興福寺 中金堂、東大寺 鐘楼 二月堂: 12May2019


奈良・京都旅行の2日目は、 山野辺の道 を、天理から桜井市まで歩きました。
そして、その後、奈良市のホテルで一休みし、夕方から興福寺、東大寺の辺りを、ひと歩きしました。

まず、興福寺へ行きました。

興福寺の五重搭です。

西から五重塔を見たところ。












興福寺の中金堂です。

中金堂は、 2018年5月の訪問時 は再建工事中で、
覆屋に覆われていましたが、
2018年10月に再建が完了し、落慶法要が行われています。








中金堂を、南西から見たところ。











中金堂を南正面から見たところ。

興福寺は、藤原不比等によって和銅7年(714)に建てられました。
しかし、中金堂は、創建以降、6回の焼失、再建を繰り返し、
享保2年(1717)に焼失した後は、財政的な問題で再建が進まず、
およそ100年後、町屋の寄進により、規模を縮小した仮堂が
文政2年に再建されます。
しかし、あくまでも仮の建設であり、仮堂は平成12年(2000)に解体され、
発掘調査を経て、この度の再建に至りました。



中金堂です。











中金堂を、南東から見たところ。











興福寺を出て、大宮通りを東へ、東大寺へ向かいます。

大宮通りを進んで行くと、左手に氷室神社の赤い鳥居があります。

氷室神社は、平城遷都に伴い春日野に氷池や氷室が造られ、
その守護神を祀り、稲作に重要な夏の天候を占う祭祀を行ったのが
始まりです。





鳥居をくぐると、階段があり、その先に四脚門があります。

残念ながら、開門時間を過ぎていた為、
お参りする事はできませんでした。








東大寺の参道へ出て、参道を北へ進んで行くと、
吉城川(よしきかわ)が流れています。










その吉城川に架かる橋と、その東側の景色です。











吉城川の先には、南大門があります。











南大門を通して、その先の中門、更に、その先の大仏殿を見たところ。
















中門と、その先の大仏殿です。
















南大門を抜け、参道を大仏殿に向け進んで行くと、白蛇川があります。

白蛇側に架かる小さな橋から、白蛇川を見たところ。














参道を更に進んで行くと、参道の右手に鏡池があります。

その鏡池越しに、中門と大仏殿を見たところ。









鏡池の東側、池畔を周りながら、鏡池に浮かぶ小島を見たところ。
その小島とは、細い道で繋がっています。

この小島は、柄のついた丸い鏡のような形をしていることから、
鏡池と呼ばれています。

そして、この小島には、弁財天を祀る厳島神社が建っており、
神仏習合で弁財天と同一視される市杵島姫命が祭神として
祀られています。



鏡池の東側の池畔を周りながら、中門、大仏殿を見たところ。











鏡池の東側の池畔を北へ進んで行くと、
右手に手向山神社の石標と鳥居があります。















手向山神社の鳥居の手前北側、東大寺大仏殿の回廊の東側に、
七重搭の相輪のレプリカが展示されています。

平安時代に編纂された東大寺要録によると、
8世紀半ばには、100m級の巨大な東搭と西塔が建っていたと伝わります。
そして、1970年の大阪万博で古河パビリオンとして、七重搭のレプリカが建てられました。
万博終了後、塔は解体されましたが、相輪は東大寺に寄贈されました。

また、七重搭相輪の横には、
インドの仏教の聖地、サルナートにあるアショカピラーを模した石像がたってます。
アショカピラーは、インドのアショカ王がインド各地に建造した石柱です。






東大寺大仏殿の回廊です。
その回廊越しに大仏殿の大屋根が見えます。

その回廊に沿って、北へ進みます。








回廊に沿って北へ進んで行くと、
右手に東大寺鐘楼や、二月堂へ向かう階段があります。










その階段横にあった東大寺境内案内図です。



























東大寺鐘楼や、二月堂へ向かう階段を登って行きます。

階段の上に鐘楼が見えます。














階段を上って行くと、左手、北側に辛国社があります。

辛国社の説明板によると、大仏殿の東、猫段と呼ばれる石段を登って行くと、
北側に小社があり、石灯籠の刻銘から明治36年前後から天狗社が辛国社と
呼ばれるようになったとあります。
創立は、嘉吉3年(1443)に天狗社の名が見られることから、
鎌倉時代まで遡ると考えられています。
また、江戸時代の東大寺諸伽藍略録には、
奈良時代に良弁僧正が多くの天狗を改心させ仏法護持を誓約させたと伝わります。








階段の上の鐘楼です。
















鐘楼の北西に位置する俊乗堂です。

俊乗堂は、元禄年間に公慶上人によって、
重源上人の遺徳を讃えて建立されました。

治承4年(1180)に平重衡によって
大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍が焼かれ焼失しましたが、
俊乗房重源によって、10数年の歳月をかけ
東大寺の再興を成し遂げられました。

堂内には、国宝の重源上人坐像が祀られています。


鐘楼の北東、俊乗堂の東に位置する行基堂です。

東大寺の造立に尽力した行基の行基菩薩坐像が祀られています。









鐘楼を北西から見たところ。

鐘楼は、鎌倉時代の承元年間(1207-10)に、
重源上人のあとを継いで東大寺の大勧進となった
栄西禅師によって再建されたものです。







その鐘楼の大鐘は、天平勝宝4年(752)に鋳造されたと伝えられ、
中世以前に造られた鐘としては日本最大の鐘で、
鐘の部分だけで高さ4m、重さは26tonにも及びます。














その大鐘は、日本三大名鐘の一つで、
形の平等院、声の園城寺、勢いの東大寺と称えられています。

そして、この大鐘は、奈良太郎と呼ばれています。








鐘楼の東に位置する念仏堂です。

念仏堂は、錣(しころ)屋根と呼ばれ、
屋根の高さが少しだけずれて二重になっている屋根の
形式を持つお堂で、鎌倉時代に建立されたと言われています。
当初は念仏堂ではなく地蔵堂と呼ばれており、
堂内には地蔵菩薩坐像が祀られています。





念仏堂の横を東へ進んで行くと、階段があり、
その上に法華堂(三月堂)が見えます。










その階段を上ったところ。

中央が二月堂で、右端が法華堂(三月堂)です。









法華堂(三月堂)です。

法華堂(三月堂)は、東大寺建築の中で最も古く、
寺伝では東大寺創建以前にあった金鐘寺の遺構とされてます。

元は寄棟造りの正堂と、礼堂が軒を接して建つ配置でしたが、
鎌倉時代に礼堂を入母屋造りに改築し、2棟がつながれています。

天平勝宝4年(752)の東大寺山堺四至図には羂索堂とあり、
今でも、本尊として不空羂索観音が祀られています。


登って来た階段の北側、法華堂(三月堂)の西に位置する四月堂です。
旧歴4月に法華三昧会と呼ばれる法要が行われることから、
三昧堂とも四月堂とも呼ばれています。

現在の建物は、延宝9年(1681)に再建されたもので、
本尊として、十一面観音菩薩立像が祀られています。






法華堂の北門です。

右端が法華堂で、中央が北門です。









法華堂の北門の北側、二月堂の前、西側の斜面に、
小さな祠があります。

興成神社(おきなりじんじゃ)です。

二月堂の鎮守神の一つで、東大寺初代別当、良弁僧正ゆかりの
良弁杉のたもとにあります。

良弁杉は、東大寺開山の祖、初代別当の良弁僧正が、赤ん坊の頃、
トンビにさらわれ、この杉の木に引っかかっているところを保護され、
僧侶として育てられた事に由来します。

法華堂(三月堂)、二月堂の前の道を北へ進みます。

左手に、腰屋根、いわゆる煙抜きのついた建物があります。









二月堂の前、西側の建物を見たところです。











二月堂の前、西に位置する湯屋です。

屋根の上には、煙を抜く腰屋根がのっています。

湯屋では、東大寺の僧侶たちが身を清める為に
沐浴を行っていました。






左が湯屋です。

湯屋の横には、大仏殿に向け下って行く裏参道が見えます。









湯屋の前から東を見ると、二月堂の参籠所があります。

中央に、二月堂へ登る登廊と連続する細い通路、細殿があり、
その細殿の南側は食堂、北側に参籠所があります。








その細殿です。

その細殿の南側は食堂、北側に参籠所です。









細殿を抜けると、二月堂へ登る登廊があります。
















登廊を上がりながら、二月堂を見たところ。











登廊を上がったところにある手水鉢です。











登廊を上がったところから、西を見たところ。

左は二月堂の北面です。









二月堂の西側、舞台の上から、西側の景色を見たところ。

中央に見える大屋根は、大仏殿の屋根です。









二月堂の舞台、北西の角から、二月堂の西面を見たところ。

旧暦の2月にお水取り(修二会)が行われる事から
二月堂と呼ばれています。

二月堂は、平重衡の兵火(1180)、三好・松永の戦い(1567)の
2度の戦火で焼け残りましたが、
寛文7年(1667)のお水取りの最中に焼失し、
その2年後に再建されたのが、現在の建物です。



二月堂の舞台から、西側を見下ろしたところ。

左よりの建物は、四月堂です。
そして、右側上部の大屋根は、大仏殿です。








夕焼けに染まる西側の景色です。











二月堂の舞台、南西の角から、二月堂の西面を見たところ。

二月堂の本尊は、大観音、小観音と呼ばれる二体の絶対秘仏、十一面観音像です。
国宝に指定されています。













二月堂の西面。











二月堂の南側、南西角から、東を見たところ。

手水舎があります。









その手水舎の中です。











手水舎の横から東を見ると、飯道神社(いいみちじんじゃ)があります。

東大寺開基の聖武天皇が、一時期、近江の紫香楽宮に遷都したり、
東大寺が近江国の甲賀、信楽から木材を調達したゆかりから、
近江国の飯道神社から勧進されたと言われています。












手水舎の前から、西を見たところ。

右は二月堂です。









二月堂の南側の階段の上から、西側の景色を見たところ。











二月堂の南側の階段を下りながら、二月堂を見上げたところ。











その階段の途中にある法華堂(三月堂)の北門です。











階段を下りて、北西から法華堂(三月堂)を見たところ。











法華堂(三月堂)の南側に、弁天池があり、
その弁天池の南東の池畔に、弁財天神社があります。

神仏習合で弁財天と同一視される市杵島姫命が
祭神として祀られています。







弁天池の横から、南を見たところ。

左に手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の鳥居が、
右に法華堂経庫が見えます。








そして、法華堂をふり返って見たところ。











法華堂経庫の横を進んで行くと、
左手に手向山八幡宮の神門が見えます。










手向山八幡宮の神門から西へ下って行きます。











手向山八幡宮の神門から西へ進みます。











手向山八幡宮の赤い一の鳥居が見えてきます。

その鳥居の向こうに、東大寺の中門が見えます。














手向山八幡宮の鳥居を抜け進んで行くと、
東大寺の東大寺の大仏殿の回廊と、中門があります。















東大寺を出て、大宮通りを西へ進みます。

奈良国立博物館の辺りから県庁東交差点の間に、
登大路地下歩道があります。

その登大路地下歩道を通ると、
平安遷都1300年を記念し描かれた平城京の壁画がありました。





若草山から見た平城京をイメージした風景と言う事です。











登大路地下歩道を抜け、大宮通りを西へ進んで行くと、東向商店街があります。

平城京の時代には、東側に興福寺の伽藍が建ち並び、西側にだけ家があり、
全て東を向いていました。
今は通りの両側に家がありますが、東向の町名の謂れです。












食事をして、ホテルに帰りました。







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