くの田んぼから掘り出されて、その形から猿石と
呼ばれている石造物が吉備姫王檜隈墓内に置かれている。








その猿石。






















説明は、その形から猿石と呼ばれているとあるが、
ちょっと猿とは違うように見える。





















猿石。






















猿石。






















猿石。






















吉備姫王檜隈墓。
南から見たところ。



次は、吉備姫王檜隈墓から、欽明天皇陵へ向かう。

















■欽明天皇陵

欽明天皇陵前にあった説明板。















欽明天皇陵。

欽明天皇は第29代天皇で、日本で初めての
女性天皇である推古天皇の父でした。













欽明天皇陵の周濠。

大きな陵墓なので、全体の形はわかりにくいが、
明日香村内で唯一の前方後円墳と言う事だ。












欽明天皇陵。

陵名を、檜隈坂合陵と称します。













また、最近では見瀬丸山陵を欽明天皇陵とする説も出ています。















 欽明天皇陵。















先ほど行った吉備姫王檜隈墓。
東から見たところ。

欽明天皇陵の手前の駐車場横からも、
吉備姫王檜隈墓へ行く道があった、











その道の入口にあった吉備姫王檜隈墓の
説明板。













次は、欽明天皇陵の横の道を東へ、
鬼の雪隠、鬼の俎へ向かう。

写真は、鬼の雪隠、鬼の俎へ向かう道から、
欽明天皇陵を見たところ。












■鬼の俎・鬼の雪隠

鬼の雪隠が見えてきた。















 鬼の雪隠。















 鬼の雪隠。
















鬼の雪隠の説明板。

















鬼の雪隠は、墳丘度を失った終末期古墳(7世紀後半)の
石室の一部。

鬼の雪隠は、底石、蓋石、扉石から成る石室の蓋石で、
同じく石室の一部で、この後に行く鬼の俎は、石室の底板。
元々、鬼の俎の上にあった鬼の雪隠が転げ落ち、
今の状態で残っている。









そして、鬼の雪隠と道を挟んだ上方にある鬼の俎へ
行って見る。














鬼の俎。















鬼の俎と、鬼の雪隠の説明板。

























この辺りは霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が住み、通行人に霧を降らし迷ったところをとらえて、俎の上で料理し、
雪隠で用を足したと言う伝説がある。


しかし、説明板によると、鬼の俎は、底石、蓋石、扉石から成る
石室の底板だったと言う事だ。














しかし、鬼の俎の表面を良く見ると、石室の底板にしては、
人工的に加工された溝の線や、ほぞ穴のような穴がある。
この溝や穴は、何のために施されたのだろうか?

後世に割り取って、石材に転用しようとした痕跡と言う説が
ある。










鬼の俎。














鬼の俎から、下の道におりて、先ほど見た鬼の雪隠を
見たところ。















■天武・持統天皇陵

更に東へ進んで行くと、天武・持統天皇陵が見えてきます。

天武・持統天皇陵は、陵名を、檜隅大内陵と称します。

また、野口王墓とも呼ばれています。











南北約50m、東西約45m、高さ約9mの八角形墳で、
天武天皇と、その皇后で、後に女性天皇となった持統天皇の
合奏墳墓です。

石槨の内部には、天武天皇の漆塗りの木棺、そして、
天皇として初めて火葬された持統天皇の火葬骨が納められた
銀製の骨臓器があったと言われている。









後に天武天皇となる大海人皇子は、大化の改新(645年)で
有名な中大兄皇子、後の天智天皇の弟です。
そして、天智天皇の崩御後、その第一皇子である大友皇子と
壬申の乱(672年)で戦い勝利します。
そして、天武天皇として即位します。

持統天皇は、大海人皇子の妻でもあり、中大兄皇子の娘でも
ありました。
そして、天武天皇崩御後、天武天皇の理想である天皇中心の
中央主権国家、それを律令国家として実現の為、天皇に即位
します。

そして、日本で最初の本格的な都である藤原京を造営します。

また、持統天皇は、孫である文武天皇に天皇の位を譲位し
文武天皇の代に大宝律令が制定されました。



■亀石

次は、亀石へ向かいます。















亀石の説明板。























説明板によると、何の目的で作られたのか不明だが、
川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石と言う
説があるようだ。













また、以下のような伝説が残っているようだ。

昔、大和が湖だった頃、対岸の当痲と、ここ川原の間で
喧嘩が絶えず湖の水を当痲に取られてしまい、湖に住んでいた
たくさんの亀が死んでしまった。
そして、亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻み供養した。

元は北向きだったが、現在の南西に向きを変えており、
もし西を向き当痲をにらみつけたら、大和盆地は泥沼となる。









■橘寺

次は、橘寺へ向かいます。

































橘寺が見えてきました。

正式には、仏頭山上宮皇院菩提寺と言います。













橘寺。

この地には、「橘の宮」と言う欽明天皇の別宮があり、
572年に聖徳太子が生誕された場所と伝わってます。

推古天皇の命により、聖徳太子が勝鬘教(しょうまんきょう)を
三日間にわたり講讃をされた。その時、南の山(仏頭山)に
千の仏頭が現れ光明を放つ等、不思議な出来事が起こり、
天皇は驚かれ、この地にお寺を建てるよう命じられた。

そうして御殿を改造して造られたのが、橘樹寺で、
聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられました。




橘寺への道の道端に咲いていた花。

ハルジオンかな?













橘寺の名前の由来は、以下。

11代垂仁天皇から勅命を受け、トコヨの国へ不老長寿の薬を
求めに行った田道間守(たじまもり)が秘薬を持ち帰ったが、
その時、既に亡くなられていた。
この時、持ち帰った「トキジクノカグノコノミ」をこの地に蒔くと
やがて芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、この地を橘と呼ぶ
ようになったと伝えられている。

ちなみに田道間守は、黒砂糖も持ち帰り、橘と共に薬として
用いたので、後に密柑・薬・菓子の祖神として崇め祭られる
ようになりました。




西門から境内を見たところ。















本堂(太子殿)。

本堂の前には、黒の駒像がある。

黒の駒は、聖徳太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身と
言われている。










本堂(太子殿)。

御本尊は、室町時代に作られた聖徳太子勝鬘教講讃像です。

国の重要文化財に指定されてます。











本堂の南側に、飛鳥時代の石造物の二面石がある。















二面石。

一つの岩に表情の異なる二つの顔が、彫られている事から
人の心の善悪二相を表していると言われている。

右が善面、左が悪面と言う事のようです。










その左の悪面。






















右の善面。






















境内の南側に放生池があり、水神が祀られています。















親鸞聖人像。

橘寺は、元々、法相宗でしたが、江戸時代中期より天台宗となり
比叡山延暦寺の直末となった。

一方、親鸞聖人は、浄土真宗の宗祖で、橘寺とどういう関係があるのだろうか。


親鸞聖人は、1173年に生まれ、9歳で範宴と号し、比叡山延暦寺(天台宗)で
修行しますが、悟りを得られず、29歳で下山します。
そして、聖徳太子創建の六角堂(頂法寺)へ参籠し、聖徳太子の夢告により
法然上人(浄土宗の宗祖)の門に入ります。
そして、「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」と言う本願念仏の教えに
出会われます。









観音堂。

六臂如意輪観世音菩薩像が祭られている。













観音堂。















蓮華塚。

聖徳太子が、勝鬘教を講讃をされた時、大きな蓮の花が
庭に1mも降り積りました。
その蓮の花を埋めた場所が蓮華塚です。

大化の改新(645年)では、蓮華塚の大きさを一畝(当時36坪、
現在は30坪、約100u強)と定め、面積の基準として整理された
ので、畝割塚とも呼ばれています。







三光石。

聖徳太子が、勝鬘教を講讃をされた時、日、月、星の光を
放ったと伝えられています。












金堂跡。















五重の塔跡。

珍しい形をした心礎が残っており、直径約90cm、深さ約10cmの
柱が入る孔、その円孔の三方に半円形のそえ柱の穴がある。

約40mの五重の塔が建っていたと推定される。










鐘楼。
















■川原寺跡

川原寺跡は、橘寺の北側に位置する。

橘寺から川原寺跡を見たところ。













川原寺跡へ向かいながら、橘寺をふり返ったところ。

橘寺への道の角には、聖徳太子御誕生所の石標が
立っている。












川原寺跡。















川原寺跡の説明板。























川原寺は、天智天皇の時代(667−671年)に、天智天皇の母である斉明天皇の冥福を祈って建てられたと
考えられている。



川原寺跡の説明板の横には南大門跡がある。






















南大門跡から、正面、北を見たところ。

川原寺の法名は弘福寺で、正面に見える寺院は、現在の弘福寺。

その手前、中央には中門の基壇があり、左右に回廊跡が延びて
いる。










中門の基壇を、南西から見たところ。

東西14m、南北10mの基壇の上に
12本の柱が建ち、立派な門であった事がうかがえる。

中門の基壇の向こうには、五重塔の基壇が見える。










中門の基壇上から西を見たところ。















正面、北には、弘福寺が見える。

この現在の弘福寺辺りに、中金堂があった。













中門跡から正面に進み、中門跡をふり返ったところ。

中央が中門の基壇。

その向こうに橘寺、更に向こうに仏頭山が見える。

仏頭山は、聖徳太子が勝鬘教(しょうまんきょう)を講讃を
された時、千の仏頭が現れ光明を放った山だ。









回廊跡を南東の角まで歩き、北西を見たところ。

中央は、五重塔の基壇。












川原寺跡を南東から見たところ。
















■石舞台

次は、国営飛鳥歴史公園 石舞台地区の石舞台へ向かいます。

石舞台地区の駐車場にあった飛鳥観光
広域案内図です。







































石舞台へ向かいながら、芝生広場、
その橋にある建物、多目的休憩所「あすか風舞台」を
見たところ。













石舞台へは、周囲の濠を超えて行けるように
道がつけられている。














石舞台を北から見たところ。















石舞台を東から見たところ。

奈良県観光公式サイト なら旅ネットの石舞台古墳の説明は以下。

石舞台古墳は、巨石30個を積み上げて造られた石室古墳で、
その規模は、日本最大級を誇る。

しかし、盛り土が失われ、露出した天井石の上面が平らなことに
ちなんで、石舞台と呼ばれている。

墳丘は1辺50mの方墳で、周囲は幅8.4mの濠がめぐる。
石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、
奥行き約7.6m、石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩
である天井石は、南側が約77t、北側が約64tもあるという。

6世紀の築造と言う事だ。




石舞台を南から見たところ。

この巨大古墳が誰の墓か不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があった
ことから、馬子の墓とする説が有力と言う事だ。

ちなみに、蘇我馬子は、蘇我稲目の息子で、天皇の外戚として権勢を振るい、
廃仏派の物部氏を滅ぼし、仏教を手厚く保護した人物。
日本最初の本格的寺院、法興寺、後の飛鳥寺を創建し、仏教交流の基礎を
築いた。
そして、推古天皇の時代には、摂政の聖徳太子と共に執政を行った。













古墳は、南に開口する両袖式の横穴式石室を持ち、羨道の長さは約11.5m、
幅約2.2mで、玄室から羨道にかけて排水溝が設けられている。





















玄室の中に入って、奥壁から天井を見上げたところ。






















玄室の奥から玄門をふり返ったところ。






















玄室の奥から天井石を見上げたところ。





















側壁。
















左側壁、及び、玄門。















天井石と左側壁。















右側壁、奥壁、天井石。






















右側壁と奥壁。















右側壁と玄門。















玄門。






















石舞台を西から見たところ。















石舞台。















石舞台。















石舞台古墳の羨道上から見たところ。















石舞台を南から見たところ。















石舞台古墳の説明板。
古墳の大きさは、奈良県観光公式サイト なら旅ネットの情報と数字が微妙に異なる。






























周濠を南へ渡り、石舞台をふり返ったところ。















周濠を南へ渡ったところには、石室に納められていたであろう
石棺の復元模型がありました。

蓋石が屋根形になっており、蓋石の裏側とか、石棺内部が
のぞけるように蓋石をずらして設置されている。


そう言えば、広島県でも二本松古墳とか、北塚古墳で家形の
石棺を見た事がある。








復元された石棺の説明板。

















復元された石棺。















屋根形の蓋石の裏側をのぞいたところ。

裏面も屋根の形にくり抜いてある。













石舞台古墳の西側角から周濠も含めて、古墳の全景を
見たところ。














西側角から見たところ。

こうして見ると、石室自体も大きかったが、
周濠を含む方墳全体が大きい事を改めて感じる事ができた。












北側角から見たところ。















最後になりましたが、入り口にあった石舞台古墳の説明板。
巨石の構造物をどうやって造ったのか、推定された」工法が書かれている。
この推定工法が、事実かどうか不明だが、6世紀には、巨石の構造物を造る技術があった事は間違い無い。






































奈良旅行の初日、朝から食事もとらずに走り回っていたので
お腹がすいた。

石舞台の近くにあった夢市茶屋で、古代米おにぎりを
食べました。












■マラ石

次は、石舞台の南にあるマラ石へ向かいます。

そのマラ石。













マラ石は、男性器を模したもので、本来は、まっすぐに
立っていたと言われている。














マラ石。

地元では、飛鳥川を挟んだ対岸の丘陵を、フグリ山と呼び
マラ石と一対のものと考える説もある。












マラ石。

子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と言えそうだ。













手前のマラ石の近くには、別の四角い石が残っている。

この石は何?
後世の物?












向こうには、飛鳥川を挟んだ対岸のフグリ山が見える。

フグリは、男性の陰嚢を指し、マラ石と一対のものと考える
説もある。












国営飛鳥歴史公園の祝戸地区の案内図。

赤い線の先がマラ石。
























この後、犬養万葉記念館、岡寺、飛鳥宮跡、酒船石、亀型石造物、蘇我入鹿首塚、飛鳥寺、飛鳥坐神社、
飛鳥水落遺跡、甘樫丘、本薬師寺跡、樫原神宮を訪ねました。
飛鳥寺2で紹介します。



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