東京2020オリンピックが予定されていた前年の2019年9月15日、オリンピックの花、マラソンの代表選考レース、
Marathon Grand Championship(通称MGC)が行われました。
その応援の為、観光を兼ねて、二日前から東京へ出かけました。
その初日は、日本橋、
東京スカイツリー、
浅草寺
を周り、
二日目は、
築地、浜離宮恩賜庭園、
芝離宮恩賜庭園、増上寺、東京タワー、愛宕神社、
国会議事堂、皇居外苑
と歩きました。
そして、三日目は、
MGCの応援
後、靖国神社、北の丸公園、皇居東御苑、皇居外苑、将門塚を見て周りました。
明治神宮外苑のいちょう並木であったMGC表彰式の後、
青山一丁目から東京メトロ半蔵門線で九段下へ移動し、
靖国神社へ参拝します。
私は、信心深い方ではないですが、
歴史や国際問題等に関心があり、
度々、政治家の参拝で国際社会から批判を浴びる
靖国神社を訪れてみたいと思っていました。
その靖国神社です。
正面に第一鳥居が見えます。
参道左側には、右翼団体と思われる人達の街宣車が
とまっています。
第一鳥居は、
大正10年に日本一の鳥居として誕生しましたが、
老朽化により、昭和18年に取り去られ、
昭和49年に耐候性鋼を使用し再建されました。
柱の高さは25m、直径2.5m、笠木の長さ34m、直径2.7m、
重さは100tonあります。
参道入口にあった靖国神社境内案内図です。
参道を東から西へ進んで行きます。
第一鳥居の手前、右側の狛犬です。
第一鳥居の手前、左側の狛犬です。
第一鳥居を抜け、参道を進みます。
靖国神社は、明治2年(1869)、明治天皇により、
国家の為に一命を捧げた人々の名を後世に伝え、
その御霊を慰める為に招魂社を創建されたのが
始まりです。
そして、明治12年(1879)に靖国神社と改められました。
祭神として、戊辰戦争、西南戦争、等の国内の戦いや、
日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦、等の対外事変や戦争で、
命を捧げた軍人や民間人の神霊が祀られています。
参道を進んで行くと、
その先に銅像が立っています。
大村益次郎の銅像です。
大村益次郎は、文政7年(1824)に周防の漢方医の家に生まれます。
後に、緒方洪庵について蘭学を学び、
宇和島藩では日本で初めて洋式の軍艦を設計し建造します。
その後、江戸に出て私塾、鳩居堂を開き、
桂小五郎の推薦で長州藩に仕えます。
第二次長州征伐では、石州口の戦いを指揮し、幕府軍を破り
戦術家として脚光を浴び、
戊辰戦争では、軍務局判事として、上野で彰義隊を討伐し、
東北の乱を平定します。
そして、新政府で、兵部大輔に任じられ、洋式の軍制への改革を主唱し、
不満士族に襲われ明治2年に歿します。
大村益次郎の銅像の説明です。
彫刻師、大熊氏廣氏が、銅像製作の為、
欧州に留学し、帰国後の明治26年(1893)に
日本で最初の西洋式銅像が建立されました。
陣羽織をつけ、左手に双眼鏡を持ち、
東北の方を望む姿は、
上野の東叡山にたてこもる
彰義隊の討伐の様子と言われています。
大村益次郎の銅像を過ぎ、更に参道を西へ進みます。
正面に第二鳥居が見えます。
その第二鳥居です。
第二鳥居の向こうには、神門が見えます。
第二鳥居と、神門です。
第二鳥居は、明治20年(1887)に
大阪砲兵工廠の反射炉で製作された
青銅製の鳥居です。
第二鳥居の手前、参道を道路が横切っており、
横断歩道があります。
横断歩道を渡った参道の左右に石燈籠があります。
この石燈籠は、参道右側の燈籠で、
基壇にはレリーフがほど越されています。
今見えている右側のレリーフは、
日露戦争 日本海海戦 戦艦三笠の東郷元帥です。
明治38年(1905)、ロシアのバルチック艦隊を日本海で破りました。
その左側のレリーフは、日露戦争 第二回旅順港閉塞作戦中の
広瀬中佐です。
閉塞船、福井丸の指揮官だった広瀬少佐は、
敵の魚雷を受け撤退する際、
一度は救命ボートへ移りましたが、
船を自爆させる爆薬に火をつける為に
船内にいた杉野上等兵曹がいない事に気づきます。
船に戻り三度探して見つからず、
救命ボートへ戻った時、頭部へ砲弾を受け戦死します。
死後、中佐に特別昇進し、初の軍神となりました。
参道左側の石燈籠です。
基壇にレリーフが施されており、
参道正面のレリーフは、第一次世界大戦 装甲列車の戦闘です。
第一次世界大戦の戦場となった欧州では、鉄道網が発達しており、
装甲をつけた機関車が、砲塔やロケット発射器などを搭載した貨車を
牽引する戦闘が多く見られました。
と言うように、この石灯籠のレリーフは、
戦争や軍隊を称賛するような内容で、
GHQ統治下において撤去されそうになり、
レリーフを隠す工事を施したそうです。
しかし、GHQ統治が終わると、隠していたレリーフを
再び見えるようにしています。
燈籠の上部にある火袋の参道正面側の面には、
菊の御紋があしらわれています。
第二鳥居です。
その向こうには神門が見えます。
第二鳥居を過ぎ、参道の左側には、
車の乗入れや、魚鳥の捕獲、
竹木の伐採を禁止する定が掲示されており、
その向こうに大手水舎が見えます。
大手水舎の中です。
大手水舎は、昭和15年(1940)に
アメリカに在住する日本人の方々から
奉納されたものです。
そして、神門です。
神門は、昭和9年(1934)に建てられたものです。
神門をくぐりながら、中央の扉を見ると、
白い大きな円の痕が見えます。
ここには、直径1.5mの菊花の紋章が
ついているはずですが、ありません。
修復中かな??
神門を入り、神門をふり返って見たところ。
神門を入った参道の両側に、青銅燈籠があります。
参道右側の青銅燈籠です。
この燈籠は、西南戦争で戦歿した警察官を慰霊する為、
明治13年警視庁の前身の警視局から奉納されたものです。
神門の前から、参道の先、西を見ると、中門鳥居があり、
その向こうに拝殿が見えます。
中門鳥居です。
現在の中門鳥居は、
平成18年(2005)に建て替えられたもので、檜製です。
中門と言う名称は、かつて門扉があったことに
由来しています。
その中門鳥居を入る手前、左側に社頭掲示があります。
多くの人々に、祖国の為に尊い命を捧げられた英霊のみこころに触れるように、
英霊の遺書や、書簡が、毎月、社頭に掲示されています。
以下は、令和元年9月の社頭掲示です。
中門鳥居を抜けると、正面に拝殿があります。
拝殿の奥に、本殿があります。
拝殿です。
明治34年(1901)に建て替えられたものです。
拝殿の前から、奥の本殿に向け、参拝します。
見えませんが、奥の本殿には、
246万6千余柱の神霊が鎮まります。
本殿は、明治5年(1872)に建てられ、
昭和61年(1986)から3年をかけ
屋根を中心とした修築が行われました。
拝殿から左右に回廊が本殿へ続いており、
左に拝殿の屋根と回廊が見え、
右に拝殿の北に位置する参集殿が見えます。
参集殿は、
個人や団体で正式参拝する方々の為の受付や
控室、朱印所があります。
そして、回廊越しに見える高層ビルは、
法政大学の市ヶ谷キャンパスのシンボル、
ポアソナード・タワーです。
その名前にあるポアソナード博士は、
明治時代に日本政府の招聘で、1873年にフランスから来日し、
日本の近代法制定に多大な貢献をした事から、
日本近代法の父と呼ばれています。
靖国神社への参拝を終え、参道を引き返していく途中、
参道の北側に能楽堂があり、その能楽堂の前で
和太鼓の演奏が行われていました。
右端が、能楽堂の能舞台で、
中央は、演者が能舞台へ出入りする通路の
橋掛かりです。
この能楽堂は、明治14年(1881)に
東京、芝公園に建てられたもので、
明治36年(1903)に靖国神社へ奉納、
移築されました。
その能楽堂、橋掛かりの前で、
和太鼓の演奏が行われています。
調べてみると、
第16回靖国神社奉納演武大会が行われており、
東京巣鴨を拠点とし活動する
創作和太鼓集団、破魔の演奏です。
右が能舞台で、能舞台へ続く橋掛かりが見えます。
その前で和太鼓が演奏されています。
創作和太鼓集団、破魔の演奏です。
能舞台から橋掛かりを通して演者が出入りする
鏡の間です。
中央右よりに能舞台があり、
能舞台から橋掛かりが、鏡の間へ続いています。
その前で、和太鼓の演奏が続きます。
そして、能舞台の横にある桜の標準木です。
この桜(ソメイヨシノ)は、
東京管区気象台が開花を観測する為に
標準木に指定しています。
神門を出て東へ、参道を戻ります。
正面は、第二鳥居です。
第二鳥居をくぐり、参道を戻って行くと、
参道の真ん中に大村益次郎の銅像の後ろ姿が見えます。
更にその向こうには、第一鳥居が見えます。
参道を戻りながら、ふり返って、
第二鳥居、その向こうの神門を見たところ。
大村益次郎の銅像の後ろ姿です。
大村益次郎の銅像の南側にある石鳥居です。
昭和8年(1933)に建てられたものです。
大村益次郎の銅像です。
大村益次郎の銅像。
大村益次郎の銅像前を過ぎて、第一鳥居へ向け戻りながら、
参道脇に並んでいる石燈籠を見たところ。
その石燈籠の火袋のレリーフです。
石燈籠の火袋のレリーフです。
第一鳥居を過ぎ、
第一鳥居をふり返って見たところ。
第一鳥居の前には、
たくさんの街宣車が集結し、駐車しています。
異様な雰囲気を感じてしまいます。
次は、靖国神社を出て、皇居外苑の北の丸公園へ向かいます。
靖国神社横を通る靖国通りに架かる陸橋を渡りながら、
千鳥ヶ淵の堀端に立つ銅像を見たところ。
銅像の台座に子爵品川彌二郎卿像とあります。
品川弥二郎は、長州藩萩に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学んだ後、
薩長同盟の成立や、その後の戊辰戦争で活躍し、
明治政府成立後は、政治家として内務大臣などを歴任した人物です。
品川弥二郎の銅像の横の高燈籠です。
この高燈籠(常燈明台)は、明治4年(1871)に竣工したもので、
品川沖の船舶の航海の目印になっていました。
大正14年(1925)に九段坂の改修工事に伴い、
靖国通りを隔てた向かいから、
現在の場所に移転しています。
高燈籠の前から、
北の丸の北側の入口に
あたる
田安門へ向け、
土橋の田安門橋を
渡ります。
田安門橋の
靖国通り側の袂にあった
田安門の説明です。
土橋の田安門橋の
西側が千鳥ヶ淵で、
東側が牛ヶ淵で、
田安門橋が両側の堀の
水位調整をしていました。
土橋の田安門橋を、田安門へ向け、渡ります。
田安門は、外に向けた高麗門と、
内側の防備を重視した渡櫓門からなる枡形門です。
そして、現存する田安門は、
江戸時代初期の寛永13年(1636)に建てられた門で、
国の重要文化財に指定されています。
その高麗門です。
高麗門の扉の釣金具には
制作に携わったと考えられる
職人の刻銘が残っています。
高麗門を入ると枡形になっており、
右に渡櫓門があります。
高麗門を入って、枡形の中から、
高麗門をふり返ったところ。
枡形の中から、渡櫓門を見たところ
渡櫓門です。
渡櫓門をくぐり、
門扉や、木造構造部材をふり返ったところ。
渡櫓門を入って、渡櫓門をふり返ったところ。
渡櫓門を入って、すぐ左側に
狛犬が二匹、並んで座っています。
そして、その傍らに
彌生慰霊堂と彫られた標柱が建っています。
彌生慰霊堂は、
凶悪犯罪や災害救助の為に殉職された警察官を
追悼する為に創建された彌生神社が前身です。
ここから階段を上って行き、
田安門の東側に彌生慰霊堂があります。
田安門を入ったところにあった北の丸公園 案内図です。
その北の丸公園 案内図の横から、
田安門の渡櫓門をふり返ったところ。
田安門を入って道なりに進んで行くと、
日本武道館が左手にあり、その日本武道館の横に、
推定樹齢200年以上とも伝えられる大銀杏の木があります。
日本武道館です。
扁額に武道館とあります。
日本武道館は、
1964年の東京オリンピックの柔道会場として
建てられたもので、
訪問時はTOKYO2020に向け大規模改修工事が
行われていました。
北の丸公園です。
北の丸公園は、戦後に多くの建物を取り壊し、
新たに造営された芝生地や池、ヤマモミジ、ケヤキ、
コナラ、クヌギ等の里山の木々や、
野鳥が好む実のなる木など、植えられた落葉樹林や、
戦前から残る周縁部の常緑樹林などで
構成されています。
北の丸公園内は、小さな小川も流れています。
まだ紅葉はしてませんが、
もみじ山のヤマモミジです。
北の丸公園の池と芝生広場です。
北の丸公園の真ん中を南北に走る道を南へ進んで行くと、
左手に科学技術館があります。
科学技術館は、身近な科学の不思議から、
宇宙をとりまく壮大な不思議とその仕組み、
科学を利用して技術を発展させてきた営みを
紹介しています。
北の丸公園のケヤキです。
次は、北の丸公園から、皇居東御苑へ向かいます。
北の丸公園の南側を走る代官町通りに架かる
陸橋を渡りながら、代官町通りを見たところ。
代官町通りへ陸橋を渡り、南側を見ると、
乾濠が見えます。
左端は皇居東御苑へ渡る北桔橋の石垣です。
北桔橋への入口です。
右へ進むと、北桔橋、北桔橋門へ続きます。
北桔橋の入口にあった皇居東御苑の案内図です。
北桔橋(きたはねばし)を南へ、
北桔橋門へ向け進みます。
北桔橋の先に北桔橋門があります。
北桔橋の西側は、乾濠です。
そして、北桔橋の東側が、平川濠です。
北桔橋(きたはねばし)を渡ると、
北桔橋門があります。
北桔橋門の手前は、
橋が跳ね上がる仕組みになっており、
普段は、橋を跳ね上げて閉門し、
有事が起きた時は、橋を下ろして脱出できるように
なっていたようです。
北桔橋門の手前から、西側、乾濠を見たところ。
乾濠は、別名、三日月濠とも呼ばれています。
北桔橋門の手前から、東側、平川濠を見たところ。
この辺りの石垣は、本丸を守る石垣で、
石垣の高さは18.5mもあり、
屏風折れを重ねながら続いています。
皇居東御苑へ入る北桔橋門です。
かつては、江戸城本丸の大奥、天守から
外部へ直接通じていた北桔橋門です。
門の上部、鏡柱を横につなぐ部材の冠木には、
橋を跳ね上げる為の滑車が吊るされた4つの金具が
残っています。
高麗門の形式をとっている北桔橋門を中へ入り、
北桔橋門をふり返って見たところ。
この北桔橋門は、元々は、枡形門でしたが、
現在は、枡形の石垣や渡櫓門は撤去され、
高麗門のみが残っています。
北桔橋門を抜け、
北桔橋門をふり返って見たところ。
北桔橋門の南側にある天守台です。
1638年に、三代将軍、徳川家光によって、
国内最大の天守閣が誕生しましたが、
1657年の明暦の大火によって、天守閣は全焼し、
その後、再建されることは有りませんでした。
訪問時は、令和天皇の皇位継承に伴い、
一世に一度行わる皇室伝統の神事、
大嘗祭が11月に開催される為、
大嘗宮の造営工事が本丸大奥跡で始まっていました。
よって、本丸跡から天守台への通路が閉鎖されています。
天守台を北東から見たところ。
天守台の北側の道を東へ、二の丸跡に向かいます。
天守台の東に位置する宮内庁書陵部庁舎です。
書陵部では、皇室関係の貴重な図書等や陵墓を
管理しています。
宮内庁書陵部庁舎を過ぎると、
二の丸跡へ向かって坂を下ります。
この坂は、梅林坂と呼ばれています。
梅林坂を下って行きます。
梅林坂を下ります。
石垣の切れ目は、二の丸から本丸への入口だった
上梅林門跡です。
ちなみに、下梅林門は、平川濠、天神濠を渡って、
三の丸から二の丸へ入る場所にありました。
下りながら、梅林坂をふり返ったところ。
梅林坂の説明です。
最初に城を築いた太田道灌が、
領地だった川越の三芳野神社から
祭神の菅原道真の分霊を勧進し、
天神社を創建しました。
その際に、梅の木が植えられ、
梅林坂と呼ばれるようになりました。
ちなみに、太田道灌が創建した天神社は、
徳川秀忠の江戸城拡張で平河天満宮として
平河町へ遷座しています。
下って来た梅林坂をふり返ったところ。
梅林坂を下り、北東を見たところ。
この先に下梅林門がありました。
梅林坂を下った場所から、
南東を見たところ。
梅林坂を下り、
上梅林門のあった辺りをふり返ったところ。
梅林坂の南側の石垣です。
梅林坂を下りて南を見たところ。
梅林坂の南側、
梅林坂と汐見坂の間の石垣です。
梅林坂と汐見坂の間の石垣に沿って
南へ歩きます。
その石垣の南にある汐見坂です。
汐見坂は、二の丸と本丸をつなぐ坂道のひとつで、
江戸城築城の際には、
江戸湾の日比谷入江が目の前に迫り、
坂の途中から海が見えたのが由来です。
汐見坂の左、南側には白鳥濠があります。
白鳥濠は、二の丸と本丸を東西に隔てるように、
南北に長く伸びて本丸を守っています。
少し引き返し、二の丸庭園へ向かいます。
途中、諏訪の茶屋があります。
諏訪の茶屋です。
江戸時代には
吹上御苑(西の丸西側、御所などがある一帯)に
ありましたが、
明治45年に再建され、昭和の時代に
現在の場所に移築されました。
諏訪の茶屋です。
元々、諏訪の茶屋のあった吹上御苑は、
江戸時代当初は御三家(尾張、紀伊、水戸)などの
宅地でしたが、
明暦の大火(1657年)などの類焼があり、
徳川綱吉の時代に苑地となり、
その後は歴代将軍の庭園として整備されています。
諏訪の茶屋を過ぎ、二の丸庭園へ向かいます。
二の丸庭園です。
二の丸庭園は、江戸時代初期に小堀遠州が作庭し、
徳川家光の命で改修された池泉回遊式庭園を
ルーツとします。
二の丸庭園の池の中央を東西に横切る
散策道へ向け進みながら、
散策道の北側の池を見たところ。
現在の庭園は、昭和39年(1964)に
徳川家重の時代に作成された
庭園の絵図面を参考に復元されたものです。
散策道の南側の池を見たところ。
池の中央を東西に横切る散策道を進みながら、
散策道の北側の池を見たところ。
池の中央に小島のように突き出た半島の上から、
散策道の南側の池の南西方向を見たところ。
池の中央に小島のように突き出た半島の上から、
散策道の南側の池の南東方向を見たところ。
池の中央に小島のように突き出た半島の北側に
州浜があり、その上に石灯籠があります。
池の北東の岸から、
池の中央に小島のように突き出た半島を
見たところ。
先ほど見た半島の州浜と、その上の石灯籠が
見えます。
池の北東の岸から、
池の中央に小島のように突き出た半島を見たところ。
その半島の左、東側には橋が架かってます。
池の東岸に沿って南へ進みながら、
半島の南側の池を見たところ。
池の南側の岸から、
池の中央に突き出た半島を見たところ。
池の南西の一角に、菖蒲田があります。
明治神宮の菖蒲田から株分けされた
84品種が植えられています。
前方、左よりに見えるビルは、
建設中の丸紅ビルです。
二の丸庭園から白鳥濠に向け西へ向かい、
白鳥濠に沿った道へ出る手前に電燈が展示されています。
皇居正門石橋旧飾電燈と標札が立ってます。
そして、白鳥濠です。
白鳥濠は、二の丸と本丸を東西に隔て、
本丸を守っています。
その白鳥濠横の道を道なりに、
南へ進んで行きます。
前方の石垣と石垣の間から、
百人番所が見えてきます。
石垣の間から見える百人番所です。
この辺りには、
銅門(あかがねもん)の枡形がありました。
歩いてきた銅門の枡形のあった辺りを、
ふり返って見たところ。
そして、銅門に隣接する大手三の門跡です。
江戸城登城の正面玄関の大手門を入ると
三の丸があり、
その三の丸から二の丸へ入る入口に
大手三の門がありました。
この石垣の上に、大手三の門の渡櫓門があり、
この渡櫓門の向こうは大手三の門の枡形です。
その枡形の向こうに、三の丸から入ってくる
大手三の門の高麗門跡が見えます。
その高麗門跡の横に同心番所があります。
元々は、この同心番所は、
かつて、高麗門の外に濠があり
下乗橋が架かっていましたが、
その堀の向こう、下乗橋の脇にありました。
そこで、同心と呼ばれる下級武士が
登城者の警備にあたっていました。
その同心番所です。
同心番所の説明です。
大手三の門の高麗門の前には、
濠がありましたが、
今は埋め立てられており、
そこに済寧館が建ってます。
済寧館は、皇居警察の武道場です。
済寧館の前から、
大手三の門の高麗門跡を見たところ。
大手三の門の高麗門を中に入りながら、
同心番所を見たところ。
同心番所のある大手三の門の枡形の中から、
大手三の門の櫓門跡を見たところ。
大手三の門の櫓門跡を中に入ると、
百人番所があります。
百人番所の説明です。
百人番所は、江戸城本丸へ続く門、
本丸中之門の前を守る警備詰所でした。
有事に備え、徳川家と縁故のある
甲賀組、伊賀組、根来組、廿五騎組の
4組の鉄砲百人組が
昼夜交代で詰めていました。
百人番所です。
南北に長い建物で、一枚の写真に入りません。
百人番所を、南西から見たところ。
そして、百人番所の前、西側には、
本丸中之門跡があります。
中之門の左右の石垣は、
江戸城の中でも最大級の巨石が使用され、
格段の高さを揃えて積んだ
整層積み(布積み)です。
その中之門の北側に、
中之門の石垣修復時に交換した石材が
展示されています。
この石は伊豆半島産の安山岩で、
傷により交換した築石です。
この石は、瀬戸内海産花崗岩で、
中之門石垣の特徴である
表面が広く奥行きが短い築石です。
中之門です。
大手門から三の丸へ、
三の丸から大手三の門を入り二の丸へ、
そして、二の丸から本丸へ続く登城口として
中之門があります。
左右の中之門石垣の上には、
渡櫓が配された渡櫓門でした。
寛永15年(1638)に中之門の原形となる
石垣と門が普請され、
明暦3年(1657)に起きた明暦の大火で
江戸城内の多くの建物を失い、
翌年に熊本藩主、細川綱利によって再建され、
元禄16年(1703)に元禄大地震で倒壊した
石垣が修復されました。
中之門を入ったところに大番所があります。
大番所の説明です。
但し、写真は、中之門です。
中之門は、
御弓持御持筒頭与力同心が警備にあたり、
大番所は書院番頭の詰所でした。
その大番所です。
中之門を抜け、大番所の前を過ぎ、
本丸へ向け坂道を上ります。
本丸へ向けた坂道を登りながら、
中之門跡をふり返ったところ。
本丸へ向けた坂道を登りながら、
大番所、中之門跡をふり返ったところ。
坂道を登って行くと、中雀門跡があります。
この中雀門が、本丸の表御殿の玄関口にあたり、
書院門とも呼ばれていました。
坂を上り右に折れた場所に、
中雀門の高麗門がありました。
中雀門の高麗門跡です。
高麗門を入ると枡形になっており、
道は更に鍵形に曲がっています。
その鍵形に曲がった場所に、
渡櫓門がありました。
中雀門の渡櫓門があった石垣です。
中雀門は、幕末の文久3年(1863)の火災で
本丸御殿が焼失した際に類焼し、
石垣の表面は熱により黒く焦げて劣化しています。
中雀門を抜け進みながら、
中雀門跡をふり返って見たところ。
中雀門から、本丸の東側、白鳥濠に沿った
石垣の上に展望台があります。
その展望台への階段を上がります。
その展望台から、東側の景色です。
この展望台がある場所は、
かつて御台所前三重櫓があった場所です。
御台所前三重櫓は、文久3年(1863)に焼失後
再建されることはありませんでした。
展望台から北東を見た景色です。
赤白のクレーンが2本見える建設中のビルは、
丸紅ビルです。
展望台から東側の景色です。
左側の水色のビルから、日経ビル、三井物産ビル、
大手町パークビルディング、大手門タワーです。
展望台から北側を見たところ。
眼下に白鳥濠が見え、
白鳥濠の向こうに汐見坂が見えます。
本丸大奥跡の辺りは、
令和天皇の皇位継承に伴い行われる大嘗祭の為、
大嘗宮の造営工事が始まっており、
立ち入る事はできず、中雀門へ引き返します。
先ほど通ってきた中雀門です。
中雀門の前を通って、次は富士見櫓へ向かいます。
中雀門の南西に位置する
富士見櫓へ向かう途中にあった
富士見櫓の説明です。
明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失し、
その後、万治2年(1659)に再建され、
天守の代用としても使われていました。
実際に、将軍が、富士山や、両国の花火、
品川の海を眺めたと言われています。
富士見櫓です。
富士見櫓です。
富士見櫓は、江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、
どの方向から見ても、美しく見えることから、
八方正面の櫓とも呼ばれています。
富士見櫓の前にあった富士見櫓の防御設備の説明です。
富士見櫓の南側と西側の下は高さ15mの石垣となっており、
南側と西側に設けられた出窓の脇には狭間が、出窓の床には石落としが設けられています。
富士見櫓の眺望についての説明です。
富士見櫓の概要についての説明です。
富士見櫓を離れながら、
富士見櫓をふり返って見たところ。
次は、本丸の西側、忠臣蔵で有名な刃傷事件のあった
松の大廊下跡へ向かいます。
本丸の表御殿のあった辺りの
西側の道を進んで行くと、
松之大廊下跡の石碑と、説明がありました。
松の大廊下は、
浅野内匠頭長矩が吉良上野介へ切りつけた
刃傷事件があった場所で、内匠頭は切腹となります。
この事件を発端に、赤穂浪士が吉良邸へ討ち入りし、
本懐を遂げます。
松の大廊下は、
本丸大広間と白書院(将軍との対面所)を結ぶ
L字型の廊下で、西へ約19m、北へ31m、幅は約5mの
畳敷の廊下と言われてます。
襖戸には、松並木と千鳥が描かれており、
松の大廊下と呼ばれるようになりました。
写真上は、東京国立博物館所蔵の
江戸城障壁画 松の大廊下襖絵図の伺下絵です。
幕府御用絵師の狩野探淵らによって描かれました。
写真下は、国立劇場所蔵の
歌舞伎 仮名手本忠臣蔵 舞台錦絵です。
本丸大奥跡の辺りは、
令和天皇の皇位継承に伴い
大嘗宮の造営工事が始まっており、
引き返します。
中雀門が見えてきました。
中雀門です。
中雀門の枡形の中に入り、
中雀門から中之門へ向かいます。
中雀門から中之門へ坂を下ります。
左端は大番所で、右端に中之門の石垣が見えます。
中之門を出ると、正面に百人番所があり、
その先に大手三の門が見えます。
大手三の門の枡形の中に入り、大手門へ向かいます。
大手門が見えてきました。
大手門です。
大手門は、慶長12年(1607)に
藤堂高虎によってつくられ、
元和6年(1620)の江戸城修復の際に、
伊達政宗や、酒井忠世によって再建され、
現在のような枡形門になりました。
大手門は、枡形門で、枡形の城外側に高麗門、
城内側に渡櫓門が配置されています。
その渡櫓門です。
渡櫓門をくぐります。
現在の渡櫓門は、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、
昭和41年(1968)に復元されたものです。
渡櫓門をくぐり、枡形の中に入ります。
枡形です。
渡櫓門をくぐり、直角に曲がったところに
高麗門が見えます。
枡形の中から、渡櫓門をふり返ったところ。
渡櫓門は、桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)
という大きさです。
枡形の中には、渡櫓門の屋根を飾っていた鯱が
展示されています。
鯱の頭部には、明暦三丁西と刻まれており、
明暦の大火で大手門が焼失後、
万治2年(1659)に再建された時のものと
考えられています。
大手門の渡櫓門です。
大手門の警備は、厳重をきわめ、
10万石以上の譜代諸侯が守衛にあたり、
鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組を
そなえていました。
枡形の内側から見た高麗門です。
高麗門です。
現存する高麗門は、
明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失した後、
万治2年(1659)に再建されたものです。
高麗門を出ると右手、南側に桔梗濠が見えます。
高麗門を出て左手、北側に大手濠が見えます。
大手門の高麗門を、ふり返って見たところ。
左端に、大手門の渡櫓門が見え、
石垣の下には大手濠が見えます。
大手濠です。
中央の赤白の鉄塔を持つ白いビルは、
東京消防庁本部庁舎です。
鉄塔の上部までの高さは、
消防119番と同じ119mと言う事です。
その右側の水色のビルは日経ビル、
その隣の白いビルは、三井物産ビルです。
大手門の前の大手門橋を渡って、
大手門をふり返って見たところ。
大手門橋は、今は土橋になってますが、
江戸時代は木橋でした。
大手門橋を渡り、
大手門橋の南に位置する桔梗濠を見たところ。
桔梗濠に沿って内堀通りを南へ歩きながら、
桔梗濠を見たところ。
桔梗濠の対岸は、江戸城の三の丸にあたります。
桔梗濠に沿って内堀通りを歩いて行くと、
対岸の三の丸の南端に桜田巽櫓が見えてきます。
木の陰になってますが、桜田巽櫓です。
桔梗濠に沿って南へ歩いて行くと、
内堀通りを挟んで反対側、東側に
和田倉濠が伸びています。
内堀通りを南へ歩きながら、
和田倉濠を見たところ。
桔梗濠が直角に折れ曲がった角に
桜田巽櫓があります。
桜田巽櫓を南東から見たところ。
桜田巽櫓です。
江戸城本丸の南東、辰巳の方角にあった事が
名前の由来になってます。
城の隅角に造られ監視と防御を目的とする櫓が
隅櫓です。
そして、江戸城で現存する唯一の隅櫓です。
桔梗濠は直角に西へ折れ曲がり、
桔梗濠に沿って西へ進むと、
桔梗門があります。
桔梗門です。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された
外桜田門に対して、内桜田門とも
呼ばれています。
桔梗門へ向け、土橋の桔梗門橋が伸びています。
桔梗門は、高麗門と渡櫓門からなる枡形門で、
その高麗門を正面から見たところ。
桔梗門の前から、
桔梗門橋の西に位置する蛤濠越しに、
南西方向を見たところ。
松の木陰になってますが、
左よりに警視庁本部庁舎が見えます。
蛤濠に沿って南へ歩きながら、西を見たところ。
正面に見える門は坂下門です。
坂下門です。
坂下門も、かつては高麗門と渡櫓門からなる
枡形門でしたが、
明治になり高麗門は撤去され、
枡形の奥にあった渡櫓門の向きを90度変えて、
現在の場所へ移築されています。
そして、坂下門の奥、北西に宮内庁が見えます。
宮内庁は、天皇皇后陛下を始め皇室の方々の
宮中における行事や、国内外へのお出まし、
諸外国との親善などの活動や日常のお世話の他、
皇室に伝わる文化の継承、皇居や皇室関連施設の
維持管理等を行っています。
坂下門です。
坂下門前から南へ進んで行くと、
皇居正門が見えてきます。
皇居正門の正門石橋の北側袂から、
二重橋濠と、その奥に二重橋を見たところ。
皇居の東側に位置する二重橋濠です。
二重橋濠と二重橋です。
二重橋濠の奥に、二重橋を見たところ。
二重橋です。
現在の二重橋は鉄橋ですが、
江戸時代に架けられていた二重橋は、
橋桁を支える為に、
土台となる丸太の上に橋を重ねる二重構造と
なっており、
二重橋と呼ばれるようになりました。
二重橋濠沿いに設置された高欄越しに、
二重橋を見たところ。
その二重橋の右側上方に、木の陰になってますが、
伏見櫓が見えます。
その木の陰になっている伏見櫓です。
寛永5年(1628)、徳川家光の時代の江戸城修築に際して、
伏見城から移築したと伝えられています。
二重橋濠沿いに設置された高欄越しに、
二重橋と伏見櫓を見たところ。
皇居正門石橋の先に皇居正門が見えます。
皇居正門石橋の先の皇居正門です。
皇居正門の元の名は西の丸大手門でしたが、
明治21年(1888)の明治宮殿造営時、
この門のすぐ前にあった高麗門を撤去し
皇居正門と改められました。
皇居正門石橋と、皇居正門です。
皇居正門石橋の親柱には、
青銅鋳造の高さ2.7m、脚部は獣足を四隅に踏張った
飾電燈が設置されています。
皇居正門石橋と、皇居正門です。
皇居正門です。
皇居正門石橋を渡った先に皇居正門があります。
皇居正門石橋と皇居正門です。
皇居正門と、皇居正門に渡る皇居正門石橋です。
右端に皇居正門です。
内堀越しに南を見ると、
左端に法務省が見えます。
中央に皇居正門石橋、左側に皇居正門です。
中央に皇居正門石橋と、左端に皇居正門です。
次は、将門首塚へ向かいます。
皇居外苑から日比谷通りへ出て、
日比谷通りを北へ進み、
東京メトロ大手町駅のある交差点を
西へ進んで行くと、
右手に将門首塚があります。
その将門首塚の由来について、
将門塚保存会の説明です。
平将門は板東八ヶ国を平定し、
自らを新皇と称します。
それを心よく思わない
朝廷によって、
討伐軍が差し向けられ、
討ち取られます。
天慶の乱です。
将門の首は、京都へ送られ、
獄門に架けられ、
その三日後に
白光を放って東方へ飛び去り、
この地に落ちたと伝わります。
そして、この場所は、
江戸時代、寛文年間、大老を多く輩出した
譜代の名門、酒井家の上屋敷のあった場所と
言う事です。
将門塚について、神田明神の説明です。
将門塚は、東国の英雄、平将門公の御首が
神田明神の祭神として祀られています。
天慶年間に、武士の先駆けとして、
関東地方の政治改革を行い、
弱きを助け強きを挫く性格から、
民衆の篤い信望を受けました。
そして、東京都教育委員会の
将門塚の説明です。
平将門は、平安時代中頃に関東地方で
大規模な反乱、天慶の乱を起こした人物です。
徳治2年(1307)に遊行寺二世真教上人が
江戸に行脚した折、
荒れた将門塚を修復し板石塔婆を建て、
傍らにあった日輪寺で供養しました。
その霊は神田明神に祀られ、
神田明神の移転後も、
将門塚はこの地に残っています。
将門塚の一角には、故蹟保存碑がたっています。
かつて、この地は、古代豪族の墓、柴崎古墳で、
中世には平将門の首塚となり、
江戸時代には酒井家の中庭だった場所です。
明治になると、そのまま大蔵省の中庭となります。
そして、歴史学者の織田完之は、
将門塚の調査を行い、平将門故跡考を著し、
将門塚の頂上に故蹟保存碑を建てます。
その後、大正12年(1923)に関東大震災で、
大蔵省は崩壊炎上した為、
更地にして大蔵省の仮庁舎を建てる事になります。
しかし、2年のうちに大蔵大臣を始め大蔵省関係者が14人もなくなり、将門公の祟りの伝説が生まれます。
そして、将門塚上の仮庁舎を解体され鎮魂祭が行なわれています。
また昭和15年(1940)には落雷によって大蔵省は全焼します。
これを機に大蔵省は霞ヶ関に移りますが、時の大蔵大臣、河田烈によって、故蹟保存碑が復元されました。
その故蹟保存碑の横に、将門塚があります。
正面に昭和45年に再建された板石塔婆があり、
その影になって見えませんが、
その後に首塚があります。
この板石塔婆の文面は、
徳治2年(1307)に、遊行寺二世真教上人が、
蓮阿弥陀仏の諡号を追贈した際に作られた
板石塔婆の拓本からとったものです。
その板石塔婆の後ろにある将門塚です。
将門塚は、強化ガラスのケースに入れ、祀られています。
この強化ガラスのケースは、大手町の大規模再開発事業に伴う
粉塵や落下物から首塚を守るためのようです。
将門塚の横には、大小のカエルの置物が奉納されています。
このカエルの置物は、
1986年にフィリピンで三井物産マニラ支店長が誘拐され、
無事の帰宅を祈ってカエルの置物が奉納され、
無事、解放された事から、
海外赴任や出張する人達が、「無事にカエル」ことを願って、
カエルの置物が奉納されるようになりました。
将門塚です。
周りを見渡すと、将門塚は、高層ビルに囲われた一角にあり、
地価40億円を下らないと言われるエリアに、移転することも無く、
今も大切に残されています。
将門公の祟りが意識されているのかもしれません。
周囲の高層ビルを見上げたところ。
将門塚のエリアをふり返ったところ。
ちなみに、将門塚のエリアは、
2020年から2021年にかけ改修工事が行われ、
すっきりとした外観に生まれ変わっております。
そして、奉納されていたカエルの置物は、
神田明神の境内へ移されています。
将門塚を出て、東京駅へ向かいます。
東京駅です。
昼食を食べずに歩き回ったので、
東京駅で昼食をとる事にします。
東京駅八重洲北口1階キッチンストリートの
dom Pierre Express CURRYへ入ります。
食べたのは、ハンバーグカレーです。
お腹がすいてて、美味しかった!
美味しかったけど、
このお店は、2020年5月に閉店になったようです。
この後、新幹線で、広島へ帰りました。