奈良・京都旅行の7日目は、北野天満宮、平野神社、龍安寺、仁和寺、金閣寺、大徳寺、清明神社、京都御所、元離宮 二条城を
周りました。
朝早く起きて、
北野天満宮、平野神社、龍安寺、
仁和寺、
金閣寺、
を周り、金閣寺を出て北大路通りを東へ進みます。
北大路通りを東へ進んで行くと、大徳寺の塀が見えてきます。
その塀に沿って進んで行くと、大徳寺の南門があります。
大徳寺の南門です。
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で、龍宝山と号します。
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に
大燈国師宗峰妙超禅師によって開創されました。
応仁の乱で大部分の伽藍を焼失するなど、
一時、寺運が衰えましたが、
その後、一休禅師が再興し、
安土桃山時代には豊臣秀吉をはじめ
諸大名が伽藍の建立に力を入れ隆盛を極めました。
一休禅師(1394-1481)は、室町時代の禅僧で、名は宗純、
現代では、とんちで知られる一休さんです。
父親は、南北朝統一の象徴となった後小松天皇で、母親の伊予の局によって、
政争に巻き込まれないよう、5歳の時に出家させられました。
南門から北に延びる参道を見たところ。
北に延びる参道です。
参道を進みながら、南門をふり返ったところ。
参道を進んで行くと左手に、大徳寺塔頭の黄梅院があります。
黄梅院の唐門です。
黄梅院の門の横にあった説明です。
黄梅院は、永禄5年(1562)、織田信長が初めて上洛した際に、父、信秀の追善菩提の為に
小庵、黄梅庵を建立した事に始まります。
その後、本能寺の変によって、信長が急逝した後、天正14年(1586)に羽柴秀吉により本堂と唐門が、
天正17年(1589)に毛利元就の子、小早川隆景により庫裏と表門が改築され、この年に黄梅院と改められました。
黄梅院の唐門を入った右手に4基の石標がたってます。
・萬松院殿 織田信秀公 霊所
・洞春寺殿 毛利元就公 家一門霊所
・小早川隆景卿墓所
・蒲生氏郷公墓地
黄梅院の唐門を入って、西側正面に庫裏があります。
その庫裏を南東から見たところ。
庫裏は、日本の禅宗寺院において、現存する最古のものと
言われています。
順路の矢印に従って進んで行くと、千利休が作庭した
枯山水の直中庭などの庭園がありますが、拝観料が必要で、
次の機会に拝観させて頂くことにします。
参道に戻り、北へ参道を進んで行くと左手に、
これも大徳寺の塔頭のひとつ、龍源院があります。
龍源院の説明です。
文亀2年(1502)、大徳寺第72世住職、東渓宗牧を開山として、
能登の畠山義元、豊後の大友義長らとともに創建されました。
龍源寺の門から中をのぞいたところ。
龍源寺には、趣の異なる三つの庭、方丈の北側の龍吟亭、
南側の一枝担、そして、方丈坪庭の東滴壺が有名です。
但し、中には入らず、参道に戻ります。
参道を進み右手に、
大徳寺の塔頭のひとつ、徳禅寺があります。
更に参道を進んで行くと突き当り、
西に大徳寺の勅使門が見えます。
更に勅使門の北側には、木の陰になりますが、
大徳寺の三門が見えます。
近くあった大徳寺山内図です。
勅使門です。
慶長18年(1613)に造営された御所の門が、
寛永17年(1640)に下賜され、移築された門です。
前後に唐破風を持ち、左右は切妻の檜皮葺屋根を持つ
四脚門です。
その勅使門の西側に平康頼之塔があります。
治承元年(1177)、権勢をふるっていた平家を倒す陰謀が
平清盛に察知され関係者が捕らえられました。
鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる事件です。
その陰謀に加わった人物の一人に、平康頼がおり、
鬼界ケ島へ島流しとなりました。
その平康頼は、千本の卒塔婆を流し、
その一本が厳島神社へ流れつき、
都中の評判となって、やがて許されます。
その平康頼の供養塔です。
勅使門は通り抜け禁止で、
勅使門の西側から参道は北へのびています。
その参道を隔てた西側に、
大徳寺の塔頭の一つ、興臨院があります。
興臨院は、大永年間(1521-1528)に
能登の畠山義総によって創建され、
義総の法名から興臨院と称されてます。
畠山家の衰退と共に荒廃しますが、
天正9年(1581)に前田利家によって
屋根の葺き替えが行われ、
以後、畠山家に加え前田家の菩提寺になってます。
三門(山門)です。
山門とは、龍宝山の門を指し、
三門とは、空門、無相門、無作門の三解脱門を指します。
応仁の乱後、大永6年(1526)、連歌師宗長が初層を寄進し、
天正17年(1589)に千利休によって上層が完成し、
上層を金毛閣と呼ばれています。
上層が完成すると、当時の住持の古渓宗陳が感謝の意として、
千利休の木造を金毛閣に祀ります。
そして、豊臣秀吉は、
「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くとは、
高貴な方の頭を踏みつける行為である。」と怒り、
千利休は切腹を命じられる事になりました。
三門のすぐ北側に、仏殿があります。
仏殿は、応仁の乱で焼失しましたが、
寛文5年(1665)に那波常有によって
再建されたものです。
三門を北西から見たところ。
右端が仏殿、中央左よりが法堂です。
参道の左手には、三玄院があります。
三玄院は、天正17年(1589)に、
浅野幸長、石田三成、森忠政(蘭丸の弟)によって、
春屋宗園を開祖とし創建されました。
小堀遠州、古田織部、薮内剣仲、長谷川等伯などは、
春屋に禅を学んだ人々です。
仏殿の北側の法堂です。
法堂は、寛永13年(1836)、
小田原城主、稲葉正勝の遺命によって、
その子、正則が寄進したものです。
法堂の横、参道を更に北へ進んで行くと、
突き当りに、門があり、
臨済宗 大徳寺派 宗務本所の標札がかかっています。
その門の向こう右側の大屋根が、宗務本所で、
その東側には大方丈があります。
仏殿の北、宗務本所の南に位置する法堂です。
宗務本所の西に位置する聚光院です。
聚光院は、大徳寺の塔頭の一つで、
永禄9年(1566)、戦国武将の三好義継によって
創建されました。
そして、千利休と、その流れを汲む三千家(表千家、裏千家、
武者小路千家)の菩提寺になってます。
更にその聚光院の西に位置する総見院です。
大徳寺の塔頭の一つで、
本能寺の変に倒れた織田信長の一周忌に当たる
天正11年(1583)に、その追善菩提の為に
羽柴秀吉によって建立されました。
本堂には、秀吉によって奉納された織田信長公坐像が
安置されています。
法堂の東側に位置する鐘楼です。
大徳寺を出て、次は清明神社へ向かいます。
北大路通りを東へ進み、堀川通りへ出て、
南へ進みます。
途中、右手に紫式部墓所と小野篁卿墓の石碑が
たってます。
左が源氏物語で有名な紫式部の墓で、
右が平安時代の貴族で歌人、そして、
閻魔大王に仕えたとも言われる
小野篁(802-852)の墓です。
お墓が並んでますが、紫式部が生まれたのは、
小野篁没後、約120年後という事なので、
実際の接点はありません。
では、なぜ二人の墓が並んでいるのか?
紫式部は平安貴族社会の恋愛、愛欲を描いた咎で、
死後は地獄へ行くと言われていました。
そこで、小野篁が閻魔大王に紫式部の地獄行きをとりなした
と言う伝説に由来していると言われています。
紫式部の墓です。
その墓所の片隅にあったお地蔵様です。
堀川通りを南下していくと、左手に清明神社があります。
清明神社は、陰陽師、阿部清明が祀られています。
一の鳥居の横の清明神社由緒です。
阿部清明(921-1005)は、
孝元亭の後胤で、陰陽の道を極め、
長じて陰陽寮天文博士として、
朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条の
六代の天皇に仕えました。
そして、朝廷の祭政、生活の規範を陰陽の理を以て定め、
今日の我々の年中行事や歴術、占法に
多くの影響を与えています。
一の鳥居です。西へ参道がのびています。
鳥居の額には、
通常、神社名や祭神の名前を掲げる事が多いですが、
この鳥居には社紋の清明桔梗が掲げられています。
鳥居に掲げられた社紋の清明桔梗です。
五芒星とも呼ばれ、
清明が創った陰陽道に用いられる祈祷符号の一つです。
一の鳥居を入った左手に、旧一条戻橋があります。
一条戻橋は、清明神社から南へ100mのところの
堀川に架かっています。
その橋の架け替えに伴い
先代の橋で使用されていた欄干の親柱を
境内に移し再現したものです。
一条戻橋の名前の由来は以下です。
漢学者、三善清行の八男で天台宗の僧の浄蔵が、
熊野で修行中に、父の危篤の知らせで急ぎ京へ戻ります。
一条橋にさしかかった時、父の葬儀の列に出会います。
間に合わなかったと泣き崩れた時、父がよみがえったと言う
伝説から戻橋と呼ばれるようになりました。
橋の傍らには、阿部清明の式神の石像が置かれています。
式神は、陰陽師が使う精霊で、人の目には見えません。
しかし、式神を清明の妻が畏れる為、
一条戻橋の下に封じ込められていたと言う
伝説があります。
一の鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、
先に二の鳥居があります。
その手前には、日月柱があります。
その日月柱を過ぎて、日月柱をふり返ったところ。
南に日の石像、北に月の石像が配されており、
陰陽を表しています。
参道を進むと、道が横切り、その向こうに、
二の鳥居があります。
二の鳥居です。
鳥居の額には、清明社とあります。
二の鳥居をくぐると、四神門があり、
四神門から境内を見たところ。
写真の両脇に映っているのが、四神門の門扉。
四神門は、朝廷の使いが来ると、門扉がひとりでに開き、
門から出るとひとりでに閉まったと言う伝説があります。
四神門を入って、境内を見たところ。
右手に手水舎があります。
手水舎のすぐ横、東側に清明井があります。
安倍晴明邸に、古より湧き出ていた洛中名水の一つで、
諸病平癒にご利益があるとされます。
流水口が、その歳の恵方を向いており、吉祥の水を得られます。
ちなみに恵方とは、歳徳神、もしくは、年神様のいる方向です。
参拝した令和元年(2019)の恵方は、東北東で、
流水口は東北東を向いてます。
また、此処は茶道三千家の祖、千利休の屋敷があったとされており、
最期に自服した茶もこの水が使われたとされます。
拝殿を通して、本殿にお参りします。
拝殿の前から、奥の本殿を拝します。
拝殿の前から、本殿を見たところ。
拝殿の奥に本殿の屋根が見えます。
本殿は、明治38年に建てられたものです。
本殿に向かって左側に、安倍晴明公像があります。
この像は、清明神社が所蔵する安倍晴明の肖像画を元に
制作されました。
衣の下で印を結び、夜空の星を見て、遠く天体を観測している様子を
あらわしています。
本殿に向かって右側に、厄除桃があります。
古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け、厄除けの果物と
言われています。
厄除桃の横の御神木です。
推定樹齢300年の楠です。
本殿の北側には、末社の斎稲荷社があります。
斎と言う言葉は、このお稲荷様が、
斎院(鴨神社に仕える斎王がおこもりする場所)に
あったことに由来します。
また、清明は、お稲荷様の生まれ変わりとする説があり、
各地で稲荷信仰と習合されています。
境内の南側の壁には、安倍晴明の伝説的な逸話を紹介した顕彰板があります。
上左:渡辺綱は、一条戻橋の上で女に送ってくれと声を掛けられます。
途中、女は鬼に姿をかえ綱の髪をとって空を飛びますが、腕を切り落とすと、鬼は宕山へ去ります。
清明に物忌を勧められ鬼の腕に封印し、鬼が母の姿で腕をとり戻しに来るが仁王に救われます。
上中:三井寺の智興上人が病で死にかけた。清明が身代わりをたずねると、弟子の証空が名乗り出た。
清明が泰山府君の法を修すると、智興上人は生気を取り戻し、証空が苦しみだしたが、
日ごろの信心で不動明王に助けられ、二人とも命を取り留めました。
上右:老僧が、童二人を連れて、清明の屋敷にやって来て、陰陽道を習いたいと言う。
老僧は、童と見せかけ式神を使っていました。清明は呪を用いて式神を隠します。
老僧はどうして供を隠すのか問い、清明は、私を試そうとしたと答えます。
老僧は清明に弟子入りを乞いました。
上左:花山帝は、頭痛で治療を施しても治らず苦しんでおられた。清明が見てみると、花山帝の前世は尊い行者で、
前世の髑髏が大峰の岩の間に挟まっており、取り出したら治ると言う。
髑髏の場所も言い当て、その通りにすると頭痛は無くなりました。
上右:清明が、広沢の御坊へ参り話をしている時、ある貴族が、式神をお使いになるなら人を殺せるかと問います。
清明は、生かす方法を知らぬので、たやすく殺せませぬと答えると、貴族は、蛙を殺してみよと言う。
清明が何かを唱え草の葉を投げると庭の蛙がひしゃげました。
上左:花山帝は、小野の宮の娘を女御とされましたが、ほどなく女御がなくなり、帝は悲しまれました。
そして、在位二年で御所を抜け出し、出家をされました。その出家の夜、清明は帝座の星に兆しを見て、
帝が譲位なさると声をあげました。
上右:藤原道長が、みずから建立した法成寺へ、毎日、白い愛犬を連れて参っていた。ある日、門に入ろうとすると、
犬がたちふさがるように吠えます。車から降りて入ろうとすると御衣の裾を咥えて引き留めます。
清明が占うと、道に呪いのものがうめてあると言う。かつて、清明の弟子であった道満の仕業であった。
清明神社を出て、堀川通りから、一条通りへ入り、
東へ向かいます。
烏丸通りへ出ると、
烏丸通りに沿って、京都御苑の石垣が見えます。
京都御苑は、禁裏の京都御所の周辺にあった公家町を
国民公園として整備したエリアを指します。
烏丸通りを南へ、京都御苑の石垣に沿って進んで行くと、
中立売御門があります。
中立売御門から更に南へ石垣は続いています。
北に向けても石垣が続きます。
中立売御門です。
中立売御門。
その中立売御門を入ると、
京都御所の築地塀が見えます。
築地塀で囲われたエリアが、
天皇の住まいだった御所、禁裏です。
京都御所は、何度も火災にあい、
そのたびに再建されています。
現在の御所は、嘉永7年(安政元年、1854)の大火で焼失し、
安政2年(1855)に再建されたものです。
中立売御門を入ったところにあった京都御苑のマップです。
中立売御門を入って、突き当りを右に行くと、
宜秋門があります。
宜秋門は、江戸時代、
宮中に参内する公家が通る門であった事から、
公家門とも呼ばれていました。
その宜秋門から北側を見たところ。
築地塀に沿って北へ進んで行くと、清所門があります。
清所門です。
京都御所は、休止日を除き通年公開をしており、
清所門はその参観出入り口になってます。
残念ながら、私が訪問した日は、
休止日で参観できませんでした。
御所の参観はできないので、
まず、入って来た中立売御門へ戻ります。
中立売御門です。
中立売御門を出て、堀川通りを南下し、
蛤御門へ向かいます。
蛤御門です。
もとは新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていました。
しかし、天明の大火(1788)の折に、開門され、
焼けて口あく蛤にたとえて蛤御門と呼ばれるように
なりました。
また、元治元年(1864)の禁門の変では、
長州軍と、薩摩、会津連合軍が衝突し、
蛤御門が最大の激戦地となった事から、
蛤御門の変とも呼ばれています。
その蛤御門を入って、蛤御門をふり返ったところ。
蛤御門を入って、京都御所を見たところ。
京都御所の南西角に大きな椋が生えています。
清水谷家の椋です。
清水谷家の椋の説明です。
この辺りは、清水谷家と言う公家の屋敷であった事から、
清水谷家の椋と呼ばれています。
樹齢は、約300年という事です。
その清水谷家の椋の横から、
北にのびる京都御所の築地塀を見たところ。
京都御所の南に広がる京都御苑です。
京都御所の南側築地塀の中央にある建礼門です。
その建礼門です。
京都御所の正面に位置し、
天皇皇后と外国元首級のみが通る事ができる
最も格式が高い門で、
切妻屋根、檜皮葺きの四脚門です。
建礼門を南、正面から見たところ。
建礼門の前から、南を見たところ。
京都御苑が広がっています。
建礼門の前から、南西を見たところ。
建礼門を、南西から見たところ。
建礼門の前から、蛤御門へ向け戻りながら、
蛤御門を見たところ。
清水谷家の椋の横から、
京都御所の築地塀を見たところ。
東を見たところ。
東遠方に、東山の如意ヶ岳(大門字山)に、
五山送り火の大の文字が見えます。
蛤御門を出て、次は二条城へ向かいます。
下長者町通りを西へ進んで行くと、堀川に出ます。
橋の上から、堀川南側を見たところ。
堀川に沿って南へ進みながら、堀川を見たところ。
堀川は、平安京造営時に運河として開削されました。
しかし、昭和の浸水対策事業で、水源が断たれ、
普段は水が無い川となっていました。
そして、平成になって、琵琶湖疎水第二疎水分線の水を引き込み
水流を復活させています。
前方の橋は、出水橋です。
堀川は、水辺の遊歩道に下りれるようになっており、
水辺の遊歩道を南へ進みます。
堀川に沿って、堀川通りを南下していくと、
右手に二条城の石垣が見えてきます。
二条城の北東角から、
二条城の北側の外堀、石垣を見たところ。
右よりに、北大手門の一部が見えてます。
二条城の北東角から、
二条城の東側の外堀、石垣を見たところ。
東側の外堀、石垣に沿って、南下します。
東大手門が見えてきます。
東側の外堀、石垣を、ふり返って見たところ。
東大手門です。
二条城は、慶長8年(1608)、江戸時代初代将軍徳川家康が、
京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とする為に
築城されました。
現在の東大手門は、寛文2年(1662)頃の建築と考えられており、
櫓門になってます。
築城当時も、現在と同様の櫓門でしたが、3代将軍家光の時代、
後水尾天皇が寛永の二条城行幸をされた際、
天皇を門の上から見下ろさないように、
一重の門に建て替えられたと言われてます。
東大手門の前から北側、外堀を見たところ。
東大手門の前から南側、外堀を見たところ。
東大手門の入口です。
東大手門の柱上部の装飾です。
柱下部の装飾です。
東大手門を入ると、右手に番所があり、
正面には二の丸御殿を囲う築地塀が見えます。
現在の番所は、寛文3年(1663)に建てられたものです。
平時の二条城には、幕府から派遣された二条在番と呼ばれる
武士たちが宿直、警護していました。
一組50人の在番が2組常駐し、この番所は在番の詰所の一つと
なってました。
全国でも番所が現存する城は江戸城や丸亀城等わずかしかなく、
貴重な建物です。
東大手門を入って南東方向を見ると、東南隅櫓があります。
二条城の外堀の四隅には、見張り台として隅櫓が建てられ、
普段は武器庫として使われてました。
しかし、天明8年(1788)の大火で東北と西北の隅櫓が焼失し、
今ではこの東南隅櫓と西南隅櫓の二つが残っています。
東大手門を入ったところにあった
城内マップです。
二の丸御殿の築地塀に沿って、東側から南へ回り込んで行くと、
唐門があります。
唐門です。
二の丸御殿の正門に当たり、切妻造、檜皮葺の四脚門で、
その屋根の前後に唐破風が付いてます。
その唐門を南正面から見たところ。
その唐門に近づいてみると、天皇家を表す
たくさんの菊の紋を見る事ができます。
実は、唐門の修復時に、菊の紋の下から、
徳川家の葵の紋が見つかりました。
もともと徳川家の城であった二条城が、
慶応3年(1867)の大政奉還により朝廷の管理下となり、
1884年に天皇家の二条離宮となった際に
菊の紋が取り付けられたと見られています。
唐門を入りながら見上げると、
牡丹に蝶、鶴に大和松、竜虎など、
豪華絢爛で極彩色の彫刻を見る事ができます。
その唐門を入ると、二の丸御殿があります。
唐門を入って、唐門を北側からふり返ったところ。
唐門の北面にも、亀乗り仙人、鳳凰と言った彫刻を
見る事ができます。
二の丸御殿の玄関にあたる車寄と、
その向こうの大きな屋根の建物は、遠侍です。
江戸時代初期の国宝建造物で、
遠侍は来訪者の控えの間として使用されました。
二の丸御殿の玄関にあたる車寄です。
二の丸御殿の観覧受付時間は、PM4:00と言う事で、
時間を過ぎてしまってたので、
二の丸御殿の中には入れませんでした。
車寄の屋根の下には、
5羽の鸞鳥が彫られた欄間彫刻があります。
国宝 二の丸御殿の説明です。
二の丸御殿は、将軍上洛時の居館として、
徳川家康により、慶長8年(1603)に造営され、
寛永3年(1626)、後水尾天皇行幸に備えて、
徳川家光の代に改造が行われ、
現在の姿となりました。
東南から南西にかけて、
遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の
全6棟が雁行形に並び、
江戸初期に完成した書院造の代表例です。
二の丸庭園へ向かいながら、北西から
唐門をふり返ったところ。
遠侍、車寄をふり返ったところ。
右端が遠侍で、続いて、式台、大広間の屋根が見えます。
遠侍の前を西へ、二の丸庭園へ向け進んで行くと、
二つの釣鐘があります。
その釣鐘の説明です。
京都所司代屋敷で、
火事等の緊急事態を
周辺に知らせる為に
使用されていた釣鐘です。
京都所司代は、
二条城の北に隣接して、
上屋敷、堀川屋敷、下屋敷(千本屋敷)の
3ヶ所あり、
この釣鐘は下屋敷で
使用されていたものです。
二の丸庭園の入口のまえにあった
特別名勝 二の丸庭園の説明です。
二の丸庭園は、築城時に作られ、
寛永3年(1626)に小堀遠州によって
改修された庭園です。
二の丸庭園の入口の門です。
二の丸庭園の入口の門を入って、ふり返ったところ。
二の丸庭園に入り、北を見ると、大広間の建物が見えます。
右端は式台です。
大広間は、一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなり、
将軍は一の間に南を向いて座りました。
慶長3年(1867)、10月13日、徳川慶喜は、この大広間へ
在京していた40藩の重臣を集め意見を聞き、
14日に政権を朝廷へ返上する事を申し出て、
15日に朝廷の許可が下りました。
この政権の返上を、大政奉還と呼んでいます。
中央から左へ、遠侍、式台、大広間です。
大広間の西に広がる二の丸庭園です。
大広間の西側を北へ向け進みながら、
正面に黒書院を見たところ。
黒書院は、江戸時代は小広間と呼ばれており、
大広間につぐ公式の場で、将軍と徳川家に近しい大名や
高位の公家の対面に使用されました。
後水尾天皇行幸に際し、行幸御殿が二の丸庭園の南側に
建てられましたが、二の丸庭園は行幸御殿、大広間、黒書院の
三方から観賞できるように工夫されていました。
ちなみに、行幸御殿は、行幸の後、移築され、現在はありません。
大広間の西側から、二の丸庭園を見たところ。
黒書院の前から南側、二の丸庭園を見ると、
蘇鉄があります。
大広間の南側、大広間と黒書院を繋ぐ渡り廊下のように
蘇鉄の間がありますが、その蘇鉄の間から西側に
この蘇鉄を見る事ができます。
南国植物の蘇鉄は珍しく、黒書院で将軍と対面する前に、
蘇鉄の間から珍しい蘇鉄を見せる事で、
将軍の権威を高める狙いがあったのかもしれません。
黒書院の前から、南側、二の丸庭園を見たところ。
黒書院の前から、南側、二の丸庭園を見たところ。
黒書院の前を南から西へ回り、
西から黒書院を見たところ。
黒書院の西側を北へ向けて進むと、
白書院があります。
白書院です。
白書院は、御座の間と呼ばれた事から、
将軍の居間と寝室であったと
考えられています。
次は、二の丸御殿を出て、本丸へ向かいます。
本丸を囲う内堀の前から、南を見たところ。
先に見える門は、桃山門です。
本丸櫓門へ向け、内堀に架かる東橋を渡りながら、
南を見たところ。
内堀の左側に見える門は、桃山門です。
本丸櫓門へ向け、内堀に架かる東橋を渡りながら、
北を見たところ。
内堀の右側に見える門は、鳴子門です。
南の桃山門と対になっており、
北を向いて本丸を防御しています。
鳴子門は、正、背面に4本の控柱を立てており四脚門ですが、
正面の控柱の出が小さく四脚門には見えません。
控柱を倒されれば、簡単に崩れてしまうため、
その弱点を補うため、出を小さくしていると
考えられています。
内堀に架かる東橋を渡り、
本丸櫓門を入り、城郭内へ入って、
鍵型に曲がり、階段を上って、
本丸櫓門方向をふり返ったところ。
石垣の間を通して、本丸櫓門を見たところ。
本丸櫓門は、
寛永3年(1626)、徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、
天明3年(1788)の天明の大火で唯一焼け残った櫓門です。
本丸庭園の説明です。
明治29年(1896)に
明治天皇の指示で作られた庭園です。
天皇は本丸御殿の最上階から指示を出され、
それは植栽にまで及んだと
記録が残っています。
本丸御殿の南側に広がる本丸庭園です。
本丸庭園です。
右に本丸御殿がありますが、訪問時は覆屋で覆われており、
本格修理事業が行われていました。
本丸御殿は、寛永3年(1626)に
徳川家光によって建てられましたが、
焼失後、幕末に15代将軍、徳川慶喜によって
再建されました。
しかし、明治14年(1881)頃に取り壊され、
明治26~27年(1893-4)に
京都御所の北東部にあった桂宮御殿が移築されました。
本丸庭園です。
園内の道を天守閣跡に向け進みます。
天守閣跡へ向け進みながら、本丸庭園をふり返ったところ。
天守閣跡へ上る階段の前にあった
説明です。
寛永3年(1626)に
伏見城から移築されたと
考えられています。
屋根は五重ですが、内部は地上5階、
地下1階の大きさで、屋根には銅版が
葺かれていたとの事です。
後水尾天皇は、寛永行幸時、
天守へ登られ、天皇が登った
唯一の天守閣と言われています。
そして、寛延3年に落雷により焼失し、
その後、再建されることなく、
現在は石垣だけが残されています。
天守閣跡への階段を登りながら、見上げたところ。
天守閣跡を見上げたところ。
天守閣跡です。
北東から、南西方向を見たところ。
天守閣跡から、北東を見たところ。
本丸御殿は、本格修理事業中で、覆屋で覆われています。
天守閣跡、南東角から、東を見たところ。
内堀の東の端、突き当りに、桃山門が見えます。
天守閣跡、南西角から、南西を見たところ。
内堀に沿って西南土蔵が建っているのが見えます。
西南土蔵です。
西南土蔵は、本丸西橋を挟んで、
西北土蔵と対になっており、
寛永3年頃の建築です。
建物は長さ18間と長く、内部が二つに分けられ、
天井は無く、床が張られています。
天守閣跡、南西角から、北を見たところ。
内堀に架かる橋は、本丸西橋です。
天守閣跡、北西角から北を見たところ。
内堀と、内堀に架かる本丸西橋が見えます。
その本丸西橋の向こう、
内堀に沿って小さく見える白い建物は、
西北土蔵です。
天守閣跡を下りながら、北を見たところ。
城壁の石垣の内側は、雁木になっています。
本丸庭園へ下りて、園路を北へ向かいます。
覆屋に覆われた本丸御殿があります。
本丸庭園の出入口の門です。
本丸庭園の門を出て、本丸西門へ向かいます。
土塁の向こうに本丸西門の石垣が見えます。
土塁の端を回って、本丸西門へ向かいます。
攻め手が本丸西門を入っても、
直線的に本丸内に入れないよう、
侵入を防ぐように土塁が作られています。
本丸西門跡です。
本丸西門の外枡形から、北西、内堀の向こうを見ると、
西北土蔵が見えます。
本丸西門跡を西から見たところ。
本丸西門の外枡形から、南を見たところ。
石垣の端に、先ほど行った天守閣跡の一段高くなった
石垣が見えます。
一段高くなった石垣が、天守閣跡です。
本丸西門から内堀に架かる本丸西橋を渡りながら、
本丸西門をふり返ったところ。
内堀に架かる本丸西橋と、本丸の石垣を見たところ。
内堀に架かる本丸西橋と、本丸西門、
そして、本丸の石垣です。
西橋から、北へ進むと、西北土蔵があります。
西北土蔵です。
その西北土蔵の説明です。
この先には、外堀を渡って、城外へ出る西門があります。
その西門の説明です。
江戸時代は、
二条城の通用門として
使われていました。
天明8年(1788)の大火で
櫓門が焼失し、
明治以降には外堀に架かる
木橋も失われ、
今は西門だけが残ってます。
慶長3年(1867)の大政奉還後、徳川慶喜が二条城を出て大阪城へ向かう時、
朝廷に遠慮し、表門にあたる東大手門を使用せず、西門を使用したとされています。
内堀北西角から、本丸西橋や、本丸の石垣を見たところ。
北側の内堀に沿った道を東へ進みながら、
西北土蔵をふり返ったところ。
東へ進んで行くと、北中仕切門があります。
北中仕切門を北西から見たところ。
北中仕切門の説明です。
北中仕切門は、内堀の南に位置する
南中仕切門と対になっており、
寛永3年(1626)頃の建築です。
埋門の形式であるが、背面の屋根だけが
延びている変わった構造となっています。
北中仕切門を抜け、南から北中仕切門を見たところ。
北中仕切門を抜け、内堀に沿って、東へ進みます。
進んで行くと、加茂七石があります。
加茂七石は、賀茂川や高野川の水系で採石された銘石です。
加茂七石です。
鞍馬石は、採石禁止されている貴重な石です。
そして、その先には、清流園和楽庵の門です。
更に内堀に沿って、東へ進みます。
右は本丸の石垣で、
内堀の向こうに見える白い塀は、鳴子門です。
東へ進みながら、内堀と反対側、北側を見ると、
清流園があります。
清流園です。
京都の豪商、角倉家の屋敷跡から
建築部材、庭石、樹木を譲り受け、
昭和40年(1965)に作庭されました。
和風庭園と洋風庭園からなる和洋折衷庭園です。
東へ進みながら、内堀を見たところ。
本丸の東側の内堀です。
本丸の石垣から東側に突き出た白い建物は、本丸東櫓門です。
そして、内堀に架かる橋は東橋です。
内堀に架かる東橋と、本丸東櫓門を見たところ。
そして、その内堀に沿って南北に走る通路には、
鳴子門が見えます。
更に東へ進んで行くと、北側に、北大手門が見えます。
北大手門は、道を挟んだ北側に京都所司代屋敷があったので、
その連絡門としても使われていたと考えられています。
慶長8年(1603)の築城時からこの場所にありますが、
現在の建物がその時のものか、
寛永行幸時に建て替えられたものかは不明です。
更に東へ進みながら、南を見ると、土蔵があります。
土蔵は、二の丸御殿の台所を、北と東から囲うように
存在してましたが、明治末年に東側の土蔵が撤去され、
現在は、北側23間半が残っています。
道なりに南へ向きを変え、南へ進みます。
右端の灰色の壁の建物は、先ほどの北側の土蔵です。
白壁の建物は、復元された東側の土蔵。
南へ進んで行くと、二の丸御殿の築地塀が見えてきます。
その築地塀の中、西側に遠侍の大屋根が見えます。
築地塀が途切れた箇所から、中をのぞいたところ。
大屋根の建物は、二の丸御殿の遠侍です。
二の丸御殿の築地塀にあいた通用口です。
築地塀に沿って南へ進んで行くと、左手に、
東大手門があります。
左の建物は、番所です。
閉城時間を過ぎており、東大手門の扉は閉まっており、
左側の通用口から外へ出ます。
東大手門の前にあった世界遺産 二条城の説明です。
平成6年(1994)にユネスコにより
「古都京都の文化財」の一つとして、
世界遺産に登録されています。
また、東大手門の前には、
史蹟 旧二条離宮 二条城と記された
石碑がたってます。
明治17年(1884)から皇室の別邸として利用され、
昭和14年(1939)に京都市が譲り受けています。
その石碑の横にあった東大手門広場の説明です。
また、洛中洛外図に見る二条城の説明もありました。
洛中洛外図には、徳川家康が二条城を築いた当初の二条城が描かれています。
東大手門から始まる行列の様子から、東大手門が二条城の正門であった事がわかります。
行列の中には二頭立ての牛車が描かれており、牛車に乗る事を許された将軍が参内する場面か、
1620年に後水尾天皇の后となる秀忠の娘が入台する場面と考えられています。
右奥(現在の清流園付近)の天守は、家康により建てられたもので、後水尾天皇の行幸の大改修に際し、
淀城に移築されました。
その時に、現在の天守台跡へ伏見城から新たに天守が移築されました。
今では、その天守も、1760年に焼失しています。
東大手門から南へ進むと、東南隅櫓があります。
二条城の外堀の四隅には、見張り台として隅櫓が建てられ、
普段は武器庫として使用されていました。
東南隅櫓の東側から、外堀西方向を見たところ。
東南隅櫓を南東から見たところ。
一階屋根には、千鳥破風が載っています。
東南隅櫓の前から、外堀に沿って、西へ進んで行くと、
南門があります。
南門です。
南門です。
大正14年(1915)、京都御所の紫宸殿で
大正天皇の即位の儀式が行われ、
その後、大正大礼と呼ばれる饗宴が
二条城で行われました。
南門は、その時に天皇の入場口として新たに作られた門です。
大正大礼の為に、様々な建物が新築されましたが、
直後に移築、撤去され、現在は南門だけが残ってます。
その時に、外堀を渡る橋も取り除かれたのだと想像します。
南門の前を過ぎ、外堀に沿って西へ進みます。
外堀が、鍵形に曲がっています。
外堀の鍵形部に、外堀からの排水路があります。
更に外堀に沿って西へ進んで行くと、西南隅櫓があります。
西南隅櫓です。
西南隅櫓です。
寛永2年(1626)頃に建設された隅櫓の一つです。
西南隅櫓を南西から見たところ。
東南隅櫓に比べ一回り小さく、一階屋根に優美な唐破風が
載っています。
外堀端に広域避難場所を示す地図がありました。
地震が起きた時は、二条城の中、緑色のエリアが、
広域避難場所になってます。
二条城から南へ向かい、三条会商店街へ出て、
東方向を見たところ。
三条会商店街を西の端まで歩きました。
三条会商店街を西の端の入口にお客さんが並んでいるお店がありました。
お店には、お肉屋さんの手づくりお弁当の看板が出ています。
お店をのぞくと、あまりにも美味しそうで、
思わず買ってしまいました。
奮発して買ったステーキ&ヒロ弁当1500円です。
箸袋には、京のお肉処 弘 とありました。
歩き疲れたので、ホテルでゆっくりと味わいました。