岐阜城: 11Mar2026,12Mar2026


2日9日から4泊5日で、名古屋城、松本城、犬山城、岐阜城、彦根城と5つのお城を周って来ました。

まず、初日は、 名古屋城 を訪問し、その後、 熱田神宮 を周り、
二日目は、松本市へ移動し、 松本城 を訪問し、
三日目は、愛知県犬山市へ移動し、 犬山城 を訪問しました。

その後、三日目の夕方、岐阜城のある岐阜市へ移動し、四日目に 岐阜城を訪問します。


■犬山から岐阜へ

犬山城を訪問した後は、
名鉄犬山駅から、名鉄岐阜駅へ向かいます。

名鉄犬山駅です。









名鉄犬山駅で、名鉄岐阜行きの
普通列車に乗ります。











40分弱で、名鉄岐阜駅へ到着です。













■JR岐阜駅前

名鉄岐阜駅へ到着後、
まず、JR岐阜駅にある観光案内所へ行って、
岐阜城を含めた観光情報を入手します。

JR岐阜駅の北口です。

JR岐阜駅の北口周辺は、
屋根付きのペデストリアンデッキで
結ばれています。




そのペデストリアンデッキから、
信長ゆめ広場を見下ろしたところ。

中央辺り、信長ゆめ広場の北側には、
黄金の織田信長公の像が建ってます。








その黄金の織田信長公の像です。

マントを羽織り、左手に西洋兜、右手に火縄銃を持っています。

この織田信長公の像は、岐阜市制120周年を記念して
平成21年(2009)に設置されています。












ペデストリアンデッキの上から西を見ると、
左側が岐阜で一番高い岐阜シティタワー43が、
その右に岐阜スカイウィング37が見えます。











JR岐阜駅を後にして、
宿泊予定のホテルへ向かい
チェックインを済まします。












■岐阜シティ・タワー43からの眺め

ホテルへのチェックインを済ませ、
岐阜シティ・タワー43の無料展望室からの景色を眺めに出かけます。

JR岐阜駅の北西に位置する岐阜シティ・タワー43です。

岐阜シティ・タワー43へ向けのびる
ペデストリアンデッキを進みます。











岐阜シティ・タワー43へ到着すると、
43階展望室への直通エレベーターで
展望室へ上がります。















展望室は、東側と西側の二ヵ所にありますが、
まず、東側展望室からの景色です。

東を見たところ。

JR岐阜駅から、上方、東へ高山本線がのび、
JR岐阜駅から右へ弧を描いて、
南へ東海道本線がのびています。





東、少し北よりを見たところ。

左の山は、岐阜城が建つ金華山です。










北東を見たところ。

中央下に見えるビルは、
岐阜スカイウィング37です。

そして、その向こう、中央、右よりに見える山は、
岐阜城が建つ金華山です。

上下、南北に 忠節橋通りが走っています。




その金華山の頂上付近を拡大して見たところ。

頂上に岐阜城が見えます。

右下の白い鉄塔は、NHKの送信塔です。








北東を見たところ。

右下のビルは、岐阜スカイウィング37です。

その向こう、右端の山は、
岐阜城が建つ金華山です。

右端の上下、南北に走っている道は、
忠節橋通りです。




北を見たところ。

右下のビルは、岐阜スカイウィング37です。

中央辺り、右から左、東から西へ
長良川が流れています。

中央右に、上下、南北に
忠節橋通りが走っています。




南東を見たところ。

中央は、国営木曽三川公園の
展望タワー「ツインアーチ138」です。

中央の最高部の高さは、
一宮市(いちの・み・や)にちなみ、
138mあります。





南、少し東より、遠方を見ると、
JR名古屋駅周辺の高層ビルが見えます。











次は西側展望室へ移動し、
西側展望室からの景色です。

西を見たところ。









西、少し北よりを見たところ。

中央辺りに長良川が見えます。










夕陽です。

夕陽の右側に伊吹山が見えます。











■金神社

岐阜シティ・タワー43からの景色を眺めた後は、
JR岐阜駅から北へ伸びる金華橋通りを
北へ進みます。

金華橋通りを北へ進んで行くと、
右手に金公園があります。







その金公園の北側に金(こがね)神社があります。

その金神社の鳥居です。










金神社の鳥居を南側、正面から見たところ。

鳥居は、金(こがね)色をしています。

金神社は、
西暦135年、成務天皇の代に
物部臣賀夫城命が国府をこの地に定め
金大神を祀りました。

この辺り一帯からは、
多数の須恵器の破片が大量に出土しており、
古墳時代の後半に栄えていたと推測されています。

鳥居をくぐり参道を進んで行くと
右手に手水舎があります。











参道の正面に本殿があります。

主祭神は、渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)で、
景行天皇の第六皇女、
伊奈波(いなば)神社の主祭神の
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の
妃です。






本殿に向かって右、東側には、
金祥稲荷神社があります。











その金祥稲荷神社です。












境内にあった「おもかる石」です。

この石の前で願い事を祈念し
石を持ち上げた時、
感じる重さが自分の予想より軽ければ
願い事が叶うと言う事です。







金祥稲荷神社の東側、横から、本殿の裏手に回ると、
鳥居と小さな社があり、
土の盛り上がりがあります。
そして、鳥居の横には、
「史跡 賀夫良城」と書かれた標石が建っています。

ここは、賀夫良(かぶらぎ)城古墳と呼ばれる小円墳で、
金神社の創建者の物部臣賀夫城命の墓所であり、
生前には祭祀を行っていた場所と
考えられています。


その賀夫良城古墳の西側、横には、
金神社の末社が並んでいます。











元の金色の鳥居まで戻り、西へ、
金華橋通りへ出たところ。

境内は、朱色の玉垣で囲われています。










■柳ヶ瀬商店街へ

金神社を出て、金華橋通りを北へ進んで行きます。

進んで行くと、途中、東へ向かうアーケード街があり、
「映画とショッピング」の看板が掲げられています。

それぞれの店の看板には、
「さんひのでまち GIFU YANAGASE」と入ってます」。











その「さんひのでまち GIFU YANAGASE」のアーケード街と交わって、
南北に走る劇場通があります。

劇場通を南を向いて見たところ。

右側の赤いオーニングが見えるビルは、
2024年に閉店した旧岐阜髙島屋です。











劇場通を北に向け進むと、東西に走る柳ケ瀬商店街があります。

その柳ケ瀬商店街を、西から東へ向け、進みます。















柳ケ瀬商店街を東に向け進んで行きます。

柳ケ瀬は、昭和の全盛期には、
美川憲一が歌う「柳ケ瀬ブルース」がヒットし、
岐阜を代表する繁華街として有名になりました。

しかし、平成に入り、郊外型モールに客を奪われ、
大型商業施設の撤退等で衰退が始まっており、
次の時代へ向けて変化が模索されています。










■岐阜での夕食

柳ケ瀬商店街を出た後は、JR岐阜駅へ戻り、
夕食を食べて、ホテルへ戻る事にします。

JR岐阜駅の北口前にある信長ゆめ広場に建つ
ライトアップされた黄金の織田信長公の像を
見たところ。







夕食は、JR岐阜駅横のショップ街ACTIVE Gにある
ERICK SOUTHと言う
南インドカレーのお店に入りました。

そのERICK SOUTH 岐阜アクティブG店です。









注文したチキンビリヤニです。

ちなみにビリヤニは、
インドやバングラディシュ等で食べられる
炊き込みご飯の事です。









一緒に出てきた調味料です。








食べ終えたら、明日の岐阜城訪問に備えて、
早くホテルに帰って寝る事にします。




■岐阜駅北口駅前広場(黄金の織田信長公の像、丸窓電車、等)

翌朝、岐阜城を訪問する為、
岐阜バス1日乗車券、ぎふ金華山ロープウェー、
岐阜城入場券がセットになった
お得な「ぎふ登城きっぷ」を購入しようと、
岐阜バスJR岐阜駅案内所へ出かけます。

ペデストリアンデッキから
JR岐阜駅北口を見たところ。





ペデストリアンデッキから
岐阜駅北口駅前広場の
信長ゆめ広場を見たところ。










信長ゆめ広場の北の端に建つ
黄金の織田信長公の像です。

この織田信長公の像は、岐阜市制120周年を記念して
平成21年(2009)に設置されています。













ペデストリアンデッキから、信長ゆめ広場へ下りて、
広場から黄金の織田信長公の像を見上げたところ。

信長公の像は、マントを羽織り、左手に西洋兜、
右手に火縄銃を持っています。













黄金の織田信長公の像を横から見たところ。

















斜め前から、黄金の織田信長公の像を見たところ。

















織田信長公の像の前から、
JR岐阜駅を見上げたところ。











岐阜駅北口駅前広場の一角には、
丸窓電車モ513の展示があります。

この丸窓電車は、
大正15年(1926)にモ510形として
5両製造されたうちの一つです。







車体は、正面5枚窓の半流線型に、
楕円形の戸袋窓を採用しています。











当初は、
笠松線(現在の名鉄岐阜~笠松間)で運用され、
1967年から始まった岐阜市内線と揖斐線の
直通運用に使用されています。



岐阜バスJR岐阜駅案内所の窓口が開いたので
「ぎふ登城きっぷ」を購入し、
岐阜城へ向けバスに乗って出かけます。




■長良川沿いから見た岐阜城

岐阜城へ登る前に、
まず、長良川の北岸、金華山の対岸を歩き、
岐阜城を眺めてみることにします。

JR岐阜駅前のバス停からバスに乗って長良川を渡り、
長良橋北・鵜飼屋のバス停でおります。

長良橋の北側の袂から、
岐阜城が建つ金華山を見たところ。




金華山の頂上には、岐阜城が見えます。












長良橋の北側の袂、東側には、
長良神明神社があります。











長良神明神社の鳥居をくぐって、
社殿を見たところ。

主祭神は、
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)です。

この土地は、洪水が多く、作物不毛の地で、
人命へ影響する災害が多発し、慶長の始め頃、
現在地へ神明宮が勧進されています。




長良橋の袂から、長良川に沿って、
上流へ、東へ進みながら、
その対岸の金華山を見たところ。

金華山の頂上には、岐阜城が見えます。








東へ向け進みながら、
長良橋をふり返って見たところ。











長良川に沿って、上流へ、東へ向け進みます。

正面に舟伏山(262m)が見え、
その手前に長良川に架かる
鵜飼い大橋が見えます。

川辺には、係留された小舟が並んでいます。






長良川沿いを東へ向かいながら、
対岸の金華山を見たところ。











白いシートに覆われた小舟越しに
金華山を見たところ。

金華山の頂上には、岐阜城が見えます。









長良川に沿って、上流へ、東へ進んで行きます。












青いシートに覆われた小舟越しに
金華山を見たところ。
















長良川と金華山です。

















金華山の頂上には、岐阜城が見えます。

















長良川越しに金華山を見ながら、
東へ進んで行きます。











天守を拡大して見たところ。












長良川に沿って東へ進んで行くと、
土手の向こうに
長良川うかいミュージアム(長良川鵜飼伝承館)が
あります。









長良川うかいミュージアムでは、
1300年以上の伝統を誇る岐阜長良川鵜飼の魅力が
紹介されています。










長良川うかいミュージアムの前の辺りから、
長良川上流方向を見たところ。

前方に、川に入って竹の籠を洗っている人がいます。
何をしているのか尋ねると、
この籠は、鳥屋籠と言って、鵜の寝床になる籠で
その籠を洗っているとの事です。

ちなみに、
鵜匠は、鵜匠家に生まれた男性のみ就ける
世襲になっているとの事です。


金華山を見ながら、東へ進んで行きます。












上流方向には、船伏山が見えます。












金華山です。












金華山の頂上には、岐阜城が見えます。












長良川の下流方向、西を見たところ。

前方に長良橋が見えます。

その長良橋の向こうに見える白いビルは、
都ホテル岐阜長良川で、
その陰に伊吹山が見えます。






右端のビルが、都ホテル岐阜長良川で、
その向こうに伊吹山が見えます。











長良川に沿ってきた道を、
下流へ、西へ引き返します。











引き返しながら、金華山を見たところ。












岐阜城を見たところ。












長良川下流へ、西へ引き返しながら、
長良川を見たところ。

前方には、長良橋が見えます。









岐阜城です。












長良川下流へ、西へ進みながら、
上流方向、東をふり返ったところ。











長良橋の北の袂近くから、
金華山をふり返ったところ。











金華山頂上の岐阜城を見たところ。












長良橋を南へ渡りながら、
長良橋の上から、長良川上流、東を見たところ。











長良橋を南へ渡りながら、
西を見たところ。

左側は、都ホテル岐阜長良川で、
右側のドーム状建築は、長良川国際会議場です。








長良橋を渡りながら、
金華山を見たところ。











金華山頂上に建つ岐阜城です。












長良橋を南へ渡ります。

渡りながら、長良川の南側の土手際に、
鵜飼観覧船が並んでいます。









鵜飼観覧船越しに、金華山を見たところ。

















鵜飼観覧船が並んでいます。

















鵜飼観覧船を見ながら、長良橋を渡ります。

















長良橋を渡りながら、金華山を見たところ。

















岐阜城です。

















長良橋を渡り、南へ進んで行くと、長良川「長良橋と陸閘(りっこう)」の説明板があります。























現在の長良橋は、昭和32年(1957)に完成しましたが、
昭和35年の洪水を契機に大宮陸閘、長良陸閘が設置されています。

陸閘は、橋の取付け道路と、堤防が交差するところの路面は、堤防より低く、
洪水時には扉で締め切って、水の侵入を防ぎ氾濫を防止する為に設置されています。

その陸閘の扉の格納庫が、道路わきに設置されています。


■岐阜公園から、ぎふ金華山ロープウェーの山頂駅へ

岐阜公園から、ぎふ金華山ロープウェーで、
岐阜城へ向かいます。

岐阜公園の北の正門です。









その岐阜公園の北の正門の前には、
「若き日の織田信長像」があります。
















岐阜公園の北の正門から、
公園に入ります。











岐阜公園に入ると、岐阜公園の案内マップがあります。































岐阜公園の中にある
ぎふ金華山ロープウェーの山麓駅へ向かいます。

途中、岐阜城の井戸があります。

この辺り一帯は、戦国時代に斎藤道三や織田信長が、
山頂の城と共に、山麓に建設したとみられる
居住区域に当たる場所で、
この井戸は平成11年の発掘調査で見つかったものを
復元したものです。

発掘調査では、石積みの基礎に
松の角材4本が井桁に組み合わされて敷かれ、
井戸底にサクラとヒノキで作られた桶(おけ)が埋まっており、
当時この桶に水が溜められていたことがうかがえます。

この先に、ぎふ金華山ロープウェーの山麓駅があります。

そして、その奥に赤い三重搭が見えます。















ぎふ金華山ロープウェーの山麓駅です。

















ロープウェーに乗って、山頂駅へ向かいます。

ロープウェーのゴンドラから
西側の景色を見たところ。

中央辺りに岐阜市歴史博物館の
大きな屋根が見えます。

また遠方の山並みの向こうに
伊吹山が見えます。



ロープウェーは、金華山の谷合を
登って行きます。











ぎふ金華山ロープウェーの山頂駅へ
到着しました。

ゴンドラを下りて、ゴンドラの横から
景色を見たところ。

眼下に長良川が見えます。






乗って来たゴンドラです。













■岐阜城 天守へ

ぎふ金華山ロープウェーの山頂駅を出ると、
木立の間から、南、少し東よりの景色が見えます。

中央辺りに木曽川が見えます。
その向こうにツインアーチ138が見えます。

更にその向こうに
JR名古屋駅周辺の高層ビルが見えます。





ぎふ金華山ロープウェーの山頂駅からすぐの所に、
「天下第一の門」と名付けられた冠木門があります。

永禄10年(1567)、稲葉山城を攻め落とした
織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に
本拠を移します。

そして、稲葉山(現在の金華山)の城郭を再建し、
城下町の井ノ口を岐阜と改名し、
楽市楽座を継続して美濃国の繁栄を図ります。

また、信長は「天下布武」の朱印を用い、
岐阜城が天下統一へ踏み出す城となりました。

この冠木門「天下第一の門」は、信長の大志を讃え、偉業を伝える為に建てられています。

その冠木門「天下第一の門」の手前に、
「金華山のチャート」の説明があります。

金華山の大部分は、
チャートと言う硬い岩石からできており、
岐阜城の石垣等に使用されています。
チャートは放散虫と言う珪酸質の硬い殻を持つ
プランクトンが海底に堆積してできた岩石です。
2億年以上前に
赤道付近の南半球でできたチャートが、
プレートの移動によって運ばれたもので、
地層が大きく曲がりくねっているのは、
プレートによって運ばれたチャートが
大陸にくっつく際に強い力を受けた為です。

冠木門の「天下第一の門」をくぐって、
少し進むと、
一ノ門跡があります。

ここは、江戸時代の絵図や記録に
「一ノ門」とある場所です。

この「一ノ門」は、岐阜城の正門にあたり、
ここから岐阜城へ入る事になります。

かつて、ここには、左から右へ延びる尾根があり、
その尾根の岩盤を掘り抜いて、通路が造られています。
岩盤は非常に硬いですが、一方で非常に脆いと言う特徴があり、
通路の右側には、掘り残した岩盤の高まりの前に巨石石垣があったと考えられており、
その巨石石垣の石が一部残っています。

通路の右側の岩盤の高まりの前に、
巨石石垣の石が残っています。











岐阜城の天守に向かい進んで行くと、
岐阜城の歴代城主の掲示があります。

代表的な城主として、
稲葉山に初めて要害を築いたのは、
二階堂行正です。
鎌倉幕府の官吏で二階堂氏の祖であり、
その子孫は、姓を稲葉と改めました。

その後、戦国時代の動乱の中で、
美濃国の守護代、斎藤氏の家臣の長井氏が、
内乱で力を失った斉藤氏に代わり、
稲葉山城を拠点とし、力をつけます。

後に、長井氏の惣領になった長井規秀(後の道三)は、主君の長井長弘を暗殺し、
更に守護代、斎藤氏の名を継いで斎藤利政と名乗ります。
そして、稲葉山城と井口(現在の岐阜)を整備し力をつけ、主君の守護、土岐氏を追放し、
美濃の実権を握ります。
そして、敵対関係にあった織田氏と和睦し、娘を織田信長に嫁がせ、晩年は出家して道三と名乗ります。
斎藤道三は、家督を息子の義龍に譲り、隠居しますが、
弘治2年(1556)に、義龍と長良川で戦い討たれてしまいます。
しかし、斎藤義龍は、永禄4年に急死し、その子の斎藤龍興が後を継ぎますが、
織田信長に滅ぼされてしまいます。

織田信長は、尾張の他の織田家を滅ぼし、尾張の守護、斯波氏を追放し、尾張を統一します。
そして、永禄3年(1560)に桶狭間の戦いで今川義元を破ります。
永禄10年(1567)には、稲葉山城を奪い、本拠を小牧から移し、
城は大規模な改修を加え、名称を岐阜城とします。
その城下町は、井口から岐阜と改め、天下統一へ向けた足がかりとしました。

少し行くと、馬場跡の説明があります。

一ノ門から続くこの通路は、
江戸時代の絵図や記録に
「馬場」と記されています。

また、一ノ門は、「大下馬」とも言われており、
馬をこの辺りに繋いでいたと考えられています。





一ノ門から続く通路を
ふり返って見たところ。
















通路を進んで行くと、左上部に、
この通路と並行して走る尾根筋の道が 見えます。

尾根筋の道は、道を遮断するように、堀切が掘られており、
その上に赤い橋が架かってます。

現在は赤い橋が架かってますが、当時は木橋が架かっており、
戦時は橋を落として防御したと考えられています。










その堀切の説明です。

江戸時代には、
「切通」と呼ばれていたようです。

















その堀切に向かい尾根を横切る道ではなく、
尾根の南側の道を通って、天守に向かいます。

進んで行くと二ノ門跡があります。









ニノ門を中へ入ります。

ニノ門を中に入ったところに、
閻魔堂があります。

1358年に土岐頼康が守護職として
美濃の地に進出した際、
鬼門除け、美濃の地の繁栄を祈願し、
堂を建て閻魔大王を安置したと伝わります。




その閻魔堂の奥に
稲葉城址之図の
紹介があります。

この図の右下、
赤〇印部に
伊奈波神社宮司、
塩谷左門の
名前がある事から、
17世紀後半から
18世紀前半に
描かれたと
みられています。








ニノ門を入った
場所にある
ちょっとした平地を、
江戸時代の絵図には、
「下台所」と
描かれています。

下台所から、
坂道を少し上がった
所にある段を
「台所」としています。








その下台所の際に、岐阜城題目塚が建ってます。

岐阜城は、斎藤道三、織田信長、池田輝政、織田秀信、等の
興亡の地として、多くの戦没者を出しており、
これらの霊を慰める為、名も無き信者達によって、
南無妙法蓮華経の題目碑が建てられています。














題目塚の横にあった小さな祠です。

















下台所跡から、天守に向かい
坂道を上って行きます。

途中、下台所の上の段の
上台所跡があります。








天守に向かう尾根筋の道が続いており、
その道を進みながら、天守を見たところ。

岐阜城の天守は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの前哨戦で、
織田信秀が西軍に味方した為、東軍に攻め込まれ落城しています。
そして、現在の天守は、昭和31年(1956)に、
鉄筋コンクリート造り3層4階構造で復興されています。











天守に向かう尾根筋の道の北側、
北西を見たところ。

遠方の山並みには、
雪をかぶった能郷白山(1617m)が見えます。








天守に向かう尾根筋の道の南側です。

急な斜面に石垣が築かれています。















天守に向かう尾根筋の道の南側の斜面です。

















天守に向かう尾根筋の道を進みながら
北西、西よりを見たところ。

眼下に長良川が流れ、中央辺りに
野球場、陸上競技場等、スポーツ施設が集まる
岐阜メモリアルセンターが見えます。

右よりの山並みには、
雪をかぶった能郷白山(1617m)が見えます。




天守に向け進みながら、
西へ視線を移します。

遠方の山並み、左よりに伊吹山が見えます。

右より、長良川の対岸には、
岐阜メモリアルセンターが見えます。







■岐阜城 天守、そして天守からの眺め

天守に向け進み、
天守台の上に建つ天守を見上げたところ。










天守の下にあった「山上部の石垣」の説明です。
山上部には、戦国時代に造られた石垣や、城主の権威を誇示する巨石列の巨石が現存しています。






















天守へ向かいながら、南側の景色を見たところ。

南北に岐阜東バイパスが走っているのが
見えます。

そして、岐大バイパスが東西に走り、
その向こうに、
木曽川が流れているのが見えます。





少し西へ視線を移すと、
木曽川が、東から西へ流れて来て、
南へ向きを変えて行くのがわかります。










天守の東面、入口横にある
「お城時計」です。
















その「お城時計」の説明です。

西洋の機械時計が
日本へ入ったのは、
フランシスコ・ザビエルが
周防国(現在の山口県)の
大内氏に献上したのが最初です。

当時の時計は、壁掛け式で操作が複雑だった為、日本の時計師は工夫と改良を重ね、
日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を作りました。

天守の入口横の壁にあった
岐阜城の由来です。

永禄10年(1539)、織田信長は、
斎藤龍興の稲葉山城を奪い、
名称を岐阜城と改め、「天下布武」の朱印を用い、
天下統一の本拠とします。

その後、織田信忠、神戸信孝、池田元助、池田輝政、
豊臣秀勝が岐阜城守となり、
慶長5年(1600)、岐阜城守、織田信秀は
西軍の豊臣方に味方し、東軍の徳川方と戦い
開城します。
そして、岐阜城は、廃城となり、天守、櫓などは取り壊され、天守は建てられる事はありませんでした。
やがて、明治になると、模擬城が建てられますが、焼失します。
そして、昭和31年に安土桃山時代の天守を再現したいと言う岐阜市民の願いにより、
天守が再建されています。

天守への入口の前から、天守を見上げたところ。

















天守1階へ入ります。

「岐阜」命名の由来です。

命名は、織田信長自ら命名した説や、
信長の命により、尾張の政秀寺の僧侶、沢彦宗恩が
進言したとする説、等、諸説あります。

岐阜の名は、
「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」と言う
中国の故事に習った説、または、
孔子の生誕地「曲阜」から太平と学問の地になるよう
願ったと言う説、等、いろいろあるようです。

安土桃山時代の青貝入黒漆塗鞍が
展示されています。











城下町の岐阜では、
誰でも自由に商売ができる楽市楽座を行い
岐阜を発展させています。

岐阜は、織田信長が、
天下に武による秩序を行き渡らせようと
天下布武を掲げて築いた城下町です。





天守2階へ上がります。
天守2階では、信長の城づくりの展示がされています。

信長の最初の居城だった清須城の説明です。
清州城は、尾張国の守護所で、平地にある大型の方形館で、庭園が築かれた室町時代の伝統的な城郭で、
織田信長が、尾張国守護の斯波氏を擁して入城した城です。


















信長が美濃攻めの拠点とした小牧山城の説明です。
信長が尾張を平定した後、永禄6年(1563)、美濃攻略の拠点として本拠を移したのが小牧山城です。
小牧山城は、信長自身が一から築いた最初の城郭で、標高86mの小牧山山頂に築城し、
山頂に主郭を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固めた山城です。


















信長が天下取りの拠点とした岐阜城の説明です。
小牧山城築城から、わずか4年後、
永禄10年(1567)、織田信長は、斎藤氏の稲葉山城を攻略し、美濃を平定し、岐阜城と改めます。
山頂には高層の楼閣を建造し、尾根筋には砦を築き、山全体を堅固な要塞として整備されました。
そして、山麓には将軍の居城を意識した居館が建造されていました。




















その岐阜城の模型です。
















信長最後の居城、安土城の説明です。
安土城は、天正4年(1576)に、琵琶湖湖畔の安土山に安土城の築城を開始し、
約3年の歳月をかけて完成ししました。
安土城は、地下一階、地上6階建ての巨大な天守を持ち、城郭は全て総石垣で普請され、
過去に無い独創的な意匠による絢爛豪華な城だったと推測されています。
天正10年(1582)、信長が、天下統一を目前にし、本能寺の変で斃れた後、安土城は焼失します。



















天守3階へ上がります。

木造 織田信長坐像(複製)が展示されています。

織田信長の一周忌法要の為に、
豊臣秀吉によって奉納されたもので、
本物は大徳寺総見院にあるようです。






天守3階の展示品です。

左は、江戸時代末の「地球儀」です。

右は、江戸時代の「眼鏡」と
「阿弥陀国渡来ガラス製遠眼鏡レンズ」です。







ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは、
キリスト教の保護を求める為、岐阜を訪れ、
8日間ほど滞在します。

その滞在期間中、
信長や、家臣達から手厚くもてなされ、
信長の居館の壮麗さ含め、その様子は、
フロイスが記した「日本史」に残されています。

下は、江戸時代の遠眼鏡の展示です。



天守4階へ上がります。

天守4階から西を見たところ。

眼下、中央を長良川が流れています。

右端には、岐阜メモリアルセンターが見えます。
左端には、岐阜市役所や、特徴的な屋根を持つ
「みんなの森 ぎふメディアコスモス」が見えます。

遠方の山並みの中央辺りに、
雪を戴いた伊吹山が見えます。

その伊吹山(1377m)です。












西、少し北よりを見たところ。

中央、少し右下よりに、
野球場、陸上競技場等、スポーツ施設が集まる
岐阜メモリアルセンターが見えます。

遠方の山並みの左端は、伊吹山です。






北西を見たところ。

遠方の山並みの中央辺りに、
雪を戴く能郷白山が見えます。









その能郷白山(1617m)です。












北を見たところ。












北東を見たところ。

眼下を長良川が流れています。

遠方、中央左よりに
雪を頂いた御嶽山が、
その左よりに乗鞍岳が見えます。






右よりは御嶽山(3067m)です。












南西を見たところ。

眼下に天守のある山頂へ続く尾根筋が見え、
その途中にある上台所跡が見下ろせます。

その向こう、中央に
岐阜シティ・タワー43と
岐阜スカイウィング37が重なって見えます。





南西から、少しづつ南へ視線を移します。

左から中央辺りに、木曽川の流れが見えます。










南を見たところ。

中央辺りに南北に走る
岐阜東バイパスが見えます。

東西に流れる木曽川も見えます。

遮るものが無い広大な濃尾平野を
一望する事ができます。




南から東へ、少しづつ視線を動かします。

左端に、航空自衛隊の岐阜基地が見えます。










南東を見たところ。

中央、左よりに航空自衛隊の岐阜基地が見えます。

その向こう左に、伊木山が見えます。
伊木山の木曽川を隔てた反対側に
犬山城があります。






南東から東へ視線を移動させます。












東を見たところ。

左端には、長良川が見えます。










東から北へ視線を移動させます。

左よりに御嶽山が見えます。











■岐阜城資料館から、金華山 山麓へ

天守からの眺望を楽しんだ後は、
天守を出て、天守台の下を東へ
岐阜城資料館へ向かいます。










天守台の下、南東の角から、
上台所から天守へ向かう尾根筋の道の横に築かれた石垣を
見たところ。















その石垣です。

信長期以降に谷だった場所に
平坦な通路を造る為に築かれたと
考えられています。








階段を下って行くと
岐阜城資料館があります。











岐阜城資料館の説明です。

天守の東側、
天守から一段下がった場所に郭があり、
米、塩、味噌等を蓄えておく蔵や、
弓矢を備えた倉が建っていたと
考えられています。

その場所に、岐阜城資料館が
建設されています。

その岐阜城資料館です。












岐阜城資料館の中へ入ります。

展示されていた斎藤道三の像です。

斎藤道三は、
一介の油売りだった父と親子二代で国盗りを目指した
戦国下剋上の代名詞的存在で、
天才的な軍事力と狡猾な政治力を持ちます。

この像は、2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」で
斎藤道三を演じた本木雅弘をモデルに制作されています。







そして、織田信長の像も展示されています。

織田信長が整えた戦国時代の城、町、長良川の鵜飼文化は、
今でも受け継がれ、岐阜の町に息づいています。

信長は、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスとの別れ際に、
「美濃へは何度でも訪れよ」と告げています。

この像は、1973年の大河ドラマ「国盗り物語」で
織田信長を演じた高橋英樹をモデルに制作されています。








「一夜にして現る城」の説明です。

この絵は、明治時代の浮世絵師、中沢年甲の作で、
「豊臣勲功記 木下須股城ヲ一夜ニ建築之図」です。

完成した墨俣城に織田信長が訪れた場面で、
築城に成功した豊臣秀吉は、
信長に褒めの言葉をかけられ、
お辞儀をしています。

陣幕の後ろでは、
築城に駆り出された人夫達が
疲労困憊している様子が伺えます。






上台所から天守へ向かう
尾根筋の道の横に築かれた石垣を
下から見上げたところ。

ここの本来の地形は、大きな谷ですが、
石垣で両側を護岸した道が造られており、
織田信長が入場後に造られたと
考えられています。





その石垣の下を、反対側へ進むと、
井戸があります。

その井戸の横には、
石垣と井戸の説明があります。

地盤は、堅いチャートと呼ばれる岩盤で、
湧き水は出ない為、
雨水を貯める貯水用の井戸が造られていました。




その井戸の横から、石垣を見上げたところ。












石垣の前を通って、進んで行くと、
赤い橋があります。

親柱に、「にのまるはし」とあります。









その橋から、橋の下を見たところ。

山肌に対して縦に掘られた竪堀のように見えます。















橋を渡って進んで行くと、 下台所へ出ます。

下台所の門、ニノ門を出ます。

ニノ門を出たところに
ニノ門周辺の石垣の説明があります。







この石垣の説明の近くには、
「千成びょうたん発祥の地」の案内板が建ってます。

永禄10年(1567)、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、
蜂須賀小六など僅か7名を従えて、稲葉山城へ潜入し、
薪小屋に火を放って手柄をたて、
城兵を倒した槍先に腰に下げていた瓢箪を結び付け、
天狗岩の上で槍を振り回して勝鬨をあげたと伝わります。

この階段を上がると
「刀利天狗の祠」が建ってます。







ニノ門を出ると、道は二手に、
今朝、ニノ門へ上って来た尾根の南側の道と
尾根筋の道に分かれています。

帰りは、尾根筋の道を帰る事にします。













その道を進んで行くと、
赤い橋があります。

親柱には、「まつかぜばし」とあります。

この橋は、今朝来る時に見た
堀切の上に架かっていた橋です。






その橋を渡ります。

橋を渡った向こう側には、土塀が見えます。















その橋を渡ると右手に、
橋の下の堀切に下りる道があります。

堀切へ下りて見たところ。









尾根筋の道へ引き返し、進むと
登り坂になっており更に進みます。

坂を上ったところに金華山展望台があります。

ここには、一ノ門の西の岩壁の上で、
七間櫓が築かれていました。











金華山展望台から、少し下ると、
リス村があります。

そのリス村の横に
ぎふ金華山ロープウェーの山頂駅があり、
ロープウェーに乗って、金華山を下ります。







下りのゴンドラに乗って下って行くと、
途中、上りのゴンドラとすれ違います。











ゴンドラの下を見ると、
織田信長の居館、庭園の発掘調査が行われた跡が見えます。
















ぎふ金華山ロープウェーの山麓駅へ到着しました。
駅の内部にあった「織田信長公時代の岐阜城図」です。
























■織田信長の居館、庭園の跡等、岐阜公園

ぎふ金華山ロープウェーの山麓駅を出た後、
ぎふ金華山ロープウェーの
下りのゴンドラの中から見下ろした
織田信長の居館、庭園の跡へ行ってみます。









織田信長の居館、庭園の跡です。












織田信長の居館、庭園の跡の上部には、
岐阜公園三重塔が建ってます。

大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として、
大正六年(1917)に三重搭が建立されています。

明治24年(1891)の濃尾大震災で倒壊した長良橋の古材が
利用されているようです。










岐阜公園三重塔の説明です。

















三重塔を下から見上げたところ。

















三重塔を下から見上げたところ。

















三重搭の前から、
織田信長の居館、庭園の跡を
見下ろしたところ。















織田信長の居館、庭園の跡の中央を
川が流れ、橋が架かってます。











その赤い橋を渡った先も、
織田信長の居館、庭園の跡が広がってます。

この辺りは、古墳時代から人が住み、
室町時代には寺院が建ち、
16世紀半ば頃から斉藤氏の城館が建ち並び、
その後、織田信長が居館を改修し、
御殿が建てられており、
岐阜城千畳敷遺跡と呼ばれています。




織田信長の居館、庭園の跡です。












織田信長の居館、庭園の跡から、
岐阜公園三重塔を見たところ。
















発掘調査の結果、この辺りにあった池の中から、
金箔瓦が出土しており、
金箔瓦を用いた建物が、庭園背後にあったと考えられています。

そして、1569年の居館を訪れたルイス・フロイスは、
二階に奥方の部屋があったと記しており、
金箔瓦の建物は、濃姫の屋敷だったと考えられています。











濃姫の屋敷と考えられる場所の付近から、
三重塔を見たところ。











「庭園跡と金箔飾り瓦」の
説明です。
















ぎふ金華山ロープウェーのゴンドラが
通り過ぎて行きます。











発掘で見つかった石垣です。












信長によって造成された
巨石列通路の下層から見つかった
石積みの穴です。










その石積みの穴の中を覗いたところ。












信長以前の居館跡の説明です。

ここには、
斎藤道三、義龍、龍興の
居館があった場所で、
この石積みの穴は、
その時代の物と考えられています。






少し進むと、
金華山麓西側の織田信長居館の
地形模型図があります。

織田信長居館は、中央を流れる谷川と、
その左右に段々に配置された平坦地から成り、
各平坦地は石垣や巨石列、巨石の石積みで
区画されています。

一番下の平坦地から最奥部までの標高差は
30m近くあり、
谷状地形や周囲の岩盤を利用して、
見せる事を意識した立体的な空間を
作り出しています。

そして、多くの庭園や、金箔瓦の使用も大きな特徴です。

以下は、織田信長居館の復元イメージ図です。



















織田信長居館跡を西へ下りて行くと、
冠木門があります。

冠木門の横には、
「織田信長居館跡」の石標がたってます。








織田信長居館跡を流れる谷川が
岐阜公園の庭園の池に流れ込んでいます。











岐阜公園内には、「岐阜城楽市」と呼ぶ
岐阜の地域食材を使ったり、
地元の文化を感じられるお店ができています。










岐阜公園の片隅、冠木門の南側に、
板垣退助の銅像が建ってます。

明治15年、自由党総理の板垣退助は、
当時、岐阜公園横にあった神道の布教所で演説を終え
会場を出たところで、尾張の不平士族によって、
胸を含む7ヶ所を刺されました。
そして、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残しました。

但し、命はとりとめています。








板垣退助の銅像の横に建つ
「板垣退助遭難の地」の説明です。











板垣退助の銅像から西へ進むと、
「女神の噴水」があります。

この「女神の噴水」は、昭和11年(1936)に、
岐阜公園一帯で開催された
「躍進日本大博覧会」の会場入口に建てられました。
初代は戦争中の金属回収に供出された為、
現在のものは、戦後の昭和24年(1949)に建てられた
2代目です。





■正法寺、常在寺

岐阜公園を出て、岐阜公園の西へ位置する
正法寺へ向かいます。

日本三大仏の一つ、岐阜大仏が安置されている
正法寺の大仏殿です。

岐阜大仏は、1832年、38年の歳月を費やし完成し、
高さは13.7mあり、乾漆仏としては、日本一の大きさです。










次は、斎藤家の菩提寺の常在寺へ行きます。

門の横には、
「斎藤家菩提所 常在寺」の石標が建ってます。









門を入ると、正面に本堂があります。

常在寺は、日蓮宗の寺で、宝徳2年(1450)、
美濃国守護、土岐氏の家臣だった斎藤妙椿が、
京都の妙覚寺世尊院の僧、日範を招き建立したと
言われています。

そして、斎藤道三、その父、長井新左衛門尉、
親子二代で築いた地位を基盤に、斉藤氏を名乗り、
守護の土岐氏を美濃から追放して国主となり、
常在寺を菩提寺としています。


常在寺が所蔵している国指定重要文化財「絹本著色斎藤道三像」、「絹本著色斎藤義龍像」の説明です。

右側の道三像は、
退色してますが、
元は群青色の小袖に
二頭立波紋が描かれた
茶褐色の肩衣と、
青色がかった緑の袴を
着用しています。

左側の義龍像は、
折烏帽子を被り、
桐紋が描かれた直垂を
着用しています。

この桐紋は、
将軍、足利義輝から
拝領したと考えられています。

境内には、斎藤道三供養碑があります。












その斎藤道三供養碑です。












常在寺の境内です。












常在寺の境内です。













■昼食

お昼になったので、岐阜バス1日乗車券を使って、
JR岐阜駅前へ戻って、昼食を食べる事にします。












と言う事で、岐阜駅前にあった
「肉汁餃子のダンダダン 岐阜駅前店」へ入ります。












注文したのは、
お得昼定食の「究極の餃子定食」です。
















その「究極の餃子定食」です。

餃子に合う白飯に
それらを際立たせる選び抜かれた副菜たち。
これぞ、「究極」の餃子定食、と謳ってます。

上、左から、肉汁餃子、国産温泉玉子、
特製旨味練りタラコ、
上、左から、白飯、春雨サラダ紫蘇風味、
鶏出汁ワンタンスープ
です。





■川原町

昼食を終え、もう一度、長良川から
岐阜城を眺めに出かけます。

JR岐阜駅前から、岐阜バス1日乗車券を使って、
今度は長良橋を渡る手前の長良橋南・川原町で
下車します。

長良橋の南側には、
長良川の川原の上に、
長良川の水運を利用して川湊として栄えた
古い町並みが残っています。

長良橋の南側の袂にある鵜飼乗船場です。

その鵜飼乗船場から西へ続く、港町、玉井町、元浜町は、通称「川原町」と呼ばれています。

その鵜飼乗船場のすぐ西側に、
秋葉神社があります。

主祭神は、軻遇槌神(かぐつちのかみ)で
摂末社祭神は、
須佐之男命、天照大神、伊奈波大神です。

右端は、「鵜匠」の像です。






その「鵜匠」の像です。

  「鵜匠」  館野弘青 制作










長良川に沿った鵜飼乗船場の東側、横には、
川湊燈台が建ってます。

そして、その川湊燈台の前には、
TBSザ・ベストテン 12年間ベストテン第一位を記念して
五木ひろしさんの「長良川艶唄」の歌碑が建ってます。












川湊燈台の前から、長良橋の下をくぐって、
東へ抜けます。

長良川の川岸に
鵜飼観覧船が並んでいるのが見えます。








長良橋の下をくぐって、
東側に出たところにあった
「川端康成ゆかりの地」の石碑です。

大正十年、川端康成は、
加納にある寺の養女になっている伊藤初代に会う為、
三度にわたり岐阜を訪れ、
この時の体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの
短編小説に描いています。




北原白秋の「鵜匠頭山下幹司翁歌碑」もあります。

篝火の朱にはゆる 君こそは鵜匠なれ
濡れしずく腰蓑の 風折烏帽子古風にて
すばやくも手にさばく 桧の縄のはらはらに
時の間よゆく水のかぎりなき 灯ににほへば
香魚を追う鵜の数の つぎつぎと目にうつりて
ほうほうと呼ぶこゑの 誰ならず夜を惜しむなり

これは、北原白秋が、鵜飼見物の感興を詠んだ長歌の碑です。









■長良川沿いから見た岐阜城(午後)

今朝も、岐阜城を見ながら、
長良川の北岸を東へ歩きましたが、
岐阜城を眺めるには、逆光だった為、
昼を過ぎた時間の今から、
もう一度行ってみる事にします。

長良橋の上にあがり、長良川を見たところ。






長良橋を北へ渡りながら、長良川を見たところ。

鵜飼観覧船が並んでいます。

金華山の頂上には、小さく岐阜城が見えます。













その岐阜城です。












長良橋を渡りながら、
長良川の上流方向を見たところ。











金華山の頂上には、岐阜城が見えます。












長良川の上流方向を見たところ。

















金華山の頂上には、岐阜城が見えます。












長良橋を北へ渡り切ると、
川湊燈台があります。











長良川の北岸に沿って、東へ進みます。












長良川の北岸を東へ進みながら、
金華山頂上の岐阜城を見たところ。











長良川の北岸を東へ進みます。

長良川の向こう、中央に見える山は、舟伏山です。















長良川の対岸、南岸の金華山の上には、
岐阜城が見えます。











金華山の東側には、舟伏山が見えます。

その舟伏山の手前には、
長良川に架かる鵜飼い大橋が見えます。









長良川の北岸を東へ進みながら、
岐阜城を見たところ。











長良川の北岸を東へ進んで行きます。

















長良川越しに、対岸の金華山、
そして、その頂上に建つ岐阜城を見たところ。
















長良川越しに見た金華山です。

















長良川の北岸を東へ進んで行きます。












川岸にアオサギを見つけました。












アオサギです。












金華山の上に建つ岐阜城です。

















岐阜城が小さく見えます。

















岐阜城をズームUPして見たところ。












岐阜城です。

長良川の北岸を結構歩いたので、引き返します。















JR岐阜駅へ戻って来ました。








次は、彦根城へ向かいます。




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