12月2日から3泊4日で、神戸、明石を周って来ました。
初日は、広島から神戸へ移動し、
生田神社、布引の滝、
北野の異人館
を訪ねました。
二日目は、
東遊園地、神戸花時計、神戸税関、旧居留地、メリケンパーク、ハーバーランド
、
その後、
南京町へ、そして、摩耶山掬星台の夜景
を楽しみました。
三日目は、兵庫運河、兵庫大佛、湊川神社、荒田八幡宮、祇園神社、等を周りました。
●三宮センター街のパブリックアート
旧居留地・大丸前駅から、
地下鉄海岸線で、中央市場前に行こうと、
三宮から、神戸三宮センター街を西へ歩きます。
神戸三宮センター街を西へ進んで行くと、
生田筋と交わる交差点附近に
パブリックアートがあります。
水のある星 吉田隆 制作 2001年 設置
未来へ行く者達へ 吉田隆 制作 2000年 設置
●神戸市中央卸売市場本場で朝食
地下鉄海岸線の旧居留地・大丸前駅から、
地下鉄に乗って、中央市場前駅で下ります。
地上へ出ると、東側、目の前に
神戸市中央卸売市場本場があります。
神戸市中央卸売市場本場の第2門の前から
中を見たところ。
神戸市中央卸売市場本場の飲食店街が、
西側の道路に面したビルの2Fにあります。
1日の始まりに、
丸高食堂で、まず、腹ごしらえします。
せっかく、中央卸売市場まで来たので、
まぐろ丼を注文します。
まぐろ丼です。
新鮮で美味い!
●大輪田橋、兵庫運河
腹ごしらえが済んだら、兵庫運河へ向かいます。
兵庫運河に架かる大輪田橋です。
大輪田橋の東側の袂には、
大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントがあります。
大正13年(1924)竣工の大輪田橋は、2度の災害に遭っています。
昭和20年(1945)の神戸大空襲では、
水を求めこの橋に避難してきた多くの市民が、
炎にまかれ犠牲になりました。
1995年の阪神・淡路大震災では、
この橋の親柱が崩れ落ちる被害を受けています。
大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントです。
戦災と震災を経験した生き証人の親柱に、
その時節の冬の星座の照明を施し、
記憶に永くとどめ、鎮魂の意を示しています。
大輪田橋の上から、
兵庫運河を見たところ。
兵庫運河には、
大輪田橋の北に位置する
大輪田水門が見えます。
大輪田水門と、
その向こうに続く兵庫運河を見たところ。
●清盛塚、琵琶塚
大輪田橋を渡り、西へ行くと、右手に
清盛塚と呼ばれる十三重石塔があります。
正面が、その十三重石塔です。
この石塔は、
この石塔は、鎌倉幕府第九代執権、北条貞時の建立と伝わり、
平清盛の墳墓とも言われてましたが、
調査の結果、墳墓ではない事が確認されています。
その十三重石塔を別の角度から見たところ。
その十三重石塔の説明です。
十三重石塔の隣には、平清盛像が建ってます。
平清盛像の向こうには、
琵琶塚と呼ばれる巨石があります。
その琵琶塚と、説明です。
その説明によると、
平面形が琵琶の形をした塚で、
江戸時代から琵琶の名手、平経正の墓と信じられていました。
平経正は、清盛の弟、経盛の長男で、敦盛の兄にあたります。
源氏との一ノ谷の戦いで、討ち死にしてしまいます。
明治35年(1902)に有志によって、琵琶塚の碑が建てられました。
と言う事は、これは琵琶塚ではなく、
琵琶塚の碑?ですかね?
道路を反対側に渡って、
清盛塚、琵琶塚を見たところ。
●新川運河キャナルプロムナード
大輪田橋の西の袂まで戻り、
兵庫運河に沿って、北へ進みながら、
大輪田橋をふり返って見たところ。
兵庫運河に沿って北へ、
大輪田ポンプ場を過ぎると、
新川運河キャナルプロムナードがあります。
その新川運河キャナルプロムナードから、
兵庫運河を見たところ。
兵庫運河は、
新川運河、兵庫運河本線、兵庫運河支線、
苅藻島運河、新湊川運河の総称で、
この辺りは、新川運河になります。
新川運河
キャナルプロムナードを
北へ歩きながら、新川運河を見たところ。
新川運河
キャナルプロムナードを
進んで行くと、
新川運河の歴史の
説明があります。
和田岬の北側の海岸は、
「大輪田泊(おおわだのとまり)」、
「兵庫津」と呼ばれ、古くから
貿易が行われて来た地域です。
安政6年の兵庫津絵図です。
江戸時代までの兵庫津は、
舟入場が南北に
二ヵ所ありましたが、
いずれも狭く、多くの船舶が
風難に遭っていました。
また、兵庫津は、江戸時代までは、
政治、経済、文化の中心でしたが、
幕末の開港を境に、
都市機能は東に
移って行きます。
そこで、明治7年(1874)に
神田兵右衛門らは、
和田岬を迂回せずに
兵庫に入港できるよう
運河の開削に着手します。
しかし、財源の目途がたたず、
半円形の運河を開削するに
とどまります。
その半円形の運河を表した
明治14年に制作された
兵庫神戸実測図です。
そして、当初の和田岬を迂回せず兵庫に入港できる運河が完成したのは、明治32年(1899)の事です。
新川運河キャナルプロムナードを、
北へ進みながら、南をふり返ったところ。
中央辺りに、大輪田水門が見えます。
新川運河キャナルプロムナードを
北へ進んで行くと、
「兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地」の石碑が
建っています。
天正八年(1580)、池田信輝と輝政父子が、
現在の兵庫県警本部近くにある
花熊城を攻め落とした功により、
織田信長より兵庫の地を与えられます。
そして、この辺りに兵庫城を築きます。
江戸時代は、尼崎藩の陣屋、等を経て、
明治になると、ここが最初の兵庫県庁となりました。
明治7年(1874)の新川運河の開削が始まると、
兵庫城跡の中心地は、ほとんど運河の川敷になってしまいました。
新川運河です。
水面には、水鳥が群れています。
新川運河キャナルプロムナードの
手摺にとまるカモメです。
●能福寺の兵庫大仏
奈良、鎌倉と並び、日本三大仏と称される兵庫大仏のある能福寺へ向かいます。
延暦24年(805)、天台宗の開祖となる
伝教大師最澄が、唐から帰国し上陸したのが、
当時国際港として栄えていた大輪田泊です。
そして、この地に一堂を建立し、
薬師如来を安置したのが、能福寺の創始です。
兵庫大仏は、明治24年(1891)、
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、建立されます。
しかし、第二次世界大戦の金属類回収令で、
初代大仏は解体されてしまいます。
後に大仏再建の悲願が実を結び、
平成3年(1991)に現在の大仏が再建されています。
この大仏は、胎蔵界大日如来像(ビルシャナ佛)と言う事です。
そして、能福寺境内にあった
「八棟寺殿 平相国廟」です。
養和元年(1181)に没した平清盛の遺言は、
「我が骨は、福原に葬るべし」で、
出家の師の円実法眼によって遺骨は福原に運ばれ、
能福寺へ廟を建て埋葬したと伝わります。
能福寺の少し南に清盛塚と呼ばれる十三重石塔が
墓所と信じられてきましたが、
調査の結果、墓ではなく供養塔と判明しています。
昭和55年(1980)の平清盛八百回大遠忌を機に、再建されています。
中央が、清盛塚を模した十三重石塔、
右は清盛の遺骨を福原に持ち帰った円実方眼の宝篋印塔です。
「八棟寺殿 平相国廟」の
説明です。
能福寺境内には、「瀧善三郎正信の碑」があります。
明治新政府が最初に直面した外交問題である神戸事件で、
切腹して全責任をとったのが瀧善三郎正信で、
日本が植民地化されるのを防いだ功績に
感謝の意を表す碑と言う事です。
慶応四年(1868)、西宮警備の為に、備前藩兵が西国街道を通過中、
三宮神社前で行列を横切ろうとしたフランス水兵を槍で刺傷させ、
居留地や神戸港等、神戸の街は、武装した欧米人に占拠され、
一触即発状態となったのが、神戸事件です。
瀧善三郎正信が切腹したのは、近くの永福寺でしたが、
戦災で焼失した為、碑は現在地の能福寺に移設されています。
その「瀧善三郎正信の碑」の説明です。
●來迎寺(築島寺)の「松王小児入海の塔」、「妓王・妓女の塔」
能福寺を出て、次は來迎寺へ向かいます。
入江橋の西側袂から、
北方向、新川運河を見たところ。
新川運河に沿って進んで行きます。
運河が右に曲がって、その先に
築島水門が見えます。
新川運河が右に曲がるコーナーに、
古代大輪田泊の「石椋(いわくら)」があります。
石椋は、石を積み上げた防波堤(波消し)や
突堤の基礎を指します。
新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量約4tの花崗岩の巨石20数個が、
一定間隔で打ち込まれた松杭と共に
発見されています。
この辺りでは、古代の港湾施設と考えられる
奈良時代後半から平安時代中頃の
大溝と建物の遺構が発見されており、
出土した巨石は、古代大輪田泊の石椋と推定されています。
新川運河に沿って、右に曲がって進むと、
左手に來迎寺(築島寺)があります。
平安時代末期、平清盛が日宋貿易の拠点として、
大輪田泊の拡張整備をする際に、
波浪を避ける目的で、
沖合に島の築造が計画されます。
しかし、潮流が激しく工事が思うように進みません。
陰陽師が占うには、
30人の人柱を海に沈める必要が説かれます。
しかし、清盛の侍童で17歳の松王丸が、
30人の代わりに、一切経を書した石と共に
人柱となって海に沈む事を申し出ます。
松王丸が一切経を書した石と共に人柱となった事から、
完成した島は経ヶ島と呼ばれるようになりました。
來迎寺は、松王丸の菩提を弔う為に堂宇が設けられた事が始まりと伝えられています。
來迎寺の門を入り、右側に、
「松王小児入海二之碑」と
「妓王・妓女の塔」があります。
「松王小児入海二之碑」です。
その横にたっていた
「松王小児入海二之碑」と
「妓王・妓女の塔」の
説明です。
「妓王・妓女の塔」です。
玉垣で囲まれた中に、小さな塔の頭が二つ見えます。
妓王と妓女は、姉妹で、ともに京堀川の白拍子でした。
平清盛の寵愛を得て、不自由の無い生活をしていましたが、
清盛の心が仏御前に傾くに及び、世の無常を歎き、
嵯峨野に庵を結び仏門に入ります。
その後、平家が壇ノ浦で破れた為、
平家ゆかりの兵庫の八棟寺に住侍して一門の菩提を
弔いました。
來迎寺の敷地内にあった珪化木です。
日本列島は、3億年前ぐらい前から
海底で火山の爆発がしきりに起こり、
五千年前頃になって徐々に日本列島の形ができあがったと
言われています。
珪化木は、洪積世氷河期も過ぎ紀元前約千万年前に
地殻変動で土中に埋もれた樹木の表面が炭化し珪酸と交代して
化石となったものです。
●西出鎮守稲荷神社
來迎寺を出て、次は、有馬街道を歩き、
祇園神社へ行ってみる事にします。
有馬街道へ出るまでの途中、国道2号線沿いに
西出鎮守稲荷神社があります。
理由は不明ですが、
「ちぢみさん」と呼ばれて親しまれています。
その鳥居の横に
「高田屋嘉兵衛の献上灯篭」が建っています。
この石灯籠は、文政7年(1824)に
海の豪商、北前船で財をなした高田屋嘉兵衛が
海上安全を願って献上したものです。
西出鎮守稲荷神社の境内にあった平経俊の墓です。
平経俊は、平清盛の甥で、
琵琶の名手の平経正の弟、笛の名手の平敦盛の兄です。
18歳だった平経俊は、一の谷の戦いにおいて、
生田の森で源氏と激しく戦った末、
ここ西出の浜まで落ちのび力尽きました。
●湊川神社(楠木正成の墓所)
国道2号線から、有馬街道へ入り北へ進みます。
途中、多聞通りを東へ進むと
左手に湊川神社の土塀が見えてきます。
表神門です。
表神門の前に、湊川神社と標柱が建ってます。
表神門を南東、正面から見たところ。
湊川神社は、
智・仁・勇の三徳を備え、聖人と仰がれた
南北朝時代の名将、楠木正成を主祭神とし、
明治5年(1872)に創建されています。
表神門を入り、右側に
楠木正成の墓所へ入る門があります。
この門を入って、東を見たところ。
東の突き当りの先に、
徳川光圀の像が建ってます。
墓所へ向かう道の両側には、
尼崎藩の歴代藩主の灯籠が並んでいます。
門を入って東へ、そして、北へ進むと
楠木正成の墓所があります。
墓所を斜めに見たところ。
この墓は、楠木正成を敬慕する徳川光圀が、
元禄5年(1692)に墓碑を建立したものです。
この墓碑は「亀趺碑」と言います。
四角い台座の上に、
神獣、贔屓の形に刻んだ亀趺が乗り、
その甲羅の上に碑石を担いでいます。
そして、
碑石に刻まれた「嗚呼忠臣楠子之墓」の8文字は、
徳川光圀の筆によるものです。
楠木正成の墓碑を建てた徳川光圀の像です。
この像は、
平櫛田中によって制作されたものです。
表神門を入ったところに戻り、
本社社殿に向け進みます。
途中、右手に「大楠公 御一代記」が書かれた
大看板があります。
・楠木正成は、永仁2年(1294)に、
河内国赤坂に生まれます。
・北条氏が実権を握る政治が乱れ、
後醍醐天皇は元弘元年(1331)に
避難先の笠置山へ楠木正成を召し出されます。
・楠木正成は、急ごしらえで下赤坂城を築き、
鎌倉幕府相手に奇策智謀の数々で奮戦しますが、
衆寡敵せず、正成は城に火を放ち、戦死と見せかけ落ち延びます。
後醍醐天皇は隠岐へ、親王は各地に配流され、側近は処刑されます。
・死んだと見せかけた楠木正成は千早城で挙兵します。
わずか千人の兵で権謀の限りを尽くした籠城作戦に、数万の鎌倉幕府軍は翻弄され、
各地の武士達は、打倒鎌倉幕府で蜂起します。
・楠木正成は、鎌倉幕府を崩壊させ、
隠岐を脱出した後醍醐天皇を兵庫津へ向かえ、京都へ先導します。
・後醍醐天皇の政治が始まると(建武中興)、
足利尊氏は自らが将軍となって武家の政権を復活させようと叛旗を翻します。
楠木正成は、足利の大軍を破る為の献策をしますが、公家等の反対にあい、取り上げられません。
・楠木正成は、決死の覚悟で兵庫へ出陣し、
途中、桜井の駅で、嫡男の正行を河内へ帰します。(桜井の別れ)
・延元元年(1336)、足利尊氏、直義兄弟率いる大軍と、
楠木軍は700騎あまりの手勢で会下山に陣を張り奮戦し、湊川北方まで落ち延びて、
もはやこれまでと、正成は弟、正季卿と刺し違え、生涯を閉じます。
表神門から、本社社殿へ向け進んで行くと、
右手に、楠木稲荷神社があります。
楠木稲荷神社は、
徳川光圀による楠の碑正成の墓碑建立以前より、
この地に鎮座していると言われています。
その楠木稲荷神社を斜めに見たところ。
楠木稲荷神社です。
楠木稲荷神社を過ぎて、
本社社殿に向け進んで行くと、
大鳥居があります。
大鳥居を過ぎて進んで行くと、
正面に本社社殿が見えます。
本社社殿です。
本社社殿は、
昭和20年(1945)の神戸大空襲で焼失後、
昭和27年(1952)に復興新築されています。
本殿の正面に三つの扉があり、
三座に分かれて祀られています。
中央の扉の奥には、楠木正成、
向かって右には、その夫人、
左には子の正行、弟の正季、以下一族16柱、
並びに、菊池武吉が祀られています。
菊池武吉は、圧倒的な兵力差で追い詰められた楠木軍の戦況確認に出向き、
楠木正成、正季の自刃に立ち合い、また、自刃を共にした人物です。
●荒田八幡神社(安徳天皇行在所址)
湊川神社を出て、有馬街道を北へ進み、
途中、西へそれた所に
荒田八幡神社があります。
荒田八幡宮の土地は、周囲より一段と高く、
平清盛の弟、平頼盛の山荘があった場所で、
治承4年(1180)の福原遷都の際には、
安徳天皇の行在所となった場所です。
荒田八幡神社へ上がって行く
鳥居を見上げたところ。
鳥居の向こうには、手水舎が見えます。
荒田八幡神社は、
古くは高田神社と言い熊野権現を祀っていましたが、
すぐ西の宝地院境内にあった八幡社を神仏混淆をさけて、
明治31年に合祀し、荒田八幡宮とされています。
鳥居をくぐり、上って行くと、
「史跡 安徳天皇行在所址」の石碑が建っています。
その石碑の横面には、
「平頼盛山荘址」とあります。
荒田八幡神社の本殿です。
祭神は、以下の三柱です。
・応仁天応
・素戔嗚尊
・安徳天皇
本殿の横の高田稲荷社です。
荒田八幡神社を出て、神社の周囲を回ってみます。
鳥居の横に、荒田八幡神社の由緒の説明があります。
その由緒の説明です。
荒田八幡神社の石垣の周囲を回りながら、
東側から、荒田八幡神社を見上げたところ。
石垣の上には、荒田八幡神社の本殿と、
高田稲荷社が見えます。
●雪見御所旧跡
有馬街道へ戻り、北へ、
次は、雪見の御所跡へ向かいます。
下に見える信号は、平野交差点の信号です。
そして、その向こう、中央辺りに祇園神社が見えます。
有馬街道を、北上して行くと、
平野交差点の手前に、
平野の歴史を語り継ぐモニュメント、
「浄海入道 平清盛」の像が、
歩道の脇に建ってます。
ちなみに「浄海」は、平清盛の戒名です。
なぜ緑色に塗ったのだろうか?
有馬街道と山麓線が交わる
平野交差点の南西の角にあった
「平清盛ゆかりの郷」と銘打った掲示板です。
平清盛は、貨幣による経済体制を築き、
宋との交易の中心を大輪田とした
国造りを目指していました。
仁安2年(1167)、平清盛は太政大臣となり、
治承4年(1180)6月に福原へ遷都しますが、
反平家勢力の挙兵が始まり、11月に帰都します。
そして、その翌年に、平清盛は死去します。
平野交差点の南東の角にも、
「平清盛之像」が建ってます。
この平野交差点から、山麓線を西へ進むと、
「雪見御所旧跡」の石碑があります。
平家物語によると、平清盛は福原の地に
いくつかの邸宅を持っており、
その一つが雪見御所で、
その名を伝える雪御所町に存在した
可能性が高いと考えられています。
町名のもとになった古い字、雪御所の範囲は、
西が石井川、東及び北は、天王川に沿って北上し、
そして、西へ弧状にのびる古道によって
画される範囲です。
「雪見御所旧跡」の石碑の隣にあった雪見御所の説明です。
雪御所の東を画する天王川です。
天王川の下流方向を見たところ。
●祇園神社
平野交差点に戻り、有馬街道を北へ、
祇園神社へ向かいます。
北へ進んで行くと、途中、右手に
「賽神(サエノカミ)」の碑があります。
昔、奥平野村を東西に通る古道街道があり、
賽神は古道街道を通る旅人らの
道中の安全を守る神様(道祖神)として
伝えられます。
有馬街道を北へ進んで行くと、
祇園神社の石鳥居が見えてきます。
その石鳥居をくぐると、急な階段が続きます。
その階段の横には、風車燈篭があります。
有馬街道祇園坂の景観の企画提案として
自己制動型風力発電システム「エウロス」を搭載した燈籠が
使用されています。
階段を上ると、正面に拝殿があります。
清和天皇の時代(758-876)、御霊により、
京洛一帯に疫病が流行り、落雷等の災いが
多発します。
御霊を鎮める為、
姫路の廣峯神社の素戔嗚尊の分霊を載せ、
京都八坂神社へ向け出発します。
途中、平野に住む徳城坊阿闍梨の案内で一泊し、
地元の人々が、素戔嗚尊の神徳に感謝し
祠に祀ったのが、祇園神社の始まりです。
階段を上がった境内から、
南側の景色を見たところ。
中央左よりに見える赤白の電波塔は、
NTTコミュニケーションズ神戸大開ビルです。
その隣、中央辺りに見える3つの高層ビルは、
左から、キャナルタウンイースト、
三角屋根のキャナルタウン中央、
キャナルタウンウエストです。
南西から、拝殿を見たところ。
左端は、授札所です。
拝殿の奥、北側に、本殿があります。
祭神は、素戔嗚尊と、その妻の櫛稲田姫命です。
疫病を治め、厄を払う神です。
玉垣の奥に見える背の高い建物が、
本殿です。
境内の西の端に位置する
市杵島社です。
祭神は、市杵嶋姫命で、海・芸能の神です。
右に見える赤い鳥居は、稲荷社です。
市杵島社を南西から見たところ。
その市杵島社の北側、奥に隠れるように
一願石があります。
一願石です。
この一願石は、祇園神社が創建されて以降、
境内の片隅に鎮座する霊石です。
古代より、神域にある石や岩は、
神様の依り代として神が宿るとされ、
この霊石に、
一つだけ真心を込めて願い事をすると、
願いは成就すると信仰をされています。
左が市杵島社で、
右が稲荷社です。
祭神は、農商業の神の倉稲魂命です。
本殿の北東に位置する
烏原神社です。
祭神は、
応神天皇、市杵嶋姫命、天児屋根命の
三柱です。
そして、本殿の東に位置する
猿田彦社です。
●神戸ガス燈通り
祇園神社を出て、有馬街道を南へ、
そして、JR神戸駅から
神戸ガス燈通りへ向かいます。
JR神戸駅の東、浜の手側にある
「デュオこうべ」のデュオドームです。
この下の地下街では
ショッピングを楽しむ事ができます。
阪神高速3号神戸線と国道2号追手バイパスを越えて、
神戸ガス燈通りを進みます。
神戸ガス燈通りを進んで行くと、左手に
神戸ハーバーランドumieがあります。
神戸ガス燈通りを進んで行くと、右手に
エルヴィス・プレスリーの銅像があります。
ロックン・ロールを世界に広めた
エルヴィス・プレスリー(1935-1977)の銅像は、
当初、原宿に建てられましたが、
諸般の事情により、立ち退きを余儀なくされ、
2009年に神戸ハーバーランドへ移設されています。
エルヴィス・プレスリーの銅像を見た後は、
神戸ガス燈通りを引き返します。
神戸ガス燈通りには、
アンパンマンのキャラクター像が設置されており、
アンパンマンストリートとも呼ばれています。
これは、ドキンちゃんの像です。
ばいきんまんの仲間の女の子で、
自分の事を世界で一番かわいいと思ってます。
アンパンマンです。
ジャムおじさんが、つくったパンに、
命の星が落ちて来て生まれました。
お腹がすいたり、困った人がいると、
どこでも飛んで行く、みんなのヒーローです。
神戸ガス燈通りを引き返しながら、前を見ると、
神戸ガス燈通りの上の左右を連絡する
歩行者デッキが走り、その向こうにHDC神戸
(ハウジング・デザイン・センター神戸)が
見えます。
更に、神戸ガス燈通りを進んで行くと、
ばいきんまんがいました。
アンパンマンを倒す為、バイキン星からやって来ました。
自分では天才学者だと思っていますが、
変な物ばかり作ってしまいます。
きれいな物が大嫌いです。
●神戸元町商店街
神戸ガス燈通りを歩いた後は、
神戸元町商店街へ向かいます。
「MOTOMACHI 6」の標札が出ています。
神戸元町商店街です。
「元町5丁目」の標札が出ています。
神戸元町商店街です。
「MOTOMACHI④」の標札が出ています。
神戸元町商店街です。
「MOTOMACHIーⅢ」の標札が出ています。
神戸元町商店街を東へ進んで行き、
地下にある「グリル一平 元町店」で
食事をします。
「グリル一平 元町店」です。
注文したのは、オムライスです。
最初にスープとサラダが出てきました
そして、オムライスです。
昼食を食べ終わったら、
元町商店街を東へ進みます。
「元町1番街」の標札がかかってます。
少し進むと、
南京町の北側入口があります。
南京町の北側入口には、
「南京町案内図」がたってます。
その入口を入ったところに
南京町広場があります。
元町商店街に戻り、東へ進んで行くと、
元町商店街への入口があります。
その入口をふり返って見たところ。
●三宮センター街
次は三宮センター街へ入り、東へ進んで行きます。
三宮センター街三丁目を過ぎて、
三宮センター街二丁目へ入るところです。
三宮センター街二丁目を東へ進んで行くと、
路面に芸術作品が収蔵されており、
ストリートミュージアムになってます。
その収蔵作品の一つです。
愛蓮 三輪華子 制作 2010年設置