清水寺: 18May2019


奈良・京都旅行の8日目は、 西本願寺、東本願寺、 東寺、三十三間堂、豊国神社、方広寺、 清水寺を
周りました。

方広寺を出て、五条通りから五条坂へ、
そして、茶わん坂を東へ、清水寺へ向かいます。

五条坂から茶わん坂にかけて、この辺りは清水焼発祥の地と言う事です。














茶わん坂を東へ登って行きます。

















進む方向に、清水寺の三重塔が見えます。

















茶わん坂を上りながら、清水寺の三重塔を見たところ。

















清水寺の三重塔です。

















茶わん坂を上りきると、清水寺へ向かう階段を上ります。

















階段の先に見える建物は、仁王門です。

その仁王門へ向け、階段を上がります。










階段を上って、仁王門を見たところ。













仁王門です。

大きな慈悲を象徴する観音様の霊場として、778年に創建されました。















左よりに見えるのが仁王門、
その奥、右よりに西門、西門奥に三重塔が見えます。

清水寺の境内は、京都の東、音羽山の中腹に広がっています。

創建以来、幾度もの火災にあい、その度に焼失していますが、
現在の伽藍のほとんどは、寛永10年(1633)に徳川家光によって
再建されたものです。





仁王門の奥に見える西門と、その奥の三重塔を見たところ。

















左に仁王門、右に西門と三重塔です。

清水寺縁起によると、奈良で修行した賢心が
夢で、「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受け、
北へ歩き、京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を
見つけます。
そして、その瀧のほとりで草庵をむすび修行をする
老仙人、行叡居士と出会います。
行叡居士は観音力を込めた霊木を授け、
この霊木で千手観音像を彫り、観音霊地を守るよう言い残し
姿を消します。
賢心が見つけた清泉は、音羽の瀧と呼ばれ、
観音霊地として守られるようになります。

仁王門です。

賢心がお告げに従って音羽の瀧を見つけて、2年が経ったある日、
鷹狩りに音羽山を訪れた坂上田村麻呂は賢心と出会います。
賢心は坂上田村麻呂の観音霊地での殺生を戒め、観音菩薩の功徳を
解きます。

その教えに感銘を受けた坂上田村麻呂は、
後日、十一面千手観音菩薩を本尊として寺院を建立し、
音羽の瀧の清らかさにちなみ清水寺と名付けました。








仁王門へ多くの参拝者が向かいます。

仁王門は、応仁の乱(1467-1477)で焼失し、
16世紀初めに再建された楼門です。

幅約10m、奥行き約5m、棟高約14mです。







仁王門の北西に位置する地蔵院善光寺堂です。

16世紀中頃に描かれた清水寺古図「清水寺参詣まんだら」には、
この場所に六地蔵の石仏が安置され、地蔵院の前身となる小堂が建っています。
そして明治中期の境内整理によって、善光寺如来堂を合祀し、
善光寺堂を称するようになりました。
如意輪観音坐像を中央に、向かって右に善光寺阿弥陀仏三尊像、
左に地蔵菩薩立像が安置されています。

また、堂に向かって右手前には、願い事がある方向に首を回して拝めば
願いが叶えられると言われる首ふり地蔵が安置されています。







地蔵院善光寺堂の東に位置する馬駐(うまとどめ)です。

馬駐は、応仁の乱(1467-1477)で焼失し、再建されたものです。










仁王門に向かって右側の狛犬です。

大きく口を開けた阿形の狛犬です。










仁王門に向かって左側の狛犬です。

左側の狛犬も、大きく口を開けた阿形の狛犬です。

普通は、どちらか一方が阿形で、
反対側は吽形の狛犬の配置になってますが、
両方とも阿形の狛犬が配されているのは珍しい形です。






仁王門に向け階段を上りながら、仁王門を見上げたところ。












仁王門を通して前方を見たところ。

















仁王門の前から西側の景色を見たところ。












仁王門に向かって右側の仁王像です。

口を開けた阿形像です。















仁王門に向かって左側の仁王像です。

口をつむった吽形像です















仁王門の前から北西を見たところ。

右端に馬駐が見えます。
その左に地蔵院善光寺堂も見えます。









仁王門を抜け、
西門、そして、その向こうの三重塔を見たところ。











西門と、その向こうの三重塔です。












西門と、その向こうの三重塔です。

現在の西門は、1631年に再建されたものです。

勅使のみが通る事ができる勅使門です。








西門へ上がる階段の下には、祥雲青龍の像があります。

清水寺には、観音様の化身である龍が夜ごと飛来し
水を飲むと言う伝承があります。

この祥雲青龍の像は、
2015年に清水寺門前会結成30年を記念し寄進されたものです。











そして、西門への階段を挟んで祥雲青龍の像の反対側には、
念彼観音力の石碑が建っています。

念彼観音力は、観音力を信じ一心に念じれば、
苦境から救われる経文です。













西門を見上げたところ。












仁王門をふり返って見たところ。












西門は通り抜けできない為、西門横の階段を上ります。

その階段を上って行くと、左手に鐘楼があります。

鐘楼は、平安期に建造され、
江戸時代の1607年に現在の場所に移築、再建されました。

桃山建築様式の粋を凝らしたつくりで、
牡丹彫刻の懸魚や、菊花彫刻の蟇股、
四隅の柱の先にある獏と象の木鼻が見所です。



西門横の階段を上ると、右斜め前に三重塔があります。

















階段を上り切った正面には、随求堂があります。












三重塔の西側、随求道へ向かう手前、右手に
「かげきよ」、「くわんぜおん」の文字が確認できる石碑が建ってます。

この石碑の横の石灯籠の火袋の中に、
平家の侍大将、平景清、通称、悪七兵衛が爪で刻んだと伝わる
景清爪形観音があると伝えられています。












階段を上がった横には西門があります。

その西門を、東から見たところ。










三重塔を、西から見上げたところ。

三重塔は、高さ約30mあり、国内最大級の三重塔です。

創建は847年で、現在の建物は江戸時代の1632年に
再建されたものです。

大日如来像を祀り、四方の壁に真言八祖像、
天井、柱には密教仏画や飛天、龍が極彩色で描かれています。









三重塔を南東から見たところ。

















三重塔の各層の屋根の四隅には鬼瓦がありますが、
東南の鬼瓦だけ、龍になってます。

見る角度によって、龍の顔が見えません。









少し見る角度をずらしてみると、
顔に巻き付いた胴体の間から、龍の顔がのぞいています。











ちなみに、他の方位、南西、北西、北東の鬼瓦は、
鬼の顔の鬼瓦です。











南東から三重塔を見上げたところ。

















南西から三重塔を見上げたところ。

















西門の横、南側から、西の景色を見たところ。

右端は仁王門です。










西門の横、南側から、南西の景色を見たところ。

中央に京都タワーが見えます。










西門の横から、東を見たところ。

左端に三重塔、その向こう中央辺りに経堂が見えます。










三重搭の横、南側を東へ進んで行くと、経堂があります。












経堂を南東から見たところ。

寛永10年(1633)に再建されたものです。

平安時代中期には一切経を所蔵し、
全国から学問僧が集まる講堂として栄えましたが、
それ以降、記録から消え、
現在は一切経は伝来していないとの事です。





そして、経堂の東には、開山堂(田村堂)があります。

開山堂(田村堂)は、清水寺を創建した坂上田村麻呂とその妻、
清水寺開基の行叡居士、清水寺を開山した賢心、
後に延鎮と改名した延鎮上人が祀られています。

開山堂(田村堂)は、寛永10年(1633)に再建されたものです。






開山堂(田村堂)の更に東側を見たところ。

左端に開山堂(田村堂)、その向こうに朝倉堂、
その右に轟門が見えます。

朝倉堂と轟門の向こうには、
改修工事中の本堂にかかった覆い屋が見えます。






経堂と開山堂(田村堂)の間の道を北へ進むと、
北総門があります。

北総門は、寛永8~16年(1631-39)に再建されたものです。









開山堂(田村堂)の北側から、東を見たところ。

右端が開山堂(田村堂)で、その向こうに朝倉堂、
そして更に向こうに改修工事中の本堂にかかった
覆い屋が見えます。








開山堂(田村堂)の北側、北総門の東側には池があり、
その池の中の島に弁天堂があります。











橋を渡ると弁天堂があり、弁財天が祀られています。












開山堂(田村堂)の北側を東へ進むと、朝倉堂があります。

左が朝倉堂で、その右は轟門です。

朝倉堂は、永正7年(1510)に越前の守護大名、
朝倉貞景の寄進により創建され、
正式名は法華三昧堂でしたが
朝倉堂と呼ばれていました。
しかし、寛永6年(1629)の大火で焼失します。

そして、現在の朝倉堂は、
寛永10年(1633)に再建されたものです。

朝倉堂の横を南へ進みながら、
西から朝倉堂を見たところ。











開山堂(田村堂)の南側横から、経堂、
そして、その向こうに三重塔を見たところ。











そして、その反対側、東側を見ると、轟門があります。

その轟門の扁額には、普門閣とあり、
曹洞宗の僧、月舟宗胡の書によるものです。

普門とは、観世音菩薩は、
普く(あまねく)、衆生に救いの門を開いていると言う
意味らしいです。

実際に、この轟門には、門扉が無く、我々、衆生への門は
開かれています。


そして、轟門の前には、川はないけど、轟橋が架かっています。

真偽は不明ですが、かつては、この橋の下に轟川と言う小川が
流れていたと言われています。









轟門の前、轟橋の横には、梟の手水鉢があります。

手水鉢の下、手水鉢の台座をよく見ると、
観音様を囲んで、四方に梟が彫られており、
梟の手水鉢と呼ばれています。













轟門の前から、西をふり返ったところ。

右端に開山堂(田村堂)、中央に経堂、
そして、その向こうに三重塔が見えます。









轟門を入ると、本堂へ続く回廊があります。

















回廊を本堂へ向かいながら、南を見ると、
山肌に赤い塔が見えます。

清水寺の塔頭の泰産寺の子安搭です。









回廊を本堂へ向け進み、本堂の軒下の辺りに、
弁慶の錫杖と高下駄があります。

弁慶の錫杖と高下駄と言われていますが、
実際には明治期に奉納された物のようです。













回廊を進み、本堂へ入った正面に、出世大黒天が祀られています。
この出世大黒天は、鎌倉時代につくられたもので、
当初、鴨川の中の島のお堂に祀られていたものと言う事です。















その出世大黒天です。

大黒天は、七福神の一柱で、
ヒンズー教のマハーカーラ(偉大なる黒)に由来します。
そして、音が似ている事から大国主命と習合しています。

大黒天は、財福の神で、手に持っている打ち出の小槌は、
一振りで財宝など思い通りの物が出てきます。
また、背中に背負っている袋には七宝(金、銀、瑠璃(めのう)、
玻璃(水晶)、硨磲(しゃこ)、真珠、玫瑰(赤い玉))が入ってます。








本堂は、1633年に再建されたものです。

訪問時は、本堂は改修工事中で、舞台の横には足場が組まれています。

舞台の北側には、参詣者が手を合わせる為の外陣(礼堂)があり、
その奥に内陣(相の間)、内々陣があります。
内々陣の石敷きには須弥壇が置かれ、その上に三基の厨子があり、
中央の厨子に本尊の十一面千手観音立像が祀られています。
本尊は秘仏で厨子の扉は閉ざされていますが、
厨子の前に本尊を模した前立仏が安置されています。








お参りした後、舞台へ出て、子安搭を見たところ。

















子安搭と、背後の清水山です。












舞台の下には、音羽の瀧が見えます。












本堂の改修工事の為の足場です。

その足場の間から、奥の院が見えます。










足場の間、中央辺りに子安搭が見え、
子安搭から音羽の瀧へ下る道が見えます。











本堂を出ると、本堂のすぐ北側に地主神社があります。

















本堂の横から地主神社へ向かう階段です。

















階段を上って行くと、大国主命の像があり、
縁結びのご利益があると立札が立っています。

大国主命の像の向こう隣には、兎の像がたってます。

大国主命が助けた因幡の白兎の像のようです。












階段を上ると、恋占いの石があります。

境内の奥にも対をなす石があり、一方の石からもう一方の石へ
目を閉じたまま歩いて無事にたどり着ければ恋がかなうと
言われています。

目隠しをして、一定の距離をおいた目標物にたどり着けれるかで
願の成就を占う行為は神様にお伺いを立てる古い方法で、
夏の海岸のスイカ割と同様に、古い神事の名残と言う事です。

恋占いの石の向こうの建物は、拝殿です。







その拝殿です。

この拝殿の天井は、平板を並べて張った鏡天井で、
狩野元信の筆による丸竜が描かれています。
夜ごと天井を抜け出し、音羽の瀧の水を飲むため、
竜の目に釘を打ち付けたと言う伝説があります。







その拝殿の向かい、北側に本殿があります。

大国主命を主祭神として、その父母神、素戔嗚尊、奇稲田姫命、
更に奇稲田姫命の父母神、足摩乳命、手摩乳命を正殿へ
祀っています。

社殿は、寛永10年(1633)、徳川家光により、再建されたもので、
本殿は入母屋造りと権現造りを兼ね備えた桧皮葺極彩色の
華麗優美な建築です。




本殿の前、向かって左側に祓戸大神の祭壇があります。

参拝時は、まず祭壇の祓串を持ち、
左、右、左と振って自身を清めます。









その祓戸大神の祭壇の横では、人形祓い(ひとがたばらい)を
する事ができます。

紙の人形に3回息を吹きかけて、厄を人形にうつし、
人形を桶の水に入れて溶かして厄を落とします。








その本殿の前を西へ、奥へ進んで行くと、
先ほど見た恋占いの石と対となったもう一つの石があります。
















恋占いの石の前から、本殿を見たところ。












その本殿の西側に、幸福祈願所があります。

神様への願いを込めて、
鉦(ドラ)の中心を軽くたたき祈願します。









本殿の西側に、撫で大国さんの小さな社があります。

願いを込めて大国さんを撫でるとご利益が頂けるそうです。










地主神社の境内の奥、北西の隅に、水かけ地蔵が祀られています。

地主神社境内の地中から近年に発見されました。
水をかけて祈願すると、ご利益を頂けるという事です。














地主神社の西の端に、おかげ明神の小さな社があります。

どんな願い事も一つだけなら必ず、おかげ(ご利益)が頂ける
一願成就の神様、おかげ明神が祀られています。

特に女性の守り神として、厚い信仰を集めています。
おかげ明神後方のご神木は、祈り杉、または、呪い杉と呼ばれ、
江戸時代に女性の間で流行った丑の刻参りに使われました。
今でも、呪いの願かけで五寸釘を打ち込んだ跡が無数に残っています。









清水寺の本殿の北、地主神社の拝殿の西に位置する総門です。

主棟に使用されている瓦に菊の紋が入っています。

地主神社の創建年代は神代(日本の建国以前)とされ、
恋占いの石は縄文時代の遺物と言う事です。
弘仁2年(811)に嵯峨天皇が行幸された折には、
地主桜の美しさに三度車を返され、御車返しの桜の由来となりました。
天禄元年(970)円融天皇、永保2年(1082)には白河天皇が行幸され、
古い時代の天皇との関わりが伺えます。

総門の前には、本殿の前にあった人形祓いと同じ、
人形祓い所があります。

地主神社の境内へ上がる階段の上から、
清水寺の阿弥陀堂や奥の院の方を見たところ。











地主神社の階段を下りて、東へ進んで行くと、
釈迦堂があります。
その左側の小さな社は、西向地蔵堂です。

釈迦堂は、寛永8年(1631)の再建で、
昭和47年(1972)の大豪雨で倒壊し、
昭和50年に復旧されました。

中尊に平安時代末期作の釈迦如来像、
左右脇侍に普賢菩薩、文殊菩薩の三尊が
祀られています。


左側が釈迦堂で、その隣、右側は阿弥陀堂です。












釈迦堂の南に位置する阿弥陀堂で、
寛永8年(1631)に再建されたものです。

建築様式は、桟瓦葺、入母屋造りです。









阿弥陀堂です。

浄土宗の開祖、法然上人が最初に常行念仏道場とした場所で、
法然上人二十五霊場第十三番札所になってます。









阿弥陀堂の本尊は、阿弥陀如来です。












改修中の本堂を見ながら、
弥陀堂から奥の院へ向け歩きます。











奥の院の前から、改修中の本堂を見たところ。












右端に改修中の本堂を見ながら、
遠方に市街を見たところ。










奥の院の横にあった清水寺境内略図です。






























次は、奥の院の南に入りする子安搭へ向かいながら、
西側の景色を見たところ。











子安搭へ向かいながら、
三重搭、轟門、そして、改修中の本堂を見たところ。











子安搭へ向かう道、子安搭の手前から、
清水寺を見たところ。











子安搭です。北から見たところ。

子安搭は、清水寺の塔頭、泰産寺の三重塔です。

聖武天皇、光明皇后が祈願され孝謙天皇を安産された事で、
その報恩の為に建てられたと伝わります。

搭内部には、千手観音が祀られており、
後世、安産祈願の信仰が生まれ、子安観音として信仰を集めています。









子安搭を、北西から見たところ。

子安搭は、総丹塗り、桧皮葺の三重塔です。

創建年代は不明ですが、
現在の建物は1500年に建立されたものです。

但し、この子安搭は、元々、清水寺の仁王門前、門前にあり、
明治44年(1911)に、子安搭は泰産寺と共に、現在の地へ移設されました。

現在も、清水寺の参道に産寧坂がありますが、
元々、清水寺門前にあった子安搭へ通ずる道として
産寧坂の名前が残っています。





子安搭を正面、西から見たところ。

















子安搭の前から、清水寺を見たところ。












清水寺の三重塔です。

















次は音羽の瀧へ向かいます。

音羽の瀧への道を下りながら、清水寺の本堂を見上げたところ。










音羽の瀧です。

清水寺の由来となった瀧です。















音羽の瀧。

こんこんと流れ出る清水は、金色水、延命水と呼ばれ、
清めの水として尊ばれています。

三筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、
六根清浄、所願成就を祈願します。

六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の働きの事で、
身も心も清浄になる事が六根清浄です。








音羽の瀧です。

















多くの参拝客が、清水を求め並んでいます。












音羽の瀧から西へ、清水寺の門前に向け歩きながら、
石垣の上を見上げたところ。

真上に轟門、そして、轟門から本堂へ続く廻廊が見えます。














三重塔の南側、下から三重塔を見上げたところ。

















その先、右手に放生池、左手に十一重石層搭があります。

十一重石層搭は、徳川家光の寄進により、
火災により焼失した伽藍の再建を祈願する為、
寛永11年(1634)に本堂の東側に建立され、
1918年に現在の場所に移設されました。

十一重石層搭は、一層目に石仏が刻まれ、
上層へ行くほど屋根が小さくなっています。









放生池越しに、三重塔を見上げたところ。

















道なりに進んで行くと、仁王門の前に出ます。


その仁王門の北西に位置する地蔵院善光寺堂です。









地蔵院善光寺堂の説明です。



















地蔵院善光寺堂に向かって、右手前の首ふり地蔵です。

















願い事がある方向に首をまわして拝めば
願いが叶えられると言われています。
















そして、仁王門の前、清水坂への入口にあった清水寺境内図と門前町図です。
























清水坂を下って行きます。

















清水坂は、参拝客でいっぱいです。












そして、産寧坂に入り、産寧坂を下ります。

産寧坂は、かつて、子安搭が清水寺の仁王門の前にあった事から、
子安搭へ通ずる道として産寧坂と呼ばれるようになったようです。














産寧坂を下ります。

















そして、下って来た産寧坂をふり返ります。

















産寧坂を下りながら、進んで行きます。

















産寧坂を道なりに進んで行くと、
前方に八坂の搭が見えてきます。
















進んで行くと、二年坂への分岐があり、
二年坂を見下ろしたところ。
















二年坂へは入らずに道なりに進んで行くと、
八坂の搭があります。
















八坂の搭です。

八坂の搭は、臨済宗建仁寺派の法観寺の五重塔です。
寺伝によると聖徳太子の創建とされています。
法観寺は1436年に焼失し、永享12年(1440)に
足利義教により、五重塔だけが再建されました。












八坂の搭へ向け進んで行きます。

















八坂の搭へ向かいながら、八坂の搭を見たところ。

















南東から八坂の搭を見上げたところ。

















八坂の搭の南側の塀に沿って西へ進みながら、
八坂の搭を見上げたところ。
















八坂の搭の南側の塀にあった
法観寺・八坂の搭の説明です。














南西から八坂の搭を見上げたところ。
















八坂の搭の西側の塀にあった散策道路マップです。






















八坂の搭を西から見たところ。

















八坂の搭を西から見たところ。

















八坂の搭から、ねねの道を通って、北へ進みます。

















ねねの道を北へ進みます。
















ねねの道を北へ進んで行くと、高台寺塔頭全景図があります。



























ねねの道を北へ進んで行くと、
大雲院の祇園閣が見えます。

大雲院は、織田信長、信忠親子の菩提を弔う為、
貞安上人によって創建されました。

祇園閣は、祇園祭の山鉾を模した三層の楼閣です。

昭和2年に、大倉財閥の創始者、大倉喜八郎によって、
伊藤忠太の設計で、建てられました。



東大路通りへ出て、北へ進むと、
八坂神社の西楼門が見えてきます。











四条通りへ出て、西へ歩いて行くと、左手に
京都四條 南座があります。











京都四條 南座です。

慶長8年(1603)、京の四条河原で出雲の阿国がはじめた
かぶき踊りを起源とする歌舞伎発祥の地です。









京都四條 南座。












南座の前を西へ、京都河原町駅から阪急電車で、ホテルの最寄りの駅へ向かいました。



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