奈良・京都旅行の四日目は、藤原京跡、そして、その藤原京を囲む大和三山の香具山、畝傍山、耳成山を
回りました。
■神武天皇陵
近鉄奈良駅を出発し、近鉄橿原線の畝傍御陵前駅で下ります。
その畝傍御陵前駅にあった橿原市観光案内図です。
畝傍御陵前駅から西に向かって行くと、
大和三山の一つ、畝傍山が見えます。
畝傍御陵前駅から西に向かい、
突き当りを北へ向かうと、
神武天皇陵への入口が
左手に見えてきます。
川があり、橋を渡ると、
神武天皇陵へ向かう入口となってます。
その橋の袂です。
その橋の上です。
橋の上から、川を見たところ。
橋を渡って、神武天皇陵へ向かいます。
神武天皇陵へ、まっすぐ向かいます。
道なりに、進んで行きます。
正面に、神武天皇陵の鳥居が
見えてきました。
進んで行くと、先ほどの川を渡る橋が
架かってます。
橋の上から川を見たところ。
神武天皇陵です。
正式には、神武天皇 畝傍山東北陵
(うねびやまのうしとらのすみのみさぎ)
と言います。
正面に鳥居があります。
その鳥居の手前、横には手水処があります。
手水処です。
神武天皇陵です。
日本書記、古事記によると、
初代天皇の神武天皇(在位:前660年~前585年)は、
日向(宮崎)地方から、瀬戸内を東へ進んで
難波へ上陸しましたが、
生駒の豪族に阻まれ、南下して熊野へ回りました。
そこで出会った3本足の八咫烏に導かれて
吉野の険しい山を越えて大和に入り、
周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。
そして、紀元前660年の一月一日に
橿原宮で初代天皇に即位しました。
神武天皇陵です。
畝傍山の北東の麓に位置し、陵形は円丘ですが、
周囲は約100m、高さ5.5mの方形の植え込みがあり、
その周囲には、幅約16mの周壕がめぐらされています。
神武天皇陵です。
来た道を戻ります。
■畝傍山
神武天皇陵の次は、大和三山のひとつ、畝傍山へ
向かいます。
橿原公苑のJTEKTアリーナ奈良が見えてきました。
JTEKTは、自動車のステアリングシステム等を
製造している会社で、橿原市に工場があるようです。
その橿原公苑の反対側に、
橿原神宮の北参道の鳥居があります。
その北参道を橿原神宮へ向け進んで行くと
途中、畝傍山登山口の標識がたってます。
畝傍山登山口を入り進んで行くと、
東大谷日女命神社があります。
名勝 大和三山 畝傍山の説明です。
奈良盆地の南部に位置する香具山(152.4m)、畝傍山(199.2m)、耳成山(139.7m)の三つの小高い山を総称し
大和三山と呼びます。
途中の分岐に、橿原神宮、畝火山口神社、頂上、
それぞれに向かう道の標識がありました。
頂上へ向かいます。
頂上へ向かう途中に見た北西側の景色です。
中央左よりに奈良県広域消防組合本部の
建物が見えます。
更に、その向こうには、橿原総合プールの
ジャンボスライダーが見えます。
頂上へ向かう途中に見た南西の景色です。
遠方の山は、右が葛城山、左が金剛山です。
山頂近くに、畝傍山の説明がありました。
後に天智天皇となる中大兄皇子が
大和三山を題材に、詠んだ歌があります。
香具山は 畝火ををしと
耳梨と 相あらそいき
神代より かくにあるらし
古昔 しかにあれこそ
うつせみも 嬬をあらそうらしき
香具山は畝傍山を男らしい者として、
古い恋仲の耳梨山と争った。
神代から、こうであるらしい。
昔もそうであったからこそ、
今も愛する者を争うのだろう。
山頂近くは、広くゆるやかに上っています。
山頂には、畝火山口神社跡が残っています。
畝火山口神社跡です。
畝火山口神社は、
もともと、畝傍山の西麓にありましたが、
一度、畝傍山の山頂へ移されたものの、
昭和15年の橿原神宮の大拡張工事の際に、
橿原神宮や神武天皇陵を見下ろす位置にある事から
現在の西麓に遷座されました。
畝傍山の山頂から北東に、
大和三山の一つ、耳成山(139.7m)を
見たところ。
耳成山は、御碗を伏せたような山容で、
死火山です。
畝傍山の山頂から東を見ると、
大和三山の一つ、香具山(152.4m)が見えます。
畝傍山を東の尾根伝いに下ります。
下ったところに、若桜友苑があります。
若桜友苑の絆の錨です。
絆の錨の背後に、畝傍山を見たところ。
第十三期海軍甲種飛行豫豫科練習生 殉国之碑です。
航空母艦 瑞鶴之碑です。
瑞鶴は、昭和16年に艤装完了し、
同時に連合艦隊に編入されハワイ作戦に参加、
その後、インド洋、サンゴ海、ソロモン、南太平洋、
マリアナの各海戦に参戦しました。
最後は、レイテ沖海戦で幕を閉じました。
イトクの森古墳です。
全長約30mの前方後円墳でした。
イトクの森古墳です。
しかし、今は後円部のみが残ってます。
イトクの森古墳です。
その後円部の上部には、池田神社の社が乗っており、
前方後円墳の面影はありません。
■本薬師寺跡
畝傍山を下りて、次は本薬師寺跡へ向かいます。
まず、JTEKTアリーナ奈良の前を通り、
近鉄橿原線の畝傍御陵前駅へ向かいます。
途中、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が
ありました。
しかし、施設改修の為、休館しており、
見る事はできませんでした。
近鉄橿原線の畝傍御陵前駅です。
駅の地下、改札口の前を通って、
近鉄橿原線の西側から東側に抜けます。
畝傍御陵前駅の駅前から、
まっすぐ東へ進んで行くと、
本薬師寺跡があります。
三日前にも
飛鳥路サイクリング
の最後に
ここ本薬師寺跡へ来たばかりです。
本薬師寺跡の説明です。
本薬師寺は、天武9年(680)に、天武天皇が、後の持統天皇になる皇后の病気平癒を願って発願されました。
しかし、完成しない内に天武天皇が崩御されたので、持統天皇がその遺志を継いで完成させました。
寺域は、藤原京八条三坊を占めていました。
伽藍は、中心に金堂、その前面の左右に東塔、西塔が配され、南に中門を開き、その両翼から回廊を巡らせ、
金堂北側の講堂にとりつく配置で、いわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれています。
本薬師寺跡を西側から見たところ。
本薬師寺は、和銅3年(710)の平城京遷都に伴い、
養老2年(718)に西ノ京に移転し、
西ノ京の薬師寺
と区別する為、
本薬師寺と呼ばれるようになりました。
金堂の跡地の礎石です。
礎石が並んでいます。
礎石です。
礎石です。
礎石です。
今は小さな小堂が建ってます。
東塔の基壇跡を北西から見たところ。
東塔の基壇跡を北東から見たところ。
右端は金堂の跡です。
西塔の基壇跡も残ってましたが、この日は写真撮り忘れです。
■紀寺跡
次は、紀寺跡へ向かいます。
本薬師寺を出て、東へ向かい、飛鳥川に出て、上流に向け進んで行くと
上飛騨橋があります。
その上飛騨橋から上流を見たところ。
上飛騨橋から下流を見たところ。
上飛騨橋から東へ向けて進んで行くと、
道の両側にテニスコートが見えて来ます。
そのテニスコートの先に紀寺跡があります。
紀寺跡は、小山廃寺とも言われ、藤原京左京八条二坊に位置します。
遺跡名は、大字小山字キデラに由来し、古代の有力豪族の紀氏の氏寺とも言われています。
その一方で、藤原京内で四町四方を占め、朱雀皇子をはさんだほぼ対象の位置に
天武天皇が発願された薬師寺、今の本薬師寺が位置する事や、出土物の特徴から
国によって建てられた官寺とも考えられています。
紀寺跡です。
伽藍配置は、
南から南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、
回廊は中門から講堂に取りついて
金堂を囲む形となっています。
紀寺跡です。
現在は失われていますが、
過去には金堂の南東に塔心礎が残っていたと言う事で、
そこに塔があったと推定されています。
■天岩戸神社
紀寺跡を出て、
次は、大和三山の一つ、香具山の南麓にある
天岩戸神社へ向かいます。
紀寺跡の前の道を東へ進みながら、
香具山を見たところ。
香久山小林院法然寺の角の交差点から、
法然寺を見たところ。
法然上人が高野山へ参詣の折りに、
橘寺へ立ち寄り、その帰途、
村人に念仏往生の教えを説く為に
法座を持ったのが小林院と言う仏堂でした。
大永8年(1528)、知恩院門跡の歓蓮社保誉源派上人が、
夢の中で法然上人より
「香久山の麓の寺はせまけれど 高きみのりを説きて弘めむ」
と歌を賜り、
門跡を辞して本寺へ隠栖する時に、
寺号を法然寺と改めました。
その向こうに見える山は、香具山です。
更にまっすぐ東に進んで行くと、大きな楠が見えてきます。
この楠は、樹齢400年で、鞄工房山本の敷地内にあります。
鞄工房山本の角を北に折れて、進んで行きます。
その先に、天岩戸神社の標石と、鳥居があります。
天岩戸神社の標石と、鳥居です。
鳥居をくぐって進んで行くと、
天岩戸神社の拝所があります。
その拝所です。
拝所です。
その拝殿の壁にあった天岩戸神社の説明です。
天香久山の南麓に南面して鎮座し、
天照大神が祀られています。
日本書記の神話にみられる
天照大神が岩戸隠れされた所と称し、
今もなお巨石4個が残っており、
天照大神が幽居した所と伝える岩穴を御神体として
神殿は無く、拝所のみと言う
古代人の原始的な祭祀形態を残してます。
少し前から小雨が降り始め、
拝所へ上がって雨宿りをさせて頂きました。
拝所の正面の戸は閉まっており、
戸の隙間から向こうに三つ鳥居が見えます。
この三つ鳥居の向こうには、
天照大神が岩戸隠れされた
天岩戸(あまのいわと)と呼ばれる巨石4個が
御神体として祀られています。
拝所の中には、天照大御神が
天岩戸から姿を現された場面の
絵馬がかかってました。
昔、天を照らす天照大神には、
須佐之男命と言う乱暴な弟の神様が
いました。
あまりにも弟の乱暴が激しく、
天照大神は天岩戸に隠れてしまいます。
その為、太陽は昇らず、暗闇の毎日が続き、
困った八百万の神々は、相談します。
天宇受売命(あまのうずめのみこと)が、
ひかげ蔓を襷にかけ、まさきの葛を髪に飾り、
笹の葉を持ち、神がかりに踊ります。
八百万の神々は楽しげにはやします。
外が気になった天照大神が
天岩戸を少し開けてのぞいた時、
力自慢の手力男命(たぢからおのみこと)が
天岩戸を開け、もとの明るい世界が戻りました。
橿原の昔話絵本「天の岩戸と七本竹」の絵の一部が神社に奉納されておりました。
七本竹について、天照大神の気をひく為、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が踊った時、
手に持っていた笹は、毎年、七本生え、七本枯れると言う伝承があります。
■香具山
次は、大和三山の一つ、香具山へ登ります。
天岩戸神社を出て、
香具山の麓を西側へ回り込んで行くと、
登山口があります。
その登山口の前から、西を見ると畝傍山が見えます。
名勝 大和三山 香具山(152.4m)の説明がありました。
香具山は、多武峰(とうのみね)から北西に延びた尾根が、浸食により切り離され、小丘陵として残ったものです。
また、香具山は、伊予国風土記逸文に、「天から降ってきた」と言う伝承が残っており、天の香具山とも呼ばれています。
登山道を道なりに登っていくと、香具山の説明が
ありました。
香具山の字は、香久山、香来山と、いろいろな漢字が
使用される事があり、ここでは香久山の字が使用
されてます。
香具山を詠んだ歌のひとつに、以下があります。
春すぎて 夏来にけらし
白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇
いつのまにか、春が過ぎて、夏が来たようですね。
天の香具山に真っ白な衣がひるがえっています。
香具山の頂上には、国常立神社があります。
国常立神社の説明です。
祭神は、天地開闢とともに現れた
国土形成の神の国常立命です。
香具山の頂上からの景色です。
木立の間から、西を見ると、
大和三山の一つ、畝傍山が見えます。
近くに、見渡せる景色の案内図がありました。
その案内図の下には、舒明天皇(593-641)の歌がありました。
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ
うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
大和には多くの山があるが、とりわけりっぱに装っている天の香具山
その頂に立って国見をすると、国土には炊煙がしきりに立ち、海上には鷗が群れている。
美しき国よ、蜻蛉島大和の国は。
西側の景色です。
畝傍山が見えます。
その向こうには葛城山、二上山も見えます。
舒明天皇も、ここから国見をしたのでしょう。
ちなみに、舒明天皇(593-641)は、
大化の改新を主導した中大兄皇子、後の天智天皇と、
壬申の乱で勝利し即位した天武天皇の父親です。
そして、天智天皇の娘で、天武天皇の皇后、
後の持統天皇は、藤原京への遷都を行った人物です。
香具山から見た畝傍山です。
その向こう右よりに、薄っすら見えるのが二上山です。
香具山を下り、次は天香山神社へ向かいます。
■天香山神社(あまのかくぐやまじんじゃ)
香具山を下ると、天香山神社の参道に出ます。
その参道に出て、すぐ左手に手水舎があります。
そして、参道を横切った正面に鳥居が見えます。
明治天皇遥拝所です。
明治天皇が行幸された折に、ここから
伊勢神宮の天照大神を遥拝されました。
明治天皇遥拝所を正面に見て、右手の階段を登り
鳥居をくぐると、拝殿の前へ出ます。
その拝殿です。
拝殿の壁にあった拝殿扁額の説明です。
拝殿の扁額には、天香山坐櫛眞命神社とあります。
天香山神社の祭神は、櫛眞命(くしまのみこと)で、
平安時代の延喜式神名帳に天香山坐櫛眞命神社と
記載されています。
櫛眞命は、国家の大事を判断する亀卜や、
天皇陛下即位の大嘗祭に行われる神饌田卜定に関わる
神意を伺う占いの神です。
そして、拝殿の前には、
注連縄で囲われた陰陽石の陰石があります。
拝殿の前からお参りします。
拝殿を通して、奥に見えるのが本殿です。
拝殿内部の扁額には、天香山神社とあります。
参道を引き返していくと、天波波迦の標石があり、
注連縄に囲まれた波波迦の木(ははかのき)があります。
波波迦の木は、朱桜(にはさくら)、うはみさくら、等の
別名を持ちます。
そして、古事記によると、波波迦の木の皮で香具山の
雄鹿の骨を焼いて、吉凶を占いが行われてました。
また、天皇の即位に際して行なわれる
大嘗祭で使用するお米を収穫する
斎田を選ぶ儀式(斎田点定の儀)では、
アオウミガメの甲羅を使用した亀卜が行われます。
その亀卜は、この波波迦の木の枝の先に点けた火で、
甲羅を焼き、焼いてできるヒビ割れの仕方を見ます。
令和天皇の大嘗祭の斎田点定の儀でも、
天香山神社の波波迦の木が使用されました。
参道の脇に柿本人麻呂の歌碑があります。
ひさかたの
天の香具山 このゆうべ
霞たなひく 春立つらしも
久方に見る天の香具山に
今日この夕方霞がたなびいている。
春になったようだ。
天香山神社の鳥居です。
天香山神社の鳥居です。
■奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室
天香山神社を出て、
次は奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室へ
向かいます。
途中、大和三山の一つ、耳成山を南東から見たところ。
香具山を北から見たところ。
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室へ向け歩いていると
道横の側溝にいたアオサギが、突然飛び立ちました。
その飛び立ったアオサギです。
奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室へ着きました。
奈良文化財研究所 都城発掘調査部の展示資料室が、
藤原宮跡資料室です。
都城発掘調査部では、
飛鳥・藤原地域に残る遺跡(宮・京・寺院・古墳墓など)の
発掘調査や整備を行い、
出土した遺物(土器・木器・金属器・瓦類・木簡など)の調査や
保存整理にたずさわっています。
奈良文化財研究所の玄関です。
奈良文化財研究所の玄関ホールにあった藤原京跡や、大和三山周辺、及び、飛鳥地域の航空写真の一部です。
展示室の外にあった飛鳥池遺跡柱穴断面です。
ちなみに展示室内は、写真撮影禁止です。
飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の南東に位置し(万葉文化館の敷地内)、
ガラスや金・銀・銅製品を製作していた工房でした。
和銅開珎より古い富本銭が、ここで鋳造されていた事がわかってます。
藤原京、平城京、唐の長安城の
都城の大きさの比較です。
藤原京は、中国の都城を参考に
造営された日本で最初の
本格的な都です。
南北約4.8km、東西約5.2km
ありました。
平城京の大きさは、
南北約4.8km、東西約4.3kmの
長方形の東側に
南北約2.1km、東西約1.6kmの
下京を加えた大きさです。
長安城の大きさには及びませんが
藤原京は、平城京に規模では負けて
いません。
藤原京は、国立の大寺院として
大官大寺と薬師寺が、左京と右京に
相対して計画的に配置されていました。
ここで言う大官大寺は、
今朝行った紀寺で、
薬師寺は本薬師寺を指します。
この堂塔の図は、平城京薬師寺の
復元図ですが、
本薬師寺(藤原京 薬師寺)も、
細部をのぞけば、平城京 薬師寺と
瓜二つの伽藍だったと言う事です。
奈良文化財研究所を出たところにあった
構内の案内です。
奈良文化財研究所の構内地図です。
奈良文化財研究所の敷地は、
左京六条三坊にあたり、
六条条間路や、東三坊坊間路や
建物、塀などが発見されてます。
奈良文化財研究所の前の道に面した駐輪所には
円柱が立ってますが、これは塀のあった位置です。
■藤原宮跡
奈良文化財研究所を出て、藤原京の六条に当たる道を
西へ向かいます。
その道の北側には、藤原宮跡の赤い柱が見えます。
更に西へ進みます。
途中、駐車場があり、藤原宮跡の説明があります。
北には、大和三山の一つ、耳成山が見えます。
藤原宮跡の説明です。
藤原京は、持統天皇8年(694)から
和銅3年(710)まで、持統、文武、元明天皇
三代にわたる都でした。
大きさは約900m四方、
周りを大垣(高い塀)と濠で囲み、
各面に3ヶ所ずつ門が設置されています。
中には、
天皇が住む内裏、政治や儀式を行う大極殿と
朝堂院、そして、役所の建物が
並んでいました。
駐車場の前の道から東、来た道をふり返ると
香具山が見えます。
そして、更に西へ向かいます。
西、少し南よりを見ると、畝傍山が見えます。
来た道をふり返ると、香具山が見えます。
南、少し東寄り、甘樫丘方向を見たところ。
藤原宮跡の東西中心位置で、北へ、藤原宮跡の中へ入ります。
藤原宮跡の説明があります。
その説明です。
大極殿の南に位置する
朝堂院は、周囲に回廊が
めぐらされ、
中央の広場を囲んで
12の朝堂が配置
されていました。
北を見ると、正面に、赤い柱の列柱が見えます。
赤い列柱の向こうに見える山は、耳成山です。
その赤い列柱です。
列柱の横にあった朝堂院南門の説明です。
この列柱は、朝堂院南門の位置から、
20m北へ移動し再現されています。
南門の規模は、
正面(桁行)5間(24.6m)、側面(輌行)2間(10.2m)で、
柱の間隔は、正面中央の1間分が広く18尺(5.4m)、
その両側2間分の柱の間隔は、16尺(4.8m)、
側面の柱の間隔は、各々17尺(5,1m)と考えられてます。
藤原宮の平面図です。
朝堂院南門は、ピンク色で表示されてます。
朝堂院南門の列柱の間から、北を見たところ。
まっすぐ正面に、大極殿院閤門の赤い列柱が見えます。
更にその先に、耳成山が見えます。
朝堂院南門を入ったこの辺りには、
朝堂があったのだと思います。
正面に見えるのは、大極殿院閤門の赤い列柱です。
朝堂院南門の列柱から北へ向かいながら
北西を見たところ。
右に、大極殿院閤門の赤い列柱、
その向こうに耳成山が見えます。
左には、朝堂院西門の赤い列が見えます。
朝堂院南門の列柱から北へ向かって行くと
東西に走る道に突き当たります。
西を見ると朝堂院西門の赤い列柱が見えます。
今歩いて来た道、南をふり返ったところ。
東を見たところ。
朝堂院東門の赤い列柱が見えます。
朝堂院東門の赤い列柱です。
その横にあった朝堂院東門の説明です。
朝堂院東門は、南北3間、東西2間の八脚門で
基壇規模は、南北21.3m、東西14.5mと
推定されています。
但し、列柱は、10m北へ移動し、再現されています。
その朝堂院東門の赤い列柱のある場所から
西、少し南よりに畝傍山が見えます。
藤原宮跡の東西中央位置へ戻り、
北へ進んで行きます。
大極殿院閤門の赤い列柱が、正面に見えます。
その向こうの木立の辺りに、大極殿が建っていました。
大極殿院閤門の赤い列柱を、南東から見たところ。
大極殿院閤門の説明です。
大極殿院閤門は、大極殿院と朝堂院を
区切る門です。
規模は不確定ですが、
正面約30m、側面約15mと
朝堂院南門と同規模と
想定されています。
大極殿院閤門の列柱の辺りから、南東を見たところ。
右側に、畝傍山が見えます。
左側には、朝堂院西門の赤い列柱が見えます。
その朝堂院西門の赤い列柱です。
大極殿院閤門の赤い列柱を、北西から見たところ。
左側に香具山が見えます。
大極殿は、この木立の中にありました。
大極殿は、正面幅約45m、奥行約20m、
基壇を含む高さは、約25mだったと考えられており、
現在は、大宮土壇と呼ばれる基壇が残ってます。
この木立の中に入って行くと、鴨公神社跡があります。
かつては、大極殿跡に、鴨公神社として、事代主命が祀られていました。
大宮土壇の木立の西側の景色です。
左が大宮土壇です。
木立の間から、大極殿院閤門の赤い列柱が見えます。
左が大宮土壇です。
藤原宮跡から外に出て、周囲に沿った道路を通って
朝堂院西門へ向かいます。
朝堂院西門の赤い列柱です。
南西から見たところ。
朝堂院西門の説明です。
朝堂院西門は、発掘調査が実施されていませんが
朝堂院東門と左右対称に配置され、
朝堂院東門と同じ規模の八脚門と推測されています。
朝堂院西門の赤い列柱は、西門想定値より、
10m北へ移動し、再現されています。
朝堂院西門の赤い列柱です。
西から見たところ。
■橿原市 藤原京資料館
次は、橿原市 藤原京資料館へ寄りました。
1FがJAならけん橿原で、
2Fに橿原市 藤原京資料館があります。
2Fの橿原市 藤原京資料館へ上がって、
展望室から藤原宮跡を見たところ。
中央の赤い列柱は、朝堂院西門で、
その向こうの赤い列柱は、朝堂院南門です。
橿原市 藤原京資料館の入室は、無料です。
藤原宮の柱です。
藤原京期と記載があり、実際に使用されていた柱のようです。
藤原京の
1000分の1模型です。
北から見たところ。
写真中央は、耳成山です。
その南には
藤原宮があります。
その西側に畝傍山、
その東に香具山が
あります。
手前を流れる川は、
大和川です。
藤原京の1000分の1模型です。
藤原京の1000分の1模型です。
南から見たところ。
写真中央は、藤原宮で、
その北に耳成山があります。
藤原京の模型の説明図です。
南から見たところ。
藤原宮の北に耳成山、
東に香具山、西に畝傍山があります。
■耳成山(みみなしやま)
橿原市 藤原京資料館を出て、
次は耳成山へ向かいます。
橿原市 藤原京資料館の前の道を
北へ進んで行くと、道の横に側溝があり、
その横に、傳藤原宮海犬養門趾の
説明がありました。
藤原宮の四方には各三門があり、現在地は
その内、北面西辺の海犬養門(あめのいぬかいもん)に
あたり、側溝の中の二つの大石は、海犬養門の礎石と
考えられています。
確かに側溝の壁に大きな石が二つ埋まっています。
その大石を別の角度から見たところ。
傳藤原宮海犬養門趾の説明と、
海犬養門の礎石と考えられている二つの大石です。
更に北へ、近鉄大阪線を越え、進んで行くと、
耳成山の麓に古池があります。
その古池の池畔に、万葉集の歌碑がたってました。
耳無の 池し 恨めし 吾妹子が
来つつ 潜かば 水は涸れなむ
昔、三人の男達が一人の娘を好きになり、求婚しました。
その娘は思い悩んだ末に池に身を投げてしまいました。
その三人の男達の一人が詠んだ歌です。
耳成山の池が恨めしい。
あの子が水に沈んだら、水が枯れてくれれば良かったのに。
古池の中から、何やら低く大きな重低音の鳴き声が
聞こえてきます。
池の中を覗いて見ると、ウシガエルがいました。
上手に葉の陰に隠れています。
ウシガエルは、元々、日本に生息していたカエルではなく、
食用としてアメリカから持ち込まれたカエルです。
大きさは、最大で20cm近くになり、国内では最大級です。
南側の登山口にあった名勝 大和三山 耳成山の説明です。
標高139.7mの耳成山は、大和三山の中で最も低い山です。
円錐状の秀麗な山容をしており、畝傍山と同様に瀬戸内火山帯に属する死火山で、浸食や盆地の陥没と堆積によって
現在の姿になりました。
耳成山国有林の案内図もありました。
登山口の近くには、耳無山 山口神社への階段があります。
階段の上り口の左の石標には、山口神社参道とありますが、
右側には天神山と彫られてます。
その階段の上の鳥居です。
ここの鳥居の扁額には、耳無山 山口神社とあり、
耳成しの成しの字が、無しになっています。
万葉集には、耳梨山と書かれていました。
耳成山は、耳無山、耳梨山、そして、天神山と、
いろいろな書き方、読み方があるようです。
その階段を上がった先にある耳無山 山口神社への参道です
参道を登って行くと、広場があり、
更にその先に階段が続いています。
広場の南の端には、登って来てくぐった
注連柱が見えます。
こっちは、別の道から来た時にくぐる注連柱です。
その注連柱の横には、手水舎があります。
先ほどの階段を、更に上って行くと
拝殿があります。
その拝殿を通して向こうに、本殿が見えます。
拝殿の屋根裏には、たくさんの絵馬が掛かってます。
本殿です。
祭神は、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と
大山祇神(おおやまつみのかみ)の二柱です。
耳無山 山口神社から、更に頂上を目指して
登って行きます。
耳成山の説明です。
山容は、単調な円錐形で、人の顔に例えれば
耳が無いような山なので耳無山、
そして耳成山(みみなしやま)と呼ばれるように
なったと言う事です。
また、耳無山に因んだ以下の歌があります。
耳無しの 山のくちなし 得てしがな
おもいの色の 下染にせむ
古今和歌集 よみ人しらず
耳無し山のくちなしの実が欲しいものだ
誰にも知られぬ思いを染める為の下染めにしよう。
耳成山の頂上です。
頂上の三角点です。
頂上付近は、木を切って作られたベンチがありました。
木立の間から、南東に香具山を見たところ。
西には、二上山が見えます。
南西に畝傍山を見たところ。
耳成山を下り、その後、近鉄大和八木駅から、近鉄橿原泉で、大和西大寺駅へ、そして、平城宮跡へ向かいました。