奈良・京都旅行の初日、飛鳥駅前でレンタルの自転車を借りて、
キトラ古墳、檜隅寺跡、文武天皇陵、高松塚古墳、猿石、欽明天皇陵、鬼の俎・雪隠、天武・持統天皇陵、
橘寺、川原寺、石舞台、マラ石
を周り、その続きを紹介します。
マラ石を出た後、犬養万葉記念館、岡寺、飛鳥宮跡、酒船石、亀形石造物、飛鳥寺、飛鳥坐神社、
飛鳥水落遺跡、甘樫丘、本薬師寺跡、樫原神宮を訪ねました。
■犬養万葉記念館
犬養万葉記念館は、万葉のふるさとである飛鳥を愛し、
その保存に尽力した犬養孝先生の業績を顕彰する記念館です。
犬養孝先生は、日本全国の万葉ゆかりの地を生涯を通して歩き
「万葉風土学」を提唱した万葉研究の第一人者で、
「犬養節」と呼ばれる独特の万葉朗唱と共に
多くの人に万葉の世界を広められました。
実は、私も学生時代、犬養孝先生と一緒に回る「万葉の旅」に
参加した事があり、懐かしく思い訪れました。
犬養万葉記念館の前にあった郵便ポストです。
明治4年(1871年)郵便創業当時使用されていた物と
同じ型で、「書状集箱」と呼ばれていました。
この地区は岡集落と呼ばれ、岡寺の門前町として発展し
当時の面影を残した建物が残ってます。
犬養万葉記念館も大正時代に建てられた
南都銀行 旧明日香支店を改装した物です。
犬飼万葉記念館の中庭です。
記念館の中には、犬養孝先生の直筆原稿や著書等の展示があるだけでなく
ちょっと一休みできる「つばいちカフェ」も併設されていました。
■岡寺
次は岡寺へ向かいます。
犬飼万葉記念館の南にある交差点を、東に向かいます。
最初は緩やかな登りでも、徐々にきつくなってきます。
途中、岡寺の三重宝塔が見えてきました。
岡寺は、明日香村の東にある岡山の中腹に位置します。
仁王門です。
仁王門前にあった岡寺の説明です。
岡寺は、およそ1300年前、天智天皇の勅願により、義淵僧正が草壁皇子の岡宮を貰い受け、
創建されたと伝えられてます。
義淵僧正が法相宗の開祖であった事から、江戸時代までは法相宗興福寺の末寺でしたが、
江戸時代に真言宗豊山派 長谷寺の32代化主 法住が入山し、中興の祖となって以来、
長谷寺の末寺となっています。
仁王門です。
国指定の重要文化財で、
慶長17年(1612)に建立された物です。
その仁王門の仁王です。
仁王です。
手水舎です。
階段を登って行くと、本堂が見えてきます。
本堂です。
本尊の如意輪観音座像は、
奈良時代に造られた日本最大の塑像(像高4.85m)で、
重要文化財に指定されています。
この塑像如意輪観音座像は、
弘法大師が、日本・中国・インドの土を以って造られたと
伝えられています。
その塑造の本尊が造られる前まで本尊として祀られていた
金堂如意輪観音菩薩 半跏思惟像が、
塑像如意輪観音座像の胎内へ納められ
本尊として祀られるようになりました。
この奥に稲荷社があります。
奥に見えるのが稲荷社です。
その稲荷社から、少し上がったところに
奥の院があります。
奥の院 石窟 弥勒菩薩の表札があります。
三重宝塔です。
昭和61年に再建され、
平成13年に扉絵、壁画、琴が完成ました。
普段は、扉絵や壁画は見れませんが、
各層の屋根の軒下には琴が吊り下げられているのが
見えます。
三重宝塔の立っている場所から、
境内を見下ろしたところ。
右から本堂、開山堂、楼門、古書院が見えます。
三重宝塔の近くで見た花、シャガです。
■飛鳥宮跡
伝飛鳥板蓋宮跡の説明です。
この説明によると、昭和47年(1972年)に
史跡 伝飛鳥板蓋宮跡として指定されています。
しかし、調査で、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643~645)だけでなく、舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、
斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~661)、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)など、
複数の宮が断続的に置かれた事がわかっており、2016年に飛鳥宮跡に名称変更されています。
舒明天皇が崩御された後、その皇后が、皇極天皇として即位します。
皇極天皇は、乙巳の変後、譲位をしますが、再度、斉明天皇として、重祚します。
よって、皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。
斉明天皇の息子には、天智天皇、天武天皇がいます。
その飛鳥宮跡を南東から見たところ。
建物の柱の跡です。
その向こうに見える丘は、甘樫丘です。
その北側には、井戸の遺構があります。
井戸の遺構を南東から見たところ。
井戸の遺構を南から見たところ。
井戸の遺構を北から見たところ。
井戸の周りは石敷きになっており、
溝がめぐらされています。
井戸を南西から見たところ。
井戸の西側の建物の遺構です。
井戸の遺構の北西から見たところ。
飛鳥宮跡は、かつての飛鳥宮の極一部を見ているだけで、
実際の飛鳥宮は、もっと広い範囲でした。
皇極天皇の時代には、この地に飛鳥板蓋宮(643~645)があり、
中大兄皇子、後の天智天皇が、中臣鎌足らと一緒になって、
当時の権力を専横していた蘇我入鹿を暗殺した
乙巳の変(645年)の舞台となった場所です。
以後、大化の改新が始まる事になりました。
また、672年には、天智天皇の第一皇子である大友皇子と
天智天皇の弟の大海人皇子が壬申の乱で皇位を争い
大海人皇子が勝利し、673年に天武天皇として即位します。
その天武天皇が開いた都が、飛鳥浄御原宮(672~694)です。
そして、その妻の持統天皇に引き継がれて行くことになります。
その天武天皇が目指したのが、天皇中心の中央集権国家で
飛鳥浄御原宮に住みながら、天皇中心の中央集権国家に
ふさわしい大規模な都造りに着手します。
天武天皇の存命中に間に合いませんでしたが、持統天皇の
時代に完成し、694年に遷都が行われました。
それが藤原京です。
飛鳥宮跡の東側には、万葉歌碑があります。
歌碑には、シルクロードを題材とした作品で有名な
平山郁夫画伯の書による以下の万葉歌が彫られてます。
婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
うねめの そでふきかえす あすかかぜ
みやこをとおみ いたずらにふく
歌を詠んだのは天智天皇の第7皇子 志貴皇子です。
飛鳥と言えば、かつての日本の首都で、天皇や皇后の
身の回りの世話をする采女がいて華やかでした。
しかし、今では、都は遠く藤原京に遷り、ただ風が空しく吹く
ばかりと、物悲しい気持ちを歌っています。
天智天皇の子の志貴皇子にとっては、権力の中心が、天武天皇、持統天皇と移り、
権力から大きく離れている自分の立場を寂しく感じる思いもあったのではないかと思います。
■酒船石(さかふねいし)
酒船石は、学生時代、犬養孝先生と一緒に回る「万葉の旅」に参加し、
その時に訪れた場所として、はっきりと記憶にあります。
酒船石は、小高い丘の上にあります。
写真は、酒船石へ向かう道です。
酒船石に到着です。
酒船石です。
その酒船石の上面に刻まれた模様です。
酒船石の説明です。
酒船石は、長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mの
花崗岩でできています。
上面には、円、楕円の窪みが造られ、
これらを細い溝で結んでいます。
これらの模様は、酒を絞る槽とも、あるいは
油や薬を作る為の道具とも言われています。
この酒船石の東40mのやや高い所で、
この酒船石へ水を引く為の土管や石樋が
見つかっている事から
庭園の施設と言う説もあります。
酒船石です。
酒船石です。
酒船石です。
酒船石です。
さっき登って来た道とは別の酒船石への道です。
麓には民家が見えます。
そう言えば学生時代に来た時は、民家のすぐ横の道を
上った記憶があります。
その時は、この道を登ったのかもしれない。
■亀形石造物
酒船石のある丘の北側、
丘陵の尾根に囲まれた窪地に
亀形石造物があります。
その亀形石造物の説明です。
2000年に行われた発掘調査で
亀形石槽を中心とした導水施設をはじめ、
石敷きや、石垣、石段が発見されました。
私が、学生時代、酒船石を訪ねた頃には、
世に知られて無かった遺構です。
そして、酒船石のある丘陵、亀形石造物、石敷き、石垣、石段
含めて、酒船石遺跡として国史跡に指定されています。
この遺跡は、日本書記 斉明天皇2年の条に記されている
「宮の東の山に石を累ねて垣とす」に符号する
斉明天皇の両槻宮と考えられています。
亀形石造物の周囲には石敷きがあり、
グレーのシートで覆われている場所には、
見る事はできませんが、階段状の石垣が
残っています。
上部(南側)へ設置された湧水施設から流れ出た水は、
木樋を伝って舟形石槽に溜まり、
更に小穴から流れ出た水が、亀形石槽の亀の鼻に入り、
背中の水槽に溜まり、
その後、V字型に掘り込まれた尻尾から南北溝に流す
仕組みになっています。
右から木樋、舟形石槽、そして、亀形石槽です。
西から見たところ。
亀形石槽です。
右側に頭部、左側が尻尾があります。
全長約2.4m、幅2m、
円形の甲羅部分は19cmの縁を残して、
直径1.25m、深さ20cmの水槽に
なっています。
右から木樋、舟形石槽、そして、亀形石槽です。
南東から、亀形石槽を見下ろしたところ。
写真ではわかりにくいですが、
丸く掘られた両目や
左右には4本の指の表現が施された足が
見えます。
左から木樋、舟形石槽、そして、亀形石槽です。
左側には、湧水施設も見えます。
現在も水が湧き出しており、
飛鳥の水が関わる石造物で
水源が判明したケースは初めてです。
ここは、斉明天皇が国家的な祭祀を行った
と言う見方が強まっています。
左から木樋、舟形石槽、そして、亀形石槽です。
亀形石造物を北から見たところ。
酒船石遺跡の横には、明日香民俗資料館や、
奈良県立万葉文化館がありますが、
今回はパスしました。
但し、その入り口にあった展望台へ寄ってみました。
写真は、仏頭山、その麓の橘寺を見たところ。
川原寺裏山を見たところ。
■ 飛鳥京跡苑池
飛鳥京跡苑池を見ようと、酒船石遺跡へ来た道を引き返し、
飛鳥宮跡の西側、飛鳥京跡苑池へ向かいました。
りっぱな休憩舎と多目的トイレがありましたが、
飛鳥京跡苑池は、どこにあるかわかりません。
地図を見ながら、飛鳥京跡苑池はこの辺りかなと言う場所を
写真に撮りました。
グレーのシートで覆われている場所が、
飛鳥京跡苑池の南池辺りではないかと思います。
ちなみに、飛鳥京跡苑池は、斉明天皇によって、
饗宴を行う為に飛鳥宮に隣接して造られた庭園です。
庭園は、南と北の二つの池からなり、
南池には高さ1.65mの噴水用の石造物が設置され、
導水用石造物である出水酒船石と組み合う事がわかっています。
また、池は石積みの護岸がなされ、底には石が敷き詰められて
いたとの事です。
■蘇我入鹿首塚
次は、田園風景の中を、飛鳥寺のすぐ西に位置する
蘇我入鹿首塚へ向かいます。
途中、田圃は蓮華でピンクに染まってました。
蘇我入鹿首塚です。
皇極天皇の代、645年に飛鳥板蓋宮で、
後に天智天皇となる中大兄皇子、中臣鎌足らによって、
権力を専横していた蘇我入鹿が暗殺されます。
そして、入鹿の父、蘇我蝦夷は、自害に追いやられ、
蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我氏の勢力が衰退します。
この政変を乙巳の変と呼び、大化の改新の端緒となります。
乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿の首が、
飛鳥板蓋宮から飛んで来たと伝わる場所に
首塚が建てられています。
この首塚は、高さ149cmの花崗岩製の五輪塔で、
笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが
特徴です。
五輪塔自体は、鎌倉時代、または、南北朝時代の建立と
考えられています。
蘇我入鹿首塚の周りの田圃も蓮華が咲き誇っています。
その蓮華の花です。
蘇我入鹿の首には、恐ろしい伝説も…。
首を刎ねられる時、入鹿は叫んだ。
「臣罪を知らず」--私に何の罪がありましょうか、と。
謂われの無い濡れ衣を着せられた入鹿の首は、
空を飛んであちこちに出没するとか、
空を飛んで中臣鎌足を追い回したとかの伝説もあります。
■飛鳥寺
蘇我入鹿首塚へ参った後は、その東にある飛鳥寺へ
向かいます。
飛鳥寺を西から見たところ
飛鳥寺は、崇峻元年(588)に蘇我馬子が発願し
推古天皇4年(596)に創建された
日本で最初の本格的仏教寺院です。
創建時は法興寺と言い、平城京遷都のおりは元興寺となり
移転後、この地に残った寺を、本元興寺と称しました。
そして、現在は、正式名称を安居院(あんごいん)と言います。
鐘楼です。
1745年に建立された物です。
しかし、梵鐘は太平洋戦争に供出され、
1958年に新しく鋳造されています。
思惟殿です。
思惟殿です。
堂内には、聖観世音菩薩が安置されてます。
万葉池の畔には、三体の石仏が並んでます。
左から大聖不動明王、観世音菩薩、弘法大師です。
良縁成就、商売繁盛、学業成就など、水をかけて
お祈りすれば願いが叶うと言う事です。
本堂です。
創建時、金堂が建っていた場所に、現在の本堂が
建っています。
創建時は極彩色の伽藍でしたが、二度の火災で焼失し、
現在の建物は江戸時代1826年に建てられた物です。
本堂前には、
飛鳥大仏開眼千四百年の立札が立っています。
そして、2008年が
明日香大仏開眼千四百年目に当たると言う事です。
本堂の内部です。
中には、飛鳥大仏と呼ばれている像高2.75mの
釈迦如来像が鎮座されてます。
この飛鳥大仏は、飛鳥時代の代表的な仏師で、
渡来人の子孫の止利仏師、別名、鞍作鳥(くらつくりのとり)の作による
日本最古の仏像です。
そして、当時、銅15トン、黄金30キロを使用し造られたと言う事です。
そのアーモンド型の目と、アルカイックスマイルは、止利様式の典型です。
向かって左は優しいお顔、右は厳しい表情と言われてますが、
どうでしょうか?
そして、この大仏様は、鎌倉時代の落雷による大火で
大きな損傷を受けました。
通常、銅製の仏像が火災などで損傷を受けると、
旧仏を溶かし、新たに新仏に鋳造し直しますが、
飛鳥大仏は、被災した仏様を生かし
失った部分を付け足す形で、その姿を再現されています。
2016年の調査では、
右手や顔の大半が造像当時の物と判っています。
飛鳥大仏の向かって右横には、
木造の阿弥陀如来座像があります。
平安時代の作です。
飛鳥大仏の向かって左横、奥には、聖徳太子立像があります。
聖徳太子は、飛鳥寺と同じ明日香村にある橘寺で生まれ、
後に神格化され崇められる存在となりました。
鎌倉時代には、太子信仰のブームが起こり、
太子にゆかりのある斑鳩や明日香は聖地となりました。
聖徳太子立像は、室町時代に造られた木造で、
太子が16歳の時に、
父である用明天皇の病気回復を祈願している姿と
言われてます。
堂内には、飛鳥寺創建当時の
伽藍スケッチ図があります。
この伽藍配置は、一搭三金堂の
飛鳥寺式伽藍配置と呼ばれる
例を見ない配置となっています。
また、飛鳥蹴鞠会により製作奉納された蹴鞠が
展示されてました。
日本における蹴鞠に関する最古の記事は、
日本書記の皇極三年(644)、
法興寺、すなわち飛鳥寺の西に位置する
槻の木の広場で打毬(くえまり)を通じて
中大兄皇子と中臣鎌足が出会う場面です。
この出会いが、後の乙巳の変(645)、大化の改新に
つながって行きます。
飛鳥寺の東門です。
その東門の横には、飛鳥大仏と書かれた石柱があります。
石柱は寛政4年(1792)に作られた物ですが、石柱の台石は
創建時に伽藍の柱の下に使用されていた礎石です。
■飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)
飛鳥寺を出て、飛鳥坐神社へ向かいます。
明日香村飛鳥の通りを東へ進むと、鳥居が見えてきます。
鳥居に向かって左手に、手水舎があります。
その手水鉢です。
石に溝が彫られ、水が手水鉢に流れ落ちるようになってます。
手水鉢には、自然の竹を切り、竹から伸びた枝が柄になっている
柄杓が置いてありました。
飛鳥坐神社の鳥居です。
扁額には、飛鳥社の文字が書かれてます。
その鳥居に向かって右には、
古来より水が湧き出る飛鳥井があります。
馬子唄の一種で、
催馬楽(さいばら)に以下のように唄われてます。
「飛鳥井に宿りはすべし をけかけもよし 御水もよし 御秣もよし」
水の清らかさが讃えられた歌です。
鳥居をくぐり階段を登って
ふり返ったところ。
飛鳥坐神社の拝殿です。
飛鳥坐神社は、延喜式内の古社で、朱鳥元年(686)に、
飛鳥の神奈備から、現在の鳥形山へ遷座されました。
祭神は以下。
・八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)
・大物主神(おおものぬしのかみ)
・飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなびみひめのかみ)
・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
2月には、おんだ祭(御田植神事)が行われ、
五穀豊穣、子孫繁栄が祈願されます。
■飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)
次は、飛鳥坐神社の西峰に位置する飛鳥水落遺跡へ
向かいます。
飛鳥水落遺跡を北から見たところ。
飛鳥水落遺跡を北東から見たところ。
飛鳥水落遺跡は、後に天智天皇となる中大兄皇子が
斉明天皇6年(660)に中国の技術を取り入れて造った
国内最初の漏刻(ろうこく)、
すなわち、水時計の建物跡です。
自然石を3~4段積み上げた正方形の基壇があり、
その周囲には濠状の溝が回してあります。
基壇の上には楼閣が建っており、その柱の跡が
復元されています。
基壇の上部を東側から見たところ。
基壇の内部からは、地下を走る木樋暗渠が見つかってます。
基壇には、南側と北側に橋が架かっており、
基壇上へ渡れるようになっています。
その基壇上へ渡って、東から基壇上を見たところ。
基壇上に板が張ってありますが、この下に木樋暗渠が
あったようです。
また基壇の中央には、台石に据えた漆塗木箱の痕跡や、
そこへ水を集める為の梁や鋼管が見つかっています。
この漆塗木箱は、
中国に現存する元・明・清代の漏刻の受水槽と
同様のものでした。
そして、漆塗木箱にたまった水の深さで時を計り、
楼閣の2階へ吊り下げた鐘や太鼓で時を知らせたと
考えられています。
楼閣の柱は、基壇の地中1m下に礎石が据えられ、
その礎石に刳られた窪みに嵌め込み建てられて
いました。
そして、その礎石間は石製の地中梁を巡らし、
基壇土で周りを固めていました。
北西隅には、その基壇土を取り除き、
礎石や、石製の地中梁が展示されていました。
基壇から南側の橋を渡り、南側から飛鳥水落遺跡を
見たところ。
南側に渡ったところにあった飛鳥水落遺跡の説明です。
当時の日本は、中国の先進文明をとりいれ、律令制に基づく中央集権的な国家体制を整えつつありました。
中大兄皇子は、中国に倣い政治や人々の社会生活を明確な時刻制によって秩序づけようとしました。
■甘樫丘(あまのかしおか)
次は飛鳥川を渡り、甘樫丘へ登ります。
その甘樫丘の北側の駐車場へ自転車をとめて、飛鳥川を見たところ。
甘樫丘の北側麓にあった甘樫丘地区公園案内図です。
甘樫丘へ登る途中にあった歌碑の説明です。
この志貴皇子の歌の歌碑は、飛鳥宮跡にもありました。
甘樫丘は、標高148mの緩やかな丘です。
頂上には展望台があり、大和三山を含め大和国原を
眺望する事ができます。
西、少し北よりを見ると、正面中央に大和三山の一つ、
畝傍山(199m)が見えます。
その向こうには、
雄岳(515m)と雌岳が寄り添うように並ぶ
二上山が見えます。
そして、手前に見える池は、和田池です。
和田と言う地名は、
曲がりくねった川や道のある場所を
曲処(わど)と言っており、
その曲処(わど)に由来します。
北、少し西よりを見ると、裾の広い円錐形の山、
これも大和三山の一つ耳成山(139m)が見えます。
耳成山と書いて、みみなしやまと読みます。
万葉集には、耳梨山と書かれています。
きれいな円錐形で耳のようなでっぱりが無い形状から
耳無し山、それが耳成山になったとか、
そうではなく、
きれいな円錐形で、大地から耳が突き出て
見える事から耳成山になったと言う説があります。
耳成山の右手に目をやると、
これも大和三山の一つ
天香具山(152m)が見えます。
万葉集で、大和三山を題材に詠まれた歌に、
以下があります。
香久山は 畝火ををしと
耳梨と 相あらそひき
神代より かくにあるらし
今昔も 然にあれこそ
うつせみも嬬を あらそうらしき
中大兄皇子
かぐやまは うねびおおしと みみなしと あいあらそいき
かみよより かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ
うつせみも つまを あらそうらしき
訳:
香久山は、畝火山を男らしい者として古い恋仲の耳梨山と争った。
昔もそうであったからこそ、今も愛する者を争うらしい。
東側の景色です。
多武峰(とうのみね)、後破裂山(607m)が見えます。
麓には明日香村の民家が見えます。
その中に、先ほど行った飛鳥寺も
見えます。
甘樫丘の展望台にあった飛鳥京絵図です。
この絵図を見ると、改めて飛鳥京の大きさを実感できます。
■本薬師寺跡
甘樫丘の後、大和三山に囲まれた藤原京跡へ行きたかったのですが、レンタル自転車の返却時間まで
40分弱になってしまいました。
あきらめて、本薬師寺跡へ寄って、橿原神宮前駅で自転車を返却する事にします。
以下は、本薬師寺跡の説明です。
本薬師寺は、天武天皇が、後の持統天皇になる皇后の病気平癒を願って発願されました。
しかし、完成しない内に天武天皇が崩御されたので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。
寺域は、藤原京 右京八条三坊を占めていました。(下図、オレンジ枠線内)
伽藍は、中心に金堂、その前面、左右対称に東塔、西塔が配され、南に中門を開き、その両翼から回廊を巡らせ、
金堂北側の講堂に取り付く物で、いわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれています。
平城京遷都(710)に伴い、718年に西ノ京に移転し、
西ノ京の薬師寺
と区別する為、
本薬師寺と呼ばれるようになりました。
金堂の跡地の礎石です。
金堂の跡地の礎石です。
金堂の跡地の礎石です。
田んぼの中に、東塔の基壇跡が残っています。
西塔の基壇跡です。
■橿原神宮(かしはらじんぐう)
橿原神宮前駅でレンタル自転車を返却しましたが、
日が沈むまで、少し時間があります。
そう言えば、レンタル自転車屋さんで、自転車を借りる時
広島から来たことを話すると、カープの松田オーナーが
橿原神宮へ必勝祈願にお参りされたと話された事を
思い出しました。
私も橿原神宮へお参りに行く事にしました。
写真は、表参道の一ノ鳥居です。
参道両側には、橿の並木が続きます。
参道を進んで行くと、
宮川に架かる神橋が見えてきます。
宮川に架かる神橋です。
表参道の正面に、国旗掲揚台が見えます。
右手に南神門が見えてきました。
南神門の前は、南神門前広場と呼ばれてます。
その南神門前広場にある南手水舎です。
南神門です。
素木建ての八脚門で、屋根は切妻造の銅板葺です。
南神門を抜け、神域に入ると、背後に畝傍山を控えた
雄大な社殿が開けます。
外拝殿(げはいでん)です。
背後は畝傍山です。
外拝殿(げはいでん)です。
橿原は、日本最古の正史である日本書記において
日本建国の地とされています。
天照大神の血を引く
神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が、
豊かで平和な国づくりを目指して
九州高千穂の宮から東に向かい苦難を乗り越え
畝傍山の東南の麓に、橿原宮を創建されました。
神倭伊波禮毘古命は、後の神武天皇です。
皇紀元年(前660)に、橿原宮で初代天皇として即位されました。
その橿原宮があった地に、神武天皇の御聖徳を
永く後世に伝えたいと言う思いから、
明治23年(1890)に橿原神宮が創建されました。
ちなみに、外拝殿は昭和14年(1939)に完成した建物です。
外拝殿から、内拝殿(ないはいでん)の向こうの
本殿に向けお参りします。
正面が内拝殿で、その屋根越しに
祓殿の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が見え、
更にその向こうの本殿は見る事はできません。
御祭神は、初代天皇の神武天皇と
皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
です。
神武天皇は、天照大神の天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)より
四代目に当たり、正式には、
神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)です。
皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命は、大物主命の御娘に当たります。
外拝殿から、内拝殿を見たところ。
本殿は見えませんが、
本殿は、安政2年(1855)に建造された
元京都御所の賢所で
明治23年(1890)の神宮創建に際し
下賜され移築された物で
重要文化財に指定されてます。
内拝殿と外拝殿の間は、
周囲を廻廊に囲まれた外院斎庭があります。
土間殿です。
土間殿です。
北神門です。
もと正門として大正4年に建造された
唐破風造りの平唐門で、1940年に
神武天皇即位紀元2600年を祝った記念事業で
北神門として移築されました。
北神門を内側、正面から見たところ。
北神門を外に出て、北神門を正面から見たところ。
再び、北神門から神域に入り、南神門へ向かいます。
先ほど見た土間殿です。
外拝殿です。
その向こうは神楽殿です。
正面は南神門です。
右端は神楽殿です。
南神門を内側から見たところ。
南神門を出てまっすぐ南に行くと、
深田池があります。
花菖蒲が咲いてました。
深田池から神橋へ向かいます。
奈良・京都旅行の初日を終え、奈良市内のホテルへ向かいました。