国宝 彦根城: 13Mar2026


2日9日から4泊5日で、名古屋城、松本城、犬山城、岐阜城、彦根城と5つのお城を周って来ました。

まず、初日は、 名古屋城 を訪問し、その後、 熱田神宮 を周り、
二日目は、松本市へ移動し、 松本城 を訪問し、
三日目は、愛知県犬山市へ移動し、 犬山城 を訪問し、
その後、岐阜市へ移動し、 四日目に 岐阜城 を訪問しました。

その後、四日目の夕方、彦根城のある彦根市へ移動し、 彦根城の夕景 を見て周ります。
そして、五日目は、国宝 彦根城へ登城します。


■ホテルからの眺め

宿泊したホテルの部屋のカーテンを開け、
正面、北西を見たところ。











左側に彦根城が見え、
その向こうには琵琶湖が見えます。











彦根城です。

















彦根城から視線を西へ移します。

中央、右よりに見える電波塔は、
NTT西日本 彦根別館の電波塔です。









その電波塔の向こうには、
琵琶湖が見えます。











NTT西日本 彦根別館の電波塔です。













■中堀に架かる京橋、京橋口門跡

ホテルで朝食を済ませ、彦根城へ出かけます。

NTT西日本 彦根別館の横を過ぎ、
中濠東西通りを北西に進んで行くと、
彦根城の中堀があります。

彦根城の中堀の南の角から、
北東にのびる中堀を見たところ。










中堀の南の角から、
中濠東西通りに沿って、北西に伸びる
中堀を見たところ。










北西に伸びる中堀に沿って、進んで行くと、
前方に、中堀に架かる京橋が見えてきます。











中堀に架かる京橋を見たところ。












京橋です。












この京橋を渡ると、京橋口門跡があります。

京橋口門は、中堀に接して高麗門があり、
その内側には、桝形が形成され、
鍵型に曲がった先には櫓門が
築かれていました。







京橋を渡りながら、
北西方向に伸びる中堀を見たところ。











京橋を渡りながら、
その反対方向の中堀を見たところ。

中堀の向こうには、
NTT西日本 彦根別館の電波塔が見えます。








京橋を渡った所には、高麗門があり、
その内側は枡形が形成されています。











そして、登城道は、鈎の手に曲がり、
櫓門がありました。












■旧西郷屋敷長屋門、内堀、鉢巻・腰巻石垣

京橋口門跡を入ると、目の前に、
旧西郷屋敷長屋門があります。

西郷家は、遠州(現在の静岡)の出身で、
初代は徳川家康に仕えていましたが、
家康の命で井伊直政の付家老となり、
西郷家は、幕末まで家老職を務めています。






京橋口門跡を入って進みながら、
京橋口門跡をふり返ったところ。











京橋口門跡を入り、
まっすぐ北東へ進みます。











北東へ進みながら、 北を見たところ。

前方は、彦根城のある彦根山です。










彦根城の内堀です。

内堀の奥を見ると
内堀に架かる大手門橋が見えます。









内堀に沿って北東へ進んで行きます。

内堀の対岸は、土塁が築かれており、
堀の水で土塁が崩れないように
基礎部分は石垣で覆われているのが見えます。
腰巻石垣と呼ばれています。

また、土塁の上部は、更に石垣が積まれており、
これは、鉢巻石垣と呼ばれています。




その土塁と、土塁の上の鉢巻石垣と、
土塁の下の腰巻石垣です。











内堀に沿って、対岸の土塁と
鉢巻石垣と腰巻石垣が続いています。











内堀に沿って、北東へ進んで行きます。

中央に、佐和口多聞櫓が見えます。










内堀に沿って進んで行くと、
内堀に架かる表門橋が見えてきます。











中央は、表門橋です。

その向こうに見える建物は、 彦根城博物館です。










■佐和口門跡、佐和口多聞櫓、馬屋

内堀に沿って進んで行くと、右手に
佐和口多聞櫓があります。











その反対側、内堀には
表門橋が架かってます。

その表門橋を渡った先、右側には
彦根城博物館が見えます。








左に表門橋、中央から右にかけて、
彦根城博物館が見えます。











佐和口多聞櫓です。












左側に佐和口門跡があり、
そこへ佐和口多聞櫓が続いています。











佐和口門跡を入ったところにある
馬屋です。

馬屋へ寄る前に、
まず、佐和口門跡を外に出て
入りなおす事にします。







佐和口門跡を出ると、
中堀に架かる土橋があります。

その土橋の上から、
佐和口門跡をふり返ったところ。

佐和口門は、中堀に面して、高麗門があり、
高麗門を入ると、
鉤の手に曲がった枡形が築かれ、
櫓門がありました。

そして、佐和口門を中心に、左右へ
佐和口多聞櫓が伸びています。

左端が、佐和口門跡で、
佐和口門跡から右に伸びている
佐和口多聞櫓です。










その多聞櫓が、中堀に沿って
北東へ向け続いています。











北東へ向け続く中堀です。

左端は、佐和口多聞櫓です。










佐和口門跡を出て中堀に架かる土橋を、
まっすぐ進むと「いろは松」の並木があり、
その横は中堀です。










再び、鉤の手に曲がった
佐和口門跡を入ります。

佐和口門を入ると、二の丸です。









佐和口門跡を入った左手には、
馬屋が残ってます。

馬屋はL字型に建てられており、
表門橋の前の駐車場横の入口から中へ入ります。

馬屋は、
元禄時代(1688-1703)に建てられましたが、
火災に遭い、昭和の時代に再建されています。




馬屋の入口です。












馬屋の中には、
藩主などの馬21頭がつながれていた
と言われています。











馬屋の内部です。












馬屋の内部です。












馬屋の中には、排泄物の処理がしやすいように
床に開閉できる穴が設置されています。
















排泄物処理用の穴です。

















馬屋の中には、井戸もあります。













■表門橋から彦根城博物館へ

馬屋を出て、
馬屋の西に位置する内堀に沿って、
北東へ進みながら、
内堀を見たところ。









内堀に沿って北東へ進み、
内堀越しに彦根城博物館を
ふり返って見たところ。










内堀に架かる表門橋へ向け戻ります。












表門橋です。

通常、お城の表門の事を大手門と言いますが、
彦根城には大手門と表門の二つがあります。

この表門橋を渡ると表門跡があります。







その表門橋の袂から、内堀越しに
彦根城博物館を見たところ。











表門橋を渡ると、表門跡です。












表門橋を渡った所に、彦根城案内地図があります。


























そして、その横にあった彦根城の説明です。

慶長5年(1600)に井伊直政が関ケ原の戦いで徳川四天王の一人として功をたて、
敗れた石田三成の居城、佐和山城を与えられます。
その後、直政の子、直継が直政の遺志を受け、
20年の歳月を経て、元和8年(1622)に彦根城が完成しています。





















表門跡の辺りから、彦根山の斜面を
一つ上の曲輪の「鐘の丸」へ向かって伸びる
「登り石垣」が見えます。

この「登り石垣」の上には、
瓦塀がのっていたと考えられています。

その「登り石垣」の左側横は、溝状に窪んでおり、
これは、「竪堀」です。

「登り石垣」や「竪堀」は、
斜面を移動する敵の動きを阻止するのが目的です。





その「登り石垣」の説明です。
彦根城には、「登り石垣」が五箇所に築かれていたという事です。













表門跡の石垣です。

この表門跡を中へ入ります。











■彦根城博物館

表門跡を入ると右手に
彦根城博物館があります。

彦根城博物館は、昭和62年(1987)に、
彦根城表御殿跡地に、
その復元を兼ねて建てられた博物館です。






●雛と雛道具(展示室1)

彦根城博物館では
特別公開「雛と雛道具」が開催されており、
井伊直弼の愛娘、弥千代が、
高松藩松平家の世子、松平頼聡に嫁いだ際に
調えられた雛と雛道具が公開されていました。








弥千代の婚礼調度の一つ、
黒漆塗葵橘紋駕籠です。











黒漆塗葵橘紋駕籠です

駕籠の中にも絵が描かれており、
肘掛けが付いています。









「雛と雛道具」の展示です。











●武家の備え(展示室2)

甲冑や刀剣、弓具、馬具などの武器武具は、
太平の世となった江戸時代においても、
武門を象徴するものとして、重視されています。

また彦根藩は、「井伊の赤備え」で知られ、
藩主から家臣まで、
赤の軍装で身を固めていました。






朱漆塗紅糸威本小札二枚胴具足です。

井伊家14代直憲が所有し、
明治4年(1671)に現在の護国神社へ奉納された具足です。














大阪夏の陣図(若江合戦図)です。

慶長20年(1615)の大阪夏の陣において、
若江(現在の東大阪市)で赤備えの井伊隊が
木村重成隊と戦かい勝利した
若江合戦が山縣岐風によって描かれています。

後方左には四天王寺、
右には大阪城が描かれています。




龍文竹矢筒(江戸時代)です。
















●幽玄の美(展示室3)

江戸時代、能は幕府の式額として重視され、
諸藩でも盛んに行われています。

今に伝わる能面や能装束は
幽玄という能の美意識を表しています。

その能面が展示されています。

左の面は、能が成立する以前の芸能を伝える
儀式的な祝言「翁」の「白色尉」の面です。


●雅楽の伝統(展示室3)

日本と大陸の舞楽を統合した
奈良時代に始まる永い伝統を持つ芸能が
雅楽です。

井伊家12代直亮は、雅楽を愛好し
楽器の収集を行ってます。

中央手前は、絃楽器の琵琶で、
左端は、釣太鼓、その隣に筝が見えます。



●麗しの調度(展示室3)

古来、場を調える為に用いられてきた
家具や手回り品など、調度品が展示されて
います。

左から、黒漆塗笹唐草蒔絵双六盤、
黒漆塗笹唐草蒔絵将棋盤、
黒漆塗笹唐草蒔絵碁盤です。

碁盤、将棋、双六盤は三面と呼ばれる
婚礼調度の定番で、
14代井伊直憲の正室として
有栖川宮家から迎えられた宣子が持参した
婚礼調度です。

●能舞台(展示室4)

寛政12年(1800)に建てられた能舞台です。

明治時代の初めに表御殿が取り壊された時、
市内の神社に移築されていましたが、
博物館の建築の際に元の場所に
移築復元されています。

正面見所(展示室4)から、能舞台を見たところ。
舞台正面奥の鏡板には、
老松が大きく描かれています。
そして、能舞台に向け橋掛りが延びてきています。


●表御殿の「奥」

彦根城表御殿は、
彦根藩の政務や公式行事を行う「表向き」と、
藩主などの生活空間である「奥向き」から
なっていました。
「表向き」は、博物館の展示、収蔵スペースとして
近代的工法で外観を復元し、
「奥向き」は、当時の姿さながら完全木造建築で
復元しています。

御納戸です。
藩主の身の回りの品を治める部屋として
使用されていました。

藩主が用いた茶室、「天光室」です。












表御殿の南東側に庭園があります。












その庭園を望む縁側に面して
右側は、藩主の居間の御座之御間で、
その手前、左側に御次之間があります。










藩主の居間の御座之御間です。

御座之御間には、床の間があります。










庭園に面した縁側から、庭園を見たところ。












御次之間の奥には、
藩主の寝室にあたる御寝之間があります。











御寝之間の横から、
高御廊下を通って、右手にある
御亭(おちん)へ向かいます。

その途中、庭を見たところ。








御亭です。

御亭は、
表御殿の最も奥に位置する
二階建ての数寄屋風建物で、
藩主がくつろぐ為に建てられたと
考えられています。






御亭と同様に、
高御廊下を渡った先、左手にある
御客座敷です。










そして、高御廊下を渡った先にある
御亭や御客座敷等の奥座敷の説明です。























御客座敷の前の縁側から、中庭、
そして、左手に高御廊下を見たところ。











高御廊下を渡って戻り、展示室5へ向かいます。
















●数奇の愉しみ(展示室5)

江戸時代、茶の湯は武士のたしなみとして
一層重んじられ、
彦根藩井伊家でも代々茶道具が
調らえられました。

これは、三彩宝相華文五耳壺です。

中国、明時代のもので、井伊家伝来の壺です。

胴全体に宝相華唐草文を、下辺に蓮弁文を貼付け、
緑、黄、紫の釉薬をかけ分けています。

日本では茶壷として珍重されましたが、
肩に溝を掘り込んだ大きめの耳が5つ取り付けられていることから、
本来は貯蔵用だったと考えられています。

井伊直弼 作の曲物黒漆塗栗山桶花生です。

曲物桶に黒漆塗をほどこし、
井伊直弼自作の和歌
 栗山の苔の下水こゝにたに
   賤かしわさを汲みてこそしれ
と花押が朱漆で記されています。

日光名産の栗山桶を花生に見立てた作品で、
直弼の茶会記には、
同種のものを弟子の家臣に与えた様子が
記されています。

●御殿の彩り(展示室6)

大名の御殿は、
室の格式や性格に応じた障壁画で荘厳され、
儀式や季節に適した屏風や掛軸で
彩られました。

これは武仙手鑑です。

中国の書物「武仙」によって、
代表的な武将を手鑑形式の1帖に
まとめたものです。

右から、太公望、管仲、田穰苴です。

太公望は、周の文王と占いで出会い軍師として仕え、後に文王の息子の武王と西周王朝を打ちてました。
管仲は、春秋時代に斉の桓公に仕えた宰相で、「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉を残しています。
田穰苴(でんじょうしょ)は、斉の景公に仕え大司馬なり、兵法書の司馬法を残しています。

武仙手鑑で、右から王翦、張良、韓信です。

王翦は、秦の六国平定に貢献した将軍です。
秦の始皇帝は、六国平定の最後に残った楚を
滅ぼすに必要な兵力を若い李信将軍に問うと20万、
王翦に問うと60万と答えた為、
李信将軍を楚平定を命じますが失敗します。
次に始皇帝は、楚平定を王翦に懇願し、
王翦は秦の全兵力の60万で戦い、
楚を滅ぼして六国平定を成し遂げました。

張良は、
一族の仇討ちの為、始皇帝の車列に
鉄槌を投げ込みますが失敗し、お尋ね者になり身を潜めます。
そこで不思議な老人に会い、太公望の兵法書を手に入れます。
その後、秦に対する反乱が起きると、張良も決起し、劉邦軍に身を寄せます。
そして、劉邦の参謀になり、秦を滅ぼし、宿敵の項羽を破り、漢王朝成立に貢献します。

韓信は、漢の劉邦配下の将軍で、張良、蕭何と共に、漢の三傑の一人です。
項羽に仕えた時期もありましたが、献上した策を採用されることもなく、
劉邦が関中に入ると劉邦軍に身を投じます。
そして、韓信の策に従って項羽を攻め、天下取りに貢献します。
特に、趙軍と戦った背水の陣は、韓信の戦いの中でも有名です。


屏風の展示です。











彦根城の姿の解説です。
彦根城は、天守が多彩な破風や花頭窓などで美しく装飾する一方で、
城山には「堀切」や「竪堀」、山裾を垂直に切り落とした「切岸」の他、各所に櫓や石垣、
そして、内堀、中堀、外堀の三重の堀、等、多くの防御設備を有した堅固な城でした。





























彦根城 表御殿の間取図です。
築城当初は、天守前の「本丸御広間」の建物が城内の御殿の役割を担ってましたが、
元和元年(1615)から城山の麓に彦根城表御殿の建築が始まり、
完成以降、在国中の藩主は表御殿を住居とし、政治、儀式は表御殿で行われました。

表御殿は、
「表向き」と「奥向き」の
二つのエリアに分かれ、
表向きでは、
藩の政務が行われ、
奥向きは
藩主が日常生活を
営んだ場所で、
藩主の世話をする
奥女中たちが暮らす
部屋がありました。
そして、
表向きと奥向きとの
人の行き来は、
厳しく制限されて
いました。








■彦根城天秤櫓へ

彦根城博物館を出て、
表門から彦根山へ向かって伸びる
表門山道を上って行きます。















永い坂道の表門山道を上って行きます。

















上って行くと、表門山道の先に
天秤櫓の高い石垣が見えてきます。
















天秤櫓と、その石垣です。












表門山道は、その石垣に沿って曲がり、
表門山道の左右に石垣が築かれ、
V字の谷になってます。

大堀切です。

そして、その大堀切を渡る
廊下橋が架かってます。





その大堀切に架かる廊下橋です。

戦時には、廊下橋を落とすと、
天秤櫓へ渡れなくなります。









廊下橋が、天秤櫓の櫓門へ
つながっているのがわかります。
















廊下橋の下を東から西へ抜け、
天秤櫓の反対側、南を見たところ。

この坂を上ると、鐘の丸です。









左側に鐘の丸への坂道を見ながら、
その反対側、北西を見たところ。

右側は、天秤櫓の石垣の西の端です。

その石垣の下を周って上がってくる道があります。

彦根山の西側にある大手門を抜けて上がってくる
大手山道です。









右は、天秤櫓の石垣の西の端です。

石垣の上には、天秤櫓が見えます。















西から東を向いて、大堀切、
そして、大堀切に架かる廊下橋を見たところ。











鐘の丸へ上がって行く坂の入口、
そして、鐘の丸から続く廊下橋を見たところ。











大堀切に架かる廊下橋、
そして、天秤櫓を見たところ。











廊下橋は、天秤櫓の櫓門へ続いています。












鐘の丸へ上がって行く坂道です。












鐘の丸へ向け、坂道を上りながら、
天秤櫓をふり返ったところ。
















鐘の丸です。

築城当初、鐘楼があった為、
鐘の丸と呼ばれていましたが、
鐘の音が城下北方に届かなかった為、
鐘楼は、太鼓丸へ移築されています。

また、鐘の丸には、大広間や御守殿などの
建物が存在しましたが、
大広間は享保17年(1732)に解体されて
江戸へ運ばれ、
彦根藩江戸屋敷の広間に転用されたと
言う事です。

鐘の丸から、北を見たところ。

正面に天秤櫓があり、
中央の廊下橋が、
天秤櫓の櫓門へ続いています。

天秤櫓の名前は、
廊下橋から続く櫓門を中心に、
両側に伸びる多聞櫓の角を二重櫓として
左右対称になっており、
天秤を思わせる事から、
天秤櫓と呼ばれています。

その天秤櫓です。

廊下橋の先には、櫓門があり、
口が開いています。









廊下橋を渡りながら
西を見たところ。

廊下橋の下には、大手山道が見えます。

遠方には、琵琶湖が見えます。







西の景色です。












廊下橋を渡りながら
東を見たところ。
















天秤櫓の櫓門を北に抜けます。












天秤櫓の櫓門を抜けて、
更に続く天守への道を見上げたところ。

道の先には、太鼓門の続櫓が見えます。









天秤櫓の南西の隅を、内側から見たところ。

櫓の中に入る階段と入口があります。










次は太鼓門へ向け、坂道を上ります。

















太鼓門へ向け上りながら、
天秤櫓をふり返ったところ。











■太鼓門へ

太鼓門へ向け上って行きます。

坂の上には、太鼓門の続櫓が見えます。










太鼓門へ向け上りながら、
天秤櫓をふり返って見たところ。











上って行くと、
右手に本丸の石垣があります。











天秤櫓をふり返ったところ。












本丸の石垣を右手に見ながら、
太鼓門へ向け上って行きます。











上りながら、上がって来た道を
ふり返ったところ。











更に上って行くと、左手に時報鐘があります。

築城当初、この鐘は、鐘の丸にありましたが、
鐘の音が城下北方に届かなかった為、
太鼓丸へ移築されたと伝わる鐘です。













この時報鍾の前を右に曲がって続く
階段を上ると、
右手に太鼓門があります。










その太鼓門です。

太鼓門は、
天守がある本丸表口をかためる櫓門で、
城内合図の太鼓を置いた事から
太鼓門と呼ばれています。







太鼓門の前から、
本丸の石垣越しに天守を見たところ。











太鼓門です。

築城時に他の城から移築されてきた建物と
言われています。









太鼓門を抜け、本丸に入ります。












太鼓門を抜けながら、ふり返って
太鼓門の中を見たところ。











太鼓門を抜けて、
太鼓門をふり返って見たところ。

太鼓門を内側から見ると、
櫓門へ高欄付の廊下がついています。

太鼓門に向かって左側、門に直角に
続櫓が建っています。





その太鼓門越しに天守を見たところ。












右側が太鼓門で、
左側が、太鼓門に直角に続いて建つ
続櫓です。










本丸へ上がり、
南東正面から天守を見たところ。











太鼓門、及び、続櫓を
ふり返って見たところ。











太鼓門の櫓の中へ入ってみます。

その櫓の中です。















太鼓門の櫓の中、西に面した格子窓です。












太鼓門の櫓の中から、東を見たところ。

東側には、高欄付の開放廊下が付いています。











■天守

太鼓門を抜け、本丸に上がって、
南東から天守を見たところ。

天守は3階3重の屋根で構成され、
屋根には「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を配し、
2階と3階には「花頭窓」、3階には高欄付の「廻縁」が巡らされ
外観に重きを置く、一方、
外から見えない「鉄砲狭間」や「矢狭間」、
その他、「武者隠し」、「急な階段」等、
実戦を意識した工夫がされています。

また、この天守は、
4重だった大津城の天守を3重に縮小し移築されたと
言われています。




天守の東の角近くに、天守入口があります。












入口には、鉄扉があり、鉄扉を入ると、
その奥に天守1階への階段があります。
















その階段を1階へ上がると、
続けて2階へ上がる急な階段があります。
















まず、1階を見て周ります。

1階の中央には、内陣があり、
その周囲を武者走りが巡っています。

その武者走りの幅は広く、
防御する武者が待機する場所、
武者溜りの役割を持ってます。

階段の横から、南の隅を向いて
武者走りを見たところ。







東の隅を向いて、武者走りを見たところ。

















東の隅から北の隅を向いて、
武者走りを見たところ。

左側の戸板の内側には、内陣があり、
その周囲を、武者走りが巡っています。








天守の北東角から附櫓が北東へ伸びています。

その附櫓へ向け下りる階段の入口から、
附櫓の中を見たところ。

この附櫓の右側奥に附櫓から多聞櫓へ続く
入口が見えます。

右側の壁には、
修繕工事で取り替えられた
花頂窓の窓枠でしょうか?
立てかけてあります。

附櫓へ下りる階段の上部、
屋根裏を見たところ。











北の隅から西の隅を向いて
武者走りを見たところ。
左側の戸板の内側には、内陣があります。

武者走り、西の隅には、
井伊直弼の木造が展示されています。







格子窓と、その横の鉄砲狭間です。

この鉄砲狭間は、
普段、外からわからないように
板を嵌め壁が塗ってあり、
戦時は穴を開けて使用します。
隠狭間(かくしざま)と呼ばれています。






西の隅から、南の隅を向いて、
武者走りを見たところ。











鉄砲狭間と矢狭間です。

鉄砲狭間は、△、▢の形状があり、
矢狭間は、縦長の長方形になってます。









武者走りの内側、内陣です。












内陣です。












1階から2階へ上がり、続けて3階へ上がります。

2階から3階へ上がる階段です。















3階の花頭窓です。

花頭窓の外には、高欄付の廻縁が見えます。
但し、廻縁に出る事はできません。









その花頭窓からの景色です。

北、少し東よりを見たところ。

中央辺りに、平和堂HATOスタジアム等がある
彦根総合スポーツ公園が見えます。

遠く右よりには、伊吹山が見えます。





3階の武者走りを順路に従って周ります。












右は、花頭窓の窓枠です。












3階の花頭窓から南東を見たところ。

中央、左より、ビルの陰にJR彦根駅が見えます。

右よりに、
NTT西日本 彦根別館の電波塔が見えます。







視線を、南東から南に動かします。

中央、左よりに、
NTT西日本 彦根別館の電波塔が見えます。









破風の内側には、
破風の間と呼ばれる小部屋があります。











その小部屋の中には、鉄砲狭間が見えます。












天守3階の内陣を見たところ。

中央の梁の上に掲げられている額は、国宝指定書で、
「彦根城天守、附櫓及び多聞櫓二棟を国宝に指定する」と
あります。













3階の花頭窓から、北西を見たところ。

窓から西の丸三重櫓が見えます。










西、少し北よりを見たところ。

中央辺りに、滋賀大学 彦根キャンパスが見え、
その向こうに琵琶湖が見えます。

琵琶湖には、多景島が小さく浮かんでいます。







その多景島です。

この多景島には、
日蓮宗のお寺、霊夢山見塔寺があります。









北西、北よりには、
琵琶湖に浮かぶ竹生島が薄っすらと見えます。

左下は、西の丸三重櫓です。









中央の島が、竹生島です。

竹生島には、
弁財天と千手観音を祀る宝厳寺があります。









北を見たところ。

中央の建物は、亀の井ホテル彦根です。

右端にビワフロント彦根が見えます。








北東を見たところ。

中央左側に平和堂HATOスタジアム、
右側にHPLベースボールパークが見えます。

遠く右よりに伊吹山が見えます。







天守2階へ下ります。

天守2階の内陣です。










天守2階の内陣です。












天守2階から北東を見たところ。

平和堂HATOスタジアム、
HPLベースボールパーク等、
彦根総合スポーツ公園が見えます。

中央右側、遠くに伊吹山が見えます。






南西を見たところ。

右半分に琵琶湖、左端に荒神山が見えます。

中央には、琵琶湖に浮かぶ沖島が見えます。

沖島は、琵琶湖最大の島で、
奥津島神社があります。





左よりに琵琶湖に浮かぶ沖島が見えます。

右端、琵琶湖の対岸には、
比良山地の蓬莱山が見えます。









視線を北に向け動かします。

琵琶湖湖畔、右よりに見える白い建物は、
滋賀大学の学生寮、偲聖寮です。

そして、中央、左より、琵琶湖の対岸に見える山は、
蓬莱山です。






天守2階から1階へ下り、
更に天守入口へ下ります。











天守入口から外へ出て、天守を見上げます。

天守の右側に続く建物は、
附櫓で、更に多聞櫓に続きます。















■着見台

天守を出て、東へ進みながら、
東側から天守を見たところ。











天守を出て、東へ進んで行くと、
雁木のような階段があります。











その階段の上は、着見台です。












その東の端は、着見櫓跡です。

着見櫓は、二階櫓で、
眼下に城門の佐和口、及び、京橋口の看視に当たり、
遠く中山道から分岐し佐和山を越え城下に入る
切通道(彦根道)を望みました。
明治初年に櫓は取り壊されています。

中央、北東方向に伊吹山が見えます。




着見台から、
天守の北西に位置する西の丸の
東面に築かれた石垣を見たところ。

中央辺りに見える麓から上ってくる道は、
黒門山道です。







着見台から、北を見たところ。

眼下、右よりに楽々園が見えます。

楽々園は、
彦根藩4代藩主、井伊直興によって、建立された
二の丸御殿の建物部分で、
庭園部分は玄宮園になります。

遠く中央には、琵琶湖が見えます。



琵琶湖です。

右下には、内堀が見えます。










琵琶湖岸、右よりに
ビワフロント彦根が見えます。











着見台から、北東を見たところ。

中央辺りに、
彦根藩4代藩主、井伊直興によって、建立された
二の丸御殿の庭園、玄宮園が見えます。

その向こうには、
彦根総合スポーツ公園が見えます。

また、遠くには、中央右よりに、
伊吹山が見えます。


着見台から、南、少し東よりを見たところ。

中央は、彦根城博物館で、
その上方、左よりに、
佐和口門跡が見えます。

中央、右より、上方に
NTT西日本 彦根別館の電波塔が見えます。





中央は、そのNTT西日本 彦根別館の電波塔です。












着見台から、南、少し西よりを見たところ。

本丸の石垣の横に、天秤櫓が見えます。










その天秤櫓です。

天秤櫓の西側の二重櫓です。











■本丸から西の丸へ

着見台を下り、太鼓門の前を通って、
本丸の西側の石垣に沿って進みます。

左端の建物は、太鼓門の続櫓です。









太鼓門の前を通りすぎて、
本丸の西側の石垣へ向かいます。











本丸の石垣の上から、
西、少し南よりを見たところ。

左端に荒神山が見え、その右に
琵琶湖が広がっています。

中央、左より、
琵琶湖へ沖島が浮かんでいます。





左より、琵琶湖へ浮かぶ沖島が、
薄っすらと見えます。











天守を、南西からふり返って見たところ。












天守です。












本丸の西側の石垣の上から、
西、少し南よりを見たところ。

左端、琵琶湖の中に沖島が見えます。









本丸と西の丸を仕切る門の跡と思われる
石垣の間を、西の丸へ向かいます。











一段低くなった西の丸へ下りて行きます。












西の丸へ向け下りて行きながら、天守を見上げたところ。

















天守を北西から見上げたところ。

















西の丸の西側の石垣です。

















西の丸の西側の石垣の上から、南を向いて
本丸の石垣を見たところ。











西の丸の中の道を進みます。












西の丸の西側の石垣の上から、
西、少し南よりを見たところ。

眼下には彦根城の西側を囲む中堀が見えます。

中央辺りに、琵琶湖に浮かぶ沖島が見えます。







中央、右より、琵琶湖岸に
滋賀大学の偲聖寮が見えます。

琵琶湖対岸、左よりに権現山、
右端に武奈ヶ岳、等、
比良山系の山が見えます。







西の丸の西側の石垣です。

石垣の先には、
西の丸三重櫓及び続櫓が見えます。









眼下には、彦根市立西中学校が見えます。

その向こう側に
滋賀大学彦根キャンパスが見えます。

更にその向こうには琵琶湖が見えます。







西の丸三重櫓へ向け進みながら、
西の丸の西側の石垣の上から、
西、少し南よりを見たところ。


中央辺り、琵琶湖岸に
滋賀大学の偲聖寮が見えます。

眼下に見える白い壁の建物は、
滋賀大学講堂です。

この講堂は、大正13年(1924)に
経済学部の前身の彦根高等学校の講堂として
建てられたものです。


■西の丸三重櫓及び続櫓

西の丸三重櫓及び続櫓です。

西の丸三重櫓は、本丸の北西に隣接する
西の丸の北西隅に位置します。
三重櫓の東側と南側に、
それぞれ1階の続櫓が「く」の字に
付設されています。
小谷城天守を移設したと伝えられる三重櫓は、
天守のような装飾的な破風等は無く、
櫓全体が総漆喰塗りとなってます。



西の丸三重櫓及び続櫓の手前から、
西、少し北よりを見たところ。

琵琶湖の沖合に
霊夢山見塔寺がある多景島が見えます。








西の丸三重櫓及び続櫓です。












西の丸三重櫓及び続櫓です。












周辺では、発掘調査が行われていました。












三重櫓の東側に位置する続櫓の
東側にある入口から、中に入ります。

入口を入って、西、三重櫓の方を向いて
続櫓の中を見たところ。








三重櫓の1階です。












三重櫓から南へ延びる続櫓です。












三重櫓の1階から、2階へ上がる階段です。

















その階段を2階へ上がると、その横に
3階へ上がる階段があります。











3階へ上がる階段を上がったところ。












三重櫓の3階です。












三重櫓を1階へ下りて、
内部を見たところ。











三重櫓1階から、東へ続く続櫓へ出て、
出口へ向かいます。











続櫓の出口を出たところ。

溝が掘られて、発掘調査が行われています。










西の丸から、
西の丸の北に位置する観音台へ
下る道です。

左端は、西の丸三重櫓から東へ続く続櫓です。








西の丸です。

西の丸から観音台へ続く道です。










西の丸の東側の石垣の上から、
北を見たところ。











西の丸の東側の石垣の上から、
着見台の北側の石垣を見たところ。

右端に、天守下から彦根山を下る
黒門山道が見えます。








黒門山道の入口へ向かう途中に
発掘調査で出てきた瓦でしょうか、
メッシュボックスに入ってました。











■黒門山道、井戸曲輪、黒門跡

天守の北側、天守の脇から、
黒門山道を下ります。











天守の脇から、黒門山道を下ります。

天守を北側から見上げたところ。

中央右側が天守で、その左側下が附櫓です。













天守下、黒門山道から西の丸へ入る門の跡です。












左下の附櫓、右側の天守を見上げたところ。












黒門山道を下って行きます。

右側、本丸の石垣の上には、
天守附櫓から伸びる多聞櫓が見えます。









右側の本丸の石垣の下には、
井戸曲輪があります。

弧状に築かれた曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、
石組溝で集めた雨水を浄化して貯水する井戸が
ありました。






その井戸曲輪に沿った道を、下って行きます。











その井戸曲輪の横にあった説明です。


















黒門山道を下って行きます。












途中、敵の侵入を防ぐ為の門の跡があります。












その門の跡を出て、ふり返ったところ。

















黒門山道を蛇行しながら、下って行きます。












右側は、井戸曲輪の石垣です。












黒門山道を下りながら、
井戸曲輪の石垣、更にその上の
本丸の石垣をふり返ったところ。










黒門山道を曲輪跡を見ながら、下って行きます。












黒門山道を下ると、
前方に黒門跡の石垣が見えます。











黒門跡です。












黒門跡です。

黒門は、
この石垣の上に櫓が載った櫓門でした。









黒門跡です。

両側の石垣の上にあった櫓門を抜けると
黒門橋があります。









黒門橋の上から、
北西方向、内堀を見たところ。











黒門橋の上から、
南東方向、内堀を見たところ。











黒門橋を渡って、
黒門橋をふり返って見たところ。

現在は土橋になってますが、
当時は木橋でした。









■楽々園、玄宮園

黒門橋を渡り、
内堀に沿って、南東へ進んで行くと、
白い幕で覆われたゲートがあり、その脇に
井伊直弼生誕地と掘られた石標があります。

井伊直弼の生誕地は、
これから向かう楽々園ですが、
ここは立ち入り禁止の札が出ています。





少し進むと、
名勝 玄宮園の標識があります。

ここから中に入ると、
楽々園と玄宮園の入口があります。








まず最初に楽々園へ行ってみます。

楽々園は、
延宝5年(1677)に4代、井伊直興によって
造営が始まった下屋敷で、
江戸時代には槻御殿とも呼ばれていました。

楽々園の玄関が見えてきます。





楽々園の玄関の車寄せです。












楽々園の説明です。













玄関を入ると、御書院があります。

楽々園は、下屋敷であると同時に、
隠居所としても使用されています。
日米修好通商条約を締結し
日本の開国を推し進めた13代、井伊直弼は、
隠居していた11代、井伊直中の子として、
ここ、楽々園で生まれています。





その御書院です。












御書院の奥には、手前から
地震の間、雷の間が並んでいます。

更に奥には、楽々の間があり、
楽々園の名前の由来になっています。








建物の前には、枯山水の庭が
築庭されています。











楽々園の前の庭です。

玄宮園に続いています。










楽々園の前の庭です。












玄宮園の西口前にあった 玄宮園の説明です。

玄宮園は、
延宝5年(1677)に4代、井伊直興によって、
現在の楽々園、槻御殿の庭園として
造営が始まっています。

中国の玄宗皇帝の、
宮廷に付属した庭園を玄宮と言った事から、
玄宮園と呼ばれています。



玄宮園の西口を入り、
玄宮園側から楽々園を見たところ。











そして、玄宮園です。

玄宮園は、
地元、近江国の近江八景を表現した
池泉回遊式庭園で、
池泉は琵琶湖を、池の中の中島は竹生島を
表しています。

中央の島の
左側の橋は、七間橋です。



池に沿って歩きます。












この大きな池は、
魚躍沼(ぎょやくしょう)と呼ばれています。

右に見える橋は、龍臥橋です。









池に沿って歩いて行きます。

右に見える木橋は七間橋です。










右端が七間橋で、中央の島の左側には、
池にせり出して建つ臨池閣が見えます。











中央から左側の大きな島は、
鶴鳴渚と呼ばれる鶴島です。

中央、左よりに見える
先が尖った天を突くような立石は、
鶴の首に見立てた鶴首石です。







池に沿って歩きながら、南を見たところ。

正面に龍臥橋が見えます。










池の北の畔を歩いて行くと、左手に
飛梁渓があります。

この飛梁渓には、木の陰に木橋が見えます。









飛梁渓の反対側、池の中には、
鶴島の鶴鳴渚があります。

冬の為、水位が下がっており、
池の底が見えています。








鶴鳴渚の西の横、池の中に立つ石組み越しに
龍臥橋を見たところ。











目の前の島は、鶴鳴渚で、
その向こう彦根山の上に
彦根城の天守が見えます。










鶴鳴渚の北側には、船着跡があります。












中央は、
右の鶴鳴渚に向けて架かる橋です。
















池畔に沿って南に進みながら、
西を見たところ。

中央に池にせり出して建つ臨池閣、
その左側に茶室の鳳翔台が見えます。








池の中の蓬莱石です。

蓬莱石の向こう側に亀島があり、
その亀島と鳳翔台を結ぶ高橋が、
亀島の右側に見えています。

髙橋は、老朽化に伴う
架け替え工事が行われていました。










中央、左よりに
池にせり出して建つ臨池閣が見えます。











龍臥橋の東の袂から、
池越しに臨池閣を見たところ。











龍臥橋の上から、
鶴鳴渚の南西の石組を見たところ。

その石組の前には、
冬場に嘴が黄色いダイサギと
嘴は黒く足の指が黄色いコサギがいます。







玄宮園の南の端から、
左側の亀島へ向けて架かる
龍臥橋を見たところ。










玄宮園の東口を出て、
南を向いて内堀を見たところ。











この内堀に隣接し、金亀児童公園があり、
その中に井伊大老銅像があります。

井伊大老とは、
安政5年(1858)、江戸幕府の大老となった井伊直弼です。

井伊直弼は、
幕府の大老になるとアメリカとの開国を英断しますが、
安政7年(1860)に桜田門外で暗殺されます。









その銅像の横に、
井伊直弼の曽孫の井伊文子の歌碑が建ってます。

 一身に背負ひまして 立ちましし
    大老ありてこそ 開港はなりぬ








折れ曲る内堀に沿って進み、
佐和口門跡を抜けて、
中堀沿いにある埋木舎へ向かいます。

その途中に、
表門橋方向を向いて、内堀を見たところ。








■埋木舎(うもれぎのや)

埋木舎の表門です。

表門は武家門になっており、
その向こうは長屋です。

埋木舎は、
彦根藩13代藩主で幕府大老を務めた井伊直弼が、
17歳から32歳の15年間を過ごした屋敷です。
井伊直弼は、11代藩主井伊直中の14男で
嫡子ではなく庶子だった為、
御殿を出て城外のこの屋敷で質素な暮らしを
送らねばなりませんでした。


表門を入ると、玄関があります。












その玄関の前の柳の下に、井戸があります。

この井戸は、馬で外出し、帰宅した時に、
喉が渇いた馬に水をやる為のものと伝わります。














玄関の中です。

中央の和歌は、井伊直弼が、
生涯をこの貧しい屋敷で過ごさねばならない
と悟った時の心境を詠んだものです。

 世の中をよそに見つつも埋木の
    埋もれておらむ心なき身は

この歌が、
埋木舎と呼ばれるようになった由来です。


玄関を出て、木戸をくぐり、
西から北、そして東へ建物の周囲を周ります。











表座敷です。
来客応接等に使用され。
表書院とも言います。

右端には便所があり、
その横に手水があります。







表座敷は、8畳の二部屋が連なっており、
座敷の前は、二部屋通しの畳廊下が通ってます。

左側が主室で、床の間があります。

そして、左端のとび出た部屋は、
茶室の「澍露軒」です。



そして、表座敷の中には、
井伊直弼の埋木舎時代に
客人接待の為に使用された食器の漆器類や、
日常の使用品が展示されています








右端は、表座敷の前の庭の石灯籠です。

左側の白い壁の出っ張りは、
茶室の「澍露軒」があります。









茶室の「澍露軒」です。

「澍露軒」は、
法華経の「甘露の法雨を澍(そそぎ)て、
煩悩の焔を滅除す」の一文から
とったものです。

井伊直弼は、埋木舎時代、
茶の湯、和歌、謡曲に造諮が深く、
「茶歌ポン(鼓の音)」と呼ばれていました。

特に茶の湯は、茶の湯思想の集大成として、
「一期一会」「独座観念」の語を用いて
「茶会一会集」を著しています。

茶室の横を周って、奥座敷へ向かいます。

右の棟に、奥座敷があり、
正面、左の棟に、仏間、座禅の間、お産の間が
並んでいます。








奥座敷です。

奥座敷は、
井伊直弼が日常生活や、勉学をした部屋で
御居間とも呼ばれています。

御居間には、
井伊直弼と、井伊家に仕えた大久保小膳の
肖像画の切り抜きが話をしているかのように
置かれています。

大久保小膳は、
水戸浪士による桜田門外の変が起きた際には、
正使として、一大事を彦根へ伝え、水戸との戦を止めた人物です。

仏間です。

仏間には、埋木舎時代に
井伊直弼の日常生活のお世話をした女性、
志津と里和の紹介があります。








右端が、御居間で、直角に曲がって、
仏間、座禅の間、お産の間が並んでます。











御居間、仏間、座禅の間に囲われた庭です。












埋木舎を出て、埋木舎の門の前から、
中堀、佐和口門跡を見たところ。












■内堀、大手門跡、屋形船

佐和口門跡を抜けると、内堀に出ます。

内堀に架かる表門橋を過ぎ、
内堀に沿って西へ進みます。

先に大手門橋が見えてきます。







内堀に架かる木橋の大手門橋です。












その大手門橋を渡ります。












大手門橋の西側の袂から、
北西に向け伸びる内堀を見たところ。











大手門は、大手門橋を渡ると冠木門があり、
その冠木門を入って、桝形があり、
直角に曲がって進むと
櫓門がありました。









手前は枡形で、その向こうの石垣の上に
櫓があり、その下は門になってました。











大手門の櫓門跡を抜けて、
ふり返って見たところ。











大手門を抜けて歩きながら、
彦根山の斜面をふり返り見上げると
鐘の丸の石垣が見えます。










彦根山の斜面を見上げると、木々の間に
天秤櫓も見えます。











少し行くと、右手に
金亀山地蔵尊が祀られた地蔵堂があります。



そして、更に進むと
天秤櫓へ向かう大手山道がありますが、
朝、表門参道から上ったので、
ここで引き返します。




引き返しながら、大手門跡から
大手門橋を見たところ。











大手門橋を西へ渡り、
北西を向いて内堀を見たところ。











内堀に沿って、北西に進みながら、
天守を見上げたところ。

天守の屋根の一部が少し見えます。














内堀に架かる大手門橋を
ふり返って見たところ。











大手門橋を見たら、京橋口を出て、
昼食をとる事にします。

内堀に沿って、南東へ引き返していると
前方から、屋形船がやってくるのが見えます。








その屋形船です。

この屋形船は、
藩主の領内の視察、大名や公家の接待、
湖上での鷹狩りに使用した藩主御好屋形船を
当時の絵図面や古寫眞から
当時の寸尺で復元したものと言う事です。









■近江牛 牛丼御膳

昼食は、京橋口を出て
夢京橋キャッスルロードでとる事にします。

夢京橋キャッスルロードを歩いていると
近江牛の文字が目に入ります。

と言う事で、「近江や」と言うお店に入ります。






店内に入ると、いろんな有名人の色紙があります。

















注文した近江牛の牛丼御膳です。














近江牛の牛丼御膳です。















■帰途へ

昼食を食べ終わると、帰途につきます。

JR彦根駅西口には、
彦根藩初代藩主の井伊直政の
銅像がたってます。








彦根藩初代藩主の井伊直政の銅像です。












JR彦根駅から、在来線で京都駅へ向かい、
京都から新幹線で帰広します。

京都で指定列車の出発まで、少し時間があったので、
「みのりカフェ 京都ポルタ店」で
宇治抹茶ラテフロートを飲んで一休みしました。














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