奈良・京都旅行の二日目は、山の辺の道を、天理から桜井まで歩きました。
■JR奈良駅旧駅舎
朝5時台のJR奈良駅始発の電車に乗る為に、早起きして
JR奈良駅に向かいます。
石灯篭の向こうに見える建物は、昭和9年(1934)に建てられ
平成15年(2003)まで使用されていた旧駅舎です。
屋根の上には相輪が建ち、四隅には風鐸をそなえた寺院風屋根を
持つ和洋折衷建築です。
現在は、奈良市総合観光案内所になってます。
新しい駅舎は、その向こうにあり、桜井線、別称、万葉まほろば線で
天理まで行きました。
■CoFuFun 天理駅前広場コフフン
天理駅で下りると、天理駅前には、CoFuFunと言う広場があります。
CoFuFunは、天理市内に約1600基も点在する古墳をアイコンとして、
古墳を想起する野外ステージや大型遊具、カフェや観光案内などの機能を備え
イベントの開催や観光・ものづくり、農業情報の発信、近隣住民の憩いの場として
活用されています。
そのCoFuFunのすりばちコフンです。
この角度では見えませんが、中央がすり鉢状になってます。
これは、ステージコフンです。
そして、これは、ふわふわコフンです。
ふわふわコフンの中央は、トランポリンになっています。
山の辺の道のてくてくマップがありました。
■天理教教会本部
CoFuFunから天理本通を抜け、山の辺の道へ行く途中に、
天理教教会本部があります。
写真は、天理本通への入口です。
天理本通です。
朝が早いせいと思いますが、人がいません。
天理本通を進んで行くと、
右手に大きな建物と、巨大な煙突がありました。
規模の大きさに何だろうと思い、写真を撮りました。
後で調べてみると、天理教高知大教会信者詰所だとわかりました。
この建物は、そうは見えないけど、古い建物で、風呂を沸かすのに
この煙突が使用されていたとの事です。
天理本通を抜けると、天理教協会本部があります。
天理本通を抜けたところにあった天理教協会本部 神殿周辺案内図です。
天理教協会本部です。
規模の大きさに驚きます。
天理教は、江戸時代、天保9年(1838)に教祖・中山みきが
神の啓示を受け、その教えを人々に伝えたのが始まりです。
現在、日本国内を中心に約1万7千の教会があり、
信者数は200万人を数えます。
天理教協会本部を、正面から見たところ。
天理教信仰の中心は、
親神・天理王命(おやがみ・てんりおうのみこと)によって
人間創造の地点と教えられる聖地「ぢば」です。
正面に見える建物が南礼拝堂、右に東礼拝堂、左に西礼拝堂、
そして、見えませんが、北礼拝堂があり、これらの東西南北の
礼拝堂は、「ぢば」を取り囲むように建てられています。
神殿の中心から南へ、広い真南通りが延びてます。
全国各地の天理教の教会は、
「ぢば」の方角を向いて建てられており、
信者は教会から「ぢば」へ向かって祈ります。
親神様は、人が心を澄まし、仲良く助け合いながら暮らす
「陽気ぐらし」世界を望んで人間と自然界を創られました。
そして、教祖・中山みきの口を通して、その真実を伝え
人間の真の幸福へとつながる確かな道を教えられました。
教祖・中山みきは、寛政10年(1798)に、
大和国山辺郡三味田村の大庄屋、前川家の長女として
生まれました。
13歳で中山家へ嫁ぎ、慈悲深く善行を施すみきは、
近隣の人々から敬愛されます、
そして、41歳の時、神の啓示を受け、
人間と自然界を創造した神様である親神・天理王命が、
みきの体に入り込みました。
その後、迫害を受けながらも、人々の救済に力を注ぎ、
天理教の教えは日本各地へ伝わりました。
明治20年(1887)、90歳で親神様の思召により、
静かに現世での姿を隠します。
教祖は、お隠れになっただけで、今も存命であり、
世界中の人々が仲良く助け合って暮らす
「陽気ぐらし」世界の実現に働かれています。
■石上神宮(いそのかみじんぐう)
天理教協会本部の前を抜け、石上神宮へ向かいます。
石上神宮へ向かう途中にあった説明です。
この辺りには、六歌仙の一人、僧正遍昭が一時住持していた良因寺、別名、石上寺、良峯寺とも呼ばれるお寺が
あったようです。
そして、石上寺にまつわる歌があります。
これも六歌仙の一人、美女の代名詞になっている小野小町が、石上寺を詣でた際に、日が暮れて、
近くに住む遍昭に宿を求めます。
いそのかみ 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われにかさなむ
それに対する遍昭の返歌が
世をそむく 苔の衣は ただ一重 かさねばうとし いざふたりねむ
世を捨てた私が持っている苔の衣はひとつしかありません。
しかし貸さないのも薄情で、いっその事、一緒に寝ましょうと返しました。
石上神宮へ向け進んで行くと、
布留川(ふるかわ)と言う川を渡りながら下流を見ると、
川の上にも天理教関係の建物とすぐわかる
建物が建っています。
これは、天理教おやさとやかた東右第4棟です。
「おやさとやかた」は、「ぢば」を取り囲む
東西南北の八町四方(一辺842m)の線上に
68棟を建て巡らす構想の下、建設が進められています。
これは、八町四方の内に天理教が目指す陽気ぐらしの手本と
して具現化しようと言う物です。
現在、26棟が竣工し、教義研究、教育施設、信者詰所などの目的に
使用されてます。
また、布留川について、
上流からひとふりの剣が美しい水の流れとともに泳ぐように流れてき、
剣に触れる物を、次から次へと二つに切って行きました。
その時、川の下流では、一人の娘が洗濯をしていました。
娘がふと顔を上げると、川上から岩や木を切りながら剣が流れてくるのが見えました。
とっさに剣を避けた時、洗いすすがれた白い布の中にするどい剣が留まっているではありませんか。
娘は、これはただごとではないと思い、早速、この見事な剣を石上神宮へ奉納しました。
そして、剣が布に留まった川を布留川、地名は布留と呼ばれてます。
石上神宮の駐車場の案内が出て来たので、もうすぐです。
石上神宮の社号標があり、その先に、大鳥居があります。
石上神宮の社号標、及び、大鳥居は、
昭和3年11月に行われた
昭和天皇の即位礼、大甞祭を奉祝して建てられました。
また、大鳥居は、高さ7m、最上部の笠木の長さは10m、
柱の直径は76cmあり、
台湾の檜が使用された明神造りです。
鳥居を抜けて、進んで行きます。
前方に、楼門が見えます。
左側に注連縄がまかれた杉の大木があります。
境内には、万葉集に「石上布留の神杉…」と詠われる神杉が
古くは数多く繁茂していました。
現在も樹齢300年を越える杉が数本あり、神杉と呼ばれてます。
朝早い時間の為か、人影も少なく深閑とした雰囲気が漂ってます。
その深閑とした静寂の中に、突然、鶏の鳴き声が聞こえてきます。
社務所です。
鶏の姿が見えます。
休憩所です。
古くは、拝殿前にあった舞殿で、
昭和15年(1940)に現在の場所へ
移築されました。
今の屋根は、銅板葺に変更されてます。
休憩所の周りにも、鶏がいます。
その鶏たちです。
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・
天然記念物)、烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)、採卵用種の
レグホン、ミノルカなどがいます。
40年程前に奉納され、以降の奉納や自然増減はありますが、
一定数の鶏が棲んでいます。
鶏は、「古事記」、「日本書紀」に登場し、暁に時を告げる鳥として
神聖視されており、大切にされています。
一番大きな声で鳴いていた鶏です。
これが、長鳴鶏(ながなきどり)の一種の烏骨鶏のようです。
休憩所の近くには、牛の像がありました。
その牛の像です。
この牛の像は、石上神宮の縁起とは直接関係無いですが、
信者の方が奉納をされた物のようです。
廻廊と楼門です。
現在の回廊は、昭和7年に建てられた物ですが、
元亀元年(1570)に修復すと記録が残っており、
古くから廻廊が設けられていた事がわかってます。
手水所です。
手水鉢の前面に布留社と彫られてます。
楼門です。
石上神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として
古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿、病気平癒、除災招福、百時成就の
守護神として信仰されてきました。
御祭神は、石上大神(いそのかみおおかみ)で、第十代崇神天皇7年に
現地、石上布留の高庭に祀られました。
古典には、石上神宮、石上振神宮、石上坐布留御魂神社、等、記され、
石上社、布留社とも呼ばれてました。
楼門です。
棟木に残る墨書によると、鎌倉時代末期、後醍醐天皇の文保2年(1318)に
建立された事が知られ、重要文化材に指定されています。
往古は鐘楼門として上層に鐘を吊るしていましたが、
明治初年の神仏分離令で取り外され売却されました。
楼門を入ると正面に拝殿があります。
拝殿は、白河天皇が石上神宮の鎮魂祭の為に
永保元年(1081)に宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進された物と
伝えられています。
現存する拝殿としては、最古の物で国宝に指定されています。
拝殿の奥は禁足地となっており、
御神体である神剣「師霊(ふつのみたま)」が
禁足地の地中深くに祀られていると言う伝承があった為、
明治7年に当時の大宮司 菅政友が官許を得て
調査をしたところ、多くの玉類、剣、鉾などが出土すると共に、
神剣「師霊」が顕現され、伝承が正しかった事が証明されました。
神剣「師霊」を奉安する為に、明治43年から大正2年にかけて
本殿が建立されました。
ふり返って、楼門を見たところ。
廻廊の内側から、楼門と回廊を見たところ。
摂社 天神社です。
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、
皇産霊神(かみむすびのかみ)の
2座をお祀りしています。
天神社と言えば、御祭神は菅原道真公を思い浮かべる人も
多いと思いますが、ここはそうではないようです。
先述の牛の像は、菅原道真公が祀られた天神社を思い
奉納された物かもしれません。
摂社 出雲建雄神社拝殿(いずもたけおじんじゃはいでん)です。
元々は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、
大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113-1118)に
創建された大寺院でしたが、
神仏分離令により明治9年に廃絶しました。
その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、
住吉社の本殿が放火により焼失し、
拝殿だけが荒廃したまま残されていたので
出雲建雄神社の拝殿として移築されたとの事です。
保延3年(1137)に建立され、
13、14世紀に2回の改築で現在の構造・形式になったと
考えられており、国宝です。
摂社 出雲建雄神社です。
延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)で
ある出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇の御代に御鎮座
された由が見えます。
石灯篭の向こうは、鏡池です。
鏡池は、江戸時代の絵図から、石上池と呼ばれていた事が
知られています。
また、この池には、奈良県の天然記念物に指定されている
ワタカと言う魚が生息しています。
ワタカは日本特産の鯉科の淡水産硬骨魚で、
体は細長くて、ひらたく、頭は小さく眼は大きく、
体色は背部が緑青色以外は銀白色です。
別名を馬魚(ばぎょ)と言い、その名前の由来は以下です。
南北朝時代、後醍醐天皇が都を落ち延び吉野へ向かう途中、
内山永久寺へ立ち寄ります。
追っ手の軍馬の嘶きに応じて、天皇の御乗馬が嘶こうとした為、
追っ手に気づかれるのを恐れた従者が馬の首を斬り、本堂前の池に投げ入れました。
それ以降、本堂池に草を食べる魚が棲みつきます。
人々は、これは斬られた馬の首が魚になったと考え、その魚を馬魚と呼ぶようになったそうです。
休憩所の屋根裏に掛けられた説明です。
石上神宮の説明です。
この説明書きは、柿本人麻呂によって読まれた万葉集の歌で始まっています。
未通女らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは
この歌は、巫女達が神を迎えようと袖を振る、布留山(石上神宮)の瑞垣のように、長い間、あなたの事を思っていました
と言うような意味です。
石上神宮の境内図も掛かっていました。
石上神宮を起点とした時の山の辺の道の
ウォークルートです。
石上神宮を出て、山の辺の道を南に進みます。
石上神宮を出て、すぐのところに布留口池があり、
その池のほとりにあった歌碑です。
さとはあれて 人はふりにし やどなれや 庭もまがきも 秋ののらなる
里は荒れ果て、住んでいる人(母)も年老いた宿だからでしょうか、
庭も垣根も秋の野良のようになっています、と言うような意味です。
古今和歌集に載っている僧正遍昭の歌です。
■内山永久寺跡
石上神宮を出て、山の辺の道を南下して行くと、
内山永久寺跡があります。
内山永久寺は、平安時代後期、
永久2年(1114)の鳥羽天皇の勅願により、
興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、
往時は壮麗な大伽藍を誇っていました。
しかし、明治元年に発布された神仏分離令に伴う
廃仏毀釈の波の中で明治9年に廃絶しました。
写真は、境内にあった本堂池です。
本堂池の北東角にあった内山永久寺跡の説明と
内山永久寺之図です。
内山永久寺跡の説明です。
内山永久寺之図です。
上記の内山永久寺之図に載っている後醍醐帝萱御所旧跡です。
今は、後醍醐帝 萱御所跡と書かれた石碑が建っています。
後醍醐帝 萱御所跡と書かれた石碑です。
延元元年/建武3年(1336)、後醍醐天皇(第96代天皇、南朝初代天皇)は
足利尊氏によって幽閉されていましたが抜け出し吉野山で南朝を樹立します。
その後醍醐天皇が吉野山へ向かう途中、一晩、身を寄せたのが内山永久寺です。
一晩、身を寄せた事が、萱御所と呼ばれる由縁です。
また、一晩、身を寄せた時、
追っ手の軍馬の嘶きに応じて天皇の御乗馬が嘶こうとした為、
追っ手に気づかれるのを恐れた従者が馬の首を斬り、
本堂前の池に投げ入れました。
その池が、先ほどの本堂池です。
そして、それ以降、本堂池に草を食べる魚が棲みつきます。
人々は、これは斬られた馬の首が魚になったと考え、
その魚を馬魚と呼ぶようになったそうです。
この馬魚が、奈良県の天然記念物に指定されている
ワタカと言う魚です。
写真は本堂池に咲いていた黄菖蒲です。
内山永久寺跡にあった展望台です。
廃仏毀釈の嵐にのみ込まれた幻の大寺、西の日光と称される内山永久寺の説明です。
東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ寺領を有し、そして、西の日光とも称される程の伽藍の壮麗さを誇った大寺が、
神仏分離令が出たとは言え寺社の努力で存続している寺社も多い中で、ほぼ完全に消えてしまったのは、
寺社の中心にいた勤王思想を持った僧侶の影響で、積極的に廃寺が進められたと考えられています。
廃仏毀釈で壮麗を極めた堂宇や什宝は、ことごとく破壊と略奪の対象となり、国宝級の仏像や仏画、経典などは
国内外へ散逸したと言われてます。
難を逃れた建物として、内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿が、現在は石上神宮へ移築され、摂社 出雲建雄神社拝殿
として残っています。
展望台の上から西を見たところ。
木の陰になって見えませんが、本堂池が、すぐそこにあります。
北を見たところ。
今はビニールハウスが建ち農地になっていますが、
この辺りには本堂を含めた伽藍が広がっていたのだと
思います。
かつて境内だったと思われる農地の間を抜けて行きます。
木立のトンネルを抜けて、次へ向かいます。
■夜都伎神社(やとぎじんじゃ)
次は、夜都伎神社へ向かいます。
石畳の雰囲気のある道を進みます。
山の辺の道を進みながら、南西を見たところ。
正面に見える山は、二上山です。
山の辺の道の途中の景色です。
途中に見たお地蔵様です。
赤い鳥居が見えます。
夜都伎神社の鳥居です。
夜都伎神社の手前に、
綿の種100円の袋が入った竹箕が
ありました。
綿の種100円の袋が入った竹箕です。
販売されているのはH.A.M.A.木綿庵(ゆうあん)さんです。
こころが閉じこもりがちな人たちのための
「居場所づくり」の場所として活動をされてます。
東を見ると、夜都伎神社の石鳥居が見えます。
夜都伎神社の説明です。
夜都伎神社は、天理市乙木町にあります。
元々、乙木には、夜都伎神社と春日神社の二社がありましたが、夜都伎神社の社地と、竹之内の三間塚池を交換し、
春日神社一社にし、社名のみを変えたのが、現在の夜都伎神社です。
昔から奈良
春日大社
と縁が深く、明治維新までは、御神饌として蓮を献供し、春日大社からは若宮社殿と鳥居を
下げられるのが例となっていたようです。
石鳥居です。
石鳥居をくぐり、階段を登ります。
右手に拝殿が見えてきます。
左は社務所です。
その拝殿です。
屋根は、茅葺で珍しい建築様式となってます。
拝殿前の阿形の狛犬です。
吽形の狛犬です。
拝殿の裏に回って、本殿を見たところ。
御祭神は、
春日大社
と同じく、以下の春日四神が祀られてます。
春日四神
・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
・経津主命(ふつぬしのみこと)
・天児屋根命(あまのこやねのみこと)
・比売神(ひめがみ)
現在の本殿は、明治39年(1906)に改築された物で、
春日造り檜皮葺の社殿となっています。
本殿に向かって左は、末社 琴平神社です。
拝殿横の末社です。
鬼子母神が祀られています。
■竹之内環濠集落
夜都伎神社を出て、乙木から竹之内環濠集落へ向かいます。
乙木の集落の立派な門構えの家です。
この家も屋根付きの塀に大きな門が見えています。
この家にも、長屋門と言うのでしょうか、大きな門があります。
山の辺の道沿いで見た果実です。
何の実?
竹之内環濠集落へ向かう途中の西側の景色です。
竹之内環濠集落へ着きました。
そこにあった竹之内環濠集落の説明です。
竹之内環濠集落の環濠です。
現在残っている環濠は完全ではなく、
集落の西側に一部が残ってます。
環濠は、戦国の動乱の中、
外敵から集落を守る為に築かれました。
また、防御施設だけでなく、
用排水にも利用された水利施設の役目も
兼ねていたと考えられてます。
奈良盆地には、室町時代以降、環濠集落が出現しました。
多くの環濠集落は、盆地内の低地に営まれてますが、
竹之内は、環濠集落としては最も高い標高100m前後の
見晴らしの良い傾斜地にあります。
環濠越しに、奈良盆地を眺めたところ。
■萱生環濠集落(かようかんごうしゅうらく)
竹之内環濠集落を出て、南へ進んで行きます。
ビニールハウス横の道です。
山の辺の道を南下しながら、西の景色を見たところ。
花が咲いてました。
何ていう花だろう?
山の辺の道の脇の石垣です。
溝が彫られた石が使われています。
山の辺の道の地図です。
大和古墳群の説明です。
この辺りには多くの古墳があるようです。
東側の景色を見たところ。
途中、見かけたお地蔵さんです。
そのお地蔵さんの説明です。
船渡地蔵、または、ばっくり地蔵と
呼ばれているようです。
背の高い蔵や、屋根付きの門がある屋敷が見えてきました。
萱生環濠集落です。
萱生環濠集落は、南に隣接する西山塚古墳の周濠を
環濠として利用し環濠集落としています。
環濠です。
環濠です。
西山塚古墳の説明です。
その向こうに西山塚古墳が見えます。
西山塚古墳の説明です。
西山塚古墳です。
北東から見たところ。
西山塚古墳です。
東から見たところ。
西山塚古墳です。
南東から見たところ。
西山塚古墳です。
南西から見たところ。
集落の外れにあった石灯篭です。
結局、萱生環濠集落の環濠は、
西側は西山塚古墳の周濠が利用されれたとして、
南側、東側、北側と集落を囲む環濠は
どこにあったのか釈然としません。
■念仏寺
萱生環濠集落を出て、次は念仏寺へ向かいます。
集落を出て、すぐ東側を見ると、
こんもりとした盛り上がりがあります。
手白香皇女 衾田陵(たしらかひめみこふすまだりょう)です。
手白香皇女は、継体天皇の皇后で、欽明天皇の母に当たります。
手白香皇女 衾田陵です。
全長約234mの前方後円墳です。
写真は、前方後円墳の後円部です。
左側、後円部から、右側、前方部にかけて見たところ。
こっちは、前方部です。
衾田陵は周辺部の調査結果から
4世紀前半の築造と推定されており、
一方で、手白香皇女は6世紀の人物であり、
手白香皇女を被葬者とするには大きな開きがあります。
萱生の隣の集落の中心にあった五社神社です。
五社とありますが、実際には春日の四柱が祀られてます。
春日の四柱
・武甕槌命(たけみかづちのみこと)
・経津主命(ふつぬしのみこと)
・天児屋根命(あまのこやねのみこと)
・比売神(ひめがみ)
進んで行くと、広い範囲に広がる墓地があります。
奈良盆地最大級の郷墓と言う事です。
写真の小山の上には、法界と刻まれた台座の上に仏像が
据えられてます。
その向こうが念仏寺です。
念仏寺の山門です。
念仏寺は、創建年代は不詳ですが、行基により開基され、
今は廃寺となった真言宗 中山寺の一坊であったと
伝えられてます。
訪問時は、本堂の改修工事中でした。
山門から覗いて見たところ。
庭には、十三重石塔があります。
右は鐘楼です。
念仏寺のすぐ南東横には、中山大塚古墳があります。
中山大塚古墳は、前方後円墳で、写真は、その後円部です。
前方部を南に向けてます。
中山大塚古墳に沿った道を進んで行くと、公園があり、
その先に注連縄が結ばれた石があります。
そして、その奥に、二つの社があります。
写真右端の赤い社が、大和神社 御旅所坐神社で、
写真中央の社が、歯定神社です。
御旅所坐神社を出て、進んで行くと、
道端に石仏が並んでいました。
中山大塚古墳を南から見たところ。
そして、すぐのところへ柿本人麻呂の万葉歌碑があります。
衾道を 引手の山に 妹を置きて
山路を行けば 生けりともなし
ふすまじを ひきてのやまに いもをおきて
やまじをいけば いけりともなし
引手の山(龍王山)に妻の亡骸を葬って山路を帰ってくると
悲しくて生きた心地もしない
衾道とは、先ほど通って来た衾田陵がある衾田へと続く道の事。
貴族は、衾(白い布)で棺を覆い、引手の山へ向かった葬送の道を、
いつのころからか、衾道と呼ぶようになったと言われてます。
その歌碑の近くに咲いていたシロツメグサです。
次は長岳寺へ向かいます。
その途中に見た引手の山、龍王山です。
■長岳寺
長岳寺への入口です。
前方に大門が見えます。
そして、両側の木と木の間を注連縄が渡されてます。
その注連縄です。
大門です。
別名を肘切り門と言います。
昔、尻掛則長と言う刀鍛冶の名人がいました。
長岳寺のお坊さんも、作って欲しいと頼みました。
ところが、音沙汰も無い事から、お坊さんはしびれを切らして、
則長の仕事場へ様子を見に行ったところ、炭火ではなく
火力の弱いもみ殻の火で刀が打たれているのを見て、
これでは良い刀ができるわけがないと思い、
がっかりして帰って行きました。
ある日、則長が完成した刀を持って寺へやって来ました。
お坊さんは、どうせ大した刀ではないやろと、
ろくに見もせずに、刀を返してしまいました。
怒った則長は、刀が切れないかどうか、ご覧に入れましょうと
門の屋根を支える肘木を切り落としてしまいました。
よって、肘切り門と呼ばれるようになりました。
この大門は、寛永17年(1783)に再建された物です。
大門を抜け進んで行きます。
両側をつつじの木に挟まれた道を進みます。
平戸つつじと言う言う品種で、4月下旬から5月上旬が見頃と言う事です。
今年の見頃は、過ぎてしまったようです。
更に道は続きます。
左側の塀の中には、四十八ヶ坊あった塔中の内、
唯一残った旧地蔵院があります。
受付の前にあった長岳寺の説明です。
天長元年(824)に
淳和天皇の勅願により
弘法大師が開基したと
伝わります。
進んで行くと鐘楼門があります。
鐘楼門です。
日本最古の鐘楼門で、かつ、
弘法大師創建当初の唯一の建物として、重要文化財に指定されてます。
上層に鐘を吊った遺構が残ってます。
鐘楼門をくぐり、ふり返って見たところ。
鐘楼門を入り右手に、放生池があります。
放生池には、カキツバタ、キショウブ、オオデマリの花が
咲いてました。
ちなみに放生池とは、慈悲行としての不殺放生に由来し
捕獲した魚介を購い、生かし放つ池を称します。
白い花がオオデマリ、青紫の花がカキツバタです。
この花は、カラーです。
鐘楼門をふり返って見たところ。
放生池の反対側に、本堂があります。
本堂は、天明三年(1783)に再建され、
中には重要文化財の阿弥陀三尊、
多聞天や増長天の仏像や寺宝類が安置されています。
本堂と、その手前中央の小さな塔は練塔です。
不道明王が祀られた小さな社があります。
その不動明王像です。
更に進むと拝堂があります。
拝堂です。
この拝堂の奥に大師堂があります。
百度石もありました。
これは弥勒大石棺佛です。
弥勒菩薩は、天界の一つである都卒天で、成道を目指して修業をされており、
56億7千万年後に如来となられ、私達の世界へ下生され、輪廻転生する
私達の魂を救済されます。
この石仏は、古墳の石材を利用し、鎌倉時代に彫られた物です。
放生池に沿って、周ってみます。
キショウブとカキツバタのコントラストが美しいです。
放生池の向こうには、鐘楼門が見えます。
放生池に沿って進んで行くと、鐘堂があります。
大師像です。
弘法大師空海(774-835)は、中国へ渡り、
まだ体系化されて無かった密教を授かり、
体系化して真言宗を開きました。
放生池越しに見た本堂です。
慈悲地蔵尊です。
放生池の周りを一周し、鐘楼門へ戻ってきました。
鐘楼門を出て、受付の横から、旧地蔵院へ寄ります。
旧地蔵院は、寛永7年(1630)に建てられた物で
重要文化財に指定されてます。
そして、四十八ヶ坊あった塔中の内、唯一残った塔中で
今は庫裏として使用されてます。
建物は室町時代の書院造の様式を残しています。
旧地蔵院に上り、普賢延命菩薩が祀られている本堂へ
向かいます。
立派な庭があります。
旧地蔵院の庭です。
旧地蔵院の庭です。
旧地蔵院の襖絵です。
掛け軸です。
旧地蔵院本堂です。
寛永8年(1631)に建てられた物で、重要文化財に指定されてます。
普賢延命菩薩が祀られており、延命殿とも呼ばれています。
普賢延命菩薩です。
普賢とは、「普く賢い(あまねくかしこい)」を意味し、
普賢菩薩はあらゆるところに現れ命ある者を救う
行動力のある菩薩です。
普賢延命菩薩は、その普賢菩薩から派生し、
延命に御利益のある菩薩です。
白象に乗っている姿が一般的で、
写真の普賢延命菩薩もたくさんの白象の上に、
4頭の白象が乗り、普賢延命菩薩を支えています。
旧地蔵院本堂の前から、先ほどの庭園を見たところ。
戻りながら、旧地蔵院の襖絵を見たところ。
旧地蔵院は、現在は庫裏として利用されてます。
古い竈が残ってます。
旧地蔵院を出て、大門へ向けて歩きます。
大門が見えてきました。
その大門を抜け、山の辺の道へ戻ります。
長岳寺を出てすぐ、山の辺の道の脇にあったお地蔵さんです。
■崇神天皇陵
長岳寺を出てしばらく行くと、崇神天皇陵が見えてきます。
長岳寺の辺りをふり返ったところ。
その向こうに見える山は、龍王山です。
崇神天皇陵へ行く前に、国道169号線を挟み
陵の真ん前にある御陵餅本舗と言うお餅屋さんで
お餅を買いました。
崇神天皇陵前にあった周辺図です。
前方に、崇神天皇陵と遥拝所に上る階段が見えます。
崇神天皇陵の遥拝所に向け歩いて行きます。
崇神天皇陵の正式な陵名は、
山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)
と言います。
また、別名として、行燈山古墳とも言います。
崇神天皇陵の遥拝所に上る階段と、周壕の土手です。
崇神天皇陵の遥拝所です。
崇神天皇陵は、全長242mの前方後円墳で
4世紀後半の築造と見られています。
見事な陵墓は、相当な権力を持っていたと
考えられています。
崇神天皇は、第10代天皇で大和政権の
初代大王と言われる人物です。
崇神天皇の父は開化天皇で、
崇神天皇の第3皇子は11代天皇の垂仁天皇です。
崇神天皇陵の遥拝所から、北西を見ると、
こんもりとした小山があります。
これは、陪塚い号です。
アンド山古墳とも呼ばれ、全長120mあります。
陪塚とは、大型の古墳に近接する小規模古墳で、
その大型古墳の埋葬者の死に従って葬られた
近親、従臣の墳墓を指します。
但し、必ずしも殉葬者だけでなく、
大型古墳の埋葬者の副葬品を埋納する為に
築造されたケースもあるようです。
崇神天皇陵の遥拝所から、西を見ると、
こちらにも小山があります。
これは、陪塚ろ号です。
南行燈山古墳とも呼ばれ、全長103mあります。
右の小山が、陪塚ろ号です。
その向こう左側に、大和天神山古墳があります。
大和天神山古墳は、全長約103mの前方後円墳で、
長さ6.1mの竪穴式石室が見つかってます。
石室内部からは、木棺の一部、内行花文鏡をはじめ
23面の鏡、多量の水銀朱が出土しています。
崇神天皇陵の遥拝所から、崇神天皇陵の周壕を
見たところ。
但し、この周濠は、幕末に柳本藩によって
灌漑利用も兼ねた大改修が行われており、
当初の姿とは異なります。
周濠の中に小島があり、
その小島の周りで甲羅干しをする亀の姿も見えます。
崇神天皇陵の遥拝所から下りて、
周濠の土手下の道を北へ進みながら、
遥拝所をふり返ったところ。
周濠の北西角には、周濠の土手へ登る道があります。
土手の上に上り、崇神天皇陵を見たところ。
前方後円墳の前方部です。
周濠の西側です。
写真右側の土手の中ほどに、遥拝所が見えます。
また、周壕の中には、先ほど見た小島も見えます。
東を向くと、写真中央から右にかけて前方部、
その向こう左に後円部が見えます。
全長:約242m
後円部 径:約158m、 高さ:約31m
前方部 幅:約100m、 高さ:約13.6m
周濠含めた全長:約360m、 最大幅:約230m
周濠西側の土手です。
中央辺りに遥拝所が見えます。
周壕の北側の土手を東に進みながら、
西側土手の遥拝所を見たところ。
前方部と後円部の境の辺りに来ると、
周濠の土手から陵墓へ向け、土手が延びています。
但し、陵墓地への侵入は禁止されてます。
これは傾斜地に作られた古墳に、周濠を施す為に、
周濠を区切り水位を変えているのだと思います。
周濠を区切る土手から、西を見たところ。
周濠を区切る土手から、東を見たところ。
更に東へ進みながら、西を見たところ。
先ほどの、周濠を区切る土手が見えます。
東を見たところ。
西を見たところ。
更に進んで行くと、
さっきと同様に周濠を区切り、
かつ、陵墓地へ繋がる土手があります。
その土手の上から、西を見たところ。
南を見たところ。
この周濠を区切り、かつ、陵墓地へ繋がる土手も、
陵墓地への侵入は禁止されてます。
周壕沿いの道を、道なりに進んで行くと、
道の反対側にも濠があります。
これは、崇神天皇陵の東側に位置する櫛山古墳の濠です。
櫛山古墳の濠です。
濠の向こうは、櫛山古墳です。
櫛山古墳は、全長約155mの双方中円墳です。
双方中円墳とは、円形の主丘の前後両側に
方形の突出部2つが接続する古墳の形式です。
崇神天皇陵と櫛山古墳の間の道を南へ進みながら
崇神天皇陵と周濠を見たところ。
そして、来た道をふり返ったところ。
櫛山古墳と周濠です。
周濠の中の枯れ木の上に乗って甲羅干しする亀です。
崇神天皇陵と周濠です。
崇神天皇陵、すなわち、行燈山古墳の説明がありました。
小高い丘の上に、テーブルとベンチがある休憩所がありました。
先ほど買った御陵餅を食べながら、休憩です。
その御陵餅です。
左から御陵焼き餅の白、よもぎ、そして、田舎おはぎの餡です。
田舎おはぎは、リュックの中でつぶされて、形が崩れてしまいました。
でも、温かくて、柔らかくて、甘~い!
歩き通しで、疲れた体にぴったりです。
景色を見ながら食べる御陵餅は最高でした。
■景行天皇陵
次は景行天皇陵へ向かいます。
道端にあった無人販売所です。
いずれも100円です。
景行天皇陵が見えてきました。
景行天皇陵です。
正式には、山邊道上陵(やまのべのみちのえのみさぎ)と
言います。
また、別の名を、渋谷向山古墳とも言います。
全長約300mの前方後円墳で、
4世紀後半の築造と言う事です。
景行天皇陵、すなわち、渋谷向山古墳の説明がありました。
景行天皇陵と、その周壕です。
景行天皇は、第12代天皇で、垂仁天皇の第3皇子、
そして、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親です。
日本武尊は、兄を殺し、父親に敬遠され、父親の命で
九州の熊襲、東国の蝦夷を討伐した記紀における
伝説上の人物です。
景行天皇陵と、その周壕です。
景行天皇陵と、その周壕です。
景行天皇陵横の道から外れて、畑道を少し登って、
景行天皇陵横を見下ろしたところ。
南西を見たところ。
写真右よりに、薄っすらとですが、
大和三山の耳成山、畝傍山が見えます。
景行天皇陵横の道へ戻って、
景行天皇陵と、その周壕を見たところ。
山の辺の道を進みます。
右端が景行天皇陵です。
山の辺の道には、このような無人販売所がたくさんあります。
いずれも100円です。
景行天皇陵をふり返ったところ。
この後、檜原神社、狭井神社、大神神社、平等寺、金屋の石仏、
阿部文殊院を訪ねました。
山の辺の道2で紹介します。