喜光寺、菅原天満宮、西大寺、秋篠寺: 13May2019


奈良・京都旅行の3日目は、 法隆寺をはじめ、斑鳩の里 を歩きました。
その後、奈良交通バスで法隆寺前から筒井駅へ、近鉄樫原線で筒井駅から尼ヶ辻駅へ移動し、
そして、喜光寺、菅原天満宮、西大寺、秋篠寺、仲哀天皇皇后神功皇后狭城盾列池上陵、
政務天皇陵、垂仁天皇皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵を歩きました。

近鉄の尼ヶ辻駅から、喜光寺へ向かいます。

喜光寺の南大門です。

南大門は、元亀年間(1570-73)の戦乱で焼失しましたが、
平城遷都1300年にあたる平成22年(2010)に再建されました。






左が南大門で、その奥、右側が本堂です。

喜光寺は、養老5年(721)に行基によって建てられた寺で、
菅原の里と呼ばれる土地の名から菅原寺と名付けられました。

行基は、この菅原寺を拠点に、布教活動、社会事業、
とりわけ、聖武天皇の求めに応じ東大寺大仏造立に尽力しました。

そして、聖武天皇が菅原寺に行幸された折、
本尊より不思議な光が放たれ、聖武天皇は大いに喜ばれ、
歓喜の光の寺として、喜光寺の名を賜りました。

左端に南大門、中央が本堂です。











南大門の横にあった喜光寺縁起です。















南大門の仁王像です。

南大門に向かって右側の阿形の仁王像。














南大門に向かって左側の吽形の仁王像。

仁王像は、平成22年(2010)の南大門の落慶に合わせ
彫刻家の中村晋也氏によって製作され奉納されました。













喜光寺境内に入り、本堂を正面、南から見たところ。

本堂は、行基が東大寺建立に先立って本堂を建立したと言う伝承から
試みの大仏殿と呼ばれています。

奈良時代の本堂は明応8年(1499)に焼失し、
天文13年(1544)に縮小して再建されましたが、
縮小されたものでも高さは17mあります。




本堂の内部です。

中央に本尊の阿弥陀如来坐像、
脇侍には、向かって左に勢至菩薩坐像、右に観世音菩薩坐像が
祀られています。







創建時の本尊は、諸説あり判然としませんが、
現在の本尊の阿弥陀如来坐像は、いわゆる丈六仏で、
金箔の多くは剥落し、光背も大きく破損しています。









本尊、脇侍の前には、仏堂の四方を守る四天王像、
向かって右から、持国天(東)、多聞天(北)、広目天(西)、増長天(南)が
並んでいます。

この四天王像は、大和郡山市の額安寺に伝来し、
その後、奈良大学の所蔵となり、解体修理が行われました。
その修理の際に広目天、増長天の像内から菅原寺の墨書が発見され、
元々は菅原寺から移されたと言う伝承が確かめられました。
そして、この度、さとがえり公開が行われておりました。



本尊、脇侍の上方には、雲中供養菩薩が舞っています。











天井を見上げたところです。











上層の四方には、連子窓があり、光をとり込んで、
本尊を照らすようになってます。










本堂を出て、本堂の前から南大門を見たところ。











本堂の南西、境内には、約80種、250鉢の蓮の花が
育てられています。










本堂を南西からふり返って見たところ。











本堂の北西に位置する行基堂です。











その行基堂を正面、東から見たところ。

行基堂は、平成26年(2014)に建立されたものです。










行基堂の内部です。

行基は、668年に生まれ、15歳で出家し、法相宗飛鳥寺で修行し、
38歳の時に各地を巡り民間布教に努めました。
また、苦しんでいる人を救う為、ため池や農耕灌漑施設を造りました。
そして、行基は、仏になる前に悟りを求める人として、人々から菩薩と
呼ばれるようになりましたが、天平21年(749)に喜光寺で入寂します。

堂内には、行基菩薩坐像が祀られています。








その行基菩薩坐像です。

この像は、かつて生駒市の竹林寺に安置されていた鎌倉期の行基菩薩坐像を
摸刻したレプリカです。













そして、行基堂の内壁には、千躰地蔵が安置されています。











行基堂の前から、本堂を見たところ。











本堂の北側には、弁天堂があります。

南から弁天堂を見たところ。

弁天堂は、鎌倉時代に西大寺の叡尊上人が、
鎌倉の江ノ島弁財天から勧進したと伝わります。

堂内には、
江戸時代に造られたお前立の弁財天と、眷属の十六童子が祀られ、
厨子には秘仏の宇賀神像が安置されています。


本堂から北へ向けて進みながら、本堂をふり返ったところ。

左の小さな社は、弁天堂です。









本堂から北へ向け進んで行くと、本坊があり、
本坊には、60畳ほどの広さのお写経道場があります。










喜光寺を出て、南東から南大門、本堂を見たところ。











喜光寺から北へ向かうと、菅原天満宮があります。











菅原天満宮の鳥居と、その向こうに表門を南から見たところ。











表門の横にあった菅原天満宮 略記です。
























表門を入ると、正面に拝殿があり、
その奥に祝詞殿、本殿と並んでいます。










表門を入って、左手には、手水屋や、土蔵があります。











手水屋の反対側、表門から拝殿へ向かう途中、右側の臥牛です。











拝殿に向かって右側、拝殿前の臥牛です。











拝殿に向かって左側、拝殿前の臥牛です。

臥牛の向こうに土蔵が見えます。









拝殿の前から、本殿に向け手を合わせます。

祭神は、菅原一系の三神、天穂日命、野見宿禰命、菅原道真です。

天穂日命は、天照大神の御子で、菅原家の始祖です。

野見宿禰命は、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命が崩御された時、
古来の悪習だった殉死を止め、代わりに埴輪を埋めるべきと建言し、
土師氏の姓を賜りました。

その後、土師氏は、大喪の事を掌っていましたが、
その子孫がこの土地の名、菅原に改姓を願い出て勅許されました。

菅原道真は、野見宿禰命の子孫で、
幼少の頃から学問に励み、異例の出世をし、右大臣に上り詰めます。
しかし、藤原氏の謀略で大宰府へ左遷され、大宰府で生涯を閉じました。
道真の誠実な人柄と晩年の不遇は、様々な伝説を生み、
やがて天神様と崇められるようになります。

拝殿の西側、拝殿横の末社です。

左は、晴彦神社で祭神は度会晴彦翁です。
後継ぎの無かった道真の父が、
伊勢神宮外宮の禰宜、度会晴彦を通じて神に祈願し、
道真が生まれたとされます。
そして、度会晴彦は、道真の傅役となった人です。

右は稲荷神社で豊宇気姫です。

豊宇気姫は、穀物の神で、稲荷神と習合化され、
同一視されるようになってます。

南西から本堂を見たところ。

本堂の南西には、石瑞垣に囲われた梅の木があり、
その石瑞垣の中に梅花薫萬春と刻まれた石碑がたってます。








本堂の南東にも、石瑞垣に囲われた梅の木があり、
その石瑞垣の前には、常な里梅(じょうなりうめ)の碑がたってます。

この梅は、一年を通して青い梅がなる常成梅と言う種類で、
菅原の里の里の文字が使用されているようです。







菅原天満宮を出て、南西から菅原天満宮を見たところ。

右に鳥居、表門、左に本堂、土蔵が見えます。









南東から、菅原天満宮の鳥居、表門を見たところ。











菅原天満宮の前を東に進んで行くと、
菅原天満宮遺跡天神堀があります。

天神堀を南から見たところ。








この天神堀は、菅原道真公の産湯の池と伝わります。











天神堀を北東から見たところ。
















天神堀から北へ、西大寺へ向かいます。

塀の先に見える門は、西大寺の東門です。









西大寺の東門を正面から見たところ。

東門には、真言律宗総本山 勝寳山 西大寺の表札が掛かってます。

西大寺は、称徳天皇の勅願により、常騰を開基として、
天平神護元年(765)に創建されます。
しかし、平安遷都が行われた後は、旧都の寺として顧みられなくなり、
災害にもあい衰退します。
その荒廃した西大寺は、鎌倉時代半ばに叡尊上人によって、
密、律研修の根本道場として、再興されます。
その後、室町時代、文亀2年(1502)の兵火で多くの堂塔を失いますが、
江戸時代、幕府の寄進によって諸堂が再建されました。

東門を入って、西を見たところ。

右に見える建物は、四王堂です。









その四王堂の手前にあった西大寺境内伽藍案内図です。



























四王堂の南には、放生池があります。











その放生池畔にたつ玄武の画像です。

玄武は、北方を守る神獣で、亀の甲羅に蛇が絡む姿をしています。

西大寺は、平城京の北西に位置し、
平城遷都1300年を記念し、玄武の画像が設置されています。











そして、放生池畔に、百萬小柳の由来がたってます。

観世流謡曲に、世阿彌元清作の百萬と題する曲があります。

百萬という女曲舞が、愛児を連れ西大寺念仏会に詣でた際に、
我が子を見失います。そして、百萬は、仏の加護を念じ、笹を持って舞い、
八方、我が子を捜して廻り、狂女となります。
後に、都の者が、奈良の西大寺で拾った少年を伴い嵯峨の清凉寺に
赴いた際、狂女となった百萬が現れ、我が子に合わせ狂気を止め給えと
舞い踊ります。
これを見た少年は、母親と気づき、再会を果たす事になります。

その百萬が我が子を見失ったのが、この池畔の古柳の附近と言う事のようです。

放生池です。

古柳が、この放生池の池畔にあるはずですが、古柳を見損ねました。









四王堂です。

西大寺創建の端緒となった称徳天皇誓願の四天王を祀る仏堂です。

江戸時代、延宝2年(1674)に再建されたもので、
寄棟造りで、身舎の四周に裳階を巡らしています。

また、四王堂周囲の版築基壇は、
奈良時代創建当初の規模を伝えています。



四王堂を、南正面から見たところ。

鎌倉時代の正安2年(1289)亀山上皇院宣で、
鳥羽上皇御願寺だった京都白河十一面堂院の本尊、十一面観音立像が
客仏本尊として当堂へ移されてからは、観音堂とも称されます。







四王堂の基壇の上から、南側の放生池を見たところ。











四王堂を南西から見たところ。











四王堂から西へ、本堂へ向け進むと、左手に華蔵院があります。

もと四之室と称し、文亀2年(1502)の焼失の後、
永禄年中(1588-69)に再建されました。

本尊は不動明王です。






更に西へ進むと、本堂の手前、右手に、護摩堂(不動堂)があります。

寛永年間の末年(1643)頃に建立された寄棟造りの方三間堂です。

もともと愛染堂南辺にあったものを
昭和54年に現在地へ移設されました。

生駒の宝山寺を中興開山した湛海律師作の不動明王が
祀られています。



その護摩堂(不動堂)の西側に、本堂があります。











本堂を南東から見たところ。

鎌倉期に建てられた光明真言堂の後身で、
江戸中期の寛政年間に完成したものです。

桁行七間、梁間五間、前後面に向拝三間が付く
本瓦葺の寄棟造りです。





本堂の南には、東塔跡の基壇があります。

基壇の向こう、南側に鐘楼が見えます。

基壇の前にあった説明によると、
西大寺東西両塔は、当初、八角七重搭として企図され、
八角の基壇が造られましたが、
奈良時代の緊縮財政の中で縮小され、四角五重搭として
建設されました。

しかし、西塔は、平安時代に雷火で焼失します。

東塔跡の基壇を東側から見たところ。

鎌倉時代、叡尊は、東塔を中心とする宝塔院という区画を
西大寺復興伽藍の中核としました。
その東塔も文亀2年(1502)に焼亡し、その後は再建されないまま
東塔跡のみが残っています。

現在の東塔跡の四角の基壇は、創建当初のもので、
その周囲の八角の敷石は、最初に造られた八角の基壇跡です。



東塔跡の基壇を南から見たところ。

その基壇の向こう、北側に本堂が見えます。









その基壇の前から、南東の一角にある護国院を見たところ。

護国院は、弘安6年(1283)に建立されましたが、
文亀2年(1502)の炎上後、天正元年(1573)に坊舎が再建されました。
客殿持仏堂は享保年間(1716-35)の建築で、本尊は不動明王です。







そして、護国院の西側、東塔跡の基壇からまっすぐ南へ進むと
南門があります。










その南門を、一旦、出て、南門をふり返ったところ。

南門を通して、東塔跡の基壇や、その向こうに、本堂が見えます。






境内に戻ります。


東塔跡の基壇の南西には、鐘楼があります。

もと摂津の多田院にあった鐘楼が、
幕末もしくは明治の初めに移築されたものです。

多田院は、清和源氏の発祥の地にあり、
鎌倉時代に西大寺の忍性によって再興され、
西大寺の末寺となりました。
そして、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、
現在は源氏五公を祀る多田神社となってます。

鐘楼の向こう、西に見える建物は、光明殿です。

光明殿は、昭和53年に落成した信徒会館で、大茶盛式に使用されます。
大茶盛式は、延応元年(1239)、叡尊上人が西大寺復興のお礼に
八幡神社へ献茶した余服を民衆救済の一貫として振る舞った事に由来する茶儀です。
大茶盛式は八百年近く連綿と受け継がれて来ています。

鐘楼を北西から見たところ。
















東塔跡の基壇の西、光明殿の北に、平和観音像がたってます。
















平和観音像です。

そして、その平和観音像の右側奥には、西塔跡の石標が建ってます。









東塔跡の基壇の西に位置する愛染堂を正面、東側から見たところ。

愛染堂は、叡尊上人の住坊であった西室の跡地に、
江戸時代の明和4年(1767)に
京都の近衛家邸宅の御殿の寄進を受け移築建立されました。

愛染堂は、桟瓦葺向拝付きの入母屋造で、
寝殿造風の外観の公家邸宅建築を仏堂としたユニークな仏堂です。




愛染堂の北側には、本坊があります。

本坊の門の右側に、真言律宗宗務所の表札が、
左側には、総本山西大寺本坊の表札が掛かってます。








そして、本坊の東に位置する本堂です。











本堂です。

堂内は、東西南の三方の外陣と、内陣を仕切り、
内陣北の中央に須弥壇、東西に脇壇が設けられています。
そして、本尊として釈迦如来立像が祀られています。







西大寺を出て北へ、次は秋篠寺を目指します。

その途中、近鉄奈良線を北に渡って行くと、十五所神社があります。

鳥居の扁額や、鳥居横の石標に、十五所神社と書かれています。












鳥居をくぐって参道を進んで行くと、正面に社殿が見えます。

十五所神社は、西大寺の鎮守神として、
近隣にあった小さな神社をまとめたもので、
かつては、多数の社が並んでいたとされますが、
現在は、社殿と三つの末社があるのみです。

名前は十五所ですが、合祀された祭神は以下の十六神です。

 八幡大神、三十川大神、布留大神、大原大神、熊野大神、
 稲荷大神、松尾大神、別雷大神、天照大神、春日大神、
 加茂大神、住吉大神、白山大神、廣田大神、小森大神、生野大神

社殿の西側にある末社です。

左側が恵比寿大国神社で、右側が弁財天神社です。









社殿の東側には、清姫稲荷大神の扁額が掛かった赤い鳥居と社があります。
















次は、十五所神社から、秋篠寺へ向かいます。

秋篠寺の南門へ続く参道を進みます。

正面に秋篠寺の南門が見えます。












秋篠寺の南門です。











その秋篠寺の南門の手前、左側に八所御霊神社があります。

秋篠寺の鎮守神としての歴史を持ち、
奈良時代の宝亀11年(780)に創建され、
平安時代初頭の貞観年間に御霊神社から八所御霊神社に
名称変更され、平安時代の保延元年(1135)に焼失後再建されたと
伝わります。

祭神は、八所御霊として非業の死、不慮の死を遂げられ、
平安時代にその怨霊が恐れられた崇道天応、伊予親王、藤原夫人、
橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神です。



秋篠寺の南門を正面、南から見たところ。











その南門の横にあった歴史の道案内図です。
























南門を入り、樹林におおわれた境内の中を、本堂へ向け進みます。











南門をふり返って見たところ。











境内の中の道を進みます。











本堂の南西に位置する大元堂です。











本堂です。

寺伝によると、宝亀7年(776)に光仁天皇の勅願により、
善珠大徳僧正によって創建されました。

しかし、保延元年(1135)に戦火により伽藍建築のほとんどを失い、
鎌倉時代に現在の本堂などが復興されました。

その後、明治になり、廃仏毀釈によって、
本堂一帯を除き寺域の大半が失われ、現在に至ります。


本堂と、本堂の前の庭です。











本堂の前の庭の南東の隅にあった藤棚です。











本堂を南東から見たところ。











本堂の前の庭から西側、大元堂を見たところ。











本堂の東に位置する鐘楼です。











鐘楼です。
















本堂の北東にあった小さな祠です。











本堂を正面、南から見たところ。

本堂内部には、本尊である薬師如来像や、
芸能に関わる天女として信仰を集めている伎芸天像が
祀られています。

伎芸天像は、日本で唯一現存する像で、
頭部は天平時代、胴体は鎌倉時代のものです。




本堂の南西に位置する大元堂です。











大元堂です。

質素な本堂に比して、大元堂は唐破風や透かし彫りなどの
装飾性の高い意匠が用いられた建築になってます。








大元堂。

内部には、六本の腕を持ち、筋骨隆々とした体に蛇がからみつき、
激しい怒りの表情を見せる大元帥明王像が祀られています。








本堂の西に位置する開山堂です。

開山堂には、開祖の善珠大徳僧正の図像が祀られています。









本堂から、東門へ向かいます。

その途中、十三社があります。

長屋根の下に、十三の小さな社が並んでいます。







その十三社の北側に、忠魂碑があり、砲弾が祀られています。











忠魂碑から東門へ向け進んで行く途中、右手に香水閣があります。

内部には、香水井と呼ばれる井戸があり、
この井戸の水は、かつて、宮中で真言宗が行ってきた儀式で
用いられた霊水です。







香水閣の北側を東に進むと、東門があります。











東門を出て、東門の横にあった歴史の道 観光案内図です。































次は、この歴史の道に沿って、神功皇后陵、成務天皇陵、日葉酢媛命陵を周ります。

最初に神功皇后陵へ向かいます。

その途中、100円の文字が入った自販機を見つけました。
広島では見かけないチェリオの自販機で100円と安い!
ミックスフルーツオレを買いました。美味い!

チェリオの自販機は、関西エリア、東海エリア、沖縄本島にしか設置されて無いようです。
この美味さ、早く全国に広まって欲しいと思いました。







前方に、神功皇后陵の小山が横たわってます。











神功皇后陵に沿った道を南下します。

神功皇后陵は、全長275mの前方後円墳で、
4世紀末に築造されたと考えられています。








神功皇后陵に沿った道を南下しながら、
左手には周濠の土手が見えます。










その周濠の土手の向こう側を見たいけど、見る事ができません。











そして、土手の上には、神功皇后陵へ侵入できないように
柵が設置されています。










神功皇后陵を過ぎて、神功皇后陵の南端を
ふり返って見たところ。










少し行くと、神功皇后陵の遥拝所へ行く参道が分かれており、
参道を登って行くと遥拝所が見えてきます。










神功皇后陵の遥拝所の前から、遥拝所の鳥居を見たところ。

神功皇后は、仲哀天皇の皇后で、住吉大社の信託により、
朝鮮半島の三韓征伐を指揮し、新羅を降伏させたとされます。








遥拝所の横から、神功皇后陵の周濠の東側を見たところ。











遥拝所の横から、神功皇后陵の周濠の西側を見たところ。











神功皇后陵から更に南下し、
成務天皇陵、日葉酢媛命陵へ向かいます。

成務天皇陵の北端です。
道のように見えるのは、水は干上がってますが、周濠です。







成務天皇陵の北端の辺り、周濠を見たところ。











成務天皇陵を右手に見ながら、南下していきます。

左手には、日葉酢媛命陵が見えてきました。









成務天皇陵に沿った周濠をふり返って見たところ。
右端は、成務天皇陵に沿った道です。










成務天皇陵に沿った道を南下していきます。

右が成務天皇陵で、左が日葉酢媛命陵です。









左側は、日葉酢媛命陵です。











成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道を南下します。

右が成務天皇陵で、左が日葉酢媛命陵です。









右に、成務天皇陵と、周濠が見えます。

そして、その周濠の中に鳥がいます。









アオサギです。











ここにもアオサギです。











成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道を南下します。

道の左側に、日葉酢媛命陵の周濠が見えます。









道の左側に、日葉酢媛命陵の周濠が見えます。











日葉酢媛命陵の周濠です。











歩いてきた道をふり返ったところ。

右側が、日葉酢媛命陵の周濠です。









南下していくと、右手に成務天皇陵の周濠が見えてきました。

そして、成務天皇陵の遥拝所も見えます。









成務天皇陵の遥拝所です。

成務天皇陵の遥拝所は、周濠の手前から遥拝ではなく、
周濠が途切れ、墳丘と陸続きでつながってます。








成務天皇陵の周濠の東畔から西を見たところ。
















その周濠のすぐ南側にも濠があり、
その濠の東畔から西を見たところ。










成務天皇陵の遥拝所を、正面、南側から見たところ。

成務天皇陵は、全長218mの前方後円墳で、
4世紀後半に築造されたと考えられています。

成務天皇は、景行天皇の第四子で、日本武尊の異母弟です。
107歳で没したとされており、本当に実在した人物か疑問があるようです。





成務天皇陵の遥拝所の畔、南東から、周濠の南側の濠を見たところ。











その濠端から、遥拝所を見たところ。











成務天皇陵の南側には、孝謙天皇陵があります。

孝徳天皇(718-770)は、後の称徳天皇で、
西大寺を創建した天皇、女帝です。
また、宇佐八幡宮神託事件で有名な道鏡を
寵愛した天皇でもあります。






成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道から東を見ると、
日葉酢媛命陵と、その遥拝場が見えます。










成務天皇陵の東に位置する日葉酢媛命陵です。











日葉酢媛命陵の南端を、南西から見たところ。











日葉酢媛命陵の遥拝場の横の表札には、
垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狭木之寺間陵とあります。










日葉酢媛命陵の遥拝所を、西から見たところ。

日葉酢媛命陵は、全長207mの前方後円墳で、
築造は4世紀後半と推定されています。








日葉酢媛命陵の遥拝所を、正面、南から見たところ。

日葉酢媛命は、垂仁天皇の皇后で、
その埋葬にあたっては、野見宿祢の進言で、
古墳に人柱として生きた人間を生き埋めにする習慣を取りやめ、
埴輪を埋葬するように変更されたと言われています。






日葉酢媛命陵の遥拝所から西へ、
成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道へ戻りながら、
周濠を見たところ。









日葉酢媛命陵の周濠です。











成務天皇陵と日葉酢媛命陵の間の道を南下し、
近鉄大和西大寺駅へ向かいます。

日葉酢媛命陵の西、成務天皇陵の南に、孝謙天皇陵があります。

孝謙天皇陵の周濠の痕跡が見えないか、探しながら歩きます。






孝謙天皇陵の周濠の痕跡が見えないか、探しながら歩きます。











孝謙天皇陵を過ぎ、南下して、
近鉄大和西大寺駅へ向かう途中にあったショッピングセンターの
narafamilyです。









そして、近鉄大和西大寺駅です。

近鉄で宿泊中のホテルへ帰りました。












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