奈良・京都旅行の4日目は、
藤原京跡をはじめ、大和三山
を歩き
その後、近鉄の大和八木駅から橿原線で大和西大寺駅へ移動し、
平城京の中心だった平城宮跡を見て周りました。
近鉄大和西大寺駅の北口を出て、東へ進んで行くと、
二条町交差点があり、その交差点の中に
二つの祠が東西に並んで建ってます。
東側の祠には、この交差点から北へ行った所にある
歓喜寺と言うお寺の地蔵尊が祀られています。
西側の祠には、弘法井戸があり、
その井戸の上に3枚の板碑が祀られています。
その内の一枚は、五尊板碑と呼ばれ、中央に不動明王、
上段に薬師如来と釈迦如来、下段に阿弥陀如来と地蔵菩薩が
彫られています。
その交差点を東へ進むと、
右手に平城宮跡資料館の看板があり、
右に折れて進みます。
平城宮跡資料館です。
平城宮跡資料館は、平城宮跡歴史公園の北西に位置し、
平城宮跡の発掘調査をもとに平城宮・京跡を
わかりやすく展示公開する施設として建てられています。
平城宮跡資料館の中にあった平城京周辺の写真地図です。
平城京は、和銅3年(710)、元明天皇が、律令制にもとづいた政治を行う為、
唐の長安をお手本につくられ、それまでの藤原京から遷都した新しい都です。
その平城京の地割です。
東西約4.3km、南北約4.8kmの
長方形の東側に、
東西約1.6km、南北約2.1kmの
外京を加えたエリアが平城京です。
平城京の南端にある
羅城門から朱雀門まで、
まっすぐのびる朱雀大路は
幅74mもあり、
朱雀大路の西側を右京、
東側を左京と言います。
その平城京の中心として、
政治、儀式が行われた大極殿、
天皇の住まいの内裏、そして、
官公庁等が集まったエリアが
平城宮です。
左側が、奈良時代前半、
710年の平城京遷都から
740年の恭仁京遷都までの間の
平城宮で、
右側が、奈良時代後半、聖武天皇の時代、
再び平城京へ都が戻って来た以降の
平城宮です。
その奈良時代前半、平城宮の中央北側には、
天皇の即位や、元日朝賀などの国家儀式、
外国使節の歓迎等、国家の重要儀式が行われた宮殿、
第一次大極殿院があります。
そのジオラマです。
第一次大極殿院のジオラマです。
回廊に囲われたエリアが、第一次大極殿院で、
中央奥に大極殿、中央手前に南門、
南門の右に東楼、左に西楼があります。
平城宮跡資料館の中に
唐招提寺の講堂の模型もあります。
左が奈良時代創建時の講堂で、
右が鎌倉時代修理後の講堂です。
鎌倉時代修理後の講堂は、
平城宮で朝廷に仕える官僚が
会議場として使用した東朝集殿を移築し、
切妻造から入母屋造に改修した建物です。
大極殿に設置された天皇の玉座、
高御座の1/10復元模型です。
高御座は、天皇の即位式や、元旦朝賀など、
重要な儀式の際に大極殿へ臨時に設置されました。
展示模型は、
現存する大正天皇の即位の際に新調された高御座や、
後世の文献資料参考に作成された物です。
平城宮跡資料館を出て、
平城宮跡歴史公園内の道を南へ、そして、東へ、
第一次大極殿院の南門の方へ向かいます。
途中、第一次大極殿を北東へ見る事ができます。
平城宮跡歴史公園内の道を東へ進んで行くと、
第一次大極殿院の回廊が見えてきます。
中央に大極殿が見えます。
まず、最初に、
大極殿の南に位置する中央区朝堂院跡の西側を南へ、
朱雀門へ向かいます。
朝堂院の朝堂が建っていた基壇と、
基壇に設置された階段です。
中央区朝堂院跡の西側の道を南へ進みながら、
第一次大極殿院跡をふり返ったところ。
中央に見える覆屋は、
大居殿院の復元工事中の南門です。
その蓋屋の向こうに、大極殿が見えます。
大居殿院の復元工事中の南門と、
その向こうの大極殿です。
手前の草が生えた土手は、
朝堂院の朝堂が建っていた基壇です。
そして、朝堂院跡の南、近鉄奈良線をまたいだ向こうに、
朱雀門が見えます。
ちょうど、近鉄奈良線に電車がやって来ました。
電車が、朱雀門の前にさしかかろうとしています。
そして、通り過ぎて行きます。
中央区朝堂院の南端から、
朝堂が建っていた基壇を
ふり返ったところ。
その基壇の向こうには、
第一次大極殿院の回廊が見え、
その向こうに大極殿が見えます。
朱雀門へ向け進み、近鉄奈良線の踏切を渡り、
朱雀門を見たところ。
朱雀門を、北側から見たところ。
朱雀門を出て、南から朱雀門を見たところ。
平城京の入口には羅城門があり、
羅城門から74m幅の朱雀大路を北へ進んで行くと、
平城宮の正門、朱雀門があります。
1998年(平成10年)に復元されました。
間口約25m、高さ約20mの入母屋二層構造です。
朱雀門の前、南側には、朱雀門ひろばが広がります。
その朱雀門ひろばの西側には、
・奈良のInformation Centerや特産品を販売している
天平みつぎ館
・食を楽しむ天平うまし館
・Cycle Stationや展望デッキや、各アクティビティの拠点、
天平みはらし館
・休憩所や待ち合い場所となる天平つどい館
があります。
そして、天平うまし館に隣接する一角に、
復元遣唐使船が展示されています。
遣唐使船の右舷を真横から見たところ。
最上甲板には三つの屋形が設けられ、
船首から雑居部屋、賄い部屋、遣唐大使の部屋が
配置されています。
賄い部屋は、竈を据えて火を扱っていたと
想像されています。
遣唐使船を、右舷斜め前方から見たところ。
遣唐使船を、右舷斜め後方から見たところ。
復元された遣唐使船の船体は、
以下となってます。
全長30m
全幅9.6m
排水量300ton
積載荷重150ton
遣唐使船に関する正確な資料は
残ってなく、復元された姿は
推定です。
その推定含めて、
復元にあたっての説明です。
乗船し、船尾方向を見たところ。
右端は、遣唐大使の部屋です。
船尾です。
船尾中央に舵があります。
今は通行の邪魔にならないように
舵柄を取り外してますが、
本来は舵柄を舵の頭に差し込んで
数人がかりで舵をとりました。
そして、船首です。
船首には、木石製の碇と、
碇を揚げ下げする轆轤(巻上器)が見えます。
遣唐使船の積荷には、唐の皇帝へ献上する品として、
水銀、水晶、真珠、瑪瑙などの宝石類、椿油や漆が運ばれ、
持ち帰った品物には、唐の皇帝から頂いた銅鏡、銀器、瑠璃杯、
絹織物、仏像、経典などがあります。
網代帆です。
網代帆は、竹や葦を薄く削り、平に編んで作った網代を
竹で縛って継ぎ合わせた帆です。
次は、大極殿へ向かいます。
朱雀門ひろば、南西から、朱雀門を見たところ。
朱雀門を南西から見たところ。
朱雀門を入り進んで行くと、
近鉄奈良線に電車がやってきました。
近鉄奈良線の電車が通り過ぎて行きます。
近鉄奈良線を越え、北へ進みます。
第一大極殿院の復元工事中の南門の覆屋が見えます。
朱雀門から、近鉄奈良線を越え、北へ進んで行くと、
中央区朝堂院の南門の基壇があります。
中央区朝堂院の南門の基壇の前から北を見たところ。
その基壇の北側、向こうに、
第一大極殿院の復元工事中の南門の覆屋が見えます。
中央区朝堂院の南門の基壇の上です。
南門の柱の礎石が残ってます。
中央区朝堂院の南門の基壇の上から北を見ると、
第一大極殿院の復元工事中の南門の覆屋が見えます。
基壇の前には、第一次大極殿院と朝堂院の鳥観図があります。
その大極殿と朝堂院の説明です。
大極殿、朝堂院は、
元旦や節句の儀式や、
外国の使節をもてなす宴会が
行われました。
その時、天皇がすわる建物が、
北の端の大極殿で、
臣下は南の朝堂院に並びました。
第一次大極殿院の西と東の端に朝堂が建ってました。
その西側の朝堂の基壇の上です。
その基壇の越しに、
第一大極殿院の復元工事中の南門の覆屋や、
更にその向こうに大極殿を見たところ。
そして、第一大極殿院の西側の回廊の横の道を北へ、
大極殿へ向け歩きます。
大極殿院の回廊は未完成で、途中から回廊はなく、
直接、大極殿を見る事ができます。
大極殿です。
正面約44m、側面20m、地面よりの高さ約27mで、
直径70cmの朱色の柱44本が使われた
平城宮最大の宮殿です。
南西から大極殿を見たところ。
大極殿を西から見たところ。
大極殿へは、北から基壇へ上がり、西側から入ります。
大極殿の中に展示されていた鴟尾です。
鴟尾は、屋根の一番上、大棟の両端に設置されています。
その鴟尾の説明です。
天皇が、国家儀式の際に着座した
玉座、高御座の外観模型です。
そして、その高御座の外観模型の説明です。
現存する大正天皇の即位の際に新調された高御座や、後世の文献資料参考に製作された物です。
その高御座を正面から見たところ。
高御座です。
高御座の屋根には、鳳凰や、太陽をかたどった装飾が
施されています。
国家儀式の際に、高御座から見たであろう内庭の景色です。
大極殿の前面、古代のレンガの塼を積んだ高さ2.4mの擁壁の下の広場が内庭です。
国家儀式の際には、内庭に貴族が立ち並びました。
内庭は築地回廊で囲まれ、南辺中央に第一次大極殿院の南門が開き、
饗宴などが行われた中央区朝堂院へつながっていました。
大極殿の天井です。
天井のすぐ下の小壁には、
奈良県在住の日本画家、上村淳之氏により
北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎の四神と
十二支が描かれています。
そして、天井の一つ一つの格子の中には、
蓮の花が描かれています。
大極殿を東に出て南を見ると、
中央に朱雀門が見えます。
右端は、第一大極殿院の復元工事中の
南門の覆屋です。
第一次大極殿院を東へ出て、南へ進むと、
発掘調査が行われていました。
その向こうに、
第一大極殿院の復元工事中の南門の覆屋が見えます。
第一大極殿院の東側を南北に走るみやと通り脇にあった案内図です。
その案内図の場所から、東へ進んで行くと、
道の両側は、天皇の住まいであった内裏です。
東へ進みながら、南東を見ると、
内裏の更に南に位置する第二次大極殿の基壇が見えます。
内裏のエリアに入り東へ進んでいくと両側に、
緑の柱が建ちえ並んでいます。
この緑の柱は、イヌツゲの木で、
内裏の柱跡を模して、円柱形に刈り込まれています。
東に進みながら、南側の内裏の柱列跡を見たところ。
北側の内裏の柱列跡です。
東へ進みながら、南を見たところ。
手前には、内裏の柱を模して円柱形に刈り込まれた
イヌツゲの植栽です。
その向こうには、第二次大極殿の基壇が見えます。
東へ進んで行くと、
内裏で使用された井戸の遺構があります。
内裏の井戸の遺構です。
この井戸は、
直径1.7mのスギの木をくり抜いた井筒をすえ、
まわりに切石や玉石をしきつめた立派なものでした。
その井戸の前から、西を見たところ。
緑の柱の間から、第一次大極殿が見えます。
その大極殿です。
井戸があった場所は、内裏の東端部にあたり、近くにあった案内図です。
内裏の東側、内裏の井戸のすぐ南東にあった
宮内省の復元建物です。
天皇家の財政と生活を支える仕事を担当した
宮内省の遺構と推定されています。
築地塀で囲まれた東西約50m、南北約90mの区画の中に、
瓦葺の正殿や、檜皮葺の脇殿、倉庫など
6棟の建物がありました。
その鳥観図と説明です。
その宮内省の北側の門です。
門は、北と南にあり、朱色で瓦葺です。
正殿の礎石です。
その正殿の南側と西側には
檜皮葺の建物が復元されています。
その復元された檜皮葺の建物の内部です。
平城宮の役所は、宮内省に限らず、
土間に机と椅子を置いて仕事をしていたと
考えられています。
展示されている机は、正倉院宝物の多足几(たそくき)を
参考にして製作されています。
宮内省の復元建物の西には、
造酒司の井戸があります。
その造酒司の井戸の鳥観図です。
平城宮には、酒や酢を製造した造酒司と言う役所がありました。
そして、醸造用の水を汲んだ井戸がいくつか見つかっており、
その内の一つです。
杉の大木をくり抜いた直径140cmの井筒を中心に、
円形に川原石を敷き、周囲に石を組んだ溝をめぐらせ、
六角形の屋根がかけられていました。
このように、立派な構造を持つ事から
儀式用の酒の醸造に用いられた特殊な井戸と考えられています。
その造酒司の井戸を北から見たところ。
造酒司の井戸を南から見たところ。
遺構は盛土をして保護し、
その上に型取りした井戸の遺構模型を
展示しています。
平城宮跡歴史公園を出て、
平城宮跡歴史公園のすぐ東の道に沿って
南へ進んで行くと、
東院庭園の築地塀が見えてきます。
東院庭園は、称徳天皇(764-770)の時代に
宴会や儀式を催した庭園を復元したものです。
東院庭園の築地塀の外から、
庭園の南東隅に建つ楼閣の屋根が見えます。
その屋根の上の鳳凰です。
東院南東の角から鳳凰が載る屋根を
ふり返ったところ。
そして、近鉄奈良線の新大宮駅へ向かい、
ホテルへ戻りました。
雨が降り始めた為、外食は止めて、
帰りに奈良・吉野名産の柿の葉寿司を
買って帰りました。
買ってきた柿の葉寿司の箸袋です。
ホテルで食べる前に撮影した柿の葉寿司です。
柿の葉寿司の由来は、
その昔、熊野と、吉野、橿原をつなぐ東熊野街道は、
さば街道とも呼ばれ、
熊野灘で水揚げされ、浜塩を施した鯖は、
背負い籠に詰められ、高い峰を越え、谷川の難所を渡り、
運ばれました。
その鯖を、地の人は薄く切ってご飯の上にのせ、
手近にあった山柿の葉に包んで重石をかけ熟成させて
お寿司に仕上げ、祭礼の日の御馳走としたのが
始まりです。
購入したのは、さば・さけの詰合せです。
さばではなく、さけがのった柿の葉寿司です。
そして、さばがのった柿の葉寿司です。
奈良に行ったら、食べてみたくなる名産です。